紅想歌(くれないそうか)(3)
エレベーターに乗り込んで、階数を示すランプが移動していくのを見ながら、一樹はそっと溜め息を漏らしていた。
いつからか、どんよりとした気分に覆われている。入社して一年が経った。初めの頃は仕事を覚えるのに必死だったけれど、今はノルマをこなすのに必死だ。目標に達していないと嫌味を言われ、そんな先輩が取引先には愛想笑いでペコペコしているのを後ろで見てげんなりし、デキる同期の姿に焦りを覚える。
こんなはずじゃなかった。そんな思いが常にあるけれど、どんなはずだったのか、ということさえ、よく分からなくなっていた。
なぜか急に、昔の親友を思い出して会いたくなったのは、好きなことを追及している和也なら、こういうものから遠いところにいるんだろうな、という羨望を感じたからかもしれない。実際に会ってみると、あいつはあいつで、色々抱えているようだったけれど。
エレベーターホールに降り立つと、一旦止まって深呼吸をした。最近は、気合を入れないと、オフィスに入れない。
(よし。)
そう思って、数歩歩いた時だった。
「おわっ!」
横手から勢いよく飛び出してきた人影とぶつかりそうになって、驚いて立ち止まる。
「・・・え?子供?」
それが自分の視線よりだいぶ低かったのと、オフィスビルの中に子供がいるはずがないのに、という思いとで、一瞬思考が混乱した。長い黒髪の、小学生くらいの女の子だったようだが、あっという間に角を曲がって消えてしまった。
「きゃっ!」
「え?」
つい気を取られてよそ見をしていたら、今度こそ人とぶつかった。直後に、その人が抱えていた資料が床にばらまかれてしまった。
「うわ!すいません!ごめんなさい!」
慌てて搔き集めてみるが、順番は滅茶苦茶だ。謝ろうと顔を上げると、それが知っている顔だと分かった。自分の担当ではないが、うちの会社の取引先の人で、最近よく見かける。多分年は同じくらいで、ショートカットの明るい感じの女性だ。
「すいません。よそ見してしまって。」
「あ、いえ。こちらこそ。」
そう言いながら、バラバラになってしまった資料を、困った様子で拾い集めている。
(やってしまった。)
仕事と直接関係はないけれど、最近、色々なことが上手くいっていない気がする。
「うん?」
一枚だけ、他の資料と明らかに種類の違うものが落ちているのに気づいて、拾い上げてついじっと眺めてしまった。
「あ、それ。」
「え?あ、すいません。」
きっとプライベートのものだから、じろじろ見ちゃいけなかった。慌てて他の資料と一緒に渡したら、向こうからズイと近づいてきた。目が輝いていて、なんだか雰囲気が変わっている。
「興味、あります?」
「え?え?いや、えと。」
興味は特になかった。でも、悪いことした、という負い目もあって、そうは言えなかった。
コンサートなんて、しかもクラシックなんて、本当に全く興味がない。誰か道連れが欲しい。けれど、会社の中にはこういうことに誘えそうなのはいなかった。思い浮かんだのは和也だが、あいつもクラシックには興味はないと思う。そう思って、ダメもとで誘ってみたら、意外にも二つ返事でやってきた。
「悪いな、急に。」
「いや。俺はいいけど。お前は良かったのか?仕事関係なんだろ?」
「仕事っつーか。成り行きっつーか。・・・お前、クラシックも聞くのか?」
「前は興味なかったんだけどな。バイトで、知らなくて困ったことがあってさ。聞いてみたら、意外にいいなって。」
「へえ。レコード店だっけ?」
「そ。結構こだわりを持ってる客が来るんだよな。」
数日前に会ったばかりだが、あの時と違って、今日はこざっぱりとした格好をしている。アマチュアとは言え、クラシックのコンサートだから、それなりに気を使ったようだ。
「髪、黒にしたのか?」
「というか、斑になってるのも飽きたからな。戻した。染めるのも面倒くさくなったし。」
「うん、だよな。」
伸びる度に染めるのは、結構大変だろう、と前から思ってはいた。数日前の和也は、面倒になったんだろうな、という髪をしていた。
肝心のコンサートは、寝てしまうのではないかと心配していたんだが、普段の音源と違う音や、体に響く振動のおかげで、眠くなることはなかった。どこかで聞いたことのある曲が多かったのも良かったかもしれない。観客は、演奏者の知り合いや家族が多いようで、演奏が終わると受付のホールは一気に賑やかになった。
「どうも。」
「あ!ありがとうございました!お友達の方も!」
取引先の彼女が神野という名前だということは、先日知った。挨拶はしておこうと近づいていくと、明るい笑顔で、元気な挨拶が返ってきた。
「盛況ですね。」
「お陰様で!どうでした?」
期待に満ちた目で感想を求められたら、悪い返事は出来ない。実際、悪くなかった。
「けっこう・・・」
と言いかけたところで、隣でわっと歓声が上がる。どうやら友人グループが集まって、何やら盛り上がっているようだ。
「場所を移して、感想をじっくりと聞かせてもらえません?お茶でも飲みながら。四人で。」
「え?打ち上げとかあるんじゃないんですか?」
「いえいえ。片付けが終わったら自由解散なんで。」
神野さんの提案で、そのまま近くの店で落ち合うことになった。和也と共に、先に会場を出て、時間を潰すように近くをぶらつく。この日は穏やかに晴れていて、ただ歩いているだけでも気持ちがいい。
「割と良かったな。たまにはこういうのも。目新しいというか。」
「そうだな。」
そう言った後で、和也はニヤついた顔をした。
「しかし、なんだな。仕事先の人って、女の人なんだな。てっきり男だと思ってたけど。明るくて、いい感じだな?」
「いや、待て。誤解するなよ?」
「いやいや、してないよ。」
「何だよ、その生温かい笑いは。違うぞ?」
妙な方向に話が転がっていきそうで、慌てて訂正しようとするが、和也は面白がっているようだ。
「前もそう言って、その後付き合ってたよな。」
「いや、ほんと。あん時とは違うから。」
高校の時のことまで持ち出してくるが、本人の前でこんな素振りをされたら困る。一生懸命言いくるめていると、桜の通りに入った。木によってはまだ蕾ばかりだが、全体的には半分くらい咲いている。今日のような日が続けば、三日くらいで満開になるかもしれない。和也は桜を見ると、口を噤んで少し遠い目をした。
和也は、あまり桜が好きじゃない。実のところ、一樹もそれほど好きではなかった。花見は普通にするが、なぜか周りや世間ほどに、浮かれた気分になれない。そうしたところも、気が合ったのだ。
そうこうしているうちに約束の時間になり、店についたのは、神野さん達とほぼ同時だった。神野さんも友達と一緒だった。年は同じくらいで、肩より長い髪を上半分だけ纏めていて、おっとりした印象の女性だ。受付ホールでは、見かけなかったような気がするけれど、多分今日の演奏者の中にはいたのだろう。
「お待たせしちゃいました?」
「いや。俺達もその辺うろついてたんで。席、あの辺でいいすかね。かず・・・や?」
席につこうとして振り返ると、なぜか和也は少し離れたところで固まっていた。驚いたような顔で、神野さんの友達を凝視している。
「おい。和也。どうした?」
目の前で手をひらひらさせると、我に返ったように瞬きをした。振り返ると、神野さんの友達も、息を吞んだように和也を見ていた。
「え?なに?透子、知り合い?」
「あ、いや。」
「ううん。」
神野さんが首を傾げたが、二人は揃って首を横に振った。このリアクションは一体何なのだろう。
軽食をつまみながらコンサートの事だけではなく、色々な話をしたが、横の二人が挙動不審だ。神野さんの友達は上條さんというらしい。彼女は時々和也を見ているが、すぐに目を逸らす。そして和也も時々彼女を見つめているのだが、目が合う前に伏せている。互いに相手が目を逸らしているタイミングで見ているのだ。一向に噛み合わないアイコンタクトが、焦れったくて仕方がない。途切れないように話題を振ってくれて、二人のことも会話に巻き込んでいる神野さんが、まさに神だった。最後に、全員の連絡先を交換できたのも、彼女のおかげだ。
家に帰った頃に、神野さんからお疲れ様メッセージが来たが、あの二人もちゃんと連絡を取り合っているだろうか、と少し心配になる。そして、ふと思った。
なんで自分があの二人のことでやきもきしているのだろう。
洛中より些か春の遅い北山も、桜はとうに散り、萌え出た新芽がみるみる色を濃くしている。今は藤や山吹が盛りだ。糸桜も、薄き紅から青へと衣を変えている。
常であれば、花を落とした桜を訪れる者はいない。風雅を愛でる都人なら尚のこと、時期の過ぎたものには目を向けないものだ。だが、『糸桜の女』は、花を愛でに来ていたのではなかったから、季節は関係がない。
「遠子よ。汝は、あの公達が心に懸かるようじゃの。」
今日は裏山吹の袿を纏って垂布を上げている遠子は、その言葉に目を瞬いた。
「なぜ、そう思うの?」
「我が知らずと思うてか?」
女童の姿をしているこの樹霊は、実は遠子よりずっと年上で、少し古めかしい話し方をする。肌は雪のように白く、髪も瞳も薄墨色で、唇はほんのり紅く、儚げに見えるのに、その口から出る言葉には遠慮がない。
「現に、あの公達、と言うて、浮かぶは一人であろ?」
「・・・意地悪ね。」
遠子が、少し唇を尖らせた。糸桜の樹霊は、澄ました顔で続ける。
「あの男も、汝が心から離れぬようじゃな。」
「変わり者と、興味をお持ちになられただけでしょう。このように野山を歩き回る女など、ご存知ないでしょうから。」
身分の高い男達は、余程のことがなければ、一つ所に留まることはない。飽きが来たら、去ってゆくものだ。しかし、そう言いながらも、遠子の顔は複雑だ。
「些か軽いところはあるが、情けは深いと見える。歌の才は然程でもないがの。」
「素直にお詠みになるわ。」
技巧を凝らすこともなく、素直に想いを詠んでいる歌は、むしろ心に届くものがあり、確実に遠子の気持ちは、揺らいでいた。
「されば、返事をしてやれば良いではないか。」
その言葉に、遠子は曖昧に笑んで俯いた。
「大納言殿の若君よ。いずれは公卿にも昇られる方だわ。」
「我からすれば、汝の方が格上ぞ。人間に、序列をつけるとすればじゃが。」
樹霊である身には、人の世の習いも、人の決めた序列も、関わりのないことだ。気に留めるとするならば、精霊と通ずる力があるか否かである。
「しかし、問題はそこではないのであろ。汝は隠部ゆえな。」
「そうね。人形の身では、そもそも叶わないことだもの。」
「かつては皇家と比肩する一族であったのに、倭に取り込まれて、今は皇家の影じゃ。もっとも、皇家の方は、力ある者を失い、祭祀も形ばかり。力を残すのは、汝らのみぞ。中でも汝は力が強い。長ともなれように、人形とするとはの。」
「それが、上の思し召しであるならば。」
「煩わしい事よ。あの公達は存じておるのか?」
「どうかしら。兵衛佐では、まだご存知ないと思うけれど。」
「知らせてやらぬのか?ほれ、また訪ね来おるぞ。」
遠子が振り返ると、樹霊の言う通り、左兵衛佐が青々とした葉陰の中を歩んでくるところだった。花の盛りにここで会った公達は、花が散る頃にまたやってきて、それからは日をおかずに通ってきているようで、まるで、ここで逢引きをしているような様になっている。どのような伝手か、遠子の家もつきとめ、ここで会えなかった時は、文を届けてくるのだ。しかし、遠子が返事をしたためることはなかった。
兵衛佐はこの小径にも慣れたように登ってくる。いくらか上気した顔を綻ばせている様子が、垂布を降ろしていても、遠子には分かる。兵衛佐が纏う狩衣は、青山吹。これは、偶然ではない。遠子は予感していた。藤の袿を用意しようとしていた女房に、裏山吹にするよう申し付けたのは、遠子だった。
「今日は会えて良かった。」
その声に、胸が高鳴るのを感じながら、努めて平静を装う。
「尼君のお加減は、如何です?」
「尼君はお元気だ。今は見舞いに通っているのではない。」
「ここは洛中からは遠く、花もない今は、お通いになるほどの風情はありますまい。」
「花も青葉も紅葉も、それぞれに風情はあるものだが、『糸桜』が在れば、他の花は不要であろう。」
「鄙なる身なれば、一時であれ、兵衛佐殿が興味をお示しになる程の者ではございません。」
「つれないことを。何か、気に障ることをしてしまっただろうか。返事をくれぬのは、その為か?」
少し気落ちしたような声に思われて、また、心が揺らいでしまう。
「『糸桜』。もしや他に―――」
「遠子です。」
糸桜の樹霊の前で、『糸桜』と呼び掛けられるのは、居心地が悪い。だからつい、そのように言ってしまった。左兵衛佐は一瞬押し黙り、次いで嬉しそうに呟いた。
「遠子、か。」
失敗したかもしれない、と思った。邸に籠る女達は、ごく親しい者しか、名を知らないものだ。名を教えるということは、親しい仲となっても良いと、誤解させてもおかしくはない。秘された一族である隠部は、表の人々と交わることは許されていないというのに。
「この樹の下のみ、にございます。」
戸惑いながら、言い訳のように付け加えて、思う。誤解だろうか。自分もまた、そうなることを望んでいるのではないだろうか。
騒めく心が現れたかのように、強めの風が吹き抜けた。笠は抑えたが、捲れた垂布が、枝垂れる枝に引っかかる。布を直そうと手を伸ばすが、枝が揺れて掴めない。まるで、樹霊が意地悪をしているようだ。
「解こう。」
兵衛佐が近づいてきて、揺れる枝を抑えながら絡んだ布を外す。その布を降ろす前に、目が合った。遮るものもなく瞳を見交わすことなど、あってはならないことなのに。まして、薫きしめた香の匂いが分かるほど間近でなど。
時が止まったような気がした。供の者が慌てた様子でいるのも、気に止まらない。兵衛佐の瞳が、熱を帯びる。
これ以上、踏み込んではならない。踏み込ませてはならない。理性が囁くその言葉は、風に散らされる霞の如く、頼りなく、消えていくかのようだった。
「おい、上條!」
上司の声に、はっと顔を上げる。
「何ボーっとしてるんだ!資料出来てんのか!」
「あ、はい!出来てます!」
仕事中なのに、携帯を手に、ついぼんやりしてしまった。数日前の演奏会に来てくれた、和也という人のことが、ずっと引っかかっている。初めて会ったはずなのに、目が合った瞬間、懐かしいと思った。胸の奥を掴まれるような苦しさを覚えた。会うはずのない人を見たような衝撃を感じた。一体、あの感覚が何だったのか。
動揺したせいか、名前を聞きそびれてしまった。一緒にいた人が、ずっと下の名前で呼んでいたから、名字の方は、分からずじまいだ。彼からは、家に戻った後、メールが届いていた。今日はお疲れ様、というような、当たり障りのない、ただの挨拶だ。だから、普通に返事を出せばよかった。
『踏み込ませてはならない。』
けれど、なぜか返信は返せず、手が止まってしまった。でもやはり気になって、携帯を手に取り、また置く。その繰り返しで、三日経ってしまった。失礼だし、怒っているとか、不快と思っているとか、誤解させてしまうのではないか。そう思っても、やはり返事を返すことは出来なかった。
「和也。またお前はボっとして。ここ、間違えてるぞ。」
「あ、すんません。」
つい、携帯を手に、ぼんやりしてしまった。一樹の伝手で出会った、上條透子という人のことが、頭から離れない。一目見た時に感じたもの、嬉しいとも哀しいともつかない感情が何だったのか、息が止まるほどの衝撃がどこから来たものか、未だによく分からないでいる。あの後、メールは送ったが、返信はまだ来ていなかった。メールチェックをあまりしない人で、気付いていないのか。それとも、知らないうちに、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。もう一度、送ろうか、それはしつこいだろうか、と逡巡しながら、もう三日だ。
「何だ。それは逢瀬と言えるのか?」
「うるさい。逢えているのだから、良いのだ。」
『糸桜の女』とは、あの樹の下でだけ、会って言葉を交わすことが出来る。供の者達の目があるから、それ以上のことはない。
「せっかく家を突き止めてやったというのに。まだ訪いを許してもらえぬのか。」
呆れたように敦隆が言うとおり、家を訪れることは出来ていない。それでも、名を呼ぶことは許してくれたし、時には顔を見せてくれることもある。どうやら何か、訪いが出来ぬ事情があるのだということは察せられて、無理に踏み込むことも出来ずにいる。
「隠部というものに係わりがあるのか?結局、なんなのだ?」
「分からぬ。それとなく聞いてみたのだが。どうやら公に出来ぬものらしい。陰陽寮に聞いてみたか?」
「聞いてはみたがな。どうやら、神祇官の管轄らしい。」
なぜか興味を持って、わずかな伝手から陰陽寮にまで手を広げて、情報を集めてくれた敦隆であったが、限界があるようだ。
「尼君にお伺いする方が、早いかな。」
話を打ち切られた時の様子からすると、望みは薄いように思われるが。
「それにしても、未だ文も返してもらえぬとはな。もう文月だぞ。」
「うるさい。逢えているのだから、良いのだ。」
「え?返信来てないのか?」
コンサートからもう一週間にもなると言うのに、どうやらあの二人がやり取り出来ていないと知って、一樹は唖然とした。何か、気分を悪くするようなことをしただろうか、と相談されたが、そんなことはないと思う。そして、そんなことをうじうじと何日も悩むのは、和也らしくない。
「電話でもして、次の約束取り付けろよ。」
「いや、次の約束って、なんだよ。そういうんじゃないんだ。ただ、気付かないうちに、何かやらかしたんじゃないか気になってさ。」
「それは、彼女のことが気になってるからだろ。」
「いや、それは・・・。でも、この間が初対面だし。ちょっと、いきなりだろ。」
焦れったい。和也は、割と思い切りのいい奴だ。それなのに、よりによって何でこの件に限って、尻込みするのか。
「いや、いいんだ。やらかしてないんなら。」
良くはない。この二人は、きちんと向き合うべきだ。このまま終わらせてはいけない。なぜか、そんな焦りのようなものがある。冷静に考えれば、余計なお節介だ。でも自分は、二人が諦めてしまうのを、ただ黙って見ていてはいけない。それは、確信だった。
裏山吹は、表地が黄、裏地が萌黄もしくは青
青山吹は、表地が青、裏地が黄
上級貴族の男性は、普段直衣を着ており、狩衣は下級貴族の着るものですが、山に来るので狩衣を着てます。




