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紅想歌(くれないそうか)(2)


 白い世界。

 光でもなく、闇でもなく、ただ白だけが広がる。上も無く、下も無く、浮いているのか立っているのかさえ定かではない。

 奥行きの無い、それでいて果ての無い視界が、ほんのわずか揺れた。それは上からゆっくりと、不規則に揺れながら、一筋の軌跡を描く。完全に下に過ぎ去った頃、上から新たな軌跡が刻まれる。

 それはゆっくりと、初めは色も無く、透明な揺らめきを見せていたが、次第に色を持ち始め、数も増え、やがて静かに零れ落ちる雨のようになった。

 ひたすら広がる白に溶け込みそうなほど薄い紅色の小さな花びら。それは儚く揺れて、思い思いの軌跡を描きながら、途切れることなく舞い散る。ゆっくり手を伸ばすと、広げた手のひらに一枚だけ降りてきた。羽よりも軽く、雪よりも存在感が薄かった。


 無音だった世界に、微かな音が響いた。ゆっくり振り返ると、ほんのり薄紅が漂う中に、何かがいた。それは微笑み、何かを語りかけてくるようだったが、姿は空ろで、人なのか、生き物なのかすら分からなかった。ただ、ひどく懐かしいもののように思えて、じっとその声に耳を傾けていた。




 薄暗い天井に不鮮明な視界。重く縛られたように動かない体に感覚が戻り、自室で寝ていたことに気づくのに、少し時間がかかった。カーテンを通して入る光が、いつもと変わらない部屋の様子を浮かび上がらせている。枕元の時計を見ると、針はいつもと違う場所にある。

 透子は大きく伸びをしてゆっくり起き上った。どうやら大分寝過してしまったようだ。休みの日で良かった。

 階下へ降り、冷蔵庫から牛乳を取り出す。コップに注いで喉に流し込んでいると、母親の由起子がやってきた。

「あら、起きたの?」

「ん・・・」

「今日はいい天気よ。」

「そう?」

 リビングを通して見える窓はとても明るい。そういえば、寝間着に裸足のまま降りてきたが、それほど寒くは感じないということに、今更ながら気づいた。

「何時に出るの?」

「ん・・・?」

「約束があるんでしょ?」

 すぐには何のことか分からずに首を傾げてしまったが、ふっと思い出す。

「・・・・・・あ。」

 午後から友人とショッピングに行く約束をしていたのをすっかり忘れていた。どうやらまだ寝ぼけているらしい。

「やだ、忘れてたの?」

「はは・・・」

 由起子は呆れ顔だが、その通りなので笑って誤魔化すしかない。

 コップを流しに置いて、顔でも洗いに行こうとすると、今度は由起子が首を傾げた。

「これ何?」

「え?」

 透子の寝間着の肩から何かをつまみあげる。薄くて小さい紙きれのようなものだ。

「花びら・・・なんでこんなところに?」

「さあ・・・布団にでもついてたのかな・・・」

 白に近い、ほんのりと薄い桃色の小さな花びらは、桜によく似ているが、まだほとんど咲いていないし、この辺に桜の木はない。

 花びらが由起子の指から滑り落ち、柔らかに空を切りながら落ちていく。何気なくそれを目で追い、床に触れた瞬間、急に空気が変わったのに気付いて目を上げた。

 由起子の顔つきが変わっている。瞳が透明度を増し、透子の方を向いてはいるが、焦点があっておらず、遠く別の空間を見ているかのようだ。周囲の空気が密度を増し、身じろぎすることも、息をすることさえ苦しいほどの圧迫感が伝わってくる。

(神降ろし・・・)

 直感的にそう思った。そこにいるのは、母であって母ではない。母の体を借りて、別の次元の何かがこの世界に触れている。そう表現するのがふさわしいものだった。

 由起子の家系は、古くは宮廷の祭祀にも関わりを持つ巫女であったと曽祖母から聞いたことがある。その血は時代の流れと共に大分薄くなったが、時折神がかりの状態で奇妙な行動をしたり、預言めいたことを口走る者が現れる。曽祖母の妹がそうであったし、由起子も極たまにそうなることがあった。由起子の一族はそれを<神降ろし>と呼んでおり、今まさに、由起子がその状態だった。

 それは次第に、側にいる透子にも伝わってきて、重みを増した空気に影すらも縫いとめられたかのように身動きができず、感覚が切り離されていく。


『時を()て、再び(まみ)えん。此度()がさば、二度とは・・・』


 由起子の口から漏れ出た声は、由起子のものではなかった。


 唐突に、ふっと空気が軽くなった。重石が取れたかのように、また周囲と感覚がつながる。由紀子が、不思議そうな顔で、目を瞬いた。

「・・・え~っと、何?」

「神降ろしだよ。」

「え?・・・あら、やだ。しばらくなかったのにね。」

 何と言っていたのか、という質問はない。大体が、その時はよく分からない言葉なのだ。時が経って、ようやく何を意味していたのかが分かる。だから、預言のようであっても、あまり意味を成していない。実際に起きてみないと、分からないのだから。






 北山のあたりは、それほど距離が離れてはいないのに、洛中より春の訪れが遅いのか、まだひんやりとしている。大叔母の庵を訪れた時には、内裏の桜はもう盛りを過ぎていたが、この辺りはまだ美しく咲いている。

 大叔母が落飾してこの地に庵を結ぶようになって久しいが、最近病がちとのことで、時折見舞いに訪れるようになった。大叔母と言っても、父とはほとんど年の差がなく、幼い頃は兄妹のように過ごしたと聞いている。自分も、何くれとなく心を砕いてもらった覚えがあり、父が多忙の折は、こうして訪れることにしている。

 夜半に降った雨のせいか、山はしっとりしている。朝方は靄がかかっていたが、それも大分晴れて、山中を見通すことも出来るようになっていた。所々、名残りのように霞んでいるのも、風情(ふぜい)がある。

「少し、歩くか。」

 高雄ら従者を連れて、点在する僧坊を通り抜け、山道へと入る。ほとんどの木の葉は、萌え出るのを待つように芽を膨らませているが、山桜は既に赤みがかった葉を白い可憐な花に添えるように広げていた。ゆっくりそぞろ歩きする足が、ふと止まった。


「・・・(あやかし)か?」


 緩い斜面に、糸桜が美しい衣を広げるように佇んでいる。まだ若い木だが、花は山桜より紅が濃く、華やかな様子であった。

 その下に、紅躑躅(くれないつつじ)(うちき)(まと)う女人が立っていた。滝のように流れる花をよく見ようとしてか、垂布をからげて顔を上げている。横顔が一部垣間見えるだけだが、形の良い頬と、落ちかかる黒髪の様子に目が吸い付けられる。このような所に、女人が一人でいるのは不自然であったが、不思議と惹かれるものがあった。


「若君、確認して参りましょうか?」

「いや。待て。」

 高雄を制し、ゆるりと足を向ける。草葉を踏みしだく音が聞こえたのか、女人がこちらを向いて、そっと垂布を降ろす。それが少し、残念に思えた。近づいてみると、まだ若いように思えるが、男ばかりを前にして恐れる様子もないのが、更に興味を引いた。


「深山路に (あめ)ふる花の 匂ひたる 人もともにや 雲居(くもゐ)にまがへて」


『山奥に、天から降るように揺れる枝垂れ桜が、見事に咲いていることだ。ここを天上と間違えて、天人も雨とともに降りてきたのだろうか。』 


「『下照る道』とは、このようなことであろうか。」

と万葉の古歌を引き合いに付け加えると、女人は、袖を口元に充てるようにして、少し首を傾げた。そして、近くに下がる桜の枝を、衣を掲げるようにしてみせた。


「霞たち (くれなひ)匂う 桜花 (あま)つ袖とぞ 人の見るらむ」


『霞がかった中で、紅に咲き誇る桜が、天女の衣と見えるのでしょう。』 


 柔らかく、耳に心地よい声であった。人や否や、という問いかけは軽く流されてしまったが、垂布越しに見える口元は笑んでいるようで、もう少し話をしてみたいと思わせた。


「近くの庵に、大叔母を訪ねてきたのだが、美しい花だ。この桜を見に?」

「桜に会いに参りました。」

「このあたりの僧坊にご滞在か?」

「いえ。」

「それでは、洛中から?」


 もう少しその声が聞きたくて、重ねて尋ねてみたのだが、横合いから別の女人が近づいてくるのが見えた。よく見ると、近くの木陰には、下男も控えている。どうやら供がいたらしい。女房と思われるその女人も、垂布で表情は見えなかったが、あからさまにこちらを警戒している様子で、間に割って入りながら、先にいた女人に声をかけた。

「気安く殿方と言葉を交わしては、叱られますよ。」

 遠慮がちではあるが、声の様子からすると、こちらもまだ若い。それなりの家の者であるようだから、尤もではあるが、これで終いとするのは名残惜しい。

「洛中まで戻るのであれば、従者を貸そう。下男一人では、心許なかろう。」

 すると、その女人は、意外な返答をした。

「大納言家の方のお手を、煩わせることではございません。僧坊ではありませんが、すぐ近くですので。」

 名乗る前に言い当てられるとは思わず、不意を突かれる心持ちとなった。名を広めることをした覚えはないのだが。

「大納言家と?」

 一目でそれと分かるのであれば、宮中に出入り出来るか、訪れたことのある家の姫君ということになるが、それにしては供も少なく不用心なことだ。

「あちらの庵の尼君は、坊門大納言殿の縁者でいらっしゃいますから。」

 大叔母の庵の方を指し示す女人は、ゆったりと微笑んでいた。






 ゆっくりと瞬きをする。カーテン越しにうっすらと室内を浮かび上がらせる光が、朝だと告げている。何か、胸に迫るような、何とも言えない余韻が残っている。

 重怠い体を無理やり起こし、よろけるように洗面所に向かった。顔を洗って、バイトに行かなければならない。


「え・・・?」

 鏡を見て、自分が泣いていることに気付いた。

「なん・・・で?」

 夢のせいだろうか。何の夢だっただろうか。何かを掴み損ねたような、もう一度探しに戻りたいような、奇妙な焦りの感覚しか、今はもうないけれど。


 その日は、ミス連発で散々だった。

「和也。お前、今日はホント変だぞ。なんかあったか?」

 普段あまり怒らない先輩には、怒りを通り越して呆れられ、終いには具合でも悪いのかと心配された。

「あ、いや、なんか、ほんと、すんません。」

「もしかして、あれか?」

 先輩が、ひどく真剣な顔をした。

「恋煩いか?」

「・・・・・・・・・はえ?」

 自分でも素っ頓狂だと思う声が出たが、間が開いたことで、先輩は勘違いをしてしまったらしい。

「そうか!そうなのか?!」

「いやいやいやいや、何でそうなるんすか。」

 やけに食いつきの良い先輩の勘違いを慌てて否定し、何とか落ち着いてもらう。

 全く今日は、なんて日だ。ぐったり疲れて、ベッドに転がり込む頃には、夢を見て泣いたことなどすっかり忘れてしまっていた。






「おい、顕孝(あきたか)。聞いておるか?」  

「・・・・ああ。」

 遊びに来ていた敦隆(あつたか)の話に、生返事をしていると、呆れたような声が返ってきた。

「聞いておらぬではないか。張り合いがないなあ。」

「そもそも何をしに来たのだ、敦隆。」

 特に用があったわけでもなく、他愛ない話をしに、少し寄ってみただけのはずだ。

「何とつれないことを言うのだろう。唯一無二の友ではないか。」

「唯一ではない。人を偏屈な者のように言うな。」

 宮仕えを始めた時、敦隆とは衛門府(えもんふ)で共に務めた。敦隆は、父と政治的に対立している右大臣の子だが、自分とは気が合うので良く行き来をするようになった。今は兵衛府(ひょうえふ)蔵人所(くろうどどころ)に分かれたが、日々のことや、他人には話せない家族の愚痴、時には文を交わしている女のことなど、話をしに来る。妾腹の敦隆には、右大臣邸は居心地の良い場所ではなく、北の方所生の兄とも、折り合いはあまり良くないらしい。

「何を言っても、ああ、としか返さぬ。上の空で、何に気を取られているのだ。まるで、恋わびているようではないか。」

 ぶつぶつと文句を言いながら、自分の言葉にハッとしたように顔を上げる。

「もしや、そうなのか?先日の糸桜か?」

「そういうことではない。」

「珍しいことではないか、顕孝が恋煩うとは。左兵衛佐(ひょうえのすけ)になびかぬとは、どのような女だ?」

「だから、そうではないと。」

 糸桜の女のことは、ずっと心に懸かっている。

 もう一度逢いたい、もう一度声を聴きたい。

 その思いは、日を経るにつれ、強まるばかりだ。今までに文を交わした相手とは異なる、経験のないこの感情が何であるのか、自分でもよく分からずにいた。

「いずれの家の者であろうな。僅かな伴で北山を歩くのだから、高貴な家の姫ではあるまい。尼君のお知り合いか?」

「いや。」

 自分もそう思ったから尋ねてみたのだが、大叔母の反応は(かんば)しいものではなかった。


『あの糸桜を愛でていた女人ですと?まあ、顕孝殿。その女人とは、関わらぬ方が良いでしょう。隠部(かくしべ)の者やもしれませぬゆえ。』


「隠部?何だそれは?」

「分からぬ。尼君に聞いても、知らなかったのなら忘れるように、と言われた。」

「気になるではないか。」

「ああ。気になっている。」

「白状したな。」

 敦隆が嬉しそうに笑うのが、(いささ)か気に(さわ)る。

「また、北山を訪れてみてはどうだ?」

「もう、花は散っておろう。」

「しかし、その女人は尼君のことを知っていたのだろう?近くに滞在していると話していたのなら、その辺りでまた会うやも知れんぞ。」



作中の和歌は自作です。

1首目は、「天」と「雨」、「降る」と「振る」を掛けた・・・つもりです。


その後のやり取りと返歌は

『春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出立つをとめ』(by大伴家持)

を念頭に置いています。


平安時代シーンの青はblueではなく、『青葉』や『青竹』の青です。

当時の衣装は、裏地の色が表にも透けて、複雑な色になっていました。

『紅躑躅』の重ねは、裏地が薄紅で表地が蘇芳です。

市女笠を被って、笠の周囲には虫の垂布が下がっていますよ。

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