木唄(こうた)
ある梅雨の晴れ間、美幸は気分転換に出かけた森の中で、不思議な体験をする。
9398文字、約20分
初夏を感じさせる日差しが、道の上に張り出した木の葉を通してちらちらと輝く。道の横を流れる川は、道の高さが変わる度に、視界から消えたりまた現れたりする。横目で見る向かいの山は、明るい日の光に照らされて少し曇って見えたり、雲の影になって暗い緑に見えたり、トンネルや木の影になって見えなくなったりしながら後ろに流れていく。
御堂美幸は、赤い愛車に乗って山へ続く道を走らせていた。
6月の晴れた休日。転勤で新しい職場に変わってから2ヶ月が経った。
新しい町。新しい職場。新しい人間関係。環境の変化に慣れるのに、随分かかった。正直、今もまだ完全には馴染めていない気がする。この2ヶ月は平日でぐったり疲れて、折角の休みの日も外に出る気になれず、家の中で伸びていた。ふと気付くと、衣替えを終えて、入梅を待ちながら、しばしの晴れ間を堪能する季節になっていた。
朝、起きぬけに見た空があまりに気持ち良く晴れていたから、久しぶりにドライブでもしようか、という気分になったのだ。
幾つ目かのカーブを曲がった時、気分を変えるために、片手でハンドルを操りながら、もう片方の手でMDを入れ替えた。少し古くなったポップスが消え、代わって何とも穏やかな旋律が静かに車内を満たす。
竹の筒を吹き抜ける風の音。続いて、木管の優しい音色が水の流れを奏で出す。山に降りた一滴が葉を滴り落ちて岩肌を駆け下り、或いは土の下を潜り抜け、やがて一つに集まる。勢いよく流れる小さな流れが、ゆったりした大河の大きなうねりに変わっていく。時々微かに聞こえてくる鈴の音が、森の中に垣間見える木漏れ日のように煌めく。所謂リラクゼーションミュージックというものだ。
美幸は微笑した。いつの間にか、こういう物を聴いて癒しを感じる年になっていたのだ。昔はこれを聞いても何の感慨も持たなかったのだが。
高校生の時、美幸には少し変わった友人がいた。性格も趣味も全く違う二人なのに、なぜか気が合っていつも一緒に行動していたものだ。美幸が流行のポップスを当たり前のように聴いていた時、その友人はどこかの民族音楽もどきやワールドミュージックのようなものを好んで聴いていた。美幸にはその良さというものはサッパリ理解できなかったのだが、彼女は音楽の話になると嬉しそうに自分の好みの曲について話し出すのだ。
ある時、彼女が最近はまっているというCDを録音したカセットテープをくれたことがあった。一応聴いてはみたが、どの曲にも歌詞らしい歌詞が無くて、自然気候の番組にでも使われそうな静かなものばかりだった。美幸にはひどく退屈なものに感じられて、それ以来一度も聴いたことはない。そのまま忘れていたのを、ついこの間、何気なく昔のカセットの山を整理していた時に見つけたのだった。
あの友人とは大学に進学して以来疎遠になってしまった。彼女が遠くの大学に行ったというのもあるし、お互いに筆不精だったせいもある。あれからもう十年にはなる。彼女は今、どうしているだろうか。懐かしくなって、久しぶりに聴いてみたら、昔は退屈にしか感じなかった静かな旋律が、今はしっくりと心の中に染み込んでいくことに気付いた。体中から緊張感が取れて解れていくように感じ、無意識のうちに力が入っていたのだと感じた。
今朝、爽やかな青空に息抜きをしたくなったとき、迷わずこの曲をドライブに持っていくことを決めたのだった。
カーブの続く山道を、車は目的地に上っていく。MDは大河の調を終え、次の曲に移っていた。
静かな、地の底から響くような低い音が流れる。それは地を這うように広がり、浮ついた心を沈めて大地の懐に抱いていく。大地の割れ目から揺らめく影が立ち上り、臙脂色の炎がゆるやかに舞う。激しさではなく力強さ、熱さではなく温かさ。心の奥底に響く太古の歌。 “焔”という名がぴったりだ。
「あれ・・・・?」
目的地までもう少し、というところで、美幸はアクセルを踏む力を緩めた。上り坂にいる車は急速に速度を落とす。
美幸の目は、前方の路肩に注がれていた。こんな山の中だというのに、人が歩いている。山登りの格好をした人ならともかく、まるで街中でも歩いているかのような軽装で。後姿から察するに、まだ少年らしい。青いジーンズに青と白のチェックのシャツを羽織って、少し大きめのスニーカーを履いてノンビリと歩いている。家の近所でも散歩しているような雰囲気だが、もちろんこんな所に民家などない。気になってゆるゆると進みながらその少年の横を通り過ぎる。疲れた様子も困っている様子も特にないようだ。
(何やってるんだろう、こんな所で・・・)
少年の姿はすぐに視界から消え、サイドミラーに移り、バックミラーに表れる。そこで後続車がすぐ後ろに来ていることに気付いて、慌ててアクセルを踏み込んだ。
「ん~~~、着いたあ!」
駐車場に車を止めて外に出ると、美幸は大きく伸びをした。2時間近く運転席に収まっていた体は思いのほか凝り固まっていて、首や肩が痛くなっている。強い日差しに反して涼しい風が美幸の頬をくすぐっていく。
(リフレッシュしに来て疲れてたんじゃ、しょうがないよなあ・・・)
苦笑しながら駐車場を出る。晴れの休日ということもあって、今日はそこそこ人出がある。若者達のグループや家族連れ、それに登山客らしい一行も見える。
(さすがに、一人で来るのは私くらいかな・・・)
明るくさざめく人々を眺めながら、牛が放牧された区域を抜け、遊歩道をゆっくりと歩いて草原に向かう。白樺の林を抜けると、小川の流れる草原に出た。青い空と爽やかな空気、白樺の林。これであまり人がいなかったら、高原のイメージそのものだろう。標高が上がったせいか、強くなった日差しが無防備な腕にちくちくと突き刺さって少し痛い。帽子くらい持ってくれば良かったかな、と思う。車で簡単に来れるからと気軽な格好で来てしまったが、ここは立派に山の上なのだ。
(あ、さっきの子・・・?)
視界の端に白と青のチェックが映ったような気がして振り返る。すると、確かにチェック柄のシャツを着た人影が森への小道に入っていくところだった。来る途中で見かけた少年に、見えないこともない。でも、とすぐに思い直す。車で来ればあまり遠く感じない距離でも、歩いて来るならかなり時間がかかるはずだ。あの少年であるはずがない。そう思いながらも、美幸の足は、既に人影が入っていった道に向かっていた。
小道に入ると、よく茂った木々が頭上を覆い、草原の賑わいを遠ざけて静寂が空間を満たしている。比較的整備された草原の道を歩いている人達は、この道には入って来ないのだ。湿った落ち葉が厚く降り積もり、勝手気儘に伸びている草が道を塞ぎ、決して歩き易いとは言えない。まるで獣道だ。
立ち止まって森の中を見ると、生い茂った草叢に、木々の間から入り込んだ光がスポットライトのような日溜りを造り、静寂の中に響く葉擦れや小鳥の鳴き声が、森の中のひんやりした空気と一緒になって気分を静めていく。観光客で賑わっている草原を歩くのもいいが、一人でこうして森の中を歩くというのもいいものだ。
すっと風が通り抜けた。井戸の底を吹き渡るような、ひんやりした空気だ。木々の細い枝が揺らされ、葉の緑とその合間に光る木漏れ日がちらちらと揺れる。木の葉は既に、若葉の青を通り越して初夏の鮮やかな緑だ。冷たい風と目に鮮やかな緑に奇妙な違和感を感じる。これだけ風が涼しければ、葉はまだ萌えたばかりの黄緑のはずだし、これだけ茂った緑ならば、風はもっと暖かいはずだ、と思ったからだ。しかし同時に、そう感じたことに軽く戸惑ってもいた。
違和感は、あくまで美幸の持っているイメージを基準にしたものだ。しかしこうして吹いているひんやりとした風と、生き生きと茂っている葉の緑とは現実にあるもので、違和感を感じた美幸の感覚のほうが間違っているのかもしれない。
美幸のイメージは、一体どこから生まれてきたものなのか。そもそも、季節の移り変わりや、木々の様子など、気に止めて見たことなどあっただろうか。今まで過ごしたことのある所は、決して緑豊かとは言えない所ばかりだった。街路樹が申し訳程度に植えられていたり、生命力の強い雑草がコンクリートの隙間を縫って生え出ている、その程度なのだ。それですら、興味を持って見たことなどない。ただ、たくさんある建物や人と同じ、街の風景の一つとして、眺めていたに過ぎない。そんな自分に、これがおかしいことだと、どうして言えるのだろう・・・。
風が止み、再び静寂の中で自問する美幸の視界に、何か動くものが見えた。白と青のチェック柄。
(あの子だ・・・。)
森に入った切っ掛けを思い出して、美幸は慌ててその後を追おうとした。しかしチェックのシャツを来た少年は木の影から木の影へ、移動したかと思えばふつりと姿を消し、どこへ行ったのかと歩を早めて周辺を歩き回るとまた姿を見せる、ということを繰り返す。
いつの間にか草原の喧騒は消え、少年を追って森の中を歩き回っているうちに、自分がどこにいるのか分からなくなってしまったが、美幸はそのことにすら気付いていなかった。何をしているのか、何の為に少年を追っているのかも、全く考えていなかった。静寂と、深みを増す緑の世界に取り巻かれ、その中にあって異質に見えるものをひたすら追う。ただそれだけだった。
割合急な斜面を横切る道を、少年の姿が移動していく。その影が、太い木の幹の後ろに隠れた後、途切れた。何度目のことか分からなかったが、その場所まで行けば、少年はきっと次の場所に姿を現す。美幸は焦ることなく、不安定な足元に気をつけながら歩を進めた。だが、少年が姿を消した辺りまでやって来て周りを見渡してみても、今までのように、その姿を見つけることはできなかった。
周りは黒に近いほど深い緑で、風が静かに小枝を揺らしていく。どこを見ても、少年の姿はない。
美幸はふと不安になった。バランスを崩して、この急な斜面を落ちてしまったのではないだろうか。斜面は丈の低い藪木と草が一面覆っていて、様子が良く分からない。斜面から頼りなく伸びている細い木に捕まって、そっと覗き込んでみたが、あのチェックのシャツはどこにも見当たらなかった。
「何やってるの?」
全く不意に掛けられた声に、美幸は驚いて、もう少しで自分が落ちるところだった。どうにか踏み止まってようやく後ろを振り返ると、あの少年がいた。
(あ・・れ・・・?)
白いTシャツに青と白のシャツを羽織った、茶色っぽい髪の少年。
(違う・・・・)
微妙な違和感を感じて、思わずそんな言葉が頭をよぎった。
「何やってるの?落ちたら怪我だけじゃすまないよ。」
淡々とした口調で少年が繰り返す。
「・・・・ごめん。」
思わずそう言ってしまった後で、自分は全く悪くないのになんで謝っているのだろう、という疑問が頭をもたげてくる。そもそも自分はこの少年を追ってきてこうなったのだ。
「君がここから落ちたんじゃないかと思って・・・」
言いながらそろそろと立ち上がって、改めて少年を見る。年の頃は14・5歳か。幾分整った顔立ちに、光の加減か髪も瞳の色も茶色に見える。体格はどちらかといえばほっそりしていて、あまり体力のあるほうには見えない。
(やっぱり、違う・・・)
何がどう違うのか分からないが、この少年にはやはり違和感を感じる。
少年は美幸の言葉に、きょとんとした顔をしていたが、やがて口の端を上げてクッと笑った。
「俺が・・・?そんなドジ踏むもんか。」
素直、とは言えない反応に、美幸は少しムッとした。
(・・・なんか、やな子。心配して損したかも。)
少年は笑みを浮かべたまま、美幸を興味深げに見た。
「あんた、何でこんなとこにいんの?」
ぞんざいな口の利き方に、美幸は少なからず不快感を覚えた。年下のくせに・・・何でこう小馬鹿にした態度をとられなければいけないのか。普段は礼儀になどあまり拘らないくせに、そんなことを考える。この少年に本当の理由など、彼を追ってここまで来たなどと、決して言うまいと思った。
「別に・・・散歩してただけよ。森林浴。」
こんな森の奥深くで、ちょっとどころでなく不自然な理由だと思ったが、適当なことを言って誤魔化す。が、視線は少年から逸れて頼りなく漂っている。
(・・・根性ないかも・・・私。)
「ふ~~ん。」
「・・・何?」
じろじろと無遠慮に視線を投げてくる少年に、思わず尖った声で応じるが、少年は気にしていない。
「珍しいと思ってさ。大抵の奴は表面だけ眺めて終わるんだ。」
「・・・は?」
美幸が首を傾げると、少年は目を細めて声のトーンを落とした。
「表面だけなぞって分かった気になる。誰も深奥を見ようとはしない。」
その呟きは静寂の森の中にあっても小さくて、美幸の耳に意味のある言葉としては届かなかった。少年の顔から笑みは消え、半分に細められた明るい茶色の瞳に不思議な輝きが宿り、美幸をぞくりとさせた。
静寂の森、黒く揺れる葉影、静かに流れる風の感触。
美幸は軽い眩暈を覚えながら少年を見ていた。
(・・・やっぱり何か・・・違う・・・)
再び感じる違和感。“異質なもの”、そんな言葉が頭を掠める。
ふいと少年が顔を上げて、周囲の空気が和らいだ。彼の顔には、一転して悪戯っぽい笑みが浮かべられている。それが森の静寂に引き摺られそうになっていた美幸の意識を現実に引き戻した。
「来いよ。」
少年は一言そう言うと、返事も聞かずに歩き出した。
「え・・・あ、ちょ、ちょっと。」
一瞬だけ戸惑って、慌てて少年の後を追う。
遠くで鳥が鳴いていた。
緑の深い木々の合間を、少年は軽やかに歩いていき、美幸が一生懸命に後を追う。ただ、森の入口から彼を追ってきた時よりは余裕があって、道端の花に足を止めたり、梢を見上げて眩しく輝く木漏れ日に目を細めたり出来た。
風がそっと流れて頬をくすぐっていく。頭上を覆う木々の葉と漂う空気は熱を遮り、涼やかさがゆったりと流れている。歩く毎に移動する日の光はちらちらと輝き、葉の合間から光の帯を延ばして柔らかい日溜りを作っている。
道はいつの間にか無くなり、少年は笹薮の中や倒木の上を変わらない歩調で歩いていく。道無き道を行っているはずなのに、不思議と歩くのに困らない。草の中を行こうとすれば肌や服に引っかかることもなく自然に左右に別れ、木の根に躓きそうになれば自然に引いていき、枯れて横たわる木があればいつの間にか潜れるようになっていたり渡れるようになっていたりする。まるで森が彼らを導いているかのようだ。
目の端でさっと枝葉が揺れた。少しの間をおいて、リスが顔を出し、きょろきょろした後、慌ただしく幹を登っていく。その様子に思わず顔が綻ぶ。草を踏み分ける音がして振り向くと、かわいらしい角を生やした若い鹿がじっと美幸を見ていた。気がつくと、其処此処に森の生き物たちの気配が見えている。
美幸は思い切り息を吸い込んだ。森が生きている。爽やかな風が全身を駆け巡り体を軽くする。
葉擦れの音に混ざって、水の音が聞こえてくる。川があるのだろうか。
水音は次第に大きくなり、木立が切れたところでその姿を現した。激しくはないが、急な斜面を駆け下る清澄な流れ。角のある岩に幾筋にも分けられ、また合わさり、流れの上にまで延ばされた細い枝に飛沫をかけていく。
少年が佇む川辺のすぐ横の岩に腰を下ろして、美幸は空を振り仰いだ。何か白い物が振ってくる。手を広げてその一つを受け止めて見ると、花弁か、羽根のついた種のようだった。どこから落ちてくるのかと見上げてみるが、それは辺り一面に絶えず降り続けて、元の木がどれなのかさっぱり分からない。くるくると回りながら静かに降り続けるそれは、真夏に降る雪のようだった。
差し込む光が美幸に手を差し伸べる。舞い落ちる種子がゆっくりと流れた風に浮き上がり、時間が止まったかのように思えた。一瞬の後、美幸の頬を擦り抜けるように風が流れる。瞑った瞼の裏で揺らめく光を感じながら、森の音に耳を済ませる。
(あの曲・・)
森に降った一滴が、吹き抜ける風や降り注ぐ光を吸い込み、内に取り込んで大きな流れを造り、やがて地を潤す大河となる。昔、友人がくれたあの曲は、今まさに聞こえる森の唄に、似てはいないか。
一息吸い込む毎に、体の中に光が満ち、心が軽く澄んでいく。悩みや迷い、小さな怒り、苛立ち、埋められない空虚感。日々の生活の中で溜め込まれ、いつの間にか沈み込んで澱んでいたものが、光に洗われ浄化されていく。日常から切り離され、久しぶりに独りになれた気がした。美幸は今、森の中で自由だった。久しく無かった解放感に満たされ、隣に少年がいることも忘れていた。それでも、不意にかけられた少年の声に驚かなかったのは、それが不思議と森の音に同化して聞こえたからだ。
「いいところだろ。」
美幸は微笑んで、ゆっくり目を開けた。
「そうね。・・・とっても、気持ちいい。」
「そりゃあそうだ。ここは森の深部だからな。命が溢れてる。」
いつの間にか、柔らかい光が森を満たしていた。空から降りてくるのではなく、森の持つ無尽蔵の生命力が現れているのだ。それが美幸の中に流れ込み、磨り減っていた心を満たし、蘇らせていく。普段思い悩んでいることが、とても些細で無意味なことだと思えて、おかしさすら込み上げてくる。
「ずっとここに居たいと、思うだろ?」
ここに居れば自然体に、本来の自分でいられる気がした。しがらみもなく、煩わしさもない。余計な気遣いも、愛想笑いも上辺だけの会話も必要ない。人の中に居れば避けて通れないものが、時に大きな負担となり心を蝕んでいくものが、ここなら捨て去ることが出来る。
頷いて、少年を見た美幸は、軽く首を傾げた。まただ。さっきも感じた違和感。異質なもの、という感覚。だが少年はしっくりと森の風景の中に溶け込んでいて、どこもおかしいところはない。なのになぜ、そんなことを感じるのだろう。
少年は悪戯っぽく笑って言った。
「居ればいいさ。いくらでも。森は拒みはしない。森と一つになって、ずっとずっとここに居ればいい。」
美幸はまた、森に目を戻した。
軽やかに流れ落ちる川の音。柔らかい光の中で黄緑に輝く下草。鈴の音のように心地良く煌めく木漏れ日。静かに降る真夏の雪。緑の輝きを増す空間の中に、次第に溶け込んでいく感覚が美幸を支配し始めた、その時だった。
鋭く鳴く鳥の声と羽ばたきの音が響いた。見上げると、すぐ近くの小枝に小鳥が止まっていた。周りとは違い、青い光を纏って。異質、ではないが、周りから浮き上がって見える、何か異なるもの。
それを見ているうちに、美幸は気付いてしまった。自分は、ここには居られないのだと。
少し悲しい気分になって目を伏せて、それからゆっくりと少年を振り返った。
「もう少し、ここに居てもいいかな。・・・でもその後は・・・帰らなきゃ。」
少年はじっと美幸を見て、つまらなさそうに上を見上げた。
「いいよ、別に。好きにすればいいさ。」
「送ってやる。」
そう言って、少年は森の入口まで美幸を導いた。森は来た時と同じように簡単に二人を通してくれた。そして来た時より短い時間で入口に辿り着いた。
「帰りの方が早かったね。行きはあんなにかかったのに。」
笑いかける美幸に、少年は意外に真面目な顔で答えた。
「出るのは簡単なんだ。行くのは難しいけどな。」
「・・・そっか。」
森の前に広がる高原の草地に眼をやり、もう一度少年に目を向ける。
「また、来てもいいかな。」
少年は少し考えて、横を向いた。
「来れたらな。」
美幸はにっこり笑って、少年に背を向けると歩き出した。
日が傾いてほとんど人のいなくなった高原の道を歩いていく美幸を見送っていた少年は、おもむろに頭上の枝を見上げた。
「何で邪魔したんだよ。」
そこには、先程の小鳥が止まっていた。纏っていた青い光がふわりと浮かび上がり、形を変えて青く透けて見える少女の姿になる。少女は冷静に答えた。
「あなたがあの人間を迷わせようとしてたからよ。」
少年は少しムッとした顔をした。
「別に無理にって訳じゃないんだし、いいじゃないか。」
少女は冷めた口調で言い返した。
「人間を迷わせようとするのは樹霊の悪い癖ね。でも、人間は人間。ここには居られない。」
「そうでもねえよ。残るって決めた奴も何人かいる。さっきの奴だって、残りたいって一瞬でも思ったのは事実だ。」
「それはそうでしょうね。弱った人間ほど、居心地よく感じるもの。でも、ずっと居るとなるとどうかしら。ここは彼女の居場所じゃないわ。」
淡々と意見を述べる少女を軽く睨みつけて舌打ちをすると、これだから風霊は、と呟いて森の中へ戻ろうとする。その背に向けて、少女が更に一言投げかけた。
「また来ても、迷わせてはダメよ。」
「来ないよ。」
振り返らずに返しておいて、呟く。
「来れないよ。チャンスは一度きりなんだから。」
日が傾いて深みを増す山の色を横目で見ながら、ヘッドライトのスイッチを入れる。
雲の陰に隠れた太陽から幾筋もの光が地上に伸び、淡い紅に染められた空に最後の輝きを残す。それが木々の陰に隠れ、幾つ目かのカーブを曲がろうとした時には、青みを増した空の下に、人工の光で輝き出した町が見えてきた。
ゆっくりと車を止め、眼下の町を眺める。これはこれで綺麗だと感じるのは、自分がそれに属する者だからだろうか。あの森の中で、美幸は本当の自分に戻れた気がした。いつも自分を縛り付けているものが本当にちっぽけで、些細なことだと感じた。あのままずっと居られたらいいと、確かに思った。
けれど、周りと異なる光を纏う小鳥を見て、気付いてしまった。あそこは、自分の居るべき場所ではないと。いくら森の命を貰おうと、あの心地良さに浸ろうと、完全に溶け込むことは出来ない。あの少年のようにはなれないのだと。
少年は完全に森の一部だった。何の違和感もなく風景の中に馴染んでいた。そう、人間であるならば、不自然なほどに。
少年に対して何となく感じた違和感。“異質なもの”という感覚。それは少年が、人の形をしていながらあまりにも森の属性を強く漂わせていたからだ。あの中で異質だったのは、寧ろ美幸の方。自分はあの中には居られない。だから、帰るしかない。そう思った。
再び車を走らせ、山道を降りていく。町に近づくにつれ、現実がひたひたと押し寄せてくる。些細だと感じた決まり事が美幸を縛り始め、悩み事が頭をもたげてくる。だが今までと違うのは、やってやろう、という気持ち。次から次へ押しかかる重圧に耐えられず押し流されていたのが、今は気力に満ち、乗り越えられそうな気分がする。こんな気になったのは、何年ぶりだろうか。
(森林浴のおかげかな。あの子に感謝しなくちゃ。)
微笑みながらMDのスイッチを押す。静かに満ちる森の歌。これからは、これを聴いてあの森を思い浮かべよう。次は行けるかどうか分からない。最後に目を逸らした少年の表情は、そう語っていたような気がする。せめて人が作り出した調しらべを聞きながら心に焼き付けよう。弱った心に語りかけ、満たしてくれる木の唄を・・・。




