身を焼くほどの恋、それは文字通りの。
人間はご馳走、のはずだった。——「彼」に出会うまでは。
セイレーン族は海に棲み、船で通りかかる人間たちをその美しい歌声でおびき寄せて食らう。それは太古の昔からずっとそうで、男性型セイレーンであるレトも疑問に思ったことはなかった。
人間はご馳走。毎日食べられるわけではないし、とても美味しいから。
もちろん、セイレーンは人間以外の海の生き物も食べる。でもそれは、あくまで人間が食べられない時のつなぎであり、それだけで生きていくことは難しい。
幸いレトたち一族の棲む海域はそこそこ頻繁に船が行き交う場所で、食うに困ったことはなかった。
「う〜ん、今日こそは船が来ないかなあ。もうニシンは飽きたよお〜」
ざぶんと海面から顔を出したディーネが、レトの座っている岩によじのぼりながら情けない声を上げる。ディーネは女性型セイレーンで、レトと幼馴染だ。
セイレーンには人間の女性の上半身を持つ女性型、男性のそれを持つ男性型が存在する。どの個体も美しい容姿に豊かな髪、そして魚のように泳ぎに特化した下半身には、煌めく鱗と尾びれを備えていた。
だが、セイレーンの見た目が人間の男女を模したかたちをしているのは、あくまで人間を惹きつけるため。セイレーン自体に性別による区別はなく、男性型、女性型のどちらも子をなすことができるため、つがいとなる組み合わせも男性型と女性型だけには限られない。
長命のセイレーン族の中ではまだ若い方に入るレトは、そんな行為も、感情も未経験だ。それでも、いま隣に座って長い髪についた海藻を取っているディーネが、自分にそうした気持ちを抱いているのは、レトもなんとなく分かっていた。
——自分も、いつかディーネと、つがいになるんだろうか。
厳しい冬がすぎ、春もすぐそことなった太陽の柔らかい光で身体を温めながら、レトはそんなことをぼんやり考える。
不意に、近くの海面から歓声が上がった。眠りそうになっていたレトの意識が、一気に引き戻される。
「船だ!」「大きいぞ!」
まるで波のざわめきのように、仲間たちの弾んだ声が聞こえてくる。目をあげたレトの視線の先には、確かに船が一隻、まだ遠いがこちらの方角へ向かってきているのが見えた。
「ほんとだ、大きいな……貿易船かな」
「やったね! あれだけ大きければ、きっと大勢の人間が乗ってるよ!」
レトのつぶやきに、ディーネが目をキラキラさせて答えた。
仲間たちは次々に手近な岩礁に上がり、歌う準備をし始めている。ここのところ珍しく船の往来が途絶えていたから、久しぶりのご馳走に誰もが興奮気味なのが空気から伝わってきた。
やがて、誰からともなくふわりと歌声がわきあがり、それが次々に重なって、一つの美しい旋律を紡いでいく。それに応えるように船影は次第に大きくなり、船首の飾りや帆に描かれた紋章のようなものが見て取れるようになってきた。
「すごい……」
このあたりを普段行き交う船とは一線を画すその佇まいは、優美ながらも威風堂々としている。ただの商船ではなさそうだった。
歌うのも忘れて、レトは近づいてくる船を見つめていた。
そして、甲板に立つ1人の若い男に気づいた瞬間、レトは目を奪われた。
「あれは……?」
オリーブ色の艶やかな肌。海風になびく輝く黒髪、吸い込まれるようなダークブラウンの瞳。固く引き結ばれた口元には意志の強さが、その佇まいには気高さが感じられる。
これまで見たことのある人間とはまるで違う、美しさと気品を備えたその姿に、レトは釘付けになった。
「ああ、あれはきっと王族だな。さしずめ王子あたりだろう。王子がいるってことはお付きの従者や大臣あたりも乗ってるかもな。今日はついてるぞ」
レトの様子に気づいた長老格のセイレーンが、歌を止めて耳打ちしてくれた。
普通の船乗りの肉は硬い筋肉が多いが、王族や貴族という種類の人間は柔らかくて美味なのだそうだ。
だが今、レトにはそんなことはどうでもよかった。
胸が苦しい。血が逆流しているのではないかと思うほど、全身が脈打ち身体が熱い。レトは、自分の身に何が起きているのかわからなかった。
浅い呼吸を繰り返しながら、どうしてもあの人間だけは仲間の手にかけさせるわけにはいかない、とレトは強く感じていた。
あの人間の目を、間近で覗き込みたい。あの口元がふっと綻んだら、どんな表情になるだろうか。どんな声をしているのだろう。何を語ってくれるだろう。
——なぜ。こんなのおかしい。
嵐のように渦巻く強烈な感情に、レトは混乱した。
自分はセイレーンで、人間を捕食する生き物だ。なのに今、自分を襲う運命も知らず甲板に立ち、不思議そうに歌声に耳をすませている王子を、ご馳走が飛び込んでくるのを今か今かと待っている仲間達のようには見られない。
しかしその僅かな不安も、高ぶる激しい気持ちに飲み込まれた。
——守りたい。守らなければ。
レト以外のセイレーンたちはいっそう高らかに歌い上げた。
もうすぐ目の前に迫ってきた船からは、歌声に狂わされた船員たちが、次々と海に飛び込み始める。ついで、船底が暗礁に衝突する、鈍い衝撃。
船は、ゆっくりと傾いていった。もう誰1人として正気を保てなくなった人間たちが、恍惚とした表情で海に飲み込まれていく。
セイレーンたちはぴたりと歌うのをやめ、一斉に海に飛び込んだ。
レトも遅れを取るまいと、素早く身を翻して水を蹴り、大量に漂う人間たちの中から王子を探す。
——いた……!
全ての時が止まったように感じられた。あちこちで食事にいそしむ仲間たちの声と水飛沫の音は遠ざかり、エメラルドの光差す水面に、王子の姿がゆらゆらと揺蕩っている光景だけが、目の前に広がっている。レトは、一瞬息をすることさえ忘れた。
王子を抱きかかえて、レトはそっと首に触れた。息はある。怪我を負っている様子もない。
だがレトが触れても王子が目を覚ます気配はなく、意識を失ったままだった。
——どこか、安全な場所へ……!
仲間に見咎められないうちに、運んでしまわなければ。
後のことなど、何も考えられなかった。
セイレーンと違って、人間が冷たい海水の中に長時間いられないことはレトも知っている。なるべく水に浸からないよう、担ぐようにして泳ぎ、一番近い陸地を目指した。
風の向きと潮の流れを頼りに、何時間も何時間も、休まずレトは泳ぎ続けた。もう尾びれの感覚は無くなってしまっている。それでも、抱えた身体から伝わる弱々しい鼓動がいつ途切れてしまうかと思うと、止まることなどできなかった。
もうレトの意識も朦朧としてきた頃に、前方に黒い影が見えてきた。
——陸だ……!
陸地の存在に、こんなにホッとしたのは生まれて初めてだった。尾びれの感覚も戻ってきたように感じて、レトは最後の力を振り絞って懸命に泳いだ。
たどり着いた浜辺に、やっとのことで王子の身体を横たえると、レトはその顔をじっと眺める。
幾分顔色は悪いが、それでも間近で見る王子の美しさは言葉にならない。レトは胸がいっぱいになった。その目が閉じられたままであるのが、とても悲しい。
だが、レトは気づいていた。
確かに、レトは王子の命を助けた。けれども、王子にとってのレトは、そもそも彼らを惑わし船を難破させ、彼と共にいた多くの人々の命を奪ったセイレーン族の1人なのだ。
そんな王子が目を覚まして自分の姿を認めれば、一体何を思うか。
——せめて、これだけ……
レトはゆっくりと顔を近づけ、王子の色を失った唇に、そっと自分の唇を重ねる。涙か海水かわからない雫が一滴、王子の肌に落ちた。それから、レトは王子の隣に寄り添うように横になると、その頬に顔を寄せ、目を閉じた。
どのくらい、そうしていただろうか。王子の体温と心臓の刻むリズムに、少しの間まどろみ心地だったレトは、人間の気配にハッと目を覚ました。慌てて起き上がり、ざぶんと海に飛び込むと近くの岩陰に隠れる。ちょうど入れ違いに、人間の子供が数人、浜へ駆け降りてくるのが見えた。
——危なかった……
子供らは砂浜に倒れている王子を見つけて何やら騒ぎ出し、駆けて行ったかと思えば、大人を連れて戻ってきた。
近所の漁村だろうか、騒ぎを聞きつけた者が次々と集まってきて、王子を取り囲んで何かを話している。と、王子がその喧騒に意識を取り戻したのか、起きあがろうとするのが見えた。
やがて、大人の人間たちが木の板のようなものを運んできて、それに王子を寝かせると、板ごと浜の向こうへと連れ去っていってしまった。
「これで、いいんだ」
レトは、ポツリとつぶやいた。あたりはいつの間にか雲が垂れ込めていて、暗い空から大粒の雨が降ってきた。
それからというもの、レトはめっきりとふさぎ込んだ。誰ともあまり口をきかず、時々、思い出したようにぼろぼろと泣く。一度泣き出すと、泣き疲れて眠るまで止まらなかった。
人間を食べることも、できなくなった。どんなに見た目が違っていても、思い出してしまって、食べ物として見ることができない。どうかしたのかと心配した仲間に声をかけられても、ただ黙って頭を振るしかできなかった。やがてそんなレトに声をかけるものはいなくなり、誰もが自分のことを腫物のように思っているのが分かった。世界の全てが、レトを苦しめにかかっているようだった。
そうしてレトは、どんどんと痩せ衰えていった。
セイレーンが人間を食べずに生命を維持しようと思えば、大量の魚を食べ続けなくてはならず、現実的にはほぼ不可能だ。このままでいれば、自分がそう遠くないうちに死ぬことはレトにもわかっていた。
レトは、自分がセイレーンとして生まれてきたことを、初めて憎んだ。なぜ王子と同じ、人間に生まれてこなかったのか。このまま生きていても、あの瞳に自分を映してもらうことが叶わないのなら、こんな命など無意味だった。
目が溶けるのではないかと思うほどに泣き、いつしか意識が曖昧になり、いっそこのまま海が生まれる場所へ還れたら、とぼんやり思っていたレトの耳に、聞き慣れた声が響いてきた。
「レト、レート!!……いい加減にしなさいよ!!」
「ディー、ネ……」
もう何日も誰とも話していなかったから、掠れてうまく声が出ない。涙の膜でかすむ視界に、幼馴染の心配そうな顔が映った。荒っぽい口調の割に、レトの肩に置かれた手は遠慮がちで、ディーネの心の中を表しているようだった。
「レト、あんたこのまま死ぬ気じゃないでしょうね?」
そうだ、と言いたかったが、言葉を発する気力も残っていないのと、ディーネの剣幕に圧されて何も言えない。
黙ったままのレトにディーネはため息をつくと、手に持っていた小袋をあけて中身を取り出し、手のひらに乗せて差し出した。
「とりあえず、これ飲んで。伯母さまに頼み込んで、分けてもらったんだから」
黒っぽい色をした塊に見えるそれをなんとか飲み込んだレトは、じわっと身体が熱くなるのを感じた。
「これは……?」
「伯母さま特製の滋養強壮剤よ。ウミマムシとか、ペングサの粉末とか、色々入ってる」
「おぇ……」
中身を聞かなければよかったと思ったレトだったが、確かに、動かせなかった身体に力が戻ってきたような気がする。
「さて、ここからが本題なわけだけど」
咳払いをして、ディーネがじろっとレトの顔を見た。
「レト、あれでしょ。恋煩い」
「ゲッホ、ゲホ、ゴホッ」
ディーネの口から出た思いもよらない言葉にむせたレトは、今度こそ飲み込んだ塊を戻しそうになる。
「なん……で」
「だって、レト、分かりやすいんだもの。あの船が来た日、レトだけ歌わずに、ずっとあの若い人間を見てた。みんなが食べてる間いきなりいなくなって、丸一日以上帰ってこなかった。で、帰ってきたらこれでしょ。分かりやすすぎ」
幼馴染の鋭い指摘に、レトは声もない。
「でも」
「セイレーンなのにおかしいって言いたいんでしょ。だいたいあんたの考えそうなことくらいわかるわよ。……でも、人間に恋をしたセイレーンは、レトが初めてじゃないわ」
「えっ」
レトは目を見開いた。そんなの初耳だ。レトの反応に、ディーネは肩をすくめる。
「って言っても、私もおとぎ話として聞いたことがあるだけだけどね。その昔、人間に恋をしたセイレーンがいたんだって。そのセイレーンはどうしても人間になりたくて、秘密の術を使って人間に姿を変えてもらったんだって」
「それで……そのセイレーンは、どうなったの」
「あんまり細かいことは覚えてないんだけど……結局その人間には会えるんだけど、恋は叶うことなく、最後はセイレーンにも戻れなくて死んじゃうって結末だった気がする」
「そんな……」
あまりにも悲しい終わり方に、レトは胸が締め付けられる思いだった。でも、もし恋が叶わなくても、焦がれた人にどうにかして会いたいと思うそのセイレーンの気持ちはレトにも痛いほど分かる。もしそんな術があるのなら、レトだって迷いなく人間になることを選ぶだろう。
「まあ、けど、それはお話の世界のことだもんね……」
現実にそんな都合のいい術が転がっているわけがない。とはいえ、人間に恋することは決して
おかしいことではないと慰めてくれようとしたディーネの心遣いは、レトの心に沁みた。
レトがありがとう、と伝えようとすると、それを押しとどめるように、ディーネが手を振る。
「違うの、話はそれだけじゃなくって」
「何?」
「私、レトを精霊のところへ連れて行きたいの」
「精霊……」
ディーネの家系は祀りごとにたずさわる者が多く、ディーネ自身もセイレーン族が庇護を受けている精霊と接触することができるというのはレトも知っていた。だが、それと自分の今の状況にどう関係があるのか、いまいち飲み込めない。
「私なりにね、考えたんだよ。お話に出てくるセイレーンは、秘術を使って人間に姿を変えた。そんなことがもし可能なら、精霊が絶対知っていると思ったの。バカバカしいって笑われるかもしれない。でも、何もしないで死んでくよりずっといいでしょ?!」
レトは、必死に言い募る幼馴染の顔を、まじまじと見つめた。あの人に出会っていなかったら、きっとディーネのことを好きになっていたと、そう思った。なぜこの世は、こんなにも理不尽で残酷なのか。
うんともいやとも言わないレトに、痺れを切らしたようにディーネが続ける。
「レトが何と言おうと、私はレトを精霊のところに連れていく。このまま、レトが死んでいくのを見るのだけは絶対に嫌……!」
ディーネの目に浮かぶ涙を、レトは見ることができなかった。苦い感覚が胸に広がる。
「……わかったよ」
「ほんと?」
「うん……ありがとう」
最後のありがとう、には、ディーネの思いに対するレトなりの気持ちがこもっていた。それが伝わったのか、ディーネが複雑な表情で微笑む。
「……じゃ、ついてきて」
ディーネに案内されるまま、レトは久しぶりの海の中を泳いだ。水が全身に馴染むその感覚に、自分はどこまでもセイレーンなのだと思わされて、胸の中が重たくなる。
「ここ」
ようやく辿り着いたそこは、レトも話にしか聞いたことのない神聖な場所だった。周囲の水は澄み渡り、清浄な気配に満ちている。
こんなところに自分が来ていいのかと、レトは隣に浮かぶディーネを見上げるが、ディーネの真剣な表情に慌てて自分も前を向く。
「————♪」
ディーネが大きく息を吸い込み、歌い始める。やがて、その響きに応えるように、周囲の空気がきらきらと輝き始め、目の前に光の塊のようなものが現れた。それはあまりに眩く、直視することができない。
——これが……精霊……?
ディーネの歌声が止む。そして、いきなりレトの頭の中に声が響いた。
《どうした、私の子らよ》
何が起こったのか理解できないレトをよそに、ディーネが口を開いた。
「教えてください。セイレーンが、人間になることはできるのですか」
同じ声がディーネにも聞こえているのか、いきなり単刀直入に話し出すディーネにレトは慌てた。だが精霊はそんなディーネを咎めることもなく、また頭の中に声が響く。
《それは不可能だ》
「えっ……」
レト自身、そうと分かっていたはずなのに、なぜかひどく落胆した。ディーネも動揺しているのが分かる。
「でも、昔人間に恋をして、人間の姿になったセイレーンがいたって……!」
《それは事実であり、事実ではない》
「どういうことですか?」
困惑したディーネの声に、レトも頷く。まるで意味がわからない。
《かつて、人間に恋をしたセイレーンは確かに存在した。だが、そのセイレーンが人間の姿になったというのは、事実ではない》
「そんな……」
やはり、それは創られたおとぎ話だったのか、とレトは小さくため息をついた。
「じゃあ、やっぱり、人間にはなれないんですね……」
《その通りだ、私の子よ》
重苦しい沈黙があたりを包む。だが、レトはどうしても聞いてみたいことが頭の中に浮かんだ。
「あの、」
言ってから、自分の声もディーネのように精霊に届くのかわからないことに気づき、一旦口をつぐむ。
《なんだ。言ってみなさい、私の子よ》
精霊から頭の中に応答があり、レトはほっとして、だが恐る恐る続きを口にした。
「人間でなくても、構わないんです……どうしても、もう一度、あの人の姿をこの目で見られるなら、虫でも鳥でも、何でもいいんです」
人間にはなれない、と精霊は言った。だが、全ての生命をつかさどると言われる精霊なのだ。陸を歩き、あるいは空を飛んで、あの人に会いに行けるなら、もうどのような姿でも構わなかった。
《ふむ……どのような形でも、構わないと?》
「はい」
精霊が考える気配に、レトは固唾を飲んだ。
《それならば、やりようがないことはない》
「本当ですか?!」
ディーネと声が重なった。
《ただし、言ったように、人間の姿になることはできない。他の生き物の姿になることもだ。それは我々の力の及ぶところではないからだ》
「それでは、一体……?」
《だが、魂という形でならば、その人間の元へ行くことは可能になるだろう》
——魂……?
《我々は全ての生命を預かる者。魂の巡りをつかさどる者。魂となったそなたを導き、その人間の魂と出会わせることならばできよう。魂は思いを持つ。強い思いは時として他の魂に伝わり、結びついていく》
「魂の思いが、結びつく……」
《その通りだ、私の子よ。その人間の魂にそなたの思いが伝われば、やがて人間の肉体が朽ちて魂となる時、そなたとその魂は結びついて一つとなろう》
にわかには理解できない話のはずなのに、精霊の言葉は全て直接意識に溶け込むように馴染み、最初から知っていたことのように感じられた。
「魂となるには、どのようにすればよいのですか」
《私の火で焼かれ、全てが浄化されれば、そなたは魂だけの存在となる》
ディーネがくぐもった悲鳴を上げた。精霊の火で焼かれることは、生き物としての死を指す。セイレーンのレトだった存在は、いなくなる。
だが、レトの心はもう決まっていた。
「……私を、焼いてください。……あの人の元へ行けるなら、構わない」
ディーネの顔を見ることはできなかった。いろいろな思いが渦巻き、うまく言葉にならない。
おとぎ話にあったセイレーンも、きっとこうして焼かれたのだ、とレトは悟った。それを残されたセイレーンたちが、今伝わる形に話を作り替えたのだろう。
レトは静かに目を閉じた。
◇
「今日は、いい風が吹く」
開けておいた窓から、カーテンを翻して春の風が吹き込んでくる。
城の一室で、若い王子が書き物をしていた手を止めて顔を上げた。ひと月ほど前に、友好国への訪問の途中で船が座礁し、奇跡的に王子だけが助かるという大事件があった。その際、浜に打ち上げられていた王子を保護してくれた漁村の民たちの暮らしぶりや、城へ帰るまでに見聞きしたことを忘れないうちに書き留めておこうと、筆をとっていたのだ。
なぜ自分だけが助かったのか、王子は今でも不思議に思っていた。座礁する直前からの記憶が全くなく、気づいたら浜辺で漁村の人々に囲まれていた。その間のことを思い出そうとすると、なぜか胸が騒めく。何か、とても大事なことを忘れているような。
「いかんな、少し休憩しよう」
そう独りごちると、王子は立ち上がって伸びをした。その拍子に、ふと潮の香りが鼻先を掠めたような気がして、王子は窓の外を覗いた。だが、窓の外には何も変わったものは見当たらない。いつも通りの中庭を、近衛兵たちや庭師、城勤めの者たちが行き交っているだけだ。
だが、なぜかその香りはどこかひどく懐かしく、そして心がふわっと温かくなるようだった。
「なんだろうな、今日はとても大切なことが起きる気がする」
そう言うと、王子は少し微笑んで、また机に向かってペンをとった。