歌わないカラオケは何のために?
カラオケ店に入ると、沙由菜はすぐに組んでいた腕をほどき、手で顔を仰ぐようにしながら、受付へと向かった。
「はい、一時間でお願いします。未成年なのでお酒も飲まないですし、タバコも吸いません」
と、沙由菜は馴れたように店員さんに聞かれる前にすべて聞かれそうなことを答えていた。マイクのセットや部屋番号の書かれたもろもろを受け取ると、沙由菜は俺の腕を改めてつかみ、指定された部屋へと連れて行ってくれる。
そういえば、あゆみにやられたこと、これが美少女だったらなぁと思ったことが実現してしまった。いや、美少女と言ってしまった、シンプルに恥ずかしい。
部屋に入ると、カラオケ部屋とは思えないくらいタバコの香りもせず、清潔感のある部屋だ。なぜだか少し懐かしい気持ちにかられる。
とりあえず、気持ちを落ち着けるため、ソファに座り、沙由菜に問いかける。
「あの、どういうつもりだ、沙由菜」
沙由菜はぐぬぬ、と言いたげな表情を浮かべ、さらに顔も真っ赤にしたまま勢いよく沙由菜もソファに座る。
「ごめん、忘れて……」
「っと、言われても……」
俺がそういうと、お互いに沈黙が訪れる。なぜこんな気まずい思いをしなきゃならんのだ。沙由菜は何がしたかったんだ。勘違いしてしまうぞ、そんなことされると。
そうこうしているうちに、ノックの音が聞こえ、店員さんがワンドリンク分の飲み物を持ってきた。
店員さんが特に表情も変えずにウーロン茶と緑茶を置いていく姿を見ると、余計に気まずい気持ちが湧いて出てくる。
「あー、もう、歌う。歌うわ」
と俺が悩んでる間にこの空気を換える決意をしたのか、沙由菜は立ち上がりマイクとデンモクを取り、直ちに選曲をした。
その歌は二年ほど前に町中でよく流れていた曲だ。ボーカルがいまだ中学生という年齢で武道館公演を行い、成功をおさめたそのバンドの曲はカラオケの1曲目にしてはしっとりとしたラブソングである。
沙由菜の声は意外にもやや細く、だがか細いわけではなくある程度の力強さを感じる。というか、かなり熱の籠った声色を感じる。
基本的にはカノン調のコード進行であり、奇をてらわない誰もが受け入れやすいメロディのその曲は、誰もが愛している人がいて、それに気づけない自分の弱さを恥ずかしむ。そして、自分にもそんな人が現れるのか。いや、現れていた。
でも、それは時すでに遅く、君のために歌おうとしたラブソングは誰に向けていいのかわからない。そのように解釈が出来る歌詞を歌っている。そして、この歌の最後はあふれる愛を止めることが出来ないから、ありったけの声を言葉を、誰のためでもないラブソングとして歌うと結ばれる。
後半の方はかなりハイトーンであるため、女性の沙由菜でちょうどよさそうな高さだ。
それでも、沙由菜は最後まできれいに歌い上げる。
俺は素直に沙由菜へ拍手を送る。
「沙由菜って意外と歌うまいよな」
さらには単純に素直に沙由菜をほめる。沙由菜は少し照れたような、でも先ほどみたいな緊張した面持ちではなく柔らかい笑顔を示した。
「まぁ、誰かさんほどでもないけどね」
「さぁて、誰のことなのやら」
俺は目を沙由菜の視線から目をそらしつつも、マイクなど一瞥もせずに緑茶をすする。
俺のその様子を見てか、沙由菜はどんどん新たに曲を予約していく。大半は先ほどのロックバンドの曲で時折アイドルの歌やどこかで聞いたことあるような邦楽だ。
ある程度まとめて歌っては少し休んでの沙由菜の一人リサイタルが行われる。俺も、なんだかんだ人が歌っているのを聞くのは嫌いじゃない。沙由菜も楽しそうに歌っているし、むしろすがすがしいくらいだ。
時折、沙由菜は俺に歌わないのかと、無言で目力のみで訴えてくるが、俺は首を横に振り、その圧力を華麗にかわす。
そんなやり取りが少し気持ちよくなってきたころになると、残り十分であることを告げる電話が鳴り響く。時間も時間だし、未成年は20時までと決まっているため、延長もせずお会計へと向かった。
「じゃあ、ここは俺が出すわ」
「え、なんで、私しか歌ってないし、私出すよ」
決して俺は紳士ぶってこんなことをいっているわけではないのだ。俺は率直にありのままに思ったことを伝えることにする。
「単純に楽しい気分にさせてくれた沙由菜へのお礼というかお布施というか、そんな気持ちでお金を払いたいと思った、それだけだ」
沙由菜は何それ、と戸惑いながらも無垢で純真さが垣間見える笑顔で、
「そっか、ごちです」
といって、お財布をしまう。
そんなに高くないわけだし、これくらいどうだっていいんだけどな。俺はその辺の高校生よりおそらくはるかにお金をもっているし、何の痛手もない。
「さて、じゃあ気を取り直して買い物に行くか!」
「うん!」
そういえば先ほどお互いがどぎまぎしていたり、変な緊張をしていたのをなんとなく思い出しつつも、俺はこのくらいの距離感がやはり気に入っていることを認識する。
少なくとも、まだ俺は沙由菜とはこのままでいたいと思っている。これを口に出すとおそらく沙由菜を傷つけてしまう可能性もあるし、本人が何かを言って来たらそう伝えると思うが、やはり沙由菜もそんなことを言わないだろう、きっと。
カラオケ店を出ると、先ほどまでまだ幽かに残っていた夕日も沈み切り、街灯に照らされる街路樹がより印象的に浮かぶ夜空になっていた。
その街路樹に沿って歩けば、駅ナカの商業施設へたどり着ける。俺は道路と歩道の間を隔てるように存在し、かつ等間隔に並ぶそれをただ漠然ときれいだと思いつつ、沙由菜へ目を向ける。
沙由菜の表情も煌々と輝くビルからの光や、街灯の明かりに照らされる。俺の視線に気づいたのか、沙由菜はこちらに目を合わせる。
「どうしたの?」
と不思議そうな顔でこちらを見つめる。そう、ただ漠然ときれいだと思う。
きっと、そう信じたくないだけで、沙由菜は俺に好意らしきものを持っているように感じる。だが、俺は沙由菜の気持ちにたぶん答えることが出来ないと思う。今はまだ、誰かが俺の心の中に残っている。
おそらくもう会うことはないけど、まだ忘れることが出来ないのだ。だから、雪野への興味も恋愛的な興味ではなく、単純にしゃべったこともないようなタイプだからこそなのかもしれないし、沙由菜からのアプローチを気付かないふりをして今のままでいたいのも、今の俺にそんな資格がないからだ。
「そーま?」
沙由菜は俺の表情の変化を敏感に読んだのか少し神妙な顔つきで見てくる。俺は慌てて手でなんでもないと表現しつつ、話題の転換を図ることにする。
そう、沙由菜が雪野を知っているかどうかだ。
「そういえば、沙由菜、雪野冬菜って仲いいか?」
沙由菜の顔が一瞬影をはらんだように曇ってに見えた。いや、怒ってる?
「ううん、よく知らない。ってか、そーま、私と一緒にいるのに他の女の話をし始めるなんて、ほんとデリカシーないわね!!」
沙由菜は勢いよく背中を叩いてきて、べーっと舌を出して俺の発言に対する怒りをかわいらしく露わにしつつ、歩くペースを早めた。
「ちょ、待てよ。悪かったって!」
「嘘、でも雪野さんに関しては本当によく知らないの」
沙由奈の眉は普段よりも目じりの方に下がっているように見える。優しく笑っているのか、それとも少し悲しみを我慢しているようなそんな儚げな表情であるようにも見える。
いや、でも特に悲しい話はしていないのだから、きっと沙由菜が珍しく素直にかわいらしいせいでそう見えてしまっているのかもしれない。何を言ってるんだかって感じだが、本当にどうにも今日の沙由菜はおかしい。なぜか、不安を感じてしまうほどにだ。