はじまりはじまり。
「壮馬くん、私はあなたのことを幸せに出来ないと思うんだ……」
目を伏せがちにその子は言う。そう、僕はこの人に告白をしたんだ。その子の少し野暮ったいおさげの髪が風で揺れる。
「だから、ごめんね。あなたと付き合うことはできないの」
その結論が耳に入るころには僕の視界はぼやけ切って、歪んだ像のみが世界を支配する。それだけでなく、聞こえてくる音ですら薄らぼんやりして、まるで幻想の世界にいるかのようだ。
おかげで、僕はこれが現実なのではなく、夢なのではないかという錯覚できる。いや、本当にそうなのか。そもそも僕は、
「そーま、そーま!」
そう、彼女ではない謎の声が聞こえてくる。だって、ここには僕と彼女しかいないのだから。そこで、頭のあたりにドンと響くような衝撃が僕を苛んだ。
――――――
「高峰、昼寝とはいいご身分だな」
その痛みでハッとした時には“俺”は目を覚ましたことに気付く。まだ夢心地な脳が、今の自分の状況を的確には判断出来ていなかった。さっきまで、どこか別の世界で何かをしていたような錯覚をしてしまいそうになる。
俺は右隣に座る同級生の方を見る。そいつは慌てふためいたような顔で上の方を指さしたりなんだりしている。実際、俺の頭上には何者かの影が存在していることも把握した。
「明坂、お前も先生に対して指を差すなんて言い度胸だ。まあ、それはいい」
あからさまに怒りを帯びた声。ようやくにして寝ぼけた頭が今の状況を悟る。そして、俺は意を決して頭上の影を睨み付けた。いや、睨み付けるというと語弊がある。少し冷や汗を垂らしながら、にこっと虚ろな笑みを浮かべてみた。
「俺の授業で寝たらどうなるかわかってるよな?」
そう、その影の正体は担任の田中である。今は田中の授業である数学の授業が行われいる真っ最中だった。決して田中の授業が眠くなるようにつまらない授業ではなく、単純に俺に問題があることは明白である。田中の授業は誰にインタビューをしても最高にわかりやすい、数学の苦手意識がなくなったという評価を受ける。ひいては予備校講師にスカウトされるほどの逸材である。
俺は生徒を愛し、まじめに全力で取り組む田中の怒りは至極もっともであろうことはわかっている。そして、もし、授業中に寝てしまった時の対応は初めの授業のガイダンス時にも提示され、シラバスも配られている。
俺は、そのまま作りきった笑顔を崩すことが出来ず、
「は、はい……」
という他できることがなかった。俺のその反応を見た田中はすぐに右の方に顔をやり、少し怖い笑顔を見せる。
「明坂も、もっと早く起こせたよな?」
「え、えぇ……? それはさすがに理不尽では?」
と明坂女子は反論してみせるが、明坂女子も心なしか冷や汗をかいている、ように見える。その様子を見て、田中はその罪を知っているかのように、
「俺は見てたぞ」
と田中は告げた。項垂れる明坂女子、お前もやっていたんだな……。
まだ少しだけ寒さの残る心地よい風がカーテンをはためかせる。緊張感は笑いとなり、場を張り付かせていた空気が和みを見せる。田中はため息をつきながら、
「まぁ、冗談はここまでにして、二人は補習な。今日のところは本当に大事だからちゃんと理解してから帰るように」
と、睡眠したお咎めである補習を俺たちに突きつける。そう、さっきも言ったが田中は怖いとか嫌な先生ではなく、本当に生徒のためを思っていうのだ。寝てしまった俺たちが悪いのだ。これを一種の洗脳ととらえるかはあなた次第である。
ある種の茶番をこなしたのち、授業が再開したが、割とすぐにその授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。俺がどれだけ熟睡してしまっていたかを思い知らされてしまう。そんな罪悪感もほどほどに休憩時間に入った途端に明坂女子が声をかけてくる。
「そーまの寝顔見てたら私も眠くなったんだから、そーまのせいだわ……」
聞き捨てならないんだけど?!
「なんでお前、俺の寝顔を盗み見してるんだよ、変態かよ」
「変態じゃない。観察よ」
観察って、別に俺は昆虫だとか植物みたいな見て特徴を捉えるような対象じゃないんだがなぁ! なんて失礼なことを言うんだこの女は。俺はむっとしたような表情を浮かべながら、突っ込んでみることにする。
「明坂女子は人のせいにしてるけど、普通に寝たのは自分だろ」
明坂女子もその言葉にむっとした表情を浮かべる。
「あーはいはい、そうですねぇ。私のせい私のせい。ってか、もう何年も前からの顔見知りなんだから明坂女子なんて言わないでよ、白々しい」
「ちゃんと自分の罪を認めてくれてよかったよ、さゆちゃん」
俺がそういうと、カーッと顔を赤らめて少し涙目になったようなさゆちゃんがそこにはいる。ちなみにさゆちゃんは小学生の時の呼び名である。俺がまだ気弱だった、だけどさゆちゃんをいじめる相手を助けたときにはそーまくんだいしゅき、しゅきしゅきと舌足らずに言っていたというのに。
むしろ、それを思い出して恥ずかしがっているのだろうか。もし、俺の心情をモノローグとして読ませてみたら、知らないやつ、ただの同級生、知り合い、かと思いきや幼馴染かい、みたいな突っ込みをされているだろう、たぶん。
どれ、より一層からかってみよう。
「あのときのさゆちゃんは可愛かったなぁ。そーまくんだいしゅきっていっつもベタベタしてきて」
「う、うううるさいわね! それは昔の話でしょ?! 恥ずかしいからやめてよ」
そうやって、自分の罪を人のせいにしようとした制裁を加えて休憩時間を消費しつくす前に、別のやつらがこちら側に向かってくるのが見える。
「二人で夫婦漫才してないで、次の授業の準備しなくてもいいのかなー? ほら、沙由菜も早く更衣室いこ!」
やつらの複数形をつかっているが、実際に沙由菜の前に立ちはだかったのは二人。少しパーマのかかったセミショートで茶髪の不良おばさんの佐藤と黒髪ポニーテールの小日向だ。
この二人はさゆちゃんの幼稚園からの幼馴染らしい。まぁ、さゆちゃんはさすがに俺もそろそろ恥ずかしいので、ちゃんと沙由菜と呼ぶことにする。沙由菜と俺は幼馴染という関係ではあるが実際にともに同じ学校に通っていたのは小学校二年くらいから六年生くらいということになる。中学では俺は地元の中学に、こいつは今所属する矢代学園の中等部に進学した。
どうにも、この学園のある地域こそが沙由菜たちの故郷であるらしく、こいつらと一緒になりたいから、矢代学園に入ることにしたと沙由菜が言っていた。まぁ、それだけ仲が良い三人だということだ。
沙由菜はその二人に促され、本日のこの日の最後の授業である体育を受けるため席を立ち女子更衣室へ向かった。俺も普通に男子更衣室で着替えなければならないのだが、なんだか少しだるい気持ちを抑えきれず、教室の窓へ目を向ける。
高校二年生の新学期になり、ゴールデンウィーク直前、桜のつぼみがぽつぽつと花を咲かせ始める季節。久々に同じクラスになった幼馴染と戯れる。これはやや浮足立った毎日が少しずつ日常になってきたそんなときの話だ。