決意・1
一度目にしてしまった信乃を、意識の中から締め出すのは至難の業だった。
それどころか、意識しないようにとすればするほど、秀一の中で、信乃の存在が膨れ上がっていく。
目は、宣誓の文言をしたためた紙を追っていたのだが、ともすると秀一の全神経は信乃の気配を探し出し、そこへ向かっていこうとする。
こんな事もあろうかと、文章をほとんど暗記していたことが、役に立った。秀一の焦りとは別に、言葉は意識せずともつらつらと出てくる。おかげで新入生代表という大役は、なんとか無事にこなすことができた。
秀一の心のうちの葛藤など、誰にも知られないままに、入学式自体は滞りなく進んでいった。
その後、一年壱組の教室に入ってからも、秀一は自分の意識をコントロールすることに、大変な力を使わなければならなかった。
秀一たち一年は三階に教室がある。二年生の教室は一階。信乃は秀一より一つ年上の二年生であるから、二階にいるはずだ。
ふとすると秀一の神経は、この学園の中にある僅かな信乃の気配を求めて、研ぎ澄まされていく。その分、それ以外の感覚についてはついつい疎かになり……結果、教師の話など、まるで頭に入ってこない。
「一ノ瀬涼!」
思いがけず大きな教師の声にはっとして、秀一の意識はクラスの中へと戻ってきた。
一ノ瀬涼とは、今朝友だちになったばかりの隣の席の、白玉のようなもちっとした雰囲気の生徒のことだ。
涼もぼうっとしていたのだろう
「はいいっ!?」
と、かなり大きな声で返事をして、椅子をガタつかせながら立ち上がった。
「高校生活第一日からボケッとしているとは、ずいぶん余裕だな!」
涼をたしなめる教師の言葉に、秀一は自分自身の気を引き締めることができた。ボロを出さずに澄んだのは、涼のおかげだ。
その後はスムーズに学活が進み、高校生活第一日目が終わっていく。
学活が終わると、ほとんどの生徒は、後ろに並んでいた父兄と一緒に教室を出て行った。
父兄の中には学園の寮や付近の宿泊施設に一泊していく者もいるらしいが、秀就と露は大神の家のこともあるし、入学式が終わればすぐに帰る予定になっている。
「寮に荷物も届いているでしょうから、いろいろと大変でしょう、お手伝いしていきたいのですけど……」
寂しそうに言う露に「大丈夫ですよ」と、にっこりと笑ってみせる。
ここで「ありがとうございます」などと言おうものなら、それじゃあ……と寮にまでやってきて、本当に荷解きの手伝いをし始めかねない。
「ゴールデンウィークというお休みが、すぐにあるんですって。帰ってきて下さいね」
「生活してみた上で必要なものなども出てくるかもしれんし、何かあったら連絡するといい、それまでに用意しておこう」
「そうですね、その時はお手数おかけします。ではゴールデンウィーク?……には、一度家に帰るようにしてみます」
そんな会話をしていると、三人の中にそろそろ別れのときが近づいたのだという空気が流れる。
「行こうか……」
それでもまだ何か言いたげに秀一を見上げる露を、秀就は静かに促した。
露が秀一に背を向け、教室から出ていこうと歩きかけた時、一度教室を後にしたはずの白玉……もとい、一ノ瀬涼が、ひょっこりとクラスに戻ってきた。
キョロキョロと周囲を確認していた視線が、秀一を見つけると、笑顔になる。
「秀一! お客さんだよ!」
だが秀一は、涼の言葉よりも先に、自分に会いに来てくれた「客」を見つけていた。
涼の後ろに、少し困ったような、少し緊張したような……そんな面持ちで、立っている。
――信乃!
「信乃ちゃん!」
まっさきにそう呼びかけたのは秀就だった。
露も飛び上がらんばかりに喜んで、信乃のそばへと駆け寄っていく。
信乃は二人の相手をしながら、時折ちらりと、秀一の方へ目を向けた。
秀一は、信乃を見た途端に肺が活動停止したのではないかと思った。慌ててこっそり深呼吸をして息を整える。
そうして、ゆっくりと信乃へ目を向ける。
ほんの少しだけ、背が伸びただろうか。ほんの少しだけ、大人びただろうか。けれど、記憶の中の信乃とほとんど変わりがない様子に、会えなかった時間があっという間に消え去っていくような気がしていた。
信乃に駆け寄り、ぎゅうっと抱きしめてしまいたくなる気持ちを、必死に押し殺す。
不思議だ。
二年前までは、信乃に対してこんな衝動を覚えたことはなかった。
あまりにも久しぶりだからなのか?
なんとかかんとか平静を取り戻し、秀一はようやく信乃へと近づいていった。
自分の目の前に立った秀一を、信乃の黒目がちな瞳が見上げる。
こうして近づくと、以前よりも大きくなった身長差を、はっきりと感じることができた。信乃の身長の伸びよりも、秀一のそれのほうが遥かに大きかったのだ。
信乃の表情が変わる。
もともとは色白の透き通るような頬に赤みがさし、切れ長な目の中にみるみる涙が溜まっていく。
その信乃の変化を、秀就が察したのだろう。
「じゃあ、失礼するよ。ああ、見送りはいらない」
と言うと、信乃の肩をポンポンと二度ほど叩いて、教室を出ていった。露も信乃と秀一に笑いかけると、すぐに秀就の後を追って行ってしまう。
泣き出してしまいそうな顔をした信乃が、独りぽつんと秀一の前に取り残されていた。
秀一は、その場にまだ残っていた涼に向かって
「涼くん! ありがとう、また後で寮の方で!」
と声を掛けると、周りの目から信乃を隠すように肩に手を回し、そのまま足早に教室を後にした。




