入学・3
気配すら残らぬ廊下をしばらく見つめ「全く、なんなんだよ……」と、独りつぶやいた。
そのまま部屋に戻ろうかと思ったが、廊下の向こうからパタパタと近づいてくる足音が聞こえて、その場にとどまる。廊下の先を眺めていると、視界に現れたのは露だった。
露はいつもの和服に割烹着姿ではなく、今日は淡いピンク色のスーツ姿で、腕時計を気にしながら、少し走るようにしてこちらへやって来る。
腕時計から顔を上げた露が、秀一の姿を見つけたらしく、ニコリと笑いかけてきた。
「秀一さん、そろそろ出発したほうがいいと思うのですけれど……準備はできていますか?」
落ち着いていて、そつなく何でもこなす印象の露だが、今日はどことなくそわそわとした様子を漂わせていた。
いつも無造作に後ろに一つに束ねている髪を、アップにしており、洋装であることと相まって、全体的いつもと違う雰囲気だ。
「そういう髪型も、似合いますね」
秀一が言うと、目に見えて露の顔は赤くなった。
「洋服なんていつも着ないので、なんだか足元がスウスウする感じなんです……変じゃありませんか?」
露は自分自身の服装を確かめるようにうつむいた。
「いいえ、とても似合ってます」
「嫌だわ……今日の主役は私じゃないんですから……からかわないで下さい」
そう言って、顔の前で手を振った。
いつも落ち着いている露の慌てた仕草が面白くて、秀一は笑った。
「少し待っていて下さい」
秀一は露を廊下に残したまま一度自室に戻ると、用意してあった九十九学園指定のスクールバックを手に取る。
詰め襟学生服を身に着け、学校指定のバックを肩から下げた自分の姿が、部屋の姿見に映っていた。秀一は数秒、鏡の中自分自身を見つめた。見慣れた自分自身のはずが、普段と違う衣装を身に着けただけで、どこか別の人のように感じる。
「……っと、時間がないんだった……」
ふいに沸き起こった微妙な違和感を隅へ追いやり、自分の格好を最後にざっと確認すると部屋を後にした。
「いつでも出発できます」
準備を整え、部屋を出てきた秀一に、露は眩しそうに目を細めた。
「なんだか、いつもの秀一さんじゃないみたい……。あ、ハンカチは持ちましたか? ええっと……あとは……」
ためらいなく近づいてきた露は、学生服のポケットをパンパンとは叩きながら確認している。
「大丈夫です」
ハンカチの心配をされるほど子どもではないつもりなのだが、露にとってはいつまでも……もしかしたらこれからもずうっと秀一は『こども』のままなのかも知れない。
仕方ない、と思いながら、秀一は露にされるままになっていた。
いつの間にか、露は秀一よりもずいぶんと小さくなってしまっていて、今ではもう見下ろせるほどだ。いや、もちろん露が小さくなったわけではなくて、秀一がそれだけ大きくなったのだ。
持ち物の確認をして、顔を上げた露の目と鼻の頭がほんのりと赤くなっている。
「今から泣いていたんじゃあ、入学式にはタオルを持っていかないといけないんじゃないですか?」
指摘されて、露は「いやだわ!」と言いながら、目頭を指先で拭った。
「父さんが待ってます。行きましょう」
秀一は露の背中を押して、歩き出した。
大神家の玄関では、スーツを着込んだ秀就が、二人がやってくるのを待っていた。
秀就のシャツは、ほとんど白と言っていい色合いなのだが、よく見るとほんのりとピンクがかっている。露のスーツと色味を揃えたのかも知れない。
「忘れ物はないか?」
秀就にも忘れ物のチェックをされて、秀一は嗤う。
必要なものはすべて宅配で学校の寮へ先についているはずだ。今日持っていくものは、学校指定のスクールバックくらいなもので、それだって、中身はほとんど空っぽなのだ。忘れ物をするほうが難しいのではないかと思うのだが、秀就や露は、それでも心配なのだろう。
「さっき、露にも確認してもらいましたよ」
そう秀一が答えると、秀就は納得したように頷きながら、玄関を出て、裏の駐車場へと向かった。
学園へ行くには、公共の交通機関ではかなり不便である。
乗り換えが多い上に、学園のある山の上まではバスが一日に数本しか走っていないのだ。今日は秀就の運転で学園に向かう予定になっている。
三人が駐車場につくと、そこには数名の大神家に仕えている者たちの姿があった。今日この家を出ていく秀一を、見送りに来てくれたのだろう。
「兄さん!」
見送りに来てくれた顔のなかには、犬神新太と史郎、それにサラという三人の姿もあった。
「新太……見送りに来てくれたんだ……」
「もっちろんだよ! 兄さんがこの家を出ていっちゃうなんて、信じられないよ!」
異父弟である新太が、秀一の前に飛び出してきた。
「俺も! 俺も高校生になったら、学校ってところに行く! ね? いいよね?」
そう言って新太が振り返った先には、新太の父の犬神史郎と、母のサラがいた。サラは秀一の産みの母でもある。
「何をしに行くところなのか、ちゃんとわかっているのか?」
「遊びに行く場所じゃないのよ」
「わかってるよ! 勉強とかっていうのをやるんだろう? ちゃんとできるよ!」
「……できるのか……?」
疑わしいとでも言った目つきで、史郎が新太を見下ろしていた。
「当然だよ! 俺だってちゃんとわかってるんだからな!」
新太はえっへんとばかりに腰に手を当てて胸を張る。
楽しげに遣り取りをする史郎たちの家族と自分の実の母である犬神サラに対して、何の感情も動かないのかといえば嘘になる。
心の何処かに、史郎とサラと新太、という三人の有り様を、羨ましく思う気持ちもある。
けれどその気持は、今となっては、ほんの小さなさざなみ程度のもので、それに飲み込まれたり、振り回されることはもうない。
だから、素直に笑うことができる。
「頑張れよ。まあ、新太が入学する前の年に僕は卒業するけどな……」
秀一が指摘してやると、案の定新太は
「え! うそ! どうして! 詐欺だ!」
と騒ぎ始めた。そんな新太の様子に、周囲の者たちの顔も笑顔になる。
「秀一さんお気をつけて」
「休みには帰ってきてくださいね」
いよいよ車に乗り込むと、見送りの者たちが口々に声をかけてきた。
「秀一! ガンバってね!」
ちょっと訛りのある日本語が聞こえた。サラだ。
「今度、信乃ちゃんにも会わせてね! それから、寮に入っても、毎日鍛錬するよ!」
「もちろんです、師匠」
不思議なもので、秀一はサラにに対して『母である』と感じたことはなかった。それよりも、武芸の腕の立つサラは、この二年間秀一の師匠であった。
「みなさん、お世話になりました」
窓を開け、そこに集まってくれた人たちに思いを込めて礼を言う。
「行ってらっしゃい」
「頑張って!」
「お気をつけて!」
車が発車して、手を降ってくれる人たちの笑顔が、遠くなっていく。
駐車場を出た車は、鳥居までの一本道を走っていく。
右手に、今まで暮らしてきた、大神の屋敷。
美しく整えられた日本庭園。
幼い日に異界渡りを体験した畑とそこに佇つ赤樫の巨木。
――さようなら。
誰にも聞かれないように、心の奥で、自分を育んでくれたすべてのものたちへの別れを告げる。
「父さん、母さん」
秀一が呼びかけると、車内に緊張感のある空気が流れた。
「あの……いま……秀一さん……」
助手席に座っていた露が、恐る恐るといったふうに後ろを振り返った。
「今、母さんって……」
「はい、母さん……」
露は、感極まってしまったようで、口を数度パクパクとしたが、言葉を発することはできないようだた。
あの内覧会の事件の後、秀就と露は婚姻を結んだ。
けれど、秀一はその後も露を母とは呼ばなかった。わだかまりがあったわけではない。父の妻になったのであって、自分との関係に変わりはないと思ったからだし、いまさら母などと呼ぶのが恥ずかしかったからでもある。
でも何故だろうか。ふいにこの人を「母」と呼びたくなったのだ。
「なんと言うか……独り立ちというわけではないのでしょうが、この家を出ることになったので一応言っておきたくて……これまで、ありがとうございました」
ぽろり。
ついに露の瞳からは涙が溢れる。
露は慌ててバックから取り出したハンカチで目頭を拭っていた。
「いつでも、帰ってきていいんだぞ」
と秀就が言う。
「今日家を出たばかりなのに……」
そう受け流しながら秀一は
(自分はもう、大神の家には戻らないかも知れない)
と、心の奥底で、そっと決意していたのだった。




