入学・1
春の遅い年だった。
天へと伸びる杉の木立の向こうには、しんと冷えた夜空がある。
静かな闇。その闇の中に、仄かな明かりがぽつんと灯っていた。
大神秀一は、畳の上で座している。
真夜中と早朝の狭間のような時間帯。道場にはまだ誰も姿を現していない。
深く息を吸い、そして吐き出していく。繰り返すごとに気が落ち着いていき、自分を取り巻く気配がはっきりと見えてくる。
静かだと思っていた道場の周辺から、小さなざわめきが、耳に届き始める。
そよと吹く風。揺らめく梢。ささやかな虫の声。そして、蠢くなにかの気配。夜に生きるものの気配。
それらにゆっくりと五感を傾けてから、秀一は一つ礼をすると立ち上がった。
ストレッチで体をほぐし、充分にほぐれたところで、ゆっくりと蹴りの練習を始める。前蹴りの下段、中段、上段。後ろ蹴りの下段、中段、上段。横蹴り、回し蹴り……。蹴りの種類だけで膨大な量がある。あまりスピードはあげず、型に忠実に繰り返していると、じんわりと汗ばんでくる。
蹴り技が一通り終われば突き技。
もうすっかり身についていて、考えることもなく体が動いていく。頭の芯が空洞になっていくようなこの時間が、秀一は好きだった。
シュ……、シュ……
足が畳の上を移動するたびに小気味良い音がした。
ダン!
踏み込んだ足の音が、誰もいない道場に響く。
と、その時、背後に気配を感じて秀一は動きを止めた。
「……翔?」
そう呼びかけてから振り返ると、そこには近頃忙しさのために会う機会の少なくなった友が、扉に背を軽く預け、腕組みをして立っていた。
翔はジャージを身に着けており、もし学校にいれば十人中十人が生徒ではなく教師と間違えるに違いない。まだ十五とは思えない貫禄を持っていた。
翔の家は、秀一の家から直線距離で200キロほども離れている。
翔ほどの高次な妖であれば、その程度の距離は大した問題ではなく、ひと飛びで超えられる距離ではある。だが通常、それをあえて行うことはない。今まで突然、なんの前触れもなく、翔が秀一の前に姿を現すことなど、一度もないことだった。
「一人で……来たのか?」
訝しみながら声をかけると、返事の代わりに飛んできたのは、鋭い蹴りだった。
手加減などない。
とっさに両手で受けたが、その重たさに、弾き飛ばされそうになる。
「何を……!」
振り上げた足の向こうで翔がにやりと哂った。
片足を上げたままだというのに、ふらつきもしない。
「……餞別」
「!」
どういう意味だと、問いただす間もなかった。
振り上げていた翔の足が下り、身体が沈んだと思うと、くるりと反転しながら後ろ回し蹴りが繰り出されてくる。
あまりの速さに動きは全く見えなかったが、とっさに体が動き、蹴りを受け止めた。
一呼吸の間もなく、翔はなめらかな動きで次の攻撃へと移っていく。
「く……っ!」
完全に出遅れた秀一は防戦一方だ。
幾度も重たい攻撃を受け止める。しかしこれでは、これでは埒が明かない。
突きや蹴りの間から見える翔の表情は至って冷静で、焦りもなければ笑みもない。徹底して無表情で、そこから翔の真意を図ることもできない。
疑問や迷いを抱えたままで、この男に勝つことなどできない。
いや、迷いなどなくても、全力だったとしても、おそらく互角かそれ以下なのだ。
そんな事を考えていたら、軽い蹴りの後に、鋭い回し蹴りが飛んできた。
頭の中が一瞬で沸騰し、何も考えられなくなるような、蹴りだった。
秀一は片手で蹴りを捌き、相手の懐に入りながら胸ぐらをつかみ、そのまま投げ技へと持ち込んだ。翔は投げ飛ばされながら、くるりと後ろに回転し、膝を立てた状態で起き上がる。
派手に飛んでいったのだが、ダメージを受けた様子はない。
秀一が腰を落とし、構える。
胆が据わった。
「いくぞ」
「応」
短いやり取りの後、動いたのは二人同時だった。
シュ、シュ……っと、畳と素足の擦れる音。ドンッ、という鈍い音。そして二人の息遣い。それらの音だけが、静かな道場に鳴り続ける。
激しく、そして静かな闘いだった。
見る者もいない、勝ち負けもない。止まってしまったかのような時間の中で、二人は黙々と拳を交えていた。
そして……。
「おはようございまーす。誰かいますかー? 鍵空いてたんだけどー!」
という、間の抜けた明るい声が聞こえてきたときには、二人は道場のど真ん中に仰向けになって、ハアハアと荒い息を吐き、起き上がることはおろか、腕一つ持ち上げられないような状態だった。




