異界・5
むわっとした暑さが戻ってくる。
ふうーっ!
秀一が大きなため息をついた。
「もとに戻ったみたいだな」
普段はあまり感情を表に露わにすることのない翔も、ほうっと大きく息をついていた。
「秀一は、異界の匂いがわかるのか?」
一段低い枝から、信乃が秀一のTシャツの裾を引っ張っていた。
「あ? ああ、わかるよ。匂いっていうのか、気配っていうのか。今のだったら、あっちから異界がやってきて、この畑全体を覆った。けど、覆われたのは地面に近いところだけで、上の方にはこっちの世界が残ってた。……信乃は、自分の力なのに、わからないのか?」
「うん」
「翔は?」
「いや。どこから異界で、どこに向かえば現実にとどまれるかなんてことは、わからないな」
翔は首をひねりながら言った。
その言葉に秀一のほうが驚く。
翔はとても強い力を持っているし、格でいえば大神家より天羽家のほうが上だと言われている。秀一としては、当然翔も自分と同じようにわかっているはずだと思っていたのだ。
「おまえ! すごいな!」
信乃が、キラキラとした瞳で秀一を見上げていた。
今まで無表情だった信乃にほめられて、悪い気はしない。
「おまえ」呼ばわりされたことには多少引っかかりを持ったが、まあ、子どもだから仕方がないか、と考えた。秀一自身はさんざん翔や信乃をおまえと呼んでいるうえに、秀一のほうが信乃よりもひとつ年下になるわけなのだが、都合の悪いことはストンと脳みそから抜けることになっている。
「なんだよ、信乃は異界を呼び寄せられるくせに、そんなこともわからねえんだ」
と調子に乗ると、信乃は途端にうつむいて
「そうなんだ」
と、唇を噛んだ。
「さっきも言っただろ?……僕はデキソコナイなんだ。過去の先祖返りの能力者は、異界を自由に呼び寄せたり、そこから怪物を呼び出して使役することが出来たものもいるそうだけど、僕の場合、まったくコントロールができてない。だから、いつ異界が近付いてこの世界とつながるかもわからないし……お父さんが言うには月の満ち欠けと僕の《《せいしんじょうたい》》が影響してるんじゃないかって言うけど。そう言われても、どうしたらいいかなんて、わからないし。だから……皆僕のことを怖がってるんだ」
話しているうちにも、また信乃の瞳が、ガラス玉のように感情を現さなくなっていく。
それが、秀一の心を波立たせた。
「へん、皆弱虫だな。異界なんて、ちっとも怖くねえよ」
思わず強い口調で言ったのは、信乃を喜ばせたかったからかも知れないし、心の奥底で、怖いと思う気持ちがほんの少し隠れていたからかも知れない。
「怖くない? 本当に?…… だって、もしかしたら僕と一緒に異界に渡って、帰ってこれなくなるかもしれないんだよ!」
うつむいていた信乃がきっと顔を上げる。
「《《こわくねえ》》! って、言ってんだろう!」
秀一は秀一で、意地がある。怖いなんて口が裂けても言えない。
「俺はなあ。妖かしの中でも神使である狼族を取りまとめる大神一族の長の子だぞ! 異界ごとき、怖がったりするかってんだ!」
ぐるるるる、と、秀一の喉が鳴った。
普通のものはこれをやると怖がるのだが、信乃は少し目を大きく見開いただけだった。
「おまえだって、怖くなんかねえだろ? なあ?」
秀一は一段高い枝に座っている翔を見上げる。
翔は一度瞬きをすると、軽く首を縦に振る。
「ほら見ろ。おまえのまわりのヤツは、みんな弱っちーんだよ。俺は匂いで異界とこの世界の区別がつく。翔だって、雷鬼を呼び出せる。異界なんか、全然怖くねえ。もし異界に渡ったって、そっちの世界で一番になってやるよ」
秀一がそう言い切ると、信乃の目が今までで一番大きくなった。
「凄いね。今までそんなやついなかったよ。異界で一番? 僕もそんなこと考えたことなかった。あのさ、父さんがつれてきた女の子なんか、ほんのちょっと……異界がうっすら見えただけで大泣きしたんだよ。だから女の子なんて面倒くさいんだ。それに……僕だって、ちょっとはこわいのに……」
秀一は胸を張ると、エヘンとばかりに鼻の下をこすった。
「なんだ、おまえも怖いのか? じゃあ、また異界が出てきたら、俺が助けてやるよ!」
「ほんとうか?」
「なんだよ、ウタガウのか? 本当だぞ」
秀一はすっかりもとに戻った大地の上にぴょんと飛び降りた。
翔もその後に続いて、木から飛び降りる。
「じゃあ、秀一は僕の守護者になってくれるのか?」
「守護者?」
「うんそうだ。先祖返りの能力者は、力を利用しようとする悪いやつに狙われる時があるんだって。だから、守護者が必要なんだって。父さんから聞いたんだ。もし、秀一が守護者になってくれるなら、僕の一番の守護者になって欲しい」
まだ枝の上に座ったままの信乃が秀一と翔を見下ろしていた。
「ふーん」
秀一は実際のところ、一番の守護者がどういったもので、どれほど深い結び付きを先祖返りの能力者とのあいだに結ぶのかということも、まったくわかっていなかった。だが、本来彼の持っているガキ大将気質が、信乃の言葉にいたく刺激されたのだ。
「一番の守護者ってのは、一番偉い守護者なのか?」
そこが肝心なのである。
「もちろんだ。守護者の中のリーダーだからな……まだ僕には一人も守護者はいないけど……」
「よしわかった! 俺が信乃の一番の守護者だな!」
信乃の喉がコクリとなった。
「翔は? 君も僕を助けてくれる?」
信乃の視線が翔に移る。
翔はしばらくじっと信乃を見つめると、静かに首を縦に振った。その瞳がわずかに黄緑色の光を帯びていた。
「信乃は、きっとその力をコントロールできるようになる……」
予感の力を持つ天羽の一族である翔が、静かに言った。
「飛び降りろよ、信乃!」
秀一が大きく腕を広げる。
「うん!」
信乃は大きくうなずくと、勢いよくその腕の中に飛び降りる。
それが、秀一と信乃の、長い長い主従の約束の始まりとなるのだが、まだこの時は、誰もその事に気づいてはいないのだった。
「しゅういち!」
「かけるー!」
「しのー!」
その時、三人を呼ぶ緊迫した声が聞こえ、振り返ると三人の父親たちが、家の方からこちらへとやってくるところだった。