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蝕・イクリプス  作者: 観月
Reunion
47/59

憧れの君・1

 例年より気温が低く、いつまで経っても春らしい陽気にならない。

 そんな年だった。

 今日の天気予報は最高気温十三度。

 ただ、それは下界での話で、山の上に立つ九十九学園周辺だと、そこから大抵マイナス二、三度と思っていて、間違いはない。

 講堂の、開け放たれたドアからそよぐ風は冷たかったが、それでもどこか、春めいた匂いがした。


「もう少し、桜の花が頑張ってくれればなあ」


 誰かの声が聞こえた。

 一ノ瀬涼は、その声につられて、ドアの外の桜の木に目を向ける。

 今年は、いつまでも冬が居座っていたから、まだ花は咲いていない。

 下界では桜が咲き始めたなんてニュースでやっていたけれど、ここは山の上にある学園で、周辺の開花時期よりも必ず数日は遅れる。今にも咲き出しそうに枝先の蕾は赤く膨らんでいたが、明日の入学式には間に合わないだろう。

 

「信乃! ちょっと配置を見てくれない?」


 大きな声が聞こえて、涼ははっと我に返った。

 今は明日の入学式へ向けての準備作業中なのだ。ぼやっとしているヒマはない。

 ステージの上には「平成二十四年度 私立九十九学園高等科入学式」の看板がワイヤーで吊るされている。その下には演台やら来賓用の椅子が並べられていた。

 ステージの上に立って下を見下ろしているのは、生徒会長の六角凜(ろっかく りん)だ。白い面に落ちかかるサラサラとした黒髪を耳にかけながら「看板の位置、曲がってない?」と、ステージ下にいる生徒会書記の安倍信乃に向かって問いかけている。

 会場に緑色のシートを敷くという作業をしていた安倍信乃は、凜の声に手を止めて、ステージ上を見やった。


「問題ないと思いますが」


 信乃の声に凜はにっこりとうなずく。

 凜が微笑んだ途端、涼には彼女の背後に大輪の牡丹の花が咲き乱れるのを見たような気がした。凜は、純和風な顔立ちで、西洋的な派手さはないが、どこか見たものを魅了する魅力を持っているのだ。

 一方、返事をした方の安倍信乃はといえば、まったくもって無表情である。


「誰か! カラーテープ持ってる? 一応バミっとこうか?」


 凜の声に、ステージ袖から一名の生徒が何本かのカラーテープを持って走り寄っていった。

 作業を中断していた信乃は、また緑のシートを床の上に広げる作業へと戻っていく。

 涼もまた、そんな信乃を横目で眺めながら、くるくると巻かれた緑のシートを広げる作業を開始した。

 明日。四月九日月曜日は、私立九十九学園の入学式で、初等科、中等科、高等科と、順番に一日のうちにすべての式が行われることになっていた。

 教師陣は、初等科や中等科の会場設営を担当し、高等科入学式の会場設営は、生徒会役員を中心に生徒の手によって行われる事に決まっていた。

 春休みということもあり、生徒たちは私服で作業にあたっていた。

 床を保護するためのシートを敷き終えると、今度は椅子を並べる作業へと移っていく。

 パイプ椅子はステージ下に格納されていて、それが引き出されると、今まであちこちに分かれて作業をしていた生徒たちが、一斉に群がった。

 涼が椅子を受け取るための列に並んでいると、ぽん、と背を叩かれた。振り返ると、安倍信乃がちょこんと首を傾げてこちらを見上げている。

 涼は身長158センチである。高一男子のなかではおそらく一番背が低いのだが、安倍信乃は涼よりももっと背が低い。

 背は低いが、短髪でボーイッシュな彼女は、今日のようにパーカーにジーンズなんて格好をしていると、少年と間違われることもしばしばだ。


「涼くん。生徒会役員でもないのに、手伝いに来てくれてたんだな。ありがとう」

「いえ、いいんです」


 涼はピシッと背筋を伸ばした。

 実はこの小柄な先輩に、涼は憧れている。尊敬6に憧れ3。そしてほんの少し交じるのは、春先のピンク色にも似たふわふわと甘い感情だ。

 岩手の山奥に住んでいた彼がこの学園に入学し、ホームシックになっていたときに、優しく声をかけてくれたのが安倍信乃だった。

 いじめなんていうほどの陰湿なものはなかったけれど、田舎から出てきた彼は「お前、しゃべり方変だよね」なんて言われるだけで傷ついていたのだ。言葉を投げかけたものは、涼が傷ついているということにすら気づいていなかっただろうけれど、必死で訛りが出ないように気をつけていた彼にとってはショックな言葉だった。


『しゃべり方に、変だなんてことはないと思うぞ。私は涼くんの話し方は、温かみがあって素敵だと思うのだが?』


 と信乃が言ってくれたのは、涼が傷ついていることに気がついたからだと思う。なんてことのない一言だけれど、声をかけてくれた事自体が、涼にとってはありがたかった。

 その後、涼は訛りを気にしなくなった。

 ただ、涼が方言全開で話し始めたところ、周囲の者が彼の言葉を理解できなくなってしまった。

 例えば、皆で裏山に散歩に行った時のこと。『あ!げぁらごだ!』と、おたまじゃくしを見つけて沼の中を指さしたが、誰もわかってくれない。『げ……?』と言ったきり、友達は困ったような表情を浮かべていた。『げぁらごだよ。めげなぁ。びっきのわらすだぁ』と説明したのだが、誰一人として涼の言葉を理解したものがいなかったのである。

 意味が通じないのではしょうがないので、以後言葉には気をつけている。ただ、イントネーションばかりはどうにもならなかったし、信乃に暖かみがあると言ってもらえたので、あまり気にしないことにしたのだった。

 安倍信乃という先輩は、小柄だし、饒舌なわけでも自ら人の前に出ていくタイプでもないのに、存在感があり周囲から一目置かれる、そんな人だった。

 そのあこがれの先輩が涼の前でくすりと笑った。

 その途端、涼の心臓はドキドキを通り越して、バクバクと音を立て始める。

 何しろ信乃の笑顔など、レア中のレアなのである。


 ――今日、手伝いをしてよかった!!!


 神様など信じていないにもかかわらず、思わず手を組んで『神様ありがとう!』と叫びたくなってしまったほど、涼のテンションは上がりまくった。


「けど君、そういえばまだ高校生じゃないんじゃないか……自分自身の入学式の準備なのに……?」


 そうなのだ。明日は涼の入学式でもある。ただ、春休み中に内部からエスカレーター式で進学するものは、高等科の寮に引っ越しも済ませてあり、そこではすでに先輩たちとともに過ごしている。


「いえいえ!! どうせ俺、なんにもすること、ねかったから! お役に立てたならいいんですけど……」


 ぴしっと直立不動で答える涼に「助かるよ」と言うと、信乃はパイプ椅子を手に涼のそばを離れていった。

 それから涼は黙々と作業をしながら、憧れの信乃や、美しい凜の様子を眺めて、なかなかに幸せな時間を過ごすことができた。

 涼は、安倍信乃程ではないが、和風美人の凜にも憧れている。ちびでぽちゃっといている自分の容姿にコンプレックスを持っているので、美しい人を見ることが好きなのだった。恋だの告白だの、彼氏になりたいとか、そんなことは微塵も思っていない。こうやって、声をかけてもらえるだけで、いや、眺めているだけでも幸せなのだ。

 作業を終え、生徒会長である凜の最終チェックの後、手伝いに出た者たちは生徒会からペットボトルのお茶をもらって解散になった。

 ほんわかと幸せ気分に浸りながら講堂を出ていこうとした涼は、受付の長テーブルの前に佇む信乃を見かけた。

 最後にあいさつをしていこうかな?

 そう思って、信乃の方へ一歩足を踏み出した時、目に入った彼女の横顔に、思わず足が止まった。

 信乃はテーブルの上に用意された、父兄に配るための資料を一部手に取り、眺めていた。

 手元の資料はどうやら新入生の名簿のページが開かれているようで、その上を信乃の人差し指がなぞっている。

 その横顔が今にも泣き出しそうだったから、涼はどうしても声をかけることが出来なくて、信乃に背を向けると、ただ無言でその場を離れたのだった。


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