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蝕・イクリプス  作者: 観月
Deadlock
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暁闇・5

 溢れ出そうになる感情になんとか蓋をして、露は道場を後にした。

 安倍信乃は東京都区内にある、とあるクリニックに入院している。

 日帰りで見舞いに行こうとすれば、一日がかりだ。グズグズしているヒマはない。

 大神家は、かろうじて関東地方と呼ばれる場所にあるのだが、都会とはかけ離れた場所で、最寄りの駅まで車で二十分ほどもかかる。

 露は駅まで家のものに送ってもらい、そこでいくつか買い物を済ませてから電車を乗り継ぎ、人工物であふれかえる東京都区内へと向かった。


 信乃の入院している岩倉クリニックは、病床が百以下の個人病院である。

 このクリニックの院長は妖の存在を知る数少ない人間であり、九十九学園建設の協力者でもある。

 本来妖は、小さな傷であれば、人間よりも高い治癒力によって、あっという間に再生することができる。厄介なのは、妖気をまとった傷であり、なかなか治療は難しい。そういった行き場のない妖を引き受けてくれる場所というのは、とてもありがたい存在だった。


 あの日以来……信乃は今日まで、全く目を覚まさなかった。

 外傷はすぐに治っていた。首にあった擦り傷も、胸にあった切り傷も、あっという間に治ったそうだ。

 それでも、信乃はこんこんと眠り続けていたのだ。周囲の者も、心配し始めていたところだ。

 季節は移ろい、吹く風も冷たさを増していく。

 クリニックの最寄り駅に降り立った露の長い髪を、吹く抜ける風が逆立てていった。

 都会に沈殿する淀んだ暖かさが、少しでも清浄してくれるような気がして、露はその冷たさを心地よいと感じていた。

 流れのままに改札をくぐるのが嫌で、ゆっくりと足を動かす。

 電車から降りた人々は、大きな塊となってあっという間に駅という場所を後にしていく。

 群れだ。

 人というのは、群れで行動する生き物なのだな。

 と、感じた。

 駅前のロータリーに立ち、周囲を見回す。ビルの合間には。もうすでに「岩倉クリニック」という白地に青の文字の看板が顔を出していて、露は迷うことなく信乃の病室の前にたどり着いた。

 自分が信乃に伝えなければならないことを考えると、気が重くなり、クリーム色の引き戸の前で大きく深呼吸をしてから扉を開けた。


「露さん」


 衰弱しているのではないかと心配していた信乃は、身を起こし笑顔で露を迎えてくれた。


「もう、起きていて大丈夫なの?」


 飲まず食わずだったからだろうか、ほんの少しだけ頬がコケたような気がして、露は思わず信乃の身体を支えるように手を伸ばす。

 信乃は手で露の動きを制すると「大丈夫です」と言って笑顔を見せた。

 ここに来るまで、不安があったのだが、信乃の笑顔を見た途端にほうっと肩の力が抜けた。


「よかったわ。本当に良かった……ああ、たくさんお見舞いの品を預かってきているの!」


 露は持ってきた折りたたみ式のボストンバックの中身を信乃のベットの脇の棚の上に並べていった。


「えっと、これは秀就様から」


 やはり家長からのお見舞いの品は最初に渡さなければと、秀就に言付かっていた小さな包を渡す。秀就からと言いながら、これを見立てたのは露だ。今流行りのハーバリウムとかいう観賞用の瓶詰めにされた植物標本のようなものだ。水を変える必要もないし、病院に飾るのにいいだろうと考えた。


「これはお手伝いの梨花さんから、信乃さんが好きだった手作りのお菓子ですって」


 信乃は何度も大神の家に遊びに来ているから、使用人や警備の人間とも顔見知りになっている。特にお手伝いの梨花は年が近いこともあって、仲良くしていたようだった。

 お互い一人っ子であり、姉と妹(半分弟)のようなつもりだったのかもしれない。


「これは、警備員の方たちからで……それからこれは、私から」


 たくさんあったお見舞いの品がバックの中からなくなっていく。

 このバックの中に、おそらく信乃が一番欲しいであろうものは、入っていないのだ。


 ――誰からのお見舞いの品よりも、彼からの一言が、彼女には一番の励ましになるのだろうに。


 ついに空になったバックをしまい、露はベットの脇に腰掛けた。

 信乃がベットの隣りにある小さな冷蔵庫から出してくれた清涼飲料水を、一口飲み下す。

 さっきまでガサゴソと包みを開ける音や、お互いの声が絶え間なく聞こえていた病室に不意に訪れた静寂。

 言わなければならない。

 

「信乃さん……」


 露は信乃を見ることが出来なくて、うつむき、膝の上で握りしめたハンカチを見つめていた。


「秀一様なんですが、今修行で山にこもっていらっしゃって……私も会っていないんです……本当なら、彼からのお見舞いもお持ちしたかったんですけれど……それから……」


 本当なら、信乃が待っているのは、お見舞いの品などではなく、彼自身の姿だろう。

 そう思うと言葉が出てこなくなる。

 沈黙を埋めるように、風の唸りが聞こえた。

 信乃は窓の方向へ顔を向け、風を受けてざわざわと揺れる並木を見ているようだった。


「露さん」

「……はい」

「父からも、それから翔からも聞いてます。彼のこと」


 振り返った信乃は微笑を浮かべていた。頬がこけ、鋭い印象だった顔がふわりと柔らかくなる。


「翔は、ちょうど僕が目を覚ました時にこの病室にいてくれました。彼の持つ予感が働いたのでしょう。僕が目を覚ます少し前に、ふらりと病院に現れたそうです。それで、翔も秀一も九十九学園には入学できないけれど、私にはきっと入学するようにと……そう言ってました」

「翔さんも?」


 初耳の情報に、露の声が大きくなる。


「はい。天羽はもともと人里に降り、多数の中で暮らすことが苦手な種族です。内覧会に来てみて、やはり自分には学校というのは合わないみたいだと言ってました」

「そう、でも信乃ちゃんには入学しろって?」

「はい。おそらく秀一が側にいられるようになるまでは、あそこが一番安全だろうからと……」

「まあ……」

「それから、秀一のこともちゃんと聞きました」

「翔さん……なんて?」


 信乃は何かを思い出したのだろう。笑いを堪えるように、そっと

手の甲を口元に当てた。


「そのままです。秀一が、しばらく僕には会わないと言っているって。それで、そう言ってから翔が言ったんです。あいつがお前に会わないのは、怖いからとか、面倒くさいからとかじゃないぞ……って」


 そしてやはり、堪えきれないようにくすりと笑う。

 信乃の笑顔が眩しくて、露は目を細めた。


「信乃さん」


 背中を伸ばし、露は居住まいを正した。


「二年。秀就は秀一に猶予を二年与えました。どうか、二年彼に時間をください。彼を待っていてやって下さい」


 そう言って、頭を下げる。


「はい。承知いたしました」


 そう言った信乃は、窓から差し込む薄っすらと仄暗い光の中にいた。


『僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!』


 露の脳裏に、初めて大神の家に泊まった時の、幼い信乃の泣き顔が思い浮かぶ。

 あの女の子が、今は笑顔で彼の帰りを待つと言う。

 なんて――なんてしなやかに、しっかりとした大人へと育っていくのだろう。

 秀一も、信乃も、そして翔も、三人が子ども時代の最後の縁に立って、今そこから飛び出して行こうとしているのだった。


 

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