暁闇・4
「ツユ!」
どこか普通とは少し違うイントネーションで名を呼ばれ、ツユが振り返ると、金髪碧眼の女性が袴姿で立っていた。
「サラ……さま」
露は思わず一歩後ろに下がる。
「ツユ……ワタシ、もう、あなたの主じゃない。様、いりません」
決してうまくはないが、聞き取りやすい日本語だった。
犬神サラ。
秀一と新太の母だ。
露は日本に来てすぐの、右も左も分からなかったサラの世話をしていた事がある。記憶の中のたどたどしい日本語から比べれば、ずいぶんと上達した。あの頃は、サラの気持ちを汲み取るのに、かなりの努力が必要だった。
史郎とサラと新太。この三人を受け入れることに、大神の一族全員が諸手を挙げて賛成だったわけではない。
まだ乳飲み子だった秀一を置いて家を出たサラと、彼女と共に姿を消した犬神史郎に対して、大神一族の者は一言では言い表せないような感情を持っている。
そのうえ彼らは、九十九学園と敵対する組織にこれまで席を置いていたのだ。
気持ちよく迎え入れろという方が難しい。
しかし秀就は『今回の事件に於いて、史郎たち一家が秀一を危機から救ってくれた』ことを皆に説明し、一族を納得させた。
一族だけではない。学園設立派のそれぞれの妖たちにも、理解をしてもらうために、彼は短期間に日本全国を奔走した。
その結果大神家預かりとなった彼らは、それ依頼大神の結界の中の一軒家を与えられ、道場で毎日稽古をしている。彼らは三人とも武道に秀でており、彼らに稽古をつけて貰いたがるものもポロポロと出て来ていた。
大神家本家の屋敷で忙しく働くツユは、道場に赴くことはあまりないので、サラと二人で顔を合わせるのはあの事件以来だった。
「ツユ。会いたかった……。元気だった?」
「……はい。もっと早くに会いに来たかったのですが……忙しくて……」
そんな言い訳をする自分を、露は苦々しく感じていた。
忙しいのは間違いない。けれども、サラに一度も会いに来ることができないほどではないのだ。
秀一の母であり、秀就の妻であったサラへのわだかまり。
もやもやと心の奥でざわめくこの気持ちを持て余し、どうしたら良いのかわからなかったのだ。
秀就も秀一も、サラが共に暮らすようになったというのに、何も変わったことなどないように見えた。露は秀一のあまりの変化の無さに驚いた。
過去にこだわっているのは、自分ばかり……。そんな思いに囚われる。
「ねえサラ! 露さんに聞かないの?」
新太が露の背後から半身を乗り出して、サラの顔を覗き込んでいた。この少年は、自分の母親のことを「サラ」と名前で呼ぶらしい。
目をキラキラと輝かせた新太の表情を見たサラは、露の背後から顔を突き出す新太を睨みつけ、ちっと小さく舌打ちをした。
「何でしょうか?……サラ」
露が敬称をつけずに名を呼ぶと、サラはぱっと顔を輝かせた。
裏のない笑顔が眩しくて、露はそっとサラから視線を外す。
使用人として感情は抑えているが、サラに言いたいことや問いただしたいこと、は心の底にたくさんあったはずなのだ。
なぜ史郎と駆け落ちをしたのか。愛し合ってしまったからだとしても、なぜ乳飲み子の秀一を置いていったのか。あまりにも無責任ではないのか?
そして何故、学園建設反対派と行動をともにしていのか。
もちろん、大神の追手から身を隠そうとしたら、身を寄せることのできる場所は限られてくる。選択の余地がなかったのかもしれない。でも……それでも『なぜ』と問い詰めたくなる自分がいる。
慣れない日本で、すべての狼の一族の追手から身を隠し、子どもを産み育てたサラ。
何の苦労もしなかったわけはないのだろう。
それどころか、辛いことがたくさんあったに違いない。
頭ではわかっているのに。
なのに、露を見つめるサラの笑顔には、屈託がない。
『ツユ、ありがとう! 大好き』
そう言ってニコニコと笑っていた、まだ幼さの残るかつてのサラが、今のサラに重なった。
『日本、大好き。来てみたか、たの!』
そんな好奇心だけで、異国の地に飛び込んでこれる若さを、あの頃のサラは持っていた。
たしかに、あの頃よりずいぶんと大人な顔つきになったが、露に向ける笑顔は、かつてのサラと変わらない。
「ねえねえ、どうして露さんは、秀一のお父さんと結婚してないの?」
過去の思いに囚われていたからか、露はしばらく新太の言った言葉の意味を理解することができなかった。
「新太! ナァニイテルノ!」
露よりも先にサラが反応した。
よほどあわてたのか、何言ってるの、のイントネーションがかなりおかしなことになっている。
新太に掴みかかろうとして、サラが身を乗り出すと、新太が露の周りをぐるりと廻るようにサラの手から逃れる。
「え?……え?」
露は混乱の中にいた。
「だって! サラいっつも言ってたじゃないか! サラがいなくなったから、秀就と露は結婚できるって!」
新太はサラの平手を躱すように走り回った。
露の頭の中が、真っ白になる。
サラはといえば、白い肌を真っ赤にして、目がキョロキョロと泳がせていた。
「ち……ちがうよ、ツユ……えっと……あ~。私ほら、こんな山の中で暮らすのは嫌だったっていうか……えっと……」
しどろもどろに言い訳をするサラの声が聞こえる。
「サラ……まさか……」
すうっと血の気が引いていいく。
異国の地からやって来て秀就の妻となった女の子は、天真爛漫という言葉がピッタリと当てはまるような綺麗な女の子だった。露を気に入り頼りにしてくれたのが、嬉しくもあったが辛くもあった。
……だって、露は秀就のことを好きだったから。
その辛さを、サラが気づいていたら?
かあっと、頬が熱くなる。
秀就との間に秀一という子をもうけながら、まだ乳離もしてない赤子を置いて、姿を消した。
何故?
何度露は心の中でサラに問いかけ続けたことだろう。
問いかけただけじゃない。何度罵ったことだろう。
そして、私がサラの代わりに……。
押し殺していた自分の浅ましさを、サラが知っていたのなら……。
頭の中で答えの出ない後悔がぐるぐると回り始めたときだった。
「言っておくけど!」
サラのきっぱりとした声が聞こえた。
「私、秀就を愛せなかった。だって秀就、一族のため、こればっかり! これはホント。秀一は……もっと私、自分で面倒見たかった。なのに、秀一は一族の子ども。私が面倒を見れる時間、ほんの少しだけ。私なんて、いなくてもいいと思った。だから、逃げたかった。史郎が私を連れ出してくれた。だから私が家を出たのは自分のため!」
かなりたどたどしい日本語ではあったが、露にサラの云いたいことは伝わってきた。
「ワガママだって、言われても仕方ない。秀一に、母親だと思われないのも、仕方ない。だって、全部本当。だから、秀一のお母さん、は、ツユだよ。あなたが、秀一を育ててくれた。でしょう?」
確かに露は母親の代わりのように、秀一を育てた。彼をとても愛している。
けれど……そもそも秀一からサラを奪ってしまったのは、自分自身の劣情だったのではないか?
「あとさあ、秀一から伝言を預かってるんだけど」
押し黙ってしまった露に新太が再び声をかけた。
「俺はもうはもう、大人です。だって」
新太の声に露は首をかしげる。
新太も、梅雨の前でこてんと首を傾げている。
「ああ、私も聞いた。自分はもう力もコントロールできるし、大人だって。だからもう、自分のことは気にしないで欲しいって」
「そんな……秀一さんはまだ、十三なんです……」
露の声が、朝の道場の活気の中に力なく消えていく。
秀一が大人になっていく。
本当なら喜ばしいことなのに、途方に暮れ涙がにじみそうになるのを、頬の内側を噛み締めて、露は堪えていた。




