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蝕・イクリプス  作者: 観月
Deadlock
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暁闇・2

「はい、大神です。あ、安倍様……はい……ええ、そうですか……はい」


 露がいる時間は、大神家にかかってきた電話は、彼女がまず受けることになっている。露がこの家のスケジュールをすべて把握しているからだ。この家の主である秀就が直接電話を取ることはまずない。


「本当ですか! よかった……」


 泰造からの電話は、信乃が無事に眠りから覚めたことを大神家に伝えてくれるものだった。

 なんとなく察したのだろう、大量の卵を割りほぐしていた梨花の手が止まり、振り返って露を見ている。

 ぽちっとボタンを押して通話を切ると、梨花が「安倍様からですか?」と、すかさず聞いてきた。


「信乃ちゃん、目が覚めたそうよ。梨花さん、一人でも大丈夫かしら? 直接秀就様に、お伝えしてきたくて……」

「ええ、大丈夫ですよ! もう慣れましたし、多少いつもより味が落ちるのは皆さんに我慢してもらうってことで!」


 肩をすくめながらちろっと舌を出した梨花に、露はありがとうの気持ちを込めて軽く手を合わせてみせた。


 梨花の言葉に甘えて、キッチンを後にする。

 長い廊下の窓から見える和風庭園はまだ暗かったけれど、空の色が幾分青みがかって見えていた。

 露が部屋に訪れた時、秀就はデスクに向かって何やら書物をしているところだった。


「どうした? なにかあったのか?」


 こんな早朝に露が秀就の部屋を訪れることは珍しいことである。不測の事態が起きたのではと、秀就の腰が僅かに浮いた。


「いえ……、あの緊急事態ではないのですけど、少しでも早くお伝えしたくて……お部屋にいてくださって、助かりました」


 露が慌てて伝えると秀就は「そうか」と、ホッとした様子でもう一度座っていた回転椅子に深く腰を下ろした。


「今しがた、安倍様からお電話がありました。信乃ちゃんの意識が戻ったそうです」

「そうか……それは良かった」


 秀就の表情が和らぐ。

 一族の長である秀就は、滅多なことでその表情を崩すことはない。特に一族の者の前では、微笑を浮かべることすら稀である。

 だから今の表情は、おそらく秀就本人ですら気がついていないような柔らかな顔で、本当にたまにだけれども、露にだけ見せてくれるものだった。

 秀就につられて、自分自身の表情も崩れそうになるのを、露はとっさに引き締める。


「お見舞いは如何なさいますか?」


 努めて事務的な声を出す。

 秀就は窓の外に目をやり、少しの間考えてていた。


「そうだな……。露が行ってやってくれないか? 信乃ちゃんも、私が行くよりそのほうが嬉しいだろうし」

「秀一さんのことも、私から話してしまってよろしいのでしょうか?」


 秀就はわずかに眉尻を下げた。

 これは困った表情。

 もしかしたら、露以外の者には、この表情の微妙な変化を読み解くことは難しいかもしれない。


「お願いしてもいいかな……。泰造には一応伝えてあるんだ」


「わかりました」


 そう答えながら、露はそっとため息をつく。



 廃墟から帰ってきた秀一は、暫くの間片時も離れずに信乃に付き添っていた。

これでは秀一も倒れてしまうのではないかと、皆が心配し始めた頃、秀一は大神の家に戻ってきて、言ったのだ。


『父さん。露。俺は来年、九十九学園には入学しません。もっと力をつけたいんです。そして、信乃を守れるくらい強くなって、それから入学したいんです。それまでは、信乃にも会わないって、決めました。どうか、力を貸してください。お願いします』


 そうして、深々と頭を下げたのだ。

 秀就は九十九学園の理事である。

 他ならぬ理事の息子が学園に入学しないというのは、秀就にとっても苦しいところだ。なにしろ「なるべく学園に入学するように」と、皆に宣伝している立場なのだ。

 けれども、あれほど反発していた父に頭まで下げて「強くなるために稽古をつけて欲しい」と頼み込む秀一に、秀就はしばし考えあぐねた後で、言った。


「二年だ。二年猶予をやる。高校からは九十九学園に入学すること」


 言い渡された言葉に、秀一はもう一度深々と頭を下げた。

 あの廃墟の中で何があったのかはわからない。けれども、よほど考えることがあったのだろう。

 秀一が成長しようとしている。それはわかってやりたい。しかし。


「信乃ちゃんに、なんて言ったらいいのかしら……」


 思わず呟いた。

 返事を期待していたわけではなかったのだが、秀就は露を振り返ると「これは、先代に聞いた話なんだが……」と、語りだした。


「女というのは、生まれたときから女なのだが、男というのは、男になるのだそうだ」


 露は、今ひとつ秀就の言葉を理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをした。


「秀一は今、子どもから大人の男になろうと、蛹の中で必死にもがいているところなんだろう。はたから見ると、それに何の意味があるのかわからないだろうが……。彼の中では意味のあることで、大きな変化が起きてるわけだ」

「はあ……」

「鷹揚に構えていればいいのさ。私にも、覚えがある。だから待っていてくれと、伝えてくれないか。信乃ちゃんのフォローを任せてしまってすまない」

「もちろんです」


 露は主に向かって一礼した。


「早いほうがいいでしょう。私は今日にも安倍様のお宅へ行ってまいります。あと、出かける前に、秀一様にも、信乃ちゃんが意識を取り戻したことをお知らせしてまいりますね」

「頼んだ」


 露は、秀就の部屋を辞すると、身につけていた割烹着を脱ぐ。

 木目の美しい廊下には、東雲色の光がすうっと差し込んでいた。

 群青の底から、夜が明けようとしていた。

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