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蝕・イクリプス  作者: 観月
Deadlock
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暁闇・1

 空には、月もなければ、太陽もない。

 新月の後、ようよう太り始めた月は、夜の浅い内に没してしまう。まだ太陽の光線の届かぬ暁は、暗かった。

 露はそっと寝床から抜け出す。

 ひんやりとした室内で木綿の着物を身につけ、長い髪を後ろで一つにまとめ、姿見の中で背筋を伸ばす自分に、少し笑顔を作ってみせる。

 かつて大神の屋敷で働く女性たちには和服着用の義務があったのだが、今現在は、来客がない時の服装は自由となっていた。それでも露は毎日和服を着ている。もう習慣のようなもので、それを面倒と思ったことはない。

 まだ暗い中、大神家はすでに動き始めていた。

 部屋を出て、朝の掃除をしている者たちにあいさつをしながら、露はキッチンへと向う。


「おはよう」


 キッチンの扉を開けると、一人の女中が大鍋で出汁をとっているところだった。

 大神の家でには秀就と秀一以外にも常時二十名ほどの使用人や警備員が詰めている。食事は彼らの分も用意しなければならないし、朝のうちにある程度は昼と夜の仕込みも終わらせておくことになっているので、毎朝の食事当番は二人一組で受け持つことになっていた。

 妖の一族ではあるが、大神家では秀就が九十九学園の理事に就任したことを機に、十数年前から人間の活動時間と合わせた生活をしている。

 いや、下手な人間よりも、健全な時間帯で過ごしているかも知れない。


「露さん、おはようございます」


 笑顔で振り返った女中は、薄手のセーターとタイトなスカートに白いエプロンという姿だ。


「梨花ちゃん。今日はよろしくね。遅くなってごめんなさい」


 そう言いながら、壁にかけてあった自分用の割烹着に袖を通した。


「何言ってるんですか、私たちはローテーションですけど、露さん毎日なんですから、少しくらいゆっくりしてください」


 梨花はよいしょ! と掛け声をかけると大きな鍋を持ち上げ、出来上がった出汁を濾す。

 大神家で働く女中の中では、梨花は一番若い娘であった。化粧も派手だし、髪の毛もずいぶんと明るく染めているのだが、心根が優しく細やかな心遣いのできる娘だ。梨花と組んでの仕事は露にとって苦になるものではなく、むしろ楽しい作業である。


「それに最近は、奥の仕事だけじゃなくて、外との連絡を取ったり、色々忙しいじゃないですか……。ちゃんと、休めてますか? 実際露さんがいないと、この家回らなくなっちゃいますよ!」


 梨花の過大評価に露は笑って「大丈夫よ」と答えたものの、実は連日三時間ほどしか寝ていない。人間ほど規則正しい生活が必要というわけではないが、それでもある程度の休息を体が欲っしているような気がしている。いつもは目覚ましなどなくとも、誰よりも早く目覚めるのに、今日出遅れてしまったのは、疲れが溜まっているせいかもしれない。


「安倍さんのところの信乃ちゃんは……まだ?」


 少し落とした声で、梨花が聞いてきた。

 冷蔵庫から今日使う食材を取り出していた露の手が止まる。



 あの九十九学園の内覧会の日から二週間以上が経とうとしていた。

 あの日。

 学園にかけこんできた犬神サラの案内で、学園の理事たちが廃墟にたどり着いた時、安倍信乃は三匹の狼とともに、建物の外に出てきたところだった。


 ――無事だった!


 駆けつけた者の間に安堵が広がった。

 三匹の狼は灰と金と白……それぞれに違う毛色で、信乃はその内、大きくて真っ白な狼の背にしがみついていた。

 以前秀一が獣化した時、真っ白な美しい狼だったから、この白い毛並みの狼が秀一なのだろう。

 ……なんて立派で美しい雄の狼になったのだろうと、あの時、露の胸の中が驚きと喜びで一杯になったのを覚えている。

 秀一の成長に目を奪われて気づくのが遅くなったが、信乃にも、大きな異変が起きていた。

 

「信乃!」

「無事だったか……」


 駆けつけた秀就たち父兄の前で信乃は秀一の背からすべり降りた。

 露はその時はじめて、信乃の額にポッカリと開いた亀裂に気がついて、息を呑んだ。

 第三の目ともいわれるそれは、目というよりも、額に縦にできた裂け目といったほうがイメージに合っているかもしれない。その亀裂の真中に、自ら発光するルビーのような瞳がうかんでいた。亀裂は、その場にいた全員の見つめる前で、次第に細くなっていき、最後にピタリと閉じた。そして信乃の額はつるりとなだらかになった。しばらくはあの真っ赤な光が皮膚の中から透けて見えていたが、それも次第に暗くなり、小さくなり、そして消えていく。


「信乃!」


 ふらりとよろけた信乃に駆け寄ろうとした安倍泰造は、だが、すぐに動きを止めた。

 瞬く間に獣化を解いた秀一が、裸足のままアスファルトを踏みしめて、信乃を抱いて立っていたからだ。

 そぼ降る雨に濡れながら、意識をなくした信乃を抱き、一糸まとわぬ姿ですっくと立つその姿にはどこか神々しくて、ほんの暫くの間、立ち会っていた誰もが身動きすることすらできずにいたのだった。


 ◇


「そうね……」


 思い出の中から意識を戻して、露は手にしていた野菜類を流しの上に置いた。


「先祖返りの能力者は数が少なすぎてわからないところが多いから、なんとも言えないけれど、いっぺんに大きな力を使いすぎてしまったから、眠ることでエネルギーを充電してるんじゃないかっていう話なの。でも、もう二週間以上も眠り続けているから……」

「心配ですね……」


 とその時、露が割烹着のポケットに落としていた子機が、軽快な電子音を鳴らし始めた。

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