異界・4
秀一は、翔のいる枝まで登った。
「翔! 俺の手を握っててくれ! 」
翔に一声かけると、つないでいない方の手を伸ばし、信乃へと差し出す。
めいいっぱい伸ばしたものの、信乃が背伸びをしてもまだ秀一の手のひらを掴むことはできないようだった。
「翔! 力入れろ!」
秀一はゆっくりと枝から腰を下ろしていく。最後には翔が一人で、秀一と自分自身の体重をを支えていた。
もう信乃の手は秀一の手に届くはずなのに、信乃は一向にその手をつかもうとしない。
「信乃! 何してんだよ! 早くつかめ!」
そうこうしている間にも、金の波は信乃の直ぐ背後まで迫っている。
「僕が掴んだら、翔……支えきれなくなっちゃうよ」
信乃の言葉を聞いた秀一の頭にカッと血が登った。
「ばっ……! お前、バカにすんなよ! 翔は天羽の男なんだぞ! すっげー力があんだぞ!」
上を振り向いて、な? 翔? と声を掛けると、翔は黙ってうなづいた。
「秀一と信乃くらい余裕だ」
翔の言葉に信乃はこくんとうなずくと、ようやく手を伸ばした。
しかし、金のさざなみの先端は、信乃の履いている茶色のキッズ用サンダルを包み込み始めている。
「信乃! 早くしろよ!」
サワサワサワサワサワサワ……。
小さかった金のざわめきが大きなうねりとなっていた。
ひっ!
という小さく息を呑む音が信乃の喉からなって、秀一が覗き込むと、ひゅるりと伸びた数本の金の触手が信乃の足に絡みつこうとしている。
「ちっ……くしょう! 信乃!」
もう、赤樫の木の周辺はすっかり金のさざなみに飲み込まれていていて、その中から一本の大木が青空に向かって立っているのだった。真っ青な夏空の下に淀む空気は、ひんやりとした層を作っている。
ザザザザザザザザザザッザッ……
びっしりと金の触手に覆われた大地がうぞうぞと蠢動し、信乃の立っていた地面が盛り上がる。
「わ……あっ!」
信乃はよろけながらも軽く伸び上がり、ジャンプするようにして、秀一の手を握った。
「翔。引き上げるぞ」
力なら翔のほうが秀一の何倍もあるのだ。引き上げる作業は翔に任せて、秀一は信乃の手を離さないようにすることに集中した。
「いくぞ」
翔の掛け声とともに、信乃の足が宙に浮き、絡まった触手がはらりと解けていく。
少し高い位置まで引き上げられると、信乃は近くにあった枝に抱きついた。三人はそれぞれ枝の上に自分の居場所を確保してから、そろって木の下を覗きこむ。
金色の草のような触手は、うねりながら大木の下に巻き付いていた。
「おかしい」
その様子を見ながら信乃が呟いた。
なにが? と秀一が尋ねる。
「今まで、異界を僕が引き寄せてしまうことはあっても、こんな風に追ってきたり、僕を捕まえようとすることはなかった。ただぼんやりとこの世界に重なって、しばらくすると、もとに戻る」
「え? これって、おまえの力なの?」
「そう。先祖返りと言われる力。異界に渡ることが出来る力」
これがセンゾガエリノチカラ? 秀一は驚いた。これが信乃の仕業なのだとしたら、確かに桁違いだ。
けれどもうつむいた信乃からは、意外なつぶやきが聞こえた。
「だけど、僕は出来損ないだ……」
確かにそう聞こえて、出来損ないってどういうことだよと、秀一がツッコミを入れようとした時に翔の声がした。
「なあ、もう少し登ったほうがいいんじゃないか?」
ひょいと下を見ると、うごめく触手は、確かにさっきよりも盛り上がっているように見える。
「いや……」
秀一は、それでもためらった。
いくら大木だといっても、先へ行けば枝は細くなる。一人ならまだしも、三人揃ってこれ以上登ることは心もとない。赤樫の木は桜の木などに比べて粘りはあるが、それでも折れる可能性が無いとはいえない。
「これだけはっきりしてるんだ。こちらからの攻撃が効くんじゃないか?」
秀一の戸惑いを見て取った翔が言った。
「どうやって」
「俺が、雷鬼を呼び寄せようか。どうやら地表以外はまだ異界に飲み込まれてないみたいじゃないか? だとすれば、俺は呼べる」
空に向かって翔が手を上げた。
秀一は慌てて翔の腕をつかむ。
「ちょっと待った!」
「なんだよ」
めずらしく翔の声に苛立ちが混ざった。
「いや、もしかするとこのままもとに戻れるかもしれない……。異界の気配が、薄くなってる」
秀一はくんくんと鼻を鳴らした。
ここで雷鬼なんて呼び出されて、暴れ回られたら、畑は大変なことになってしまう。できることなら雷鬼など呼び出さずに済めばいい。
ーー 消えろ! このまま消えちまえよ!
そんな秀一の祈りが通じたのかどうかはわからない。
しばらくすると、三人が固唾を呑んで見つめる先で、少しずつ金色のさざめきが薄くなっていった。
それに合わせて、すっかり異界の景色に覆われて見えなくなっていた畑の実りが、金の草原の中から浮き上がりはじめる。
そのまま、この世界のものとは思えない光景は、三人の見ている前で、ふいっと見えなくなってしまったのだった。