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蝕・イクリプス  作者: 観月
Deadlock
39/59

試練・3

 続いて起きた信乃の悲鳴を聞きながら、秀一は自分に起こっていることを、ようやく理解する。

 背後に迫っていた虚無が、自分を飲み込もうとしているのだ。

 巨大な黒いスライムは、野犬をたいらげ満足したのだろうか、もともとそう素早くはなかったのだが、さらに動きは緩慢になっているようだ。もちろん、この不可解な生き物に満腹という概念があるのかどうかはわからない。

 野犬に襲いかかったときのように、もう少し勢いよく攻撃してきたのなら、あるいは秀一も虚無の動きに気がついたのかもしれなかったが、じわじわと染み出すように地下室から這い出した虚無は、音もなく床を這い、秀一の足に絡みつき始めていた。

 はっとして、とびのこうとしたが、足を上げることもできずにバランスを崩し、虚無の中に倒れ込みそうになる、

 秀一の足は、くるぶしのあたりまで、虚無の黒く半透明な身体の中に浸っていた。

 秀一は腕を振り、周りの空を掻きながら、倒れそうになる体制をなんとか立て直す。


「しゅういち!」


 信乃が名を叫びながら、秀一に手を伸ばし駆け寄ろうとたが、近くにいた弓弦が信乃の身体をしっかりと抱きとめ、阻止している。


「信乃! 来るな! 俺ならなんとかするから……逃げないと!」


 反射的になんとかする(・・・・・・)と言ったものの、秀一の頭の中に妙案などない。

 秀一の足は、地下室から染み出した粘液のようなものに絡め取られているが、あの黒いアイスクリームのような本体は、まだ地下室から姿を現してはいない。いや、この染み出した粘液のようなものも、虚無の本体であるのかもしれないのだが。とにかく地下室からだらりと染み出したものに足を取られて、一歩も動けない。

 モウセンゴケに捕まった虫になったような気分だ。簡単に逃れられそうに見えるのに、全く動くことができなっくて、焦りが深くなっていく。


「来るなあ!」


 信乃の叫びに秀一が振り向くと、秀一の背後では、地下室の入り口からどす黒い小山が少しずつその姿を表し始めていた。

 先程まではただ炭を溶かし込んだ黒っぽいスライムの塊のようだった虚無は今、その身の中に千切れた犬の残骸を閉じ込めている。

 秀一は思わず、果物がごろっと入ったゼリーを思い浮かべてしまった。


 黒かった虚無は、今では赤黒く染まって見える。


「異界の扉を閉じる! お前、力を貸せ!」


 信乃が自分を抱きとめている弓弦に向かって言った。その途端、信乃の額が明るい朱色に輝き始める。

 おそらく信乃は完全にその力をコントロールするコツを掴んだのだろう。

 しかし弓弦は首を立てには振らなかった。


「信乃ちゃん、落ち着いて? 今更異界の扉を閉じても……」

 

 その間にも、くるぶしが浸るくらいだった虚無の粘液は、秀一のふくらはぎを包み込み始めている。

 秀一は足をあげようとしたり、身体を捻ったりするのだが、一ミリも動かすことができない。


「弓弦様、ここにいては危険です」


 御先が声をかけたが、弓弦は「少しだけ待て」と指示を出した。

 御先は虚無に神経を向けたまま、弓弦の背後に回る。


「秀一くん!」


 史郎と、新太という名の少年は、近づけるギリギリのところまでやってきて、秀一に声をかけてきた。


「変身するんだ! 人間の姿のままでは飲まれるぞ!」

「はやく!」

「そんなこと言ったって……!」


 確かに、狼の姿になれば人間の姿でいる時の何倍もの力が出せる。力だけじゃない。瞬発力も、妖力も、人間でいるときの比ではない。力に、己の妖力を乗せることで、この呪縛から逃れることも可能かもしれない。虚無からははっきりと妖気を感じることができる。だから、こちらにそれを上回る妖気があればいいのだ。絶対とは言い切れないだろうが、賭けてみる価値はある。

 けれど……秀一が狼の姿になったのは、信乃と出会ったあの晩一度きりなのだった。秀一はいまだに自分自身の意思で変身をしたことがない。

 普通の狼族なら、十を超えたあたりで少しずつ自らの意思での変身を体験するものだ。

 普通より、ずいぶん遅い。そんなことはわかっている。

 けれど……。

 自分の力が誰かを傷つけてしまうかもしれない。そんな思いが、秀一に変化することに対する恐れを抱かせた。


「兄さん! 何してるの! 早く!」


 新太が焦ったように喚いている。

 

 ――兄さん?


 ああ、やっぱりそうなんだ。この非常時だというのに、秀一の頭の中は新太の発した言葉でいっぱいになってしまった。

 サラという名前。

 秀一の母親は、フランスから来たルーガルーの一族の娘で、名をサラと言った。……そう教えられた。

 秀一の知っている母親の情報はそれだけだった。

 どうして自分の前からいなくなったのかすら、秀一は知らない。

 一度だけ父に尋ねたことがある。その時秀就は


「父さんが至らなかったんだ。お前には苦労をかける」


 と言った。それでもう、秀一は次第に母について聞くことをやめてしまった。

 なんにも知らず、知らされず……。

 自分が情けなく思えた。

 幼い頃から、みんなにかしずかれて、自分が一番だと思って育ってきたのに、何一つ自分できることなんて、ありはしない。

 力を使うことも出来ず、露と父を理解してやることもできなくて、本当の母親だって、自分を捨てて、こうして新しい家族を作っている。……信乃すら、守ることができない。

 足元が、ぐずぐずと崩れていくような感覚だった。

 蝕まれていく。そうして、無力になってしまう。

 いや、はじめから無力だった。

 自分が気づいていなかっただけ。


「早くしろ協力しろ! 異界を……閉じないと!」


 信乃の声が聞こえた。

 信乃は、秀一を助けようとしてくれている。


「聞いて信乃ちゃん? 今異界を閉じたら、秀一を助けられないよ。虚無はこちら側にもう渡ってきてしまっているからね。秀一を助けられないどころか、こっちの世界に虚無が何体も放たれることになるんだよ」


 弓弦がいきり立つ信乃の肩を揺さぶっていた。


「じゃあ……じゃあ……どうすれば……」

「呼び出すんだよ。虚無をも凌駕する魔物を。そいつに虚無を一掃させ、異界へ戻らせるんだ。できるかな?」

「ぼ……僕……が?」

「そうだよ信乃ちゃん。秀一を助けたければ、やり遂げないといけないよ。できるよ、君なら。僕の力も貸してあげる。特別だよ。そのかわり、いつか僕に力を貸して? 約束だからね」


 信乃と弓弦が向かい、手のひら同士を重ねていた。ゆっくりと指が絡まり合っていくと同時に、二人の額が強く輝き始める。


「わかった。八尋弓弦。約束する」


 信乃はゆっくりと、噛みしめるようにして、弓弦に言った。

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