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蝕・イクリプス  作者: 観月
Deadlock
38/59

試練・2

 異様な緊張感に、秀一は動けないでいた。

 奥の地下室からは犬たちと虚無のぶつかり合う恐ろしげな音が聞こえてきている。地下室から溢れんばかりの野犬だったが、数だけであの虚無という化物に、対抗できるとは思えない。

 この世界に顕現した黒い化物が、秀一たちのいる廊下に姿を表すのも時間の問題だろう。

 一番地下室の入口近くにいる秀一はその気配に気を配りつつ、犬神史郎と名乗った男と、御先真珠を伺っていた。

 動けずにいた秀一に小さな笑い声が聞こえた。

 御先真珠だった。


「なるほど……」


 そう言いながら軽く数度うなずいた。

 腹をかばって前かがみだった姿勢はもう元に戻っており。すっと背筋を伸ばして立っている。

 すでに銃創はふさがったのだろう。彼の着ている黒いスーツは血の色も目立たないため、ほとんどダメージを受けたようにはみえない。

 はやくも彼の唇には、微笑が戻ってきていた。


「なるほど、狼の”声”か。ならば彼が屋上ではなく地下に真っ直ぐに向かったことも、不思議ではない。あなたが誘導していたわけだ……犬神史郎。あなた、我々を……いえ、弓弦様を裏切ると? あなた、弓弦様が幼い頃からそばに仕え、我が子のように……我が子以上に共に過ごしてきたのではないでしょうか? 弓弦様に、どれほど信頼されていたか、わからないわけではないでしょうに……。大神秀一があなたに縁のある人物とはいえ……あなたにとっては、邪魔なのではありませんか?」


 御先の目は、ただ真っ直ぐに犬神史郎に向かっていた。顔に微笑を張り付けたまま、目の奥には憤怒の炎がチラチラと燃えている。

 秀一はちらりと弓弦へ目を向けたが、彼の顔には何の感情も現れていなかった。

 ただ、興味津々に成り行きを見守っている、そんな表情だ。弓弦からは、史郎に対する怒りも、裏切られたことへの悲しみも感じ取ることが出来ない。

 秀一は、そんな三人を気にしながらも、少しずつ動き始めた。

 目をキョロキョロと動かし、どうしたらこの場から逃げ切ることができるのか? 不意に訪れた静けさの中で必死に考える。

 と、少し先に座り込んでいた信乃と目があった。

 目が合ったけれど、やはり二人共動くことができない。

 一見穏やかに見えるこの場に吹き荒れる『気』を、二人共感じていた。この中で不用意に動けるようなものがいたら、よほど鈍感な人物だろう。

 

「どれほどあなた、弓弦様に目をかけていただいていたか、わかっているのですか……?」

「感謝している」


 史郎の答えを聞いた御先から、殺気が溢れ出た。

 秀一ですら一歩後ろに下がりたくなったというのに、殺気を向けられた史郎は、飄々とそれ受け止め、眉一つ動かさなかった。

 御先が動いた。

 立ったままの姿勢から大きく跳躍し、史郎に向かって鋭い蹴りを繰り出す。

 史郎はすうっと身体をずらした。風に揺れる柳のようなしなやかな動きだった。

 史郎の背後にストっと降り立った御先が、脇を締め拳を構えると、振り向きざま構えた拳を史郎に向け繰り出す。

 その時だった。

 

 タタタタタタタタッ!


 地下室に流れる緊張感を破るように、階段の上から走ってくる足音が聞こえた。

 大勢ではない。おそらくは一人。人間の足音のようで、軽快な足取りで駆け降りてくる。

 一体誰が? と、全員の視線が階段の上へと向かう。拳を繰り出していた御先の動きも止まった。


 タンッ!


 最後に勢いのある足音を響かせたかと思えば、史郎と御先の間に男の子が一人、立っていた。


「おっまたせー! この建物にいた妖魔は全部縛り上げて屋上においてきたよ! 犬は皆、下の階に向かって走って行っちゃってさあ~!」


 現れた少年は、この場の状況に全くそぐわない底抜けに明るい声で言った。

 秀一よりも一回り小さい体。肌の色や堀の深さにコーカソイドらしさがあるが、髪の色や瞳の色は日本人に近い暗い色合いで、全体的には秀一よりはモンゴロイドの特徴も併せ持っているように見える。外国人っぽい日本人。そんな感じの顔立ちをした少年だ。


「なるほど、犬神新太。今回の作戦はあなたとサラには知らせていなかったはずです。まあ、父親の史郎があなた方を組織に残したまま裏切るわけはありませんね。馬鹿な男だ、犬神。サラと別の男との間にできた子どもを助けようなんて……」


 サラ。

 その名前に、秀一ははっとして、目の前に降り立った少年をまじまじと見つめた。


「サ……ラ?」


 呆然と呟く。

 その名前は知っていた。

 一度も見たことのない人だけれど。

 写真すら見せられたことのない人だけれど。

 名前だけは教えられていた。

 

 ――お前の母親の名前は、サラというのだ。

 そう教えてくれたのは、父の秀成だった。

 では、この犬神史郎という男と、犬神新太という少年は誰だ?

 解けない問題を前にしたときのような苛立たしさと混乱が秀一を襲う。

 脳細胞が、一斉に活動を休止してしまったようで、考えがまとまらない。いや、答えはもう出ているのに、感情が認めようとしていない。


「あったり~! 母さんは、この場所を九十九学園側に伝えに走ったよ。だから、もうすぐ学園側の応援がここにたどり着くんじゃないかな? 形勢逆転だよ?」


 秀一の混乱をよそに、得意げに話す少年の表情には、この場にそぐわない曇のない笑顔があった。

 秀一にも喜ばしい情報のはずなのに、頭の中にみっちりと密度の高いスポンジが詰まってでもいるようで、まったく感情が動かなかった。

 だから、自分の後ろに迫る気配にも、全く気づけないでいたのだ。

 秀一だけではない。その場にいる全員が、気づいていなかった。

 階段から降り立った少年と、彼のもたらした情報に注意が向かっていた。

 御先は小さく舌打ちをして、屋上へ目を向けた。

 弓弦はじっと史郎を見つめていた。

 信乃も、新しい登場人物に束の間、目を奪われていた。


 だからその時、つい先程までこの地下に響いていた、野犬の唸り声や吠える声が、全く聞こえなくなっていることに、誰も気づいていなかった。

 信乃の目が、秀一へ向けられて、そして、その表情が凍りつく。

 そのとき秀一は、自分の身に起きたことを、すぐに理解することができなかった。


「逃げて!」


 そう叫んだのは信乃で、彼女の目は大きく見開かれたまま、秀一の後ろを凝視していた。


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