試練・1
ようやく信乃へとたどり着いた地下で、追ってきた御先真珠が変化した無数の烏に囲まれた時、秀一は身を縮こまらせて耐えていた。
折れていない方の腕を振り、薙ぎ払ってみるものの、烏たちはまったく堪えた様子はない。手応えはあるのに、すぐにまた秀一を突き回し始める。
――こいつら、不死身なのか!?
秀一が暗澹たる思いにとりつかれた時、その声は聞こえたのだ。
『秀一くん。カラスの実態は一つだ。よくある分身の変化だ。本体を倒すことができれば、全てが消える』
狼族にだけ聞こえる仲間の”声”だった。
この建物にたどり着いてから、何度もこの”声”には助けられている。
秀一はもうすっかり、この姿無き声を信用していた。
この敵だらけと思えた建物の中に、仲間がいる。
その思いは、萎えそうになる秀一に新しく力を送ってくれた。
――本体を倒せばいい。それはわかった。けれど、どうしたら……。
絶え間なく突き回され、思考力も無くなっていく。
ガツン!
秀一は頭の天辺に、かなりの衝撃を覚えた。カラスの嘴とは全く違う。この一発で気を失うのではないかと思うような大きな衝撃だった。
一体何だよ!
と腕の隙間からあたりを見回すと、すぐそばに、拳銃が一丁落ちている。
ばっとそれを右手でつかみ、腹の中に抱え込んだ。
武器は手に入れた!
でも、どうしたらいい?
一体どうしたら?
その時、烏に変化した御先の声が聞こえた。
「さあ、手も足も出ない……かな? もう少し頑張ってもらわないと、張り合いがないな……」
はっとする。
周囲は羽音で覆われていて、全ての気配がその中に溶け込んでしまっているようだけれど、神経を研ぎ澄ませれば、いろいろな気配を感じ取ることができる。
音? 匂い? 気配。気。
秀一はゆっくり身を起こした。
意識を集中させていくほどに、身体に感じる痛みと、湧き上がる恐怖は、遠くなっていく。
己と、敵。
喰うもの喰われるるもの。
喰われるるもの喰うもの。
それ以外の全てを、自分の意識からシャットアウトする。
本物の銃を握るのははじめてのことだったけれど、そっくりなおもちゃなら幼い頃持っていたし、ドラマやアニメの中でも見たことはある。どう扱えばいいのか、想像はついた。
撃てる。
そう自分に言い聞かせる。
折れた腕が利き手でなかったのは幸いだ。
なるべく高い位置でしっかりとグリップする。本当なら両手で握ったほうがいいのだろうが、折れてしまった左手を持ち上げることは出来なかった。
トリガーに人差し指をかけると、弾丸が発射された際の反動に備えようと、身体が自然に前傾姿勢になった。
これで玉が出なかったら終わりだ。銃弾が装填されていることを祈るほかはない。
秀一は軽く目を閉じて気配を探った。
腹の底から大きくゆっくりと呼吸をしながら、己の感覚だけをたよりに、標的を探る。
上行を続けていた銃身が動きを止めた。
ぴんと腕を伸ばし、研ぎ澄ました意識が無数の烏の中の、たった一羽を捉えていた。
「当たれ!」
祈りが言葉になって、迸り出た。
ガウン!
ピンと伸ばした腕は、銃弾が発射された際に起きる反動を吸収し切ることが出来ず、肩を支点に大きく跳ね上がる。身体も後ろへと弾き飛ばされそうになったが、目をぎゅっとつぶり、歯を食いしばって堪えた。
ふと気づくと、あたりを埋め尽くしていた羽の音がしない。
ゴクリ。と聞こえたのは、自分自身が生唾を飲み込む音だ。つばを飲み込んだのに、喉は渇いてからからだった。
ゆっくりと目を開ける。
すると、自分の直ぐ側で腹から血を流し、怒りに燃える目でこちらを見つめる御先真珠の姿があった。
御先の薄い唇から、くっと苦悶の声が漏れる。
どうやら、秀一の放った銃弾は、御先真珠の腹を掠めたらしい。ただ、致命傷ではないのかもしれない、出血もそれほど多いようには見えない。
妖しである御先のことだ、このくらいの傷はすぐに治癒してしまうかもしれない。
「よくやったな、大神秀一」
突然聞こえてきた声へと秀一は首を巡らせた。
その声は御先でも信乃でも弓弦の声ではない。もちろん秀一の声でもない。
でも、秀一はこの声を知っている。
この声に、何度も助けられている。
声は、信乃と弓弦の後ろにある階段の上の方から響いてきた。
トン。トン……。
一歩ずつ、ゆっくりとした足取りが、地下へと降りてくる。
秀一のいる場所からは声の主の姿を見ることがなかなか出来ない。
秀一の心臓がトクトクとせわしなく動き始めていた。
――誰なんだ?
「犬神。犬神史郎……」
秀一の直ぐ側で、御先真珠の、地を這うような暗く低い声が聞こえた。まるで、秀一の疑問に答えるかのようなタイミングだった。
「裏切ったか……犬神!」
御先口から迸り出た言葉は、震えながら次第に大きくなった。
トン。
ついに階段を一番下まで降りきり、壁の影から男が姿を現した。
地下階に降りきったところで足を止め、くるりと秀一の方へと身体の向きを変える。
どことなく愛嬌のある黒い瞳が、秀一を捉えていた。短く切り込まれた黒髪。逞しい身体と、頬に走る三本の傷。
――この人が?今まで助けてくれていた人?
知っている男ではなかった。今まで会ったことのある狼族の男に、こんな人はいなかった。
ではなぜこの男は、自分を助けてくれたのか?
仲間が現れたことで、ほんのすこし緊張の糸は緩み、秀一は、唐突に現れた味方をぽかんと見上げていた。




