酸鼻・4
信乃の名を呼びながら、引き留めようと弓弦が手を伸ばす。
折れた腕をかばいながら、転がっていた秀一が、雄叫びとともに起き上がる。
このまま信乃が虚無に突撃したら……あの黒い物体に取り込まれてしまう。
ほとんど同時に動いた秀一と弓弦だったが、先に信乃に届いたのは、秀一の方だった。
体ごとぶつかり、信乃に体当たりをする。よろけてそのまま倒れそうになった信乃を、腕を伸ばした弓弦の手が掴んだ。弓弦は掴んだ信乃の手を引き寄せる。
「虚無に食われたくなければ、起き上がって走るんだな!」
信乃を抱え、虚無から距離を取るように後退しながら、床に転がり痛みにのたうつ秀一に言った。
「秀一!」
信乃は弓弦に手を引かれながら、必死に秀一へと手を伸ばしている。
周囲を見回してみると、今や地下室は地獄のような光景と化していた。
一体、また一体と、現実世界に渡ってくる虚無の群れが、その場にいた野犬の群れを、バリバリとたいらげ始めたのだ。
生きたまま咀嚼されていく恐ろしい音と、あたりに充満する血の匂い。そして、助けを求めるかのような犬の細い鳴き声。
「待てこの!……ちくしょう……」
呻く秀一を置いて、弓弦は信乃を引きずりながら地下室を出ていく。
虚無を警戒しながら、その後に御先真珠が続いた。
階段下付近には、つい数分前に秀一に倒されたのであろう男たちが、転がっている。
「秀一ぃ! 離せ! 離せってばぁぁ!」
信乃が弓弦の腕の中で喚いていた。
「秀一が死んだら、僕も死ぬ! お前たちに僕を自由になんて、できるもんかぁ!」
弓弦一人では感情を爆発させた信乃を引きずっていくことが困難になって、御先も手をかそうとするが、本気で抵抗する人間を取り押さえるのは、大人二人がかりでもなかなか大変なことだった。傷つけてはいけないとなれば、なおさらだ。
「まだ死んでない……」
背後から聞こえた声に、信乃の動きがピタリと止まる。三人が声のした方へと視線を向けると、折れた左腕をかばいながら壁により掛かるようにして、大神秀一がそこに立っていた。
「しゅういち!」
信乃の声に、喜びの色が混じっていた。
「よお信乃。まだ……死んでねえよ……」
「うん」
弓弦と御先の手を逃れ、信乃が秀一のもとへと走リ寄ろうとする。が数歩走り出したところで
「来るな!」
という秀一に叫びにビクリと止まる。
「あの黒いバケモン、犬どもをたいらげたら、こっちへ来るぞ。どうにかできないのか?」
秀一はちらりと背後を見るような仕草をした。
後ろに見えるあの地下室から虚無は這い出してきてはいなかったが、地下室の中で、恐ろしい地獄絵が繰り広げられている気配は、はっきりと感じられた。
「まったくしつこい男ですね……」
御先の姿が、崩れ始めている。まるで砂でできた人形がパラパラと崩れ落ちていくように。そして、崩れた先から、一羽、また一羽と黒い烏が秀一をめがけて飛び立っていく。
秀一も、自分に向かってくる走烏の群れに向かって走り出した。
「逃げろ……信乃だけでも!」
叫びながら秀一は黒い鳥の群れに突っ込んでいく。
「バカなやつ……」
黒い烏に覆われていく秀一を見つめながら、弓弦はつぶやいた。
「バカなんかじゃないぞ!」
信乃が、弓弦をきつい瞳で見上げた。
「やめろ!」
信乃はしゃがみ込み、そのへんに散らばるものを拾い集める。
ちょうどその辺りは、秀一が地下へ降りてきた時に待ち構えていた敵と一戦を交えた場所だったらしく、数名の意識をなくして倒れている者たちと、彼らが携帯していた武器などが散らばっていたのだ。信乃は両手いっぱいにそれらを拾い集めると、立ち上がり、翔んでいるカラスの群れへ向かって投げつけ始めた。
しかし、烏の群れはいっこうにダメージを受けた様子もなく、秀一をついばみ続けている。
「弓弦! アイツの弱点は?」
ふーふーと肩で息をしながら信乃は弓弦を振り返る。
首を傾げて、早く答えろというように、小さく眉間にシワを寄せていた。
暫くの間、弓弦はあっけにとられてピクピクと動く信乃の眉間のシワを眺めていたのだが、どうにもこうにもおかしくて、ついに腹を抱えて笑い始めた。
「信乃ちゃん、それ……僕が答えると思ってるの? ほんと、面白い子だよね」
笑いすぎて、涙が出そうだった。
ドウン!
「!」
突然の銃声に、弓弦は現実に引き戻される。何が起きているのか、一瞬判断することができなかった。
銃声は烏と秀一のいる方向から聞こえてきて、驚いた弓弦と信乃が、そちらを向いたときには、もうすでに黒の群れは跡形もなく姿を消していた。
そのかわり、ひざまずき目をつぶったまま、折れていない方の手で拳銃を握りしめている秀一と、その直ぐ側で脇腹を押さえながら、やはり跪いている御先真珠がいた。
「くっ!」
御先真珠が短くうめいた。脇腹を押さえた手には赤いものが見える。
そして、この場にいなかった第三者の声が聞こえた。
「よくやったな、大神秀一。御先の分身は、よくあるタイプの変化だ。やつの本体はひとつ。そいつに攻撃を当てることができれば、幻影は消える。一度コツを掴めば、見破ることはたやすい。特に俺たち狼族にとっては……視覚以外の感覚を使えば、どうということもなく本体を見破ることができる」
声は、弓弦の後ろの、上階へと続く階段から聞こえてきた。
トン。トン。トン。トン。
落ち着いた足取りで、何者かが階段を降りてくる。
「犬神。犬神史郎」
もともと低い御先の声が、更に低くなった。
「裏切ったか……犬神!」
大きな体躯、短めの丈の黒のジャケットに黒のワークパンツ。そして左の頬に残る三本の傷跡。
一歩一歩ゆっくりと階段を踏みしめながら降りてきたのは、これまで弓弦の側近として仕えていた、犬神史郎だった。




