酸鼻・2
「殺さずに……ですか?」
御先の左の眉が、また、きれいに跳ね上がる。
岬がこの表情を見せるときは、相手を下に見ているときだ。
弓弦は長い付き合いの間に、それを知っていた。
信乃を黙らせて少し落ち着いていたいらだちが、またふつふつと湧き上がる。
「なに?」
声が尖った。
「あなたも甘い。こんな犬一匹、生かしていて何の意味が?」
「僕に口答えするの? 御先真珠。その意味わかってるよね?」
御先の瞳がが弓弦をみつめた。口元に浮かぶ微笑はそのままで、表情は一ミリも変化していないが、その場の緊張感が増していく。が、御先はしばらくすると弓弦から視線をそらした。そしてまた、足元の秀一を見下ろす。
「滅相もありません。ただ、この犬がいささか私の癇に障るので……」
御先の靴の踵がグリグリと秀一の背中を抉り、靴の下からうめき声が上がった。
「ちくしょう……、おまえら……ぜってえゆるさね……!」
御先に足蹴にされているにもかかわらず、必死に強がる秀一がおかしくて、弓弦はクスクスと笑った。
「確かに、この考えなしの直情型大型犬には苛つくものがあるかもしれないね。でもそのくらいの余裕、あるでしょ? 御先。それに、利用価値がまだあるから生かしてるんだよ。ね? 信乃ちゃん?」
弓弦がベットの上で顔色を無くしている信乃を振り返った。
目が合うと、信乃はキッと弓弦を睨みつけてくる。
「お前の考えてることなんか、ミエミエだからな!」
強がる信乃に、弓弦は顔をのけぞらせ、声を上げて笑った。
「わかるかもしれないけど、わかったからと言って、君に耐えられるかなあ? 御先。やっちゃって!」
弓弦の命に、御先の踵にさらに力がこもっていく。
灰色の箱の中に、苦痛を耐えようとする秀一のうめき声が響いた。
秀一をさんざん踏みつけにした御先は、ぐったりとした秀一の髪を掴んで起き上がらせると、数回平手打ちをくらわせた。なすがままだった秀一だったが、数度目の平手打ちで派手に吹き飛ばされると、身体を回転させ、なんとか壁にまともに当たるのを回避した。
床に崩れそうになりながらも歯を食いしばって顔を上げ、自分を張り飛ばした相手を見上げる。
殴られた頬はみるみる腫れ上がり、彼の顔を歪ませていった。唇の端が切れて、血が流れてだす。日本人離れした整った顔立ちが、今では見る影もない。
けれども当人は、腕で軽く口元を拭うと「へ……っ」と小さく笑った。ひどい顔だったが、目にはまだ力がある。
「まだそんな余裕があるんですね……」
だがその表情は、御先の嗜虐心を煽ってしまったらしい。
御先は秀一に近づくと、鋭い回し蹴りを繰り出しす。尖った靴先が当たれば、平手打ち以上に大きなダメージを食らうはずだ。
秀一はとっさに避けた。御先の靴先が、秀一の髪の先を掠めていく。
「秀一!」
暴れる信乃を、弓弦は背後から羽交い締めにした。
「暴れたら、君が傷つくんだってば! どんなに頑張っても、アイツにきみの手は届かないよ。ほら、首がすりむけてきちゃったじゃないか……」
「うるさい、離せ! この、悪趣味! 鎖をはずせ!」
信乃が後ろを振り向くと、至近距離で目と目が合った。
その間にも、御先と秀一の激しい戦いが再開した。見つめ合う二人の耳に、打撃音や息遣いが、聞こえている。
「信乃ちゃん。秀一を助ける方法が一つだけあるじゃん。君の力を使ってごらん?」
「だから……僕には使えないって……」
弓弦は軽くため息をつく。
「御先! そいつの腕へし折っちゃって!」
弓弦がイライラと言い放ったと同時に、ベキッと言う音がした。それに続いて秀一の短い悲鳴。
「な……っ!」
信乃の目が大きく見開かれる。秀一を振り返ることもできずに、固まっている。
弓弦は信乃の黒い瞳をじいっと覗き込みながら語りかけた。
「僕も力を貸してあげるよ。ね? 神経を集中して、第三の目を使うんだよ。僕たち以外に持ってるやつはいないんだ。君には他の誰にも見えない物が見える。今、異界がどこにあるか。感じることができるでしょう?」
しばらくそうして見つめ合っていると、信乃は瞬き一つしなくなった。弓弦の姿が写っているが、信乃の瞳は弓弦を通り越して、常人では見ることのできない何かを見つめているはずだ。
「今日は満月だから、近いはずだよ。ね? ほら!」
ささやくような声で弓弦が信乃に語りかける。
「僕も感じる。君が近くにいてくれると、いつもよりもはっきりとその在処を感じられる。引き寄せるんだ」
「引き……寄せる?」
「信……乃……!」
だらりと力の抜けた腕をもう一方の腕で抱え、床に転がる秀一が、最後の力を振り絞って信乃に呼びかけたが、信乃がその呼びかけに応えることはなかった。
「無駄だよ秀一。信乃ちゃんは第三の目を開いたんだよ。まあ、君たちにはわからないだろうけどね。今彼女は、君たちには見ることの出来ない世界を見ているんだ。君を助けるためだなんて、ちょっと妬けるけど、いいよね、どうせ君はもうすぐいなくなるんだから……」
御先の靴先が、秀一のみぞおちを蹴り上げる。もう秀一には抵抗する力も残っていなかった。
「御先、あなたも見ているといいよ。最後に本格的な異界渡りが起こったのは一世紀以上前だっていうから、これから始まるのはまさに”世紀の瞬間”ってやつだよ」
弓弦が二人に説明をしている間にも信乃の額のあたりがぽうっと鮮やかな赤い光を放ち始めていた。
「見える。僕にも見える……信乃ちゃん! 呼ぶよ!」
小さな四角い地下の部屋の中に、かすかな風が吹き始めた。




