酸鼻・1
しんと静まり返った地下室。信乃にナイフを突きつける弓弦。床に転がる秀一。
そして――
秀一のとなりには、先ほどまではこの部屋にいなかった人物が、佇んでいた。
黒い長髪を後ろで一つにまとめ、嫌味なほど隙きのないスーツ姿で、片方の足に重心を預け、足元にうずくまる秀一を感情の灯らぬ瞳で見下ろしている。
「御先真珠か……」
弓弦は小さく呟いた。
ずっと大音量にさらされていた耳の奥が、ふいに訪れた静寂のせいで、キーンという音を立てている。
御先はゆっくりと首を巡らせ、地下室の中を隅々まで確認すると、最後に大神秀一の上で動きを止めた。
「まったく……。屋上へおびき出そうとしたのに、何故か一直線に地下へ向かうものだから、少し慌てましたよ……」
線の細い整った顔立ちからは想像し難い、地を這うような低い声だった。
「秀一!」
信乃の叫びに、指先がピクリと震えたものの、そこにうずくまる秀一はすでにボロボロだ。
着ていた服は擦り切れ、破れ、あちらこちらに誰のものともわからない赤黒いシミをこびりつけている。
服だけではない。
破れた服の下の皮膚もすりむけて、あちこちから血が滲んでいる。明るい色合いの髪も、艶をなくしてボサボサとあちこちで絡まり合っていた。
信乃の声に小さな反応を返したものの、起き上がる気配はない。
「秀一! 秀一!」
それでもようやく信乃の叫びが届いたのだろうか、秀一は小さくビクリと肩を揺らした後、両腕で抱えていた頭を、もぞりと、持ち上げた。両腕を床につけ、踏ん張りながら、ぐるぐると唸り声を上げている。
ゆっくりと顔をあげると、見下ろしている御先真珠を睨んだ。
「秀一!」
身を乗り出した信乃に引きづられ、弓弦は前方に転がりそうになる。慌てて力を込めて、信乃を引き戻した。
「ちょっと!」
そう言うと、信乃の首から伸びる鎖を短く持ち、ぐいっと引く。
「信乃ちゃん、大人しくしてくれない?」
首輪からつながる鎖を引かれ、信乃の喉が「ぐっ!」と、苦しげな音を立てた。
「まーったく、人質の意味なかったよね。大神秀一、僕が信乃ちゃんにナイフを突きつけても、ちっとも躊躇しないんだもんなあ」
弓弦は咳き込む信乃を引きずり、ベットの上に引き上げた。
部屋にぽつんと一つ設えられたベットは、病院でよく見かけるような、愛想のないものだ。それでもベッドヘッドと足元にはスチール製の白い柵があり、弓弦は手際よくベッドヘッドの柵へと、信乃の鎖を短く固定した。
これで信乃は、ほとんど身動きを取ることができない。
と、地下室の入口近くでは、身を起こそうとしていた秀一の背中を、御先が力を込めて踏みつけた。
鎖が短くなったことも忘れ、思わず前のめりになった信乃の首が、くん、と後ろに引っ張られるようになり、ゲホゲホと咳き込んだ。
ヒューヒューという、苦しげな呼吸の中から、それでも信乃は声を絞り出す。
「秀一……!」
御先と秀一が睨み合っている。
床に這いつくばったままで、ぐぐぐぐぐっ、と唸りをあげて御先を見上げる秀一は、どこか獣じみていた。それでもまだ理性が残っているのだろうか、狼に変化するような兆候は見えない。
一方、秀一を踏みつけにしている御先の唇には、絶えず微笑がうかんでいた。
「……くっ!」
秀一が床に手を付き、満身の力を込めて起き上がろうとした。胸が僅かに浮き上がる。しかし、すぐに床の上に逆戻りしてしまう。背中に乗った御先の靴底に力がこもり、更にきつく床の上に押し付けられたのだ。
「やめて……っ!」
信乃が、悲鳴のような声を上げる。
「弓弦様、どうしますか?」
腰に手を当て、はじめて主である弓弦を見た御先が言った。片方の眉が、きれいに跳ね上がる。
「もうちょっとそのまま踏んどいてよ」
御先を横目で見ながら、弓弦は命じた。
そして、這いつくばる秀一へと目を転じる。
「やあ、秀一くんはじめまして。僕は八尋弓弦。来てくれて嬉しいよ。」
弓弦は自分のサラサラとした黒髪を弄びながら自己紹介をした。手にしたナイフがチラチラと揺れる。
少し間をおいたが、秀一から返事が帰ってくることはない。
弓弦としても、別に返事を期待したわけではない。だがその言葉によって、秀一の燃えるような怒りの矛先が御先から自分へと変わっていくのを、はっきりと感じ取ることができた。
「やっとこっち見てくれたね。さっきから御先ばっかり見つめてるから、僕、ちょっとばかり妬けちゃったよ。そうだなあ……君のこと、どうしようかなあ?」
「離せ! 秀一にもしものことがあったら、絶対絶対、ぜったい! に協力なんてしないからな! 僕も死んでやるんだからな!」
秀一に話しかけたのに、叫ぶ信乃が煩わしくて、弓弦は手にしていたナイフを信乃の胸へ突き立てた。
セーラー服を切り裂き、ほんの先端が信乃の肌に触れるくらいの力加減だったが、信乃は「ひっ」というような声を上げ、おとなしくなる。
そのことで、弓弦のいらだちはいくぶん収まった。
「そうだなあ……」
秀一をどうしてやろう……。
「もう少し痛い思いをしてもらおうかな? 方法は御先に任せる。でも、殺さないでよね」
弓弦の指示を聞いた御先はくくくっと喉の奥で笑った。




