駆引・3
「もし僕が覚醒しても、あんたたちになんて、協力しない。そうは思わないか?」
八尋尊はニッコリと、優しげにすら見える笑顔を浮かべた。今となっては、その笑顔が、逆に信乃の心を氷つかせていく。
「ああ。もちろんもちろん。だがね、世の中にはいろんなやり方があるんですよ、姫。恐怖で支配する。痛みで支配する。心を壊してしまう。要は力の器であるあなたがいればいいのですから……。ああ、面倒な労力をかけなくとも、薬を使うという手もあるのです」
「く、すり?」
「ええ、薬です。我々は人間とは違って、個体個体や種族によっても効く薬というものが変わってくるのですけれどね。蓬だったり、菖蒲だったり、銀だとか鉛に反応するという種族もあるそうですね。そうそう、西洋の有名な妖は大蒜が苦手なんだとか。……あんがいそんなものが我々にとっては毒だったりするのですよ。なに、時間はたっぷりありますから、ひとつひとつ試していくことも可能です。口から摂取したのでは効き目がなくとも体内に直接取り入れることで効果のある物質もあるらしいですし。一日一つで……一年あれば三百六十五種もの毒を、体験することができますよ。貴女にピッタリのものが見つかるといいですねえ」
信乃は震えそうになる指先をギュッと握り込む。
八尋尊という男は、恐ろしい話になればなるほど、信乃が怯えを見せれば見せるほど、嬉しげな笑顔になっていく。ゆっくりと、丁寧に説明しながらその目は、信乃の顔をじいっと見つめているのだ。そうして、どんどん笑顔を深くしていく。
「ただ残念ながら私も忙しい身でね。あなたにかかりきりになってあげることはできないんです。でも心配することはありません。そこにいる弓弦……実はあれにもあなたと似た力があるんです。力は弱いのですがね。弓弦があなたほどの力があれば問題なかったのですが……あれにあなたの世話は任せてあります。私よりも、あなたの力については理解があると思います」
尊は笑顔のまま席を立ち、ポンと、信乃の肩に手を乗せた。信乃は体中の毛が逆立つのではないかと思ったが、なんとか飛び上がることも、声を上げることも、堪える。
「では、ゆっくりと寛いでいてください。次に来るときには、貴女のためのとびきりの別荘を用意してまいりましょう。ここは、あの学園に近すぎますからね」
たったひとつの外へと通じるドアに向かいながら、尊は弓弦へちらりと視線を向ける。
「任せたぞ」
弓弦にかけた言葉は、今までとはうってかわり、鋭く、威圧するような口調だった。
「はい、父さん」
弓弦の方は父のこういった態度に慣れているのか、いっこうに気にした様子もなく、返事をする口元には微笑すら浮かんでいる。
パタン。
部屋から尊が出ていってしまうと、がっくりと項垂れた弓弦から「ふう……」という大きなため息が聞こえた。
「ねえ、あんたバカ?」
うなだれた姿勢のまま言った。しばらくの沈黙の後、弓弦はガバッと顔を上げると、ツカツカと信乃に詰め寄ってくる。
「あの人、相手が感情を見せれば見せるほど喜ぶって、わからない?」
眉を吊り上げる弓弦を見つめがら信乃が考えていたことは「顔が、近い」ということだ。なにしろ弓弦と信乃の顔の間は十センチほどしかない。つばまで飛んできそうで、信乃は少し身体を後ろに反らせた。
「感情的だと言われたことは、今までなかったが……」
そう反論すると、弓弦はまたもやがっくり肩を落とし、手のひらを上に向けながら肩をすくめた。お手上げ、とでも言う意味だろうか。何にしろ日本人にはあまり縁のないジェスチャーだ。
「ニコニコ笑ってたって感情を隠すことはできるでしょ。表情の動きが少ないからって、感情的でないということにはならないよ。だいたい、泣きわめくようなやつなんて問題外だよ。あんまり感情を見せないあんたみたいな奴が、ほんの少し見せる変化。それこそがアイツの大好物ってわけ。憶えておくといいよ。でさ……」
「弓弦様!」
いままでまるで置物のように壁に張り付いて立っていた男が初めて声を上げた。
弓弦はちいさな瞳孔で男を見上げると「来た?」とたずねる。
男は周囲を気にするようにあたりを見回して頷いた。
「わかった。行って……。あいつがどれほどのものか……お楽しみだね。アイツのために配置された父の直属の奴らがいるよね」
「御先が配置されていますね」
その名を聞くと、弓弦はピクリと眉根をよせた。
「あの男……。まあいい、奴なら大神秀一なんか、敵じゃないよね。ってわけで……苦戦しているようだったら……手を貸してやって?」
弓弦は、顎を何度もさすりながら言った。
「わかりました。では、当初の指示通りに動きます……」
それだけ言うと、男は弓弦に向かって静かに一礼をしてから部屋を出ていった。
弓弦は男が部屋から出ていくのを見届けると、先程まで尊の座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。
「信乃ちゃん。ここからは提案。さっきの会話で気がついているかもだけど、大神秀一が君を助けようとして、ここまで追ってきた」
どくん。
信乃の心臓が大きく跳ねる。今まで味わったことのないような感情が溢れ出す。喜びと、恐怖がないまぜになったような……なんとも落ち着かない気持ちに襲われて、胸が痛くなってくる。
助けに来てくれた。その事自体は嬉しくないわけはない。けれども、こんなに早く助けに来るということは……。
「彼は……一人なのか?」
「そのとおり」
信乃は自分の体を抱いた。そうしなければ震えだしそうだったからだ。
秀一は強い。
けれどやはりまだ、大人になりきれていない子狼なのだ。
それに、彼はいまだに自分自身の変身をコントロールすることができていない。
獣化して信乃に傷を負わせて以来、彼は自分が変化することを望まなくなった。実はあの日依頼、秀一は狼の姿になったことはない。いくら信乃が「平気だ」と言っても、秀一の心に届かない。
そんな状態で、敵だらけの建物に一人で乗り込んでくるなんて、無鉄砲にも程がある。
八尋尊は、信乃には利用価値があるから生かしているのだろうが、秀一は?
そこまで考えて、目の前がすうっと暗くなった。
「ねえ、助けてあげようか?」
弓弦の言葉に、信乃は自分の腕を掻き抱いたまま顔を上げた。




