駆引・2
信乃は、トイレを出たところで立ち止まり、新しく加わった男をじっとみつめた。
イタリアンな香りのするスーツに身を包み、白髪交じりのオールバックに鼻の下の口ひげ。何よりも周囲を威圧するような空気が男の周囲を取り巻いていて、一度見たら忘れない……そんな存在感を持っていた。
中年男は信乃を一瞥すると、弓弦を振り返る。
「弓弦、安倍信乃が目を覚ましたら、すぐに連絡をしろと言ってあったはずだ」
外見に比べると、声はそれほど特徴的ではなかった。一般的な中年男性の声である。
「父さん、すいません。今、目を覚ましたばかりなんです」
弓弦は椅子から立ち上がり一歩後ろに下がって男の背後に控えていた。
男は再び信乃に向き直ると、上から下へ、そして下から上へ、何度か視線を往復させる。
「君が、安倍のところの娘か……」
信乃がキュッと唇を結んだまま返事をしないでいると
「まあいい。私は八尋尊、弓弦の父だ」
と自分から名乗り、先程まで弓弦が座っていたパイプ椅子に腰をおろす。
信乃はトイレのドアを背にしたまま、戻ることも男に近づくこともできずに、佇んでいた。自分も名前を名乗ろうかと思ったが、自己紹介するまでもなく、こちらのことはわかっているようなので、やめておいた。
「色々聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「聞いたら答えてくれるのか?」
信乃の答えを聞いた尊の口元は小さく歪み、微笑んでいるようにも見える表情になる。
「なるほど、気の強いお嬢さんだ」
パイプ椅子がギシッ……と軋み、タイル張りの部屋の中にやけに大きく響いた。
「まあ、立ち話もなんだ。君もそこにかけたらどうだい?」
尊が指し示したのは、先程まで信乃が横になっていたベットの上だ。
信乃は尊から目を離さなようにしながら少しずつ近づくと、尊と向かい合わせになるようにベットの端に腰を掛けた。
「なにが聞きたいか、言ってごらん」
「……あんたの目的はなんなんだ」
尊は腕を組み、幾度か小さく頷いた。
「先祖返りの姫君。君には知る権利があるかもしれないね」
尊の口調は穏やかだったが、無理やりこんな地下に押し込めた上に首輪をはめて自由を奪われたのだ、到底緊張を解くことはできないし、信用するなんてとんでもない話だ。けれども、話すことは嘘ばかりではないかもしれないし、話すことで、なにか解決の糸口が見つけられるかも知れない……。
「私たちは、君の父上とは考え方が違ってね。人間の中に紛れて生き永らえようなんていう気持ちは、毛頭ないんだよ。人間が増えすぎ、地球上から闇が消えていこうとするのなら、神である我々が間引いてやればいいまでじゃないか」
「神?」
「人間から見れば、我々妖のものは、神にも等しい存在ではないかい? じっさい神の使いとして、または神本体として崇められているものたちも多い」
「ありきたりな考え方だな。神だの妖だの、単なる名前じゃないか。しかも、その名をつけたのは、人間だろう? 笑えるな。で? それがどうして僕を人質にとらなくちゃいけないんだ? ずいぶんゲスな神様だな」
そう指摘した途端、信乃の頬が鳴った。
頬を打たれた勢いで、信乃はその場に倒れ込む。
熱い頬に手を当てて、倒れたまま尊を見上げ、睨みつけた。
「ほんとのことを言われたら殴るんだな。僕を人質にとってどうするんだ? 学園開校の阻止でもしようというのか? あ……うっ!」
尊が、信乃の首輪から伸びる鎖に手を伸ばした。そして、鎖ごと信乃を引き上げる。
「おまえを躾る時間は充分にあるぞ。学園開校への横槍。それも一つの楽しみの一つではある。それにしても今日は幸運だったよ。弓弦には、学園の周辺でひと騒ぎ起こせばいいと指示していたが、君をここに招待することができたとはね」
片手で信乃を縛める鎖を引き上げながら、尊のもう一方の手が信乃の顔をあおむけさせた。
あまりの苦しさに、信乃は喉奥でケホケホとむせた。
「我々が欲しいと思ったのは、君自身だよ。阿部信乃。だから我々の目的はもうすでに達せられているのだ。君の持っている異界渡りの力。あれはなかなかに魅力的だ」
「……!」
鎖から尊の手が離れて、信乃はベットの上に崩れ落ち、肩を揺らしながら激しくむせた。
尊たちの目的は、信乃にとっては予想外なものだった。
幼い頃から先祖返りの姫だの、異界渡りの能力者だのと大層な呼び名を付けられていたが、その力が何かの役に立ったことなど、これまでただの一度もない。
そのくせあの力のせいで周囲の人々からは敬遠される。
欲しいという者がいるなら、熨斗をつけて譲ってやりたいような力だ。
「あれは……あの力は……」
少し治まってきた呼吸の中から、信乃は声を絞り出した。
「あれは、なんだね?」
「あれは……僕の自由にはならない。僕を捉えたところで、僕にさえコントロールできないのに、あの力を扱えはしないと思うけど」
「ああ、いいんだよ」
さっきまでの嵐のような激昂が、まるでなかったかのように、尊はとても優しげな表情をした。
「まだ君はほんの子どもじゃないか。これから覚醒するということもあり得るだろう? 我々としても、先祖返りの”姫”として、大切に預からせてもらうよ」
「大切に?」
信乃は勇気を振り絞り、抗議の意味を込めて自分の首から伸びる鎖を持ち上げてみせる。
「ああ、済まないねえ。お姫様に傷でもついたら大変だからね、行動は制限させてもらうよ。今は首だけだけど、もし暴れるようなら手枷足枷も準備しなくてはいけないね。我々としても、そうならないように願いたいのだが……」
信乃は横を向いて鎖から手を離した。
平静を装いながらも、心の奥底では今自分が置かれている状況への恐怖がじわりと広がり始めていく。
灰色の箱の中で。
この男は、いつか信乃が覚醒するかもしれないと言った。信乃自身が目的なのだといった。
単なる人質ならば、交渉次第でここを出る糸口が見つかることもあるかもしれない。
けれど、信乃自信が目的であるということは、事態がどう動こうと、信乃をここから解放する気など、さらさらないということだ。
いままで自分にとって親しかったものたちと二度と会うことができないかもしれない。
黒い恐怖に飲み込まれて、叫び出して、泣きわめいてしまいたくなる。
信乃は喉を鳴らして口の中にたまった唾液を飲み下した。それと一緒に広がり始めた恐怖も心の奥底に押し込めようとする。
――落ち着け。僕が目的だということは、僕が壊されたり、殺されたりすることは無いっていうことだ。
そう自分自身に言い聞かせる。
「もし……」
それでも、ようやく発した言葉は情けなくも声がかすれていて、信乃はもう一度つばをコクリと飲み込んだ。




