異界・3
――そうして。
その日の出来事は、秀一にとって生涯忘れられないものとなった。
真夏の、真っ白な日差し。
畑の周囲に植えられた木々。
蝉の声。
滴る汗。
張り付くシャツ。
揺らめく蜃気楼。
三人は、蝉を見つけては捕まえて、カゴの中に入れていく。
秀一が「よーい、どん!」と言ってから「おわり!」と言うまでに一番たくさん蝉を捕れた者が勝ち、という単純な勝負だ。
捕っていいのは畑の中だけ。畑から出たら反則負け。
畑の周囲を取り囲むように植えてある木々にはたくさんの蝉がとまっていて、獲物に困ることはない。三人ともその遊びに夢中になっていた。
秀一たち大神家の一族の者は、鼻がきく。
翔たち天羽家の一族の者は、予兆を感じる力がある。
最初にそれに気付いたのは翔だった。
「秀一、なんだか嫌な感じがしないか?」
木にとまるミンミンゼミを捕まえようとしていた秀一は、翔の声にふと集中が途切れた。
ジジッ……!
もうあと少しで捉えることが出来たのに、蝉は伸ばした網の先から逃げていってしまう。
「ああああぁぁぁぁ!」
振り返って、翔を睨んだ。
「もう、なんだよ! 嫌な予感って! お前が負ける予感だろう! 俺もう少しであと一匹……」
しかし秀一は、あたりに漂いはじめたただならぬ気配に、残る言葉を飲み込んだ。
「来る! 匂いがする……何か、来る!」
秀一は鼻をひくつかせながら、あたりの様子をうかがった。
「信乃! 信乃ーーぉ! どこにいる!?」
翔が大声で呼びかけたけれども返事がない。
「信乃おぉ! どこだぁ!」
秀一も口元に手を当てて、大きな声で呼びかけた。
「しゅ……いち……」
秀一の耳が信乃のささやきを拾った。
声のする方向をたどると、広い畑のちょうど反対側の木陰に信乃が立っていた。
ぞわり。
秀一の全身の毛が逆立つ。
なにか、とてつもなく恐ろしいことが起きようとしている。
しかもそれは、信乃のいる方角からやって来ようとしていた。
「走れ! 信乃!」
秀一の声に弾かれて、それまで固まっていた信乃が、よろよろと足を動かしはじめた。
「なんだこれ? この気配……」
つぶやく秀一の額には、暑さのせいではない汗が吹き出していた。
「知るか。なあ、なんだか涼しくなってきたみたいじゃないか?」
異変を察した翔も、腰を落とし、不測の事態に備えているようだ。
秀一の耳がピクピクと動いた。思わず歯をむき出して、唸ってしまいそうになる。
何かとんでもない異質なものが、信乃の背後から忍び寄って来る。
信乃もそれを感じ取っているらしい。焦りからか、それとも恐怖からなのか、足がうまく動いていない。
そんな信乃の様子を見て取った秀一は「そこの後ろのでっかい木に登ってろ!」と翔に一声かけてから、全速力で走り出した。
「わかった」
翔は身体が大きく、おっとりしているように見えるが、普段の動作がゆっくりなためにそう見えるだけで、実は機敏で判断力もある。
秀一の指示に迷うこと無く従い、持っていた虫取り網を投げ捨てて赤樫の大木を登りはじめた。
秀一は信乃に向かって走りながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。
信乃の周囲の景色が変化していく。
近づく気配は、異質な『モノ』などという生易しいものではなかった。
耕された畑の土が、きゅうりやナスやトマトが、さわさわとさざめく黄金の光に飲み込まれていく。
そしてその景色の向こうから、真夏の畑の中とは思えないような涼やかな風が、秀一に向かって吹き付けていた。
風にそよぐのは、少し緑がかった黄金色の……稲の葉のような形状をしたもので、まるで収穫期の田んぼのようにさわさわと光る金の波が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
透けて見える立体映像が次第に濃さを増し、この現実の世界を飲み込もうとしている。
信乃は幾度も躓きながら、異質な世界に追い立てられるように秀一に向かって走っていた。
秀一たち大神家の一族は足が早い者が多く、全速力で走れば、子どもですらオリンピック選手並のスピードを出すことができる。
一直線に走る秀一と、よろけながら走る信乃の手が繋がった。
ただ風にそよいでいるように見えた金色の葉が、ざわりと意思を持つ。
ぼやけていた景色がはっきりと色を持ち、踏みしめていたはずの地面が波打った。
秀一は満身の力を込めて信乃を引き寄せると「よいしょお!」という掛け声をあげ、抱き上げた。
信乃の足に巻き付いた金の触手が一本地面から抜けて、その途端にはらり崩れて消えていった。
秀一は自分と大差ない体格の信乃を抱えながらも一切スピードを落とさない。
普通の九歳の子どもにはとてもこんなことは出来ないだろうけれども、秀一は山津見の神の眷属である。その中でも誇り高い、大神の一族の棟梁息子なのだ。
そのプライドが秀一の足を動かしていた。信乃を抱いた手がジンと痺れたが、絶対に離すもんか! と、歯を食いしばった。
走る先には翔が待つ赤樫の大木がある。
「あれに登れるか?」
秀一は信乃に聞いた。
秀一の腕の中で信乃は首を伸ばし、目的の大木を確認している。
「どうだろう。あまり自信はないな。それに、あの木に登ったからって、逃げ切れるとは限らないんじゃないか?」
秀一に抱きかかえられているくせに、信乃は恐縮した様子もなく、淡々とした口調で答えた。
「逃げ切れる! 異界の匂いが、あの木の上はしない。重なっているのは、この畑の地面に近いあたりだけだ」
秀一はたどり着いた赤樫の木の下で、信乃を下ろした。
けれども信乃は木に登ろうとはしない。それどころか
「助けてくれてありがとう。でも僕には登れないと思う。君だけでも逃げてくれよ」
などと言い出し始める。
――せっかく助けようとしてるのに、ふざけるな!
そう言おうとした秀一だったが、目の前の信乃の青い顔と、ぎゅっと力の入った肩を見た途端、怒りがしゅんとしぼんでいった。
信乃の肩に両手を乗せると、秀一を見上げた信乃に向かってニカッと笑いかける。
「そうはいくか。ちょっと待ってろよ」
そうして、秀一は木に登り始めた。