内覧会・5
その時確かに、危険を知らせる漠とした予感のようなものはあったのだ。
けれど、秀一も翔もそれなりに高い能力を持っており、クマに襲われたとしても対処できる、という自信が彼らにはあった。
それに、三人のいる場所がまだ学園の目と鼻の先……敷地内であるということが、警戒心を鈍らせていたのかもしれい。内覧会という常とは違う状況に、浮かれていたのかも知れないし、ちょっとした冒険心も、心の何処かにあったのかもしれない。
つまり三人は、学園に帰ることより、その先に足をすすめることを選んだのだった。
「信乃、俺と翔の間にいろよ」
秀一はそう言うと、細い獣道へと分け入って行く。
秀一、信乃、翔の順番で一列に並び、ガサゴソと獣道を辿っていくと、あっという間に少し開けた場所に出た。
小さな沢が流れている。
秀一はそこで歩みを止めた。
広い場所へ出たけれど、周囲は薄暗かった。木々に囲まれていることももちろんだが、陽も陰り始めていた。つい先程まであれほど青かったのに、梢の間から見える空はすっかり灰色に変化している。
「クマだ!」
「え? クマ?」
信乃と翔が秀一の影から顔を覗かせた。
「ああ、クマが……死んでる……?」
信乃が見たままをつぶやいた。
小さな沢の流れのそばに、一頭の大きなクマが倒れている。
しかも、クマの死骸の下には血溜まりが出来ていた。
食物連鎖のてっぺんにいるはずのクマが、血を流して倒れている。それは、常ならありえないことだろう。
秀一と翔はソロリソロリとクマに近付いていった。
「ここで待ってる」
信乃は近づくことをためらい、獣道の出入り口のあたりに立ち止まったままだった。
「わかった。確認だけしたら、すぐに帰ろう」
雲行きも怪しくなってきているし、時間ももう昼になろうとしている。それぞれの両親も心配しているかもしれない。
ここに長居をするつもりはなかった。
ただ、どう見ても目の前のクマの死骸は異常だったし、大人に報告するためにも一度確認をして、それから戻ろう。その時秀一はそんなふうに考えていた。
近づくと、血の臭が強くなる。秀一だけでなく、翔も、信乃さえも、その臭いを感じているはずだ。
近くで見ると、クマの首には、パックリと開いた傷があった。
食いちぎられたという感じではなくて、鋭い刃物――しかもかなり大きなもの――を使って一太刀で切られた、そんな傷だった。そこからまだ血が流れ出している。
それ以外の外傷はさっと見たところ確認できない。
誰かがクマを殺した。しかも、たった今! たったの一撃で!
こんなことができるのは獣ではないだろう。もちろん人間にだって、不可能に近いのではないか?……こんなにスッパリときれいに首のみを狙ってクマを殺せるような人間が、いるだろうか? もしいたとしたら、その者はかなりの手練である上に、刃物を持って歩いているような人間だということになる。
しかし人間でないとするなら、何者がクマを殺したというのだろう。
妖しの者?
もちろんこの山の中に、今日は人外の者たちがわんさかと集まっているわけだが、内覧会へやってきた者が、こんなことをするだろうか。
気がつくと、秀一の背中には冷や汗が吹き出していた。
帰ろう。
そう言おうとした矢先、背後で短い悲鳴が上がり、周囲から複数の気配が立ち上る。
クマの上にかがむようにしていた秀一と翔が振り返ると、周囲はもうすでに、十人ほどの黒い服を着た者たちに取り囲まれていた。
全員が黒の服を着ているが、揃いというわけではない。ジャケットを羽織っているものもいれば、タンクトップのものもいる。ワークパンツのものもいればジーンズのものもいる。
性別も姿かたちもてんでんばらばらだ。逞しい体つきのものが多いが、中には痩せているものもいるし、手足の長いものや、猫背のものもいる。
その一人ひとりから、殺気に満ちた空気が立ち上っていた。
自分たちを取り囲む者たちに一通り目を通した秀一は、彼らの中に一人だけ、秀一たちと同じくらいだと思われる子どもが混じっているのに気がついた。
色白のほっそりとした少年で、体格は信乃とほぼ同じ。ショートボブの髪型も似ているため、顔を見なければ、一瞬信乃が立っているのかと思ってしまうほどに、その少年と信乃はよく似ていた。
けれども、と秀一は思う。
目が、違う。
少年の目は、黒目が小さくやや上に寄っていた。いわゆる、三白眼と呼ばれる相貌である。それと、口元にあるホクロが印象的だ。
その少年の斜め後ろに、大きな体の男が立っていて、腕にぐったりとした信乃を抱えていた。
男の足元には、郁子の実がコロコロと転がっている。
「誰だ、お前ら」
秀一と翔は無意識のうちに背中合わせになった。
「やあ、はじめまして。大神秀一くんと、天羽翔くんだよね」
小さな声で、少年が言った。つぶやくようなかすれた声だった。
どうやら一番年若いように見えるこの少年が、ここにいる者たちのリーダーであるらしい。
「僕は八尋弓弦。憶えておいてね。ああ、僕たちが誰かという質問だったよね。まあ、なんていうか、学園建設反対派っていえばいいのかな? 人間と手を取り合って、人間の中に溶け込んで、陽の光の中で生きていく……っていうの? ありえないよね」
少年の口元は笑っているように釣り上がっていたが、じいっと秀一と翔を凝視する瞳は笑ってはいない。
会話の間にも、二人を取り囲んだ者たちは、ジリジリとその環をすぼめていた。
「そのクマはとても役に立ってくれたよ。君たちの気をそらしてくれたし、クマの血の臭いは、僕たちの気配を消してくれただろう?」
「殺したのか?」
秀一は聞いたが、弓弦はひょいと肩をすくめただけで、それには答えなかった。
「じゃあ、僕はもう行かなくちゃ。先祖返りの能力者は頂いていくね?」
それだけ言うと、弓弦は踵を返して、獣道の向こうへと消えていく。信乃を抱いた大柄な男も、その後に続いた。
「待てよ!」
秀一は後を追う。
地面を蹴り、取り囲む大人を飛び越えて、その向こうに消えようとしている少年と、信乃を抱きかかえた男へ一直線に飛びかかろうとした。が、周囲を取り囲んでいた内の一人が、跳躍した秀一の前に移動しながら腕をひと振りする。その手の中には大人の腕ほどの釜のようなものが握り込まれていた。
勢いに任せて飛び出していた秀一は慌てて身体を反転し、地面に転がる。
「秀一!」
秀一に一呼吸遅れて動き出した翔が、低い姿勢のまま突進して、秀一に向かって鎌を振り上げた男に体当たりをした。翔のタックルを躱すことのできなかった男は、その場に崩折れたが、一息する間もなく、周囲を取り囲んでいた者たちが、一斉に翔めがけて踊りかかった。
「翔!」
慌てて身を起こし、翔に群がる敵に向かおうとした秀一に、翔の声が届く。
「信乃を追え! 俺は大丈夫だ! 信乃を!」
瞬間、秀一はもうすでに小さな空き地から離れ、獣道を信乃の臭いを頼りに走り抜けていた。
迷いはなかった。
今まで経験したこともないほど、頭に血が上っている。
どくん、どくんと、こめかみのあたりの血管が脈打っているのを感じた。頭の中は真っ白で、おそらくその時秀一は何も考えず、ただ本能の命じるまま、突き動かされるように林の中を走り抜けていった。




