内覧会・3
広大な自然。
などという言葉があるが、山奥という場所はそのイメージに反して、意外と人の歩ける場所は少ない。
九十九学園周辺もその例にもれない。学園への道路は整備されてるが、そこから一歩外れれば鬱蒼とした林の中なのである。
よほど山歩きに慣れたものでなければ、道を外れたら最後、あっという間に方向感覚を失ってしまうだろうし、遭難ということも、ありえない話ではない。
実際、県道まで後数メートルというところで、近くの集落のお年寄りが息絶えていたなどという事件も報告されている。
昔からそういう話は絶えることがなくて「狐に化かされた」などと言われることも多いが、当の狐としては不本意極まりない話だろう。
『まあ、狐が化かすこともまったくないとは言わないけど、半分くらいは人間が勝手に遭難してるだけだよ。安倍家をはじめ、もともと狐族だったものは、今は山を降り街中で暮らしているやつらが多いんだ。人間の姿のままで一生を終えるものも少なくない』
というのは、信乃のコメントだ。
「しっかし山奥だな」
そう言ったのは、秀一で
「そうか? それほどでもないだろう?」
と答えたのは翔だ。
天羽は山の神として古くから人間たちの間で崇め奉られてきた一族である。
中部地方のとある村に、天羽山という小さな山がある。その山の中腹に、天羽山本体を御神体とする天羽神社があり、その神社より先は一般の人間の立ち入ることのできない、禁足地になっていた。
神の領域と言われるその場所で暮らしてきたのが、翔の先祖たちである。彼らは周辺の村人たちに、神域天羽山に住む神の一族とみなされてきたのだった。
天羽の一族の特徴は、まず第一にその大きな体だろう。
秀一たち狼族や信乃たち狐族の仲間たちは人間形に変化すれば、ほぼ一般の人間と変わらない容姿になることができた。だが天羽は、本来の姿を隠し人間の形になっても、かなり目立つ容姿なのである。
体格ばかりでなく、肌や髪の色が突飛な場合も少なくない。翔の場合、肌の色は一般的な肌色だったが、髪の色がめったにお目にかかれないほど赤い。
今の時代は髪を染めてるものも多いし、体格も昔の日本人とは比べ物にならないほど良くなっているから、天羽の一族が下界に降り人間に紛れることも、なんとか可能になっている。しかし昔は、なかなか難しいことだったに違いない。
下界に降りた彼らを見た人間が「鬼」だの「天狗」だのと、彼らを称したのは、無理からぬ事だったろう。
非常に長命。そして何故か女性がほとんど生まれないという、妖しのなかでも、独特な種族である。そのせいなのか、今でも天羽山の奥で、人とほとんど交わること無く、ひっそりと暮らしている。
新設される学園は、こうした人非ざるものが通うための学校である。ひと学年たった二クラスの、初等科から高等科までエスカレーター方式の全寮制の学校というのは、なかなかに特殊ではあるのだろうが、表向きは学校教育法に規定された学校法人の設置する普通の学校ということになる予定だ。
「うちは、東京の住宅街の中にあるからな」
信乃の家族は、人間たちの間で拝み屋として生計を立てている。都会育ちの信乃は、物珍しげに道路脇の斜面と、その先の藪を眺めていた。
「秀一の家にはときどき遊びに行ったが、あそこは人里離れているとはいえ、ここまで山奥という感じではないからな」
大神家は山間にあるものの、大山津見神社裏の大鳥居から大神の屋敷までは、開けた平坦な土地である。鳥居から先は結界が張られていて、人間の目には林が見えるだけなのだが、人外の者が結界の入り口を抜けると、その先には大神一族の住む里が姿を現す。里の背後には山があるが、大神の者の手が入っており、深山ではなく里山なのである。
今三人が歩いている道路は広く真新しいが、その道の両側は入山を拒むように木々が生い茂り、太陽の光の届かぬその場所は、ほの暗く肌寒い。
ガサガサ……ッ。
物音がして、三人が歩みを止めた。
左手の藪の中だ。
「クマ……かな?」
翔が言った。
「クマ! いるのか!」
信乃の瞳がらんらんと輝きはじめる。
「信乃、動物園じゃないんだぞ。こんなとこでクマと乱闘なんて、親父に知れたら怒られる」
秀一が言うと、信乃がちょこっと首を横に倒した。
「なんだ、やっぱりおじさんのことは、怖いんだな」
などという嫌味に、秀一の心拍数は一気に跳ね上がった。
「怖くなんかねえよ! 面倒くさいだけ! こんな日に騒ぎなんて起こしてみろ? あのクソ真面目な親父にまたネチネチ嫌味言われんだぜ。そんで、ガキとか思われんだぜ。ほんっとうざい……。お前、うちの親父、あれでけっこうねちっこい……」
「まあ、クマは本当にいるだろうから、信乃は俺たちの間にいたほうがいいな」
秀一の愚痴をきっぱりと無視しながら、翔が信乃を挟むような位置に立った。「そうだな、ありがとう」と答える信乃も、秀一の怒りなどどこ吹く風だ。
「お前ら! 俺の話ぜんっぜん聞いてないな!」
と怒る秀一の肩を、信乃はなだめるようにポンポンと叩いた。
けれどすぐ信乃の視線は、秀一の後ろの藪の中へと向かう。
「あ、あんなところに……!」
何かを見つけたらししい信乃は、走り出す。
「あ! てめぇ! 信乃! クマが出るって翔に言われたばっかだろうが! 一人で行くな」
自分の力を操ることのできない信乃は実戦となるとてんで役に立たない。力をコントロールできていないのは秀一も翔も同じだったが、その上安倍家の人間は、人の中で過ごすことを選んだ時点で、本来の姿を晒すことをタブーとしてきた一族でもあり、種としても戦闘の能力が低い。自らが主となって戦うというよりは、補助的役割や、用意周到な罠や策略を用いた闘いを好む種族である。
本来の姿は狐であり、その戦い方が、ずる賢いという人間のイメージに繋がっていったのかもしれない。
ずんずんと藪の中へ入っていく信乃を、秀一と翔の二人は慌てて追う。
一瞬、木々の影に信乃の姿が消えて、二人は足を早めた。




