約束・6
それから秀一は着替えをして、午前中は一人で蝉取りをして過ごした。
虫取りかごを二っつ首からぶら下げて、何匹もの蝉を捕まえると、二つのかごの中に交互に押し込める。
それぞれに十匹程度のミンミンゼミやアブラゼミを押し込めてから家に戻ると、まだ信乃は寝ているらしかった。
「そろそろお昼なので、信乃さんを起こしてきてあげてください」
台所から出てきた露が顔を出した。
「わかった!」
秀一は玄関に靴を揃えてスリッパに履き替え、首から虫かごを二つ下げたままゲストルームへと走る。かごが跳ねる度に、ジジ……ッ! と、蝉が鳴いた。
そうっとゲストルームのドアを開けてみると、薄暗い部屋のベットの中で、信乃はまだすうすうと寝息を立てている。まっすぐ上を向いて寝ているのが、なんだか信乃らしいと秀一は思った。
広い額に落ちた少し長めの前髪を指先で払ってやると、眉間にしわが寄る。まつげがほんの少しだけ震えるけれど、目をさますことはなかった。
こうしてよく見ると、たしかに女の子っぽい顔立ちかもしれない。
白い頬が、触れたら消えてしまいそうなほど頼りなげに見えて、どきりとする。だからわざと元気な声を出して、遮光カーテンを勢いよく開いた。
「信乃、起きろよ! もう、お昼だぞ!」
夏の太陽が部屋の中に濃い影を落とす。
ううんと唸る声がして信乃が光から逃れるように寝返りをうった。
「しゅ、いち?」
まぶしげに目を細めてこちらを見ている。
「こっち来いよ信乃!」
大きく開け放した窓から、暖かい空気がむわっと部屋の中に流れ込んできた。
「今日も、いい天気だぞ!」
呼びかけると、信乃は裸足のままペタペタと秀一の隣へとやってきた。髪の毛が一束ぴょこんと飛び出している。眠たげにゴシゴシと目をこすっていたけれど、秀一の首から下るかごに目を留めると、ようやくしっかりと目を開いた。
「蝉?」
信乃が虫かごの中を覗いた。
かごの中では、時折「ジジッ! ジジッ!」と、蝉が短い声を上げたり、思い出したようにバタバタと大騒ぎをしたりする。
「昨日の蝉はどっか行っちゃったからな。もしかしたら異界でとんでるかもな」
異界を翔ぶ蝉を想像して、思わず笑った。笑いながら二つのかごの内、一つを信乃に手渡す。
「逃がすぞ。セミは取るのも楽しいけどさ、集めたセミを逃がすときも楽しいんだよな」
信乃は手にしたかごの中で蝉が暴れる度にビクビクしながらも、真剣な顔でかごを開こうと格闘していた。
秀一が手本を見せるようにかごの留め具を外し、パカっと開いてみせる。セミたちはジジジジと不平不満を漏らしながらもバタバタと飛び立っていく。
信乃も、秀一を真似て、かごを大きく開いた。
「翔んでけ!」
信乃の手にしたかごからも一斉に蝉が飛び出していく。びっくりしたのか、羽ばたきもせずにかごからまっすぐに落下した蝉も、地面につく前に羽を広げ、空へと消えていった。
「信乃、また遊びに来いよ」
ニッカリと笑ってみせる。
信乃は相変わらずの無表情だ。
だけど……。
「遊びに来てもいいのか?」
「うん。昨日はゴメンな」
秀一は包帯の巻かれた信乃の首を指差した。信乃は秀一の指に誘導されるように少しだけ下を向いて、自分自身の体を眺めた。
「ううん。全然平気だよ。秀一は僕を咥えてあちこち走ったけど、僕のことを噛み殺そうとはしなかったんだよ。それでね、僕が怪我しているのを見たら、大きなベロで舐めてくれたんだ。それから僕を抱えて、眠っちゃった。真っ白な狼は、すごくもふもふだった」
「も……もふもふ!?」
「うん」
――もふもふってなんだ? かっこよかったとか、そういうんじゃないのか?
まあ、信乃が無事だったのだから、そんなことはどうでもいいのだ。もし、信乃の命にかかわるような事態になっていたら、自分だって、ただでは済まなかっただろうし。と、気を取り直す。
「俺もまだ、自分の変身をコントロールできないし、また、満月の晩には記憶なくしちゃうかもしれないし……」
「そんなの! 気にしないよ!」
被せるように信乃が言った。
「俺、信乃の第一守護者なんだろ?」
秀一の言葉に、信乃はぶんぶんと首を縦に振る。
「だったら、ちゃんと信乃のこと護れるように強くなんなきゃならないだろ。まだ俺、全然ダメだし。ちゃんとさ、強くなったら絶対そばにいて、守ってやるって!」
「約束か?」
「約束だ」
「そっか……」
二人ははうつむいて、小さな沈黙が流れた。
くううぅうぅぅ。きゅるるるぅ……。
信乃の腹から、やけに長い腹の虫が聞こえて、秀一ははっと我に返る。
「御飯だから、信乃を起こしてこいって言われてたんだ! はやく行こう!」
「待って……僕まだ寝間着だよ」
信乃の声を聞きながらも、秀一は回れ右をして、部屋のドアを開けた。
「先に行ってる! あ、それから信乃! 女の子でも、友達だからな!」
なんだかちょっと恥ずかしくなって、後ろを向いたままでそう言う。その言葉を聞いた時の信乃の顔を見れなかったことはちょっと残念だけど、自分だってきっと赤い顔をしているだろうと思う。
――こんな顔を見られるなんてゴメンだ。
信乃を置いたまま走り出す。
廊下の先からいい匂いがしてきて、秀一の腹もきゅうううううう、と、情けない音を立てていた。




