約束・5
沈黙を破り、ゴホン、ゴホン……! と、咳き込んだのは秀就だった。
露は秀一を見た後、咳き込む秀就を見つめ、また秀一に向き直ると、静かに微笑んだ。
「露は、どこにも行きません。秀一さんが大人になるまで、露はお嫁にいかないと決めているのです」
しずかに、けれどきっぱりと、露は言った。
「では、信乃さんを、お部屋に寝かせてまいりますね」
露は泰造から信乃を受け取ると、いつもと変わらぬ笑顔で一礼し、部屋を出ていった。
露が出ていく様子を眺めながら、秀一は心の中に暖かいものがじんわりと広がっていくのを感じていた。昨夜から心の内にできていた冷たいささくれが、すうっと消えてなくなっていく。
「秀一くん、聞いて欲しいんだ」
泰造からの声に、秀一は緩んでいた頬を引き締めた。
「あの……俺、信乃を傷つけちゃって、ごめんなさい」
頭を下げる秀一に、泰造は静かに首を振ってみせた。
部屋に残っているのは秀一と泰造と秀就だけで、一体どんな話をされるのか秀一には見当もつかなかったけれど、背筋を伸ばして居住まいを正す。
その間に泰造は、秀一の部屋にあった椅子をベットサイドに持ってくると腰を掛け、秀就は二人から少し離れたところにたち、壁に軽く寄りかかるようにして腕を組んだ。
少しだけ、泰造は何かを考えるように顎を撫で、そして、話し始めた。
「信乃はね、友達がいないんだよ。私たち妖は、子どもの数が少ないということもあるけどね、それだけじゃなくて、あの通り信乃はほとんど笑わないし、少しばかり変わっているだろう?」
秀一は泰造を上目遣いで見上げながら、ゆっくりと頷く。変わっているという言葉が何を指すのかはよくわからなかったけれど、たしかにあのガラス玉みたいな目は、見るものを落ち着かない気分にさせるかもしれない。
「少し前にね、友達になれるのじゃないかと思って、遠い親戚の……年の近い女の子を数人、家に呼んだんだよ。でも、信乃はお人形さんとか、おままごとといったことに、まったく興味を示さなかったし、それどころか異界渡りを起こしてね……。今日のような本格的なものじゃなかったんだ、ほんの少し、異界がうっすらと見えたって程度だったんだけどね、遊びに来ていた子たちは怖がってしまってね。で、信乃が言ったんだよ。女の子の遊びは好きじゃないし、女の子もすぐメソメソするから嫌いだってね」
「俺だって、友達だったら女の子より男の子のほうがいいけどな……」
「確かに君はそうだろうね。まあ、それで、今度は男の子を数人家に呼んだんだ。だけど男の子たちには、お前は女の子なんだから、女の子と遊べばいいじゃないかって、言われたらしいんだ」
泰造の言葉を聞いた秀一は、ぱちっと一度瞬きをした。
しばしの間。
そして
「ええぇっ!」
秀一は、自分の声の大きさにおどろいて、思わず口を手で抑えた。
けれども、好奇心のほうが勝ち、口から手を離すと泰造に質問する。
「信乃って……男の子じないの!?」
秀一の言葉に、泰造と秀就は思わず顔を見合わせた。
秀就は、やれやれというように、額に手を当てて首を振っている。
「父さんは、先祖返りの姫が来るから仲良くしなさい、と言わなかったか?」
「言ったけど……信乃って、全然女の子みたいじゃないじゃんか。それに自分のこと僕って言ったし……、だから俺、センゾガエリノヒメっていうのはお姫様のヒメじゃなくて、なんか、そういう言葉があるのかと思ったんだ。なんで、アイツ自分のこと僕って言うの?」
女の子なら、自分のことを「わたし」とか言って、スカートはいたり、髪を伸ばしたり、かわいいプリントのシャツを着たりしてるもんじゃないのか?
秀一の勝手な想像とはいえ、まるででたらめなわけではない。今まで会ったことのある女の子の外観から導き出されたイメージである。
信乃の姿には、女の子に結びつくようなものが一切なかった。
外見だけではなく、性格も秀一の知る女の子のイメージからはかけ離れていた。
「うん、それはね」
泰造がそっと秀一の方へ身体を乗り出して語りかけてくる。だから、秀一も真剣に泰造の語る話に耳を傾けた。
「男の子たちが帰った後に、信乃が言ったんだよ。僕は男の子になりたいって。男の子になったらお友達ができるかな? ってね。それまでは信乃も自分のことを「わたし」って言ってたんだけどね、それからは絶対自分を「わたし」って、言わなくなっちゃったんだよ。それで、僕はもしかしたら、秀一くんとだったら友だちになれるんじゃないかと思って、昨日は君たちに会わせるために信乃をここへ連れてきたんだ。信乃はお友達が出来てとても嬉しかったんだろうねえ。家に帰りたくないなんてわがままを言ったのは、初めてなんだよ。あんなに大泣きすることも、今まで無かったと思うよ。信乃が君に女の子だと自分から言わなかったのは、そう言ったらまたお友達でなくなってしまうと思ったからかもしれないね」
泰造の言葉を聞きながら、秀一は出会ってからこれまでのことを思い出していた。自分自身を「僕」と呼ぶことを除けば、たしかに女の子だとしても違和感はないかも知れない。
翔が実は女の子だった、なんて言われても絶対信じられないけど……。と考えて、笑いそうになってしまった。
秀一の頭の中に、あの変なTシャツにスカートをはいて、頭にリボンを結んだ翔の映像が、ぼわんと思い浮かんだのだ。
緩んでしまいそうになる頬を引き締めるのに、秀一はかなりの努力をしなければならなかった。
「信乃には異界渡りの力があるだろう。まだ彼女自信もコントロールが出来てない。だから、彼女のその力を知った者は、どうしても力だけじゃなくて、信乃のことも怖がってしまうんだ。もし異界に渡ってしまったら……。君も、昨日怖い思いをしただろう?」
秀一は昨日渡った異界の風景を思い起こす。
真夏だというのに、涼やかな風。生き物のように蠢く金のさざなみ。あの正体はわからなかったけれど、巨大な生物の一部なのではなかったかという気がする。
驚いたけれども、怖かったわけじゃない。
秀一にははっきりと現実への扉を感じることが出来た。もし異界に残ったとしても、もし魔物が出てきたとしても、そんなのちっとも怖くなんか無い。絶対やっつけられる。
今朝起きて、信乃を傷つけてしまったと知ったときのほうが、その何倍も怖かったんだから。
「怖くないよ」
泰造が秀一の瞳の奥を覗き込んでいる。
「ちっとも、怖くなんかないよ!」
しっかりと目を見つめ返しながらそう言うと、泰造は眼鏡の奥で微笑んだ。
「そうか……。じゃあ、これからも信乃と仲良くしてくれるかい?」
秀一は大きくうなずいた。




