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蝕・イクリプス  作者: 観月
Innocent
13/59

約束・4

 それが、秀一としての意識が残る、最後の記憶だ。

 自分自身を見失ってしまってから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 少し前から目は覚めていた。けれどあまりにも身体が重くて、起き上がる気になれないでいる。目を開けることすら億劫で……だから、赤い瞼の裏を見つめている。

 空気はじんわりと暑いけれど、風がそよぐと涼しくも感じた。

 昨夜、意識を失う前に最後に見たのは……信乃だった。

 少し眠たげな瞳。どうしたんだ? とでもいうかのように、ちょこっとかしいだ頭。サラリと黒髪が揺れて……。

 そして……?


 ――信乃?


 パチリと目を開くと、目の前には覗き込むようにこちらを見下ろしている、当の信乃の顔があった。

 秀一は起きたばかりのぼんやりとした頭で、ぐるぐると包帯の巻かれている、信乃の首や腕を目で追った。


「信乃? 怪我したのか? 痛いのか? 誰にやられたんだ? 俺が……」

「秀一くん! 目が覚めたのかい?」


 信乃の後ろには、何故か安倍泰造の顔がある。

 ――彼は信乃を置いて帰ったはずではなかったか?

 頭の中をクエスチョンマークが跳ね回っていた。

 ぐるりと首を巡らせて、間違いなく自分の部屋のベットの上で寝ていることを確認する。

 あたりは明るい。

 人工的な明るさではなく、夏の太陽の眩しいほどの光が、部屋の中に満ちていた。

 泰造は、朝になって信乃を迎えに来たのだろうか。


「覚えていないのかい? 秀一くん」


 泰造が近づいてきて、信乃の後ろから心配げに秀一を見下ろした。


「秀一、目が覚めたのか」


 カチャリと開いたドアから姿を表したのは、父の秀就だった。


 ――なんだって、みんなして俺の部屋に集まってくるんだ?


 そう思ったところで、秀一の脳裏に昨夜の景色が、くっきりと蘇ってきた。それは、匂いや触感まで伴うような、はっきりとしたイメージだった。


 フローリングの長い廊下は銀色の月に照らされて、夜だというのに異様な明るさだった。

 その輝きの中に、ひとつ影が落ちる。

 影の形を、秀一は覚えている。

 獣のような四足の影は、自分自身から伸びていた。影からつながる己の腕はフローリングを踏みしめ、真っ白な獣毛に覆われていて……。


「俺っ!」


 勢いよく跳ね起きた。


「思い出したか、秀一」


 秀一は父を見た。


「おまえは昨夜生まれて初めて本来の姿を取り戻したんだ。ただ、まだ自分自身でコントロールは出来ていないな?」


 秀就の言葉をどこか遠くで聞きながら、秀一は、華奢な体を包帯でぐるぐると巻かれている信乃へと視線を移す。


「俺がやったのか? 信乃のこと、俺が……」


 意識のないうちに、誰かを傷つけてしまったのではないかという恐れが、掛布を握る手を震わせてた。

 信乃を守ると言ったのに、その自分が……他ならぬ自分自身が……信乃を傷つけたのか?

 すうっと血の気が引いた。

 朝の光が眩しすぎて、目眩がする。

 じっと秀一を見つめる信乃の目は凪いでいたけれども、信乃の痛々しい姿を見ていることが苦しくて、秀一は信乃から目をそらした。


「そうだ、秀一。お前は本来の狼としての体を取り戻した。しかし、己をコントロールできず我を忘れてしまった」

「そんな……」


 いつかは覚醒するのだと思っていた。


「若い狼にはよくあることだ。そのせいで人狼というものは、人に嫌われ恐れられる。ただ、今の秀一は、信乃ちゃんにとっても危険な存在だ。少し距離をおいたほうがいい……」


 覚醒には個人差があるから、幼い頃から狼化を繰り返すものもいるし、なかなか本来の姿にならずに成長するものもある。

 感情と理性の制御のうまいものほど、人間の姿のままでも自由に力を扱えるし、狼の姿になっても自分を失うことは無く、意識を保ったまま最大限の力を引き出すことが出来るのだという。

 覚醒した事自体は喜ばしいことだったが、狼と化した間のことを少しも覚えていなかったということは、大きなショックだった。

 大山津見の眷属である狼族の中でも、最も格の高い大神家の跡取りであり、そんじょそこらの輩になんて負けないと思っていた。もし、覚醒することがあっても、自分自身を失ったりしない。そのはずだと信じていた。

 その自分が理性をなくし、よりによって信乃を傷つけた。

 秀一は布団を握りしめる自分の手を、呆然と見つめた。


「やだよ!」


 途端に暖かな重みが、秀一に飛びついてきて、はっと我に返る。


「僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!」


 秀一は飛びついてきた信乃を上に乗せたまま、ベットの上にひっくり返ってしまう。


「信乃……」

「信乃ちゃん……」


 泰造と秀就の声が重なっていた。


「ヤダ! 秀一は僕の友達なんだから……それに、一番の守護者になってもらうんだから……ずっと一緒にいるんだから!」


 秀一の首筋が暖かく濡れてる。

 秀一は恐る恐る腕を上げ、泣きついている信乃の背中に腕を回した。片方の手で信乃の真っ黒でサラッとした髪の毛に触れ、もう片方の手は、ポンポンと規則的なリズムで信乃の背を叩いてやる。

 あの信乃が泣いている。あまり感情を映さないガラス玉みたいな瞳から溢れてるのは、間違いなく少し塩辛い涙だ。

 やだやだと、だだっこのようにぐずりながら泣いている信乃を、大人たちは引き剥がそうとはしなかった。

 暫くの間そうしていたら、腕の中の信乃の泣き声が次第に小さくなっていく。ふと気がつくと、耳元からはすうすうと、小さな寝息が聞こえてきた。


「すまないね、秀一くん。信乃は、昨夜一睡もしてなかったんだよ」


 ぐったりと重くなった信乃を、泰造が抱き上げた。

 秀就に呼ばれた露が部屋へとやってきて、目を覚ました秀一に気分は悪くないか? どこか、体におかしいところはないか? と、心配そうに聞く。

 大丈夫だと答えると、嬉しそうに笑って「今日はお赤飯を炊きましょうね」なんて言っている。いつもと変わらない笑顔がそこにあった。

 いくら狼に变化することが出来たと言っっても秀一としてはちっともめでたい気分なんかじゃないのに……。 

 けれど、いつもと変わらない露の笑顔に、秀一の中にあった黒いしこりのようなものがふわっと解けたように感じた。


「ねえ露。お嫁に行くの?」


 ほとんど無意識に、秀一はそう尋ねていた。自分の言葉に自分がびっくりしたくらいだ。

 いつもと変わらない露の態度に安堵して、思わず口をついて出た質問だったのだが、その途端に、部屋の中の空気がビシリと凍りついたのだった。


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