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蝕・イクリプス  作者: 観月
Innocent
12/59

約束・3

 寝る前に入れていたクーラーはいつの間にか止まっていた。

 閉め切ってあった部屋は、むんとした空気が充満していて、着ていた寝間着はじっとりと湿っていた。

 秀一は身を起こすと、ベット脇の出窓を開けた。

 田舎の夜は涼しい風がそよいでいる。

 庭からは、池に流れ込む水音がサラサラと聞こえて、時折り「かこん」と鹿威しが鳴った。

 ふう、と秀一は大きく息を吐き、フローリングに足をおろす。

 気がつくと、喉がからからだった。水を飲みに行こうと、裸足のままキッチンへと向かうことにする。


 ヒタ、ヒタ、ヒタ…… 


 しんとした廊下に月明かりが落ちて、その中に浮かび上がるのは自分の影だけだった。

 しかし、もう誰も居ないのではと思ったキッチンには、思いがけず明かりが灯っていた。

 キッチンへ入るためのドアはガラス張りで、中の様子が見えるようになっている。

 女のお手伝いさんが二人、何やら作業をしているようだ。

 忙しそうに立ち働いている女性の横顔が見えた。

 一人は露だった。思いがけないところで露を見つけた秀一の胸の中に、じわりと温かいものが広がる。

 露のあの笑顔を見ているだけで、寝苦しさも、さっき見た嫌な夢も、安堵の中に溶けていくような気がした。


「露さん、明日の準備も終わりました」

「ありがとう。こちらの片付けも終わったわ。どう? 一服してから上がらない? 今日のお客様から頂いたチョコレートがあるのよ」

「わ! いいんですか?」


 そんな声が聞こえてくる。

 キッチンへ入りそびれた秀一は、いっそのこと引き返そうかと思った。けれどその時聞こえてきた会話が、秀一の動きを止める。


「ねえ露さん、結婚、そろそろなさらないの?」

「え?」

「知ってるんですよぉ!」


 お茶の用意をしている若いお手伝いが「くふふふふ」と笑った。


「先日真神の一族の方から、お見合いのお話があったのでしょう?」

「やだ……どこまで噂が流れてるのかしら……」


 露のため息。


「私なんか、もうおばさんなんだし、放っておいてくれればいいのに……」


 話し声を聞きながら、秀一は頭の芯がぼうっと痺れたような感覚を味わっていた。


 ――露が嫁に行く?


「なに言ってるんですか。露さんおきれいだし、いいお話だって聞きましたよ。あ、それとも……どなたかいい人いるんじゃないんですかあ?」


 秀一は思わず自分の胸を抑えていた。うまく呼吸が出来なくて、胸が苦しかった。

 これ以上この話を聞いていたくなくて、キッチンに背を向けると、ふらふらとその場を離れていく。

 長い廊下。

 窓ガラスの向こうには、洋風の家とは不釣り合いな和風庭園。

 しん、と蒼い月影がフローリングの床に落ちる。

 秀一は、腹の底から何かが湧き上がってくるような感覚に、思わずその場にしゃがみ込んだ。


 ぐぅ!


 目が回る。頭の中がガンガンと音を立てはじめる。


 誰か!


 助けを求めて見上げた先には、銀の月が浮かんでいた。


 どくん!


 心臓が大きく跳ねる。体全体で、その鼓動を感じた。


「なんだ……これ?」


 世界が歪んでいってしまうのではないかと思うような、不快。不快なものが、胸の奥に集まって、黒いとぐろを巻いているのだ。


「あ……あ……ああっ! だれか……助けてっ!」


 自分自身ですら知らなかった奥深いところから、何かが湧き上がってくる。抑えなくちゃいけないと思うのに、その勢いに秀一はなんの抵抗もできずに飲み込まれていく。


「秀一さん? どうしました?」


 露の声が背後から聞こえた。


「秀一さん!? 誰か! 秀就様を……呼んで! 残ってる一族の者を何人かこちらに回してちょうだい! それまでは私が……!」


 秀一の耳に、露の叫びは意味のある言葉として届いていなかった。

 メキメキと、自分の体が発する音が骨を伝い、耳骨を震わせ、増幅された振動は脳を直接震わせる。

 身体が……捻じれる! 砕ける!

 かろうじて残る秀一の意識が一抹の恐怖に包まれる。


「しゅ……いち?」


 小さな声が前方から聞こえて、秀一であったものの目が、そこに立つ小さな人影を捉えた。

 秀一が貸したトレーナーを着込んだ信乃が、目をこすりながらそこに立っている。

 そして、秀一を見つけると、ぽかんと口を開いて、目を見開いて……。


 ぐ……ぐ……ぐ……ぐ……


 何の音だ? 唸り声?

 それが自分の発した唸り声だと気がついた時、秀一は自分自身の意識を手放していた。



「しゅういち?」


 獣の前に佇む子どもはわずかに首を傾げながら、誰かの名を呼んだ。

 獣の瞳が動き、ぐぐぐ……っと震えるような唸りを上げ、そして跳躍した。

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