異界・1
朝のうちにたっぷりと水を撒かれたはずなのに、畑の土はすでに白く乾いていた。
畑と道路の境界に立つ赤樫の古木は、照りつける日差しの中に小さい木陰を作ってくれている。
樹齢何百年という幹から突き出した枝の上で、大神秀一は片手を額にかざし、一本道の先を眺めていた。
視線の先には、大きな赤い鳥居がある。大神の家へたどり着くためには、その鳥居の下をくぐる以外に道はない。だから、木に登って眺めていれば、大神の家へとやってくる客人の車を全てもらさずに確認することができるのだった。
「センゾガエリノヒメが明日家に来る。仲良くしてやってくれ」
昨夜父親である大神秀就から聞いた言葉が、秀一は気になってしかたがない。
「センゾガエリノヒメ?」
まだ九つの秀一は、その言葉の意味がよくわからなかった。まるで呪文のように思えて、聞き返した。
「強い力を持った子だ。お前と同じくらいの年だったと思うから、お父さんたちが仕事の話をしている間は、一緒に仲良く遊んでくれ」
「力? 俺だって力は強いぞ? そいつ、俺より強いのか!?」
ムッとしてたずねたというのに、秀就は笑っている。
「会ってみればわかるんじゃないか? 明日来るんだから」
思わせぶりにそんなことを言って、詳しいことを教えてくれない。
はっきりしたことがわからない分、秀一はその「センゾガエリノヒメ」というのが何者なのか、ますます知りたくなってくる。
もっと詳しいことを誰かから聞き出そうと思ったのだが、秀就の抱える大きなプロジェクトの会合を次の日に控え、一族の者たちは皆忙しそうにしている。
自分の面倒をいつも見てくれているお手伝いの露も、長い髪を後ろで一つに束ね、木綿の和服の上に割烹着を着て、忙しそうに立ち働いていた。
「秀一さん、ごめんなさい。急なお話でなければ明日の夜でよろしいですか?」
ようやく話しかけることができたのに、露からの言葉はそっけない。
優しげな表情はいつもどおりだったが、露の気持ちが自分に向いていないことを秀一はひしひしと感じた。
「……わかったよ」
不本意ながらもそう言うと、露はニッコリと微笑んだ。
「ありがとうございます」
少し腰をかがめた露の手が頭の上に乗り、笑顔が近くなる。秀一はそれだけで、うっかり幸せな気分になってしまった。
そのせいで「センゾガエリノヒメ」というのがいったいどんな子どもなのか、誰にも聞くことができないまま今日を迎えてしまった。
だから秀一は、赤樫の木に登った。
この木の上からなら、大神家へと続く一本道を見渡すことができる。ここにいれば「センゾガエリノヒメ」というヤツを、誰よりもはやく見つけることができる。そう考えたからだ。
じいっと目を凝らす秀一の額から、汗がついっと滴り落ちる。
赤樫の木は緑の葉が生い茂り、木陰をつくってくれていたが、風のない午後にはそれでも汗が吹き出した。
近くの枝にとまった蝉が、じーわじーわと元気良く鳴き始め、更に暑さに拍車をかけている。
木に登ってからだいぶ時間が経ったような気がするけれど、まだ目的の子どもの姿は目にしていない。
さっき眼の前の一本道を通っていったランクルには、子どもがひとり乗っていた。
しかし。
――アイツが「センゾガエリノヒメ」なわけはない。
その車に乗っていたのは天羽家の当主とその息子で、子どもの名前は翔といった。秀一と同い年の九歳で、翔のことなら、秀一は小さい頃からよく知っている。いわゆる幼馴染というやつだ。
天羽家は、大神家と同等、もしくはそれ以上の格を持つ家柄だ。その天羽家の直系男子というだけあって、翔も高い能力を持っていた。けれども、翔が「センゾガエリノヒメ」だなんて話は聞いたことが無い。
それに翔だったら、秀就がわざわざ「仲良くしろ」なんて言うはずがない。
枝に腰掛け、足をブラブラと揺らしながら、秀一が考えを巡らせていると
「秀一! なにやってるんだ?」
と、木の下から馴染みのある声が聞こえて、先程目の前を通り過ぎていった天羽翔がこちらを見上げて立っていた。
変な柄のTシャツに、ステテコ。短めの赤毛はツンツンと立っている。
天羽家の人間は、体がずば抜けて大きいのが特徴だ。翔も、背の高さといい、筋肉の盛り上がった胸板といい、とても秀一と同い年とは思えない体つきだった。
そのうえ無口で読書好きな翔のことを、秀一は密かにおじさん臭いヤツだと思っている。
「おまえなんでいっつもそんな変な柄のTシャツ着てるの?」
秀一に言われて、翔はTシャツの胸のあたりをつまみ、そこへ視線を落とした。
手と足の突き出た長方形の物体が、サングラスをかけて立っている。その下に「冷奴☆クールガイ☆」と印字されているから、おそらくそれは冷奴の擬人化なのだろう。
「知らないよ。俺の趣味じゃない。一族の男で、変な柄のTシャツばっかりおみやげに買ってくるやつがいるんだよ」
「ふうん」
さらなるツッコミはしなかったが、秀一だったら、もしお土産でもらったとしても、あんな柄の服は着ないだろうと思った。
「で? 何やってるんだよ」
翔も首を伸ばして秀一の視線の先を覗き込むようにしている。
「なあ……もしかしておまえ、センゾガエリノヒメって知ってる?」
「ああ、安倍さんところの子どもだろう? 俺たちの一つ上だって聞いたと思うけど……家から出たことがほとんど無いっていうから、俺は会ったことはない」
翔の答えに、秀一は思わず枝からずり落ちそうになった。
「え!? おまえ知ってんのかよ!」
自分の知らないことを翔が先に知っているというのが気に入らない。
「いや、昨日父さんに、安倍さんが子どもを連れてくることになったから、仲良くしてやれよ、って言われただけ。センゾガエリノヒメだから気をつけろってさ」
よく聞いてみれば翔の知っていることも、それ以上のものではないらしい。
「気をつけろ……?」
「俺も、なにを? って聞いたけど、詳しい説明はなかったな」
「なんだよ、俺とたいして変わんないじゃん……あ!」
鳥居の下を、一台の白い乗用車が通り抜けて来るのが目に映った。
――アレダ!
秀一はそう直感する。
一本道をどんどん近づいてくる乗用車に、秀一は全神経を集中させた。
車の中に、人影が二つ。
一つは運転席。大人。男。
もう一つは、助手席。秀一より小さな身体の……。
「今通ったの、安倍さんちの車だな。子どもが乗ってたみたいだな」
どうやら翔も気がついたらしい。
「なあ、今のって、女の子だったか? 男の子だったか?」
「さあ、そこまでは……」
ヒメっていうのは姫じゃないんだろうか?
姫というと、秀一の中ではフリフリのロングドレスを着て、長い髪にリボンをつけたおしとやかな女の子というイメージだ。
長いドレスの裾をつまんで「おほほほ」とほほえむ姿が、頭の中にボワンと浮かぶ。
けれどちらりと見えた子どもの横顔は、秀一の中のお姫様のイメージと合致するところが微塵もなかった。
――あれって、お姫様じゃなくって、王子様じゃねえ?
秀一は大神家の門を入っていく白いセダンを見つめながら、そんなふうに感じていた。