16.信じてるから2
だけど大丈夫。
どこか遠くから届く騒がしさを聞きながら、ミリはぎゅっと拳を握った。
男の手の平はひどく汗ばんでいて、嗚咽を催す不快な臭いが鼻孔に流し込まれるよう。
男の動きを見て、他の男たちもそれぞれが捕える人々に視線を移す。
幾分もしないうちに、虐殺が始まるだろう。
彼らに捕えられた人々が死ねば、次に狙われるのは周囲の人々。
一帯は血の海に沈み、彼らは捕まる直前に自身で命を絶つつもりのようだ。
それほどの大事が起きれば、国が潰れるとまではいかなくとも、国にとって大きな損失となることは間違いない。
彼らの狙いはそれだけ。たったそれだけ。
自身の命と引き換えにするには、あまりにもお粗末な望みだ。
「どっから落とされたい? 耳?鼻?それとも目玉とかどう? 出来るだけぐちゃぐちゃにする方がさ、インパクトでかいだろ?」
ナイフが、頬に触れる。その冷たい感触が伝わったように、背筋が冷えた。
冷たい刃に、最後に触れたのはいつだっただろう。
確か、それを突きつけたのはクラウだった。
まだそれほど親しくなかった時に、殺戮について考えていたミリに、死の恐怖を教えてくれたのがクラウ。
本当の殺意などなかったあの時と違って、今は本当に死が間近にある。
――それでも、私は大丈夫。
「あ、すっげー気に入らねーわ。お前のそーいう眼。やっぱお前も、俺の大嫌いな人種だわ」
「好き嫌いが多いのは良くないですよ」
「そうかい。じゃあお前にゃ好き嫌いはないのかい」
「いいえ、あります。味付けが濃い料理は苦手です。それに大好きな人がいますが、あなたのことは大っ嫌いです」
「気が合うね。くそったれ」
ナイフの切っ先が、ミリの皮膚を裂く。刃が肉に触れる。刃が肉を――
ナイフを押し込む手の力が緩まった。
いや、力の元が断たれていた。
「――――っ!」
男の腕が、宙を舞った。
同時に聞こえたのは、果たして誰の声か。
ミリは口の端を吊り上げて、勝利を確信する。
誰よりも愛し、誰よりも信じている人が目の前に――
――しかし。
ミリは思わず目を丸くした。
そこにあるのは期待に違わず、警備兵用の剣を携えたクラウの姿。
鋭い瞳で敵を睨みつけ、怒りと呆れを含んだため息を吐いて余裕の表情で――。
というのが、ミリの思い描いていた姿だったのだけれど。
実際にそこにいたクラウは、ミリの想像とは大きくかけ離れていた。
食い縛った歯の隙間からは威嚇する猫のような荒く震えた息を漏らし、眼は血走ってその表情に余裕など欠片も見出せない。
脚はわずかに震えており髪は風で乱れてボサボサで、疲労のためか立っているだけでもツラそうだ。
そしてなにより、こちらに向けられたクラウの視線はいつもの慈愛に満ちたそれではなく――濃厚な怒りに彩られていた。
以前、ヴァルトノルトで王に向けられた敵意の視線。
だが今のこれは、そんなものとは比べ物にならないほどの威圧力をもって、ミリを委縮させた。
突然の闖入者に男は驚きを浮かべつつ、無くなった自分の両腕を見下ろす。
しかし男は取り乱すことなく、踵を地面に打ち付けた。すると靴の先端から飛び出したのは、鋭利な刃。
手足をもがれる準備は万全ということらしい。
無表情に、腕を無くしたまま男はミリに向かって駆けだした。
男たちの目的は街を凄絶に彩ること。
ならば明らかな強者であるクラウと戦うより、隙をついてミリを惨殺するほうが合理的だ。
考え方はクズでも頭は回るようだ。
ミリはその場を動くことが出来ないまま、クラウを見上げる。
しかしクラウは迎撃に出ることなく、その場に膝をついてぜぃぜぃと掠れた呼吸を漏らしていた。
一瞬、ミリは事態を把握することが出来なかった。
ミリにあの男を止めるすべなどない。
なのに、なぜ――。
だがクラウの意図はすぐに明らかとなる。
――襲い来る男を、巨大な影が覆い尽くした。
影が実体を持ったかのように、空から闇が舞い降りる。
ぬらりと光る白刃が姿を現し、男を闇の中へと引きずり込んだ。
ぐちゃり、という生々しい水音を引きずって、黒い獣が口元を真っ赤に染めてミリを睨みつけた。
語るまでもなく、現れたのは歓楽街にはあまりにも似つかわしくない巨体を誇る、ガルム。
ガルムが一声吠えると、周囲にいたやじ馬たちは半ば腰を抜かしながら散り散りに去ってゆく。
刃物を持って暴れる凶賊よりも、巨大な獣というのは本能的な恐怖を覚えるものだ。
それにガルムはただのイヌではなく、普通に生きていれば滅多に見ることのない巨大なジャッカルである。
信頼がある自分たちならともかく、本当に理性があるのかどうか分からない獣が放し飼いにされていれば、恐れるのも無理はない。
他の凶賊たちも唐突なジャッカルの出現と、肉片になった仲間にさすがに面食らっている。
だが、死を前提にしているせいか切り替えは早い。
彼らもすぐに自分の仕事を思い出して、目の前の人間を惨殺することに専念しようとする。
だが当然、クラウはそれを許さない。
その意を汲み取ったガルムは、素早く他の男共の元へと数歩を踏み出し、その牙で彼らの命を刈り取ってゆく。
「手足の1、2本なら許す! ただし綺麗に噛み千切れよ!」
唐突にクラウが放ったその言葉の意味を正確に理解できた者が、果たしていたかどうか。
少なくともガルムだけは正しくそれを理解し、凶賊の首を――観光客の腕ごと食い千切った。
腕を千切られた男性がパニックを起こしながら悲鳴を上げる。
しかしクラウもガルムもそんなものを気にも留めない。
クラウは気力を振り絞るように足を踏み出し別の凶賊の目の前まで一瞬にして詰め寄ると、捕らわれた人の首元をかすめるように喉元に剣を突き刺した。
流れるような動きで残りの数人も仕留めると、ガルムと共にその場にいた凶賊たちは1人残らず、誰の命をも奪うことも出来ないままに生を手放した。
一瞬の出来事だった。
国の警備兵が手を出しあぐねていた暴徒を、たった1人で、正確には1人と1匹であっという間に片づけてしまった。
クラウは未だ整いきらない荒い息を吐きながら、かつて人だったものの残骸に紛れて転がる腕や脚を拾い上げた。
そして腕を無くしたショックで気絶している人たちの下へと向かうと、断面を押し付けて拾った服の切れ端で縛り付け、『治癒』の魔法を施し始めた。
その頃になってようやく、ジークを含めた増援の兵たちが駆け付ける。
そして自らの身体で目的を再現する羽目になった凶賊たちを見て、事件の終幕を察してその場に立ち尽くしていた。
クラウは適当に最低限の魔法をかけ終えると、近くにいた兵に「あと任せた」と治療を投げて――ミリの下へと歩み寄る。
驚きはしたものの、いつも通りのクラウの活躍と、信じた通り助けに来てくれたことが嬉しくて瞳を輝かせながら、ミリはクラウの言葉を待つ。
クラウはミリの目の前まで来ると、がくりと膝をついた。
倒れそうになるその身体を、ミリは優しく抱きしめる。
「ありがとうクラウ。ごめんね危ないことしちゃって。でも私、クラウのこと信じて――」
唐突に、クラウがミリの抱擁を突き放した。
反応しきれないミリとクラウの瞳がぶつかり――
――パァン!
甲高い音を奏で――クラウは思い切りミリの頬を引っぱたいた。
視界が揺れて、思考が波打つ。
よろよろと数歩よろめいて、理解が及ばないまま熱を持ち始めた頬に触れた。
もう一度、クラウと目を合わせる。
クラウは怒りを抑えるように歯を食い縛りながら――わずかに涙を浮かべていた。
「あ、あの、クラウ‥‥」
「――なにしてんだよバカ野郎!」
至近距離で怒鳴られ、思わずビクリと身をすくめた。
今までクラウに色んな事を教えてもらって、たくさん怒られてもきたけど。
――今、初めて本気で怒られている。
「巻き込まれんな言っただろ! なんで渦中のド真ん中にいるんだよ! 何がしたいんだよ!」
クラウの掴む肩が痛い。だけど今は、そんな不満なんて口に出来なかった。
クラウが怒ってる。でも、私だって考えてることがあるんだ。
「わ、私‥‥でも、クラウは来てくれたもん。クラウだったら絶対来てくれるって、私は信じてたもん」
「分かってねえよ! 全然分かってねえよ! 一歩間違えれば‥‥死んでたかもしれないんだぞ‥‥」
クラウがミリの頬を撫でる。そこは、先ほどナイフを突きつけられ、皮膚がわずかに裂けたところだった。
怪我というには浅すぎて、この程度であれば治癒の魔法を使わずともすぐに治ってしまうだろう。
クラウは、ぎゅっとミリの身体を抱きしめる。
いつもの愛しさに溢れた抱擁とは、少しだけ違うような気がした。
「あのな、ミリ。オレは強い。誰にも負けない自信がある。口だけじゃなくて、それを実行してきた。けど、だからって何でも出来るわけじゃないんだ。街の端から端まで一瞬で走れって言われても、出来るわけがないんだよ。だからさ、ミリ‥‥」
クラウはミリから身を離し、両肩を掴んで真っすぐにミリの瞳を捉える。
「オレは――ミリを常には守れない」
はっきりと、いつも言っていることを否定する言葉を放った。
「どんな時でも、いつでもなんて無理だ。どれだけ頑張っても、物理的な限界がある。今回、オレがどこにいるかとか、誰がどこに行って誰に伝えてどこから誰が来るか、そこまで全部考えたか? 考えてないだろ。だから、バカだって言ってんだよ。どれだけ強くたって、無理なことはいくらでもあるんだ。鬼姫がなんでミリの手を離してオレなんかに託したのか、よく考えろよ」
いつもみたいに、クラウはほっぺたをつねったり頭を撫でたりしてくれない。
ただただ真っすぐに、ミリに〝現実〟を教えてくれる。
「‥‥まさか、ミリがこんなバカなことするなんて思わなかった。いつものミリは、もっと頭良いはずだろ。なんで‥‥なんでだよ‥‥」
力なく、クラウの額がミリの胸を叩いた。涙が零れ落ちることはなくとも、その声はわずかに震えていた。
最初の日に聞いたジークの「信じすぎるな」という言葉が、クラウの触れた胸からじんわりと広がっていくような気がした。
いつの間にか近づいてきていたガルムが、ミリを鋭く睨み下ろす。
ジャッカルは騎手に忠実だ。そもそも騎手以外に懐くことは珍しく、どれだけ親しくなろうと騎手が拒めばジャッカルは主の意志を尊ぶ。
しかしクラウはガルムの鼻を撫で、立ち上がってガルムに寄り添った。
「ガルム、お前はミリに怒るな。怒るのはオレだけでいい。むしろオレ以外怒っちゃダメだ。お前はいつも通りでいろ。いいか?」
ガルムはノドを鳴らしながらクラウに顔を摺り寄せ、首を伸ばしてミリに鼻先を擦りつける。
いつもの親しみのこもったそれではなく、苛立ちに任せて突き飛ばされることもなく。
険を解いた瞳でミリを見下ろしてから、ぷいとそっぽを向いてしまった。
主人の言葉にどこまでも忠実に、とりあえずは許してくれたらしい。
そうして振り返ったクラウは、すでに先程の不安定な感情を消し、明確な怒りの色だけを湛えてミリを見下ろした。
「とにかく、たっぷり反省しろ、バカ」
クラウに怒られるなんてことに耐性がなさすぎて、ミリは黙って俯くことしかできなかった。
クラウの涙を見ていなければ、今すぐ泣き出していたかもしれない。
いつもはクラウがバカなことを言って自分が怒ることのほうが多いけれど、今のクラウを見ていると、今日まで何度も何度も考えてきたことが再び頭をよぎった。
――私は、子供だ。
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