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たまご  作者: 辰野ぱふ
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2.

 マンションの二人の寝室はベッドルームになっている。美佳は普段は居間にいることが多く、子どもが生まれた時に子ども部屋にしようと言っていたもう一部屋には甚三の机と本棚が置いてあり、そこを書斎と呼ぶようになっていた。

 甚三は寝室から客人用の布団を運び、その床に敷き、とりあえず横になった。その二部屋の往復だけで、もう身体のふしぶしが痛くなり、起きてはいられないような疲労感におそわれた。

ふだんあまり使わない部屋だから、ひんやり冷たく、熱が上がってきている身体にはそれが心地良かった。

布団に横になると、周りの世界が遠のくように感じた。

「どう?」

 しばらくすると、美佳が食事を運んできた。部屋の電気を点けたので、まぶしく、甚三の頭はくらくらした。

「そこの蛍光灯だけでいい。天井の電気を消してくれ」

 と甚三が言った。

美佳は天井の電気を消すと甚三の横にぺったりと座った。

「だめだよ。マスクをしてくれ。君にうつったら困るだろ」

 と甚三が言った。

「いいの。うつっても」

 と机の上の蛍光灯をつけようとのびあがった美佳の顔が甚三の視界に入った。美佳の顔が不気味に見えた。なんでだか、美佳は泣いていた。

「どうしたんだ? 何かあったの?」

 甚三はぐったりしながらも、美佳に声をかけた。

「たまごがね、十個入りだったの」

 と美佳が言った。

 甚三の頭はふたたびくらくらした。

 美佳はその次の言葉をつなぎもせず、じめじめと泣いている。

「で?」

 甚三はやっとの思いで半身起き上がると、美佳が運んで来た雑炊を見た。溶き卵の上に、小口切りのわけぎが散らしてある。

「たまごがね、十個のうち五つも、真っ黒だった…」

 その声で甚三は雑炊の上にかかったたまごに嫌悪感を抱き、生唾を飲んだ。

「黒いってどういうこと?」

「黄身じゃないの。クロミ」

「黒身?」

「そうよ。いつもは一つくらいだったのに。今日は五つも」

「いつも?」

「うん。ときどき…、一つか二つか黒いことがある」

 そんな馬鹿なことがあるものか、と甚三は思ったけれど、それを言う気にはなれず、茶碗を置くと、

「もう、ダメだ、吐きそうだ。とにかく横になる」

 と言った。

 その背中に美佳はぺったり寄り添うように横になり

「暖かい」

 と言った。

 ここ数年、留美、旬子、美里、と三人の女性と付き合うようになってから、あまり美佳の相手はしていない。なんだか、久しぶりにその身体にじかに触れたようで、妙な感覚があった。

「ねえ、このままずっと病気でいてね」

 と美佳が言い、甚三はたまらず、でも、なるべく穏やかに言った。

「悪いけど、本当に疲れている。一人にしておいてくれるかな」

 美佳は甚三の頬に触れ、

「はい。わかりました」

 と変にていねいに言うと、部屋から出て行った。雑炊をよそった茶碗はそのまま枕元に置いたままだ。まだ胸がむかむかしているので食べられそうもない。

 甚三は這うように蛍光灯の光を消すと、ドカンと布団に倒れ込んだ。そのまま熱が上がり、熟睡できないまま、もうろうと一晩が過ぎた。


 朝になり、ふと枕元を見ると茶碗は片付けられていた。美佳が取りにきたのだろうか? それに気が付かなかったところをみると、けっこう眠っていたのかもしれない。だが、まだ熱は高そうだった。熱を測ってみようかとも思うのだけれど、身体を動かすのが大儀だった。

 とにかく会社に電話かメールをしなければ…。昨日、嫌な予感がしていたので、同僚には休むかもしれないとは伝えてある。けれど、はっきりと休むと言わなけば…。そう思っていると、頭の上のドアが開いた。

「会社にはあたしが電話しておいた」

 と美佳が言った。

「え? だれに?」

「橋本さんだよ」

 橋本というのは、甚三のいる部署の事務担当の女性だ。はて? 美佳がそんなに詳しく会社の人間関係を把握しているはずはないのに…? まあ、何かの時にそんな話をしたのかもしれない。

 そんな甚三の不可解な表情を読んだのか、美佳が、

「だいじょうぶよ。たまごのことまでは言わなかったから」

 と言った。甚三の頭はショートしそうだった。

「とりあえず、何か食べないと」

 と言う美佳の手元には盆に乗った昨日の茶碗があった。

 たまご、というキーワードで、甚三の胸はまたむかついた。

「だいじょうぶ。たまごは入れていない。でも出汁はちゃんときいているよ」

 と美佳は言い、甚三の前にぺたんと座ると、雑炊と思われるそれをスプーンですくい、ふーふーと冷ましながら、甚三の口元に運んだ。甚三はなすすべもなく、それを口に含んだ。

「ね、黒くなっているたまごって、つまり…、ひよこちゃんになっちゃう前ってことなのかしら?」

 と美佳が笑い、甚三は一瞬むかつきながらも、何か食べなければという思いで、なんとか口の中でその雑炊をゆっくりかみくだき、ゆっくりと飲み込んだ。

 次のスプーンが口元まで運ばれていた。

「あ~ん」

 と笑う美佳がなんだか、歪んで見えた。甚三はむかつきを抑え小さいため息をついた。

「どうしたのジンちゃん? もう少し食べないとだめだよ」

 甚三は目をつぶり、雑炊を食べることだけに集中した。

「ね、たまごのこと、スーパーの人に言った方がいいと思う?」

 と美佳が言う。甚三はその美佳の声を遮断したかった。そして、思わず額を押さえた。

「やっぱり言わない方がいいのね。五つも黒かったのに…。ほんとうは言いたいけど。もう捨てちゃったからだめかな…」

 甚三には返答の言葉が浮かばなかった。

「マスクはしないよ。あたしもインフルエンザになるんだ」

 甚三はとにかく、スプーンで口元に運ばれる雑炊を、一口一口、ゆっくりかみ砕き、飲み込むことに集中しようとしていた。

「お医者さんに行く?」

 と美佳が聞いた。行った方が良さそうだったが、起き上がって行く気になれなかった。

「自分で動けるようになるまで、もう少し寝るよ」

「あ~ん」

 美佳が次のひとすくいを甚三の口元に運んだ。甚三は口を開けなかった。

「どうしたの? もうお腹いっぱい?」

「ああ、とにかくまた少し休む。動けるようになったら病院に行くよ」

「ね、救急車を呼ぼうか?」

 とまるで子どものように言う美佳に少しいらついた。

「だいじょうぶ」

 そう言うと甚三は横になった。

「ジュンコさんには電話していないよ。いいの? 連絡しなくて」

 と美佳が言い、甚三は混乱した。たしかに、昨日、旬子との約束の場所には行かなかったが…、本人にメールをするのを忘れていたような気がする。だけど、なんでそれを美佳が知っているのだ? 旬子とはまったく接点がないはずなのに。

「十時になったら、またたまご買いに行って来るね。朝すぐに行く方が、クロミは少ないんだ。一つもクロミがないこともあるよ。もちろん」

 何なのだろうか? 黒身のたまごって?

 わけがわからないまま、甚三はまた少し休んだ。

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