1.
具体的な残酷描写はありませんが、心理的、生理的、倫理的な違和感、嫌悪感を抱く方がいらっしゃるかもしれません。
気をつけて下さい。
よろしくお願いします。
ホテルからは甚三が先に外に出た。少し遅れて留美が後ろを歩いている気配を感じながら、甚三は辺りに目を泳がせた。
留美とはここ三年つきあいが続いており、最近は月一のペースで会っている。
ホテルの部屋を出る時、「じゃあ、また第三土曜日に」と言う。それがあいさつのようになっていた。
甚三は妻の美佳の他に三人の女性とつきあっている。付き合い方はそれぞれだけれど、彼女たちは自立しているようで、甚三を束縛することはなく、逢瀬を楽しんでいるようだった。
甚三はその女性たちと予定を決め、どこで会うのかを決め、その予定が埋まっていると安心できるのだった。
妻の美佳はもう四十歳になろうというのに、結婚した当時と変わらず、純真で子供のようだった。勤めに出たこともなく、子どももできなかったからか、その純真な部分は凍結保存されているようで、世間とずれているようなところもあった。まさにそんなところに惹かれていたはずなのだけれど、仕事で疲れて帰ってから美佳と会話すると、時にいらいらすることがあった。
たとえば、夕飯の時などだ。
甚三は多忙な毎日を送っているからこそ、家庭での食事を大事に思っていた。だから、帰って夕飯を食べる時には必ず連絡を入れ、それを伝えておく。
美佳には時間の観念というものが欠けているようだった。きちんと時間を伝えてあるのに、帰るとまだ用意中だったりする。甚三はいらいらを外に出さないように気を付けた。少しきつめに文句を言うと、泣き出してしまうこともあり、そのまま夕飯のしたくができなくなることもあった。
そういうとき、甚三は、まず自分の大人げのなさを責めたくなるのだった。
「ごめんごめん。忙しくて、いろいろストレスがたまっていたんだ…」
と自分の非を謝ってみても、美佳が泣き続けている時には、
「わかったよ。今日はそこのファミレスに行こう」
頭をぽんぽんとたたくと、美佳はキラキラ光る瞳をまっすぐに甚三に向けて、こくりとうなづく。
ペーパードライバーの美佳に運転をまかせるわけにはいかず、ファミレスまでは結局甚三が運転して行くことになり、もうケロリとしていて、何も感じていないように見える美佳のことに、また腹が立ってくるのだ。
仮にまだめそめそしていたら、それはそれで嫌な気がするのだけれど、美佳は甚三の気持ちを理解していないように思え、ファミレスで無邪気にメニューに見入っている美佳に、甚三はまたいらいらしてしまう。
美佳を愛しているのか? と自分に問う事もあった。
それは、たぶん愛しているに違いないのだ。美佳が自分の手の中で心を許し、甘えてくるとき、この人をずっと支え続けて行くのだという自覚が生まれる。美佳は甚三の手の中で、甚三の思いのままに昇華しているように見えた。そういうとき、甚三の中からもすべての毒が放たれ、消え去るように思えるのだった。
ある冬の始まり、ちまたではインフルエンザがはやっていると、ニュースでキャスターが言い、職場で同僚もそう言っていた。
土曜日の昼に留美と会ったのだが、熱っぽく、とろりとしていて、甚三にも留美の熱が伝わるようで、昼下がりの情事に酔いしれることができたのだが…、それは留美がインフルエンザの初期症状だったからのようだった。「夜になり熱が上がったからあなたも気をつけて」という内容のメールがきた。
甚三はこれまで大病をしたことがなかったし、風邪もめったにひいたことがなかった。インフルエンザにも罹った覚えがなく、自分はそういう流行病とは無縁だと思っていた。
水曜日になると、身体がけだるくなってきて、今までにはあまり感じた事がないような不快感があった。仕事に集中できず、いやな予感がしていた。
本当はその日の帰り、別につきあっている旬子と会う約束をしていたのだが、約束をキャンセルしたほうがよさそうだった。もともと早めに仕事を切り上げるつもりではいたが、家に帰った方が良さそうだと思い、美佳に電話した。
美佳はメールを嫌う。「あたしは、そんなに出かける所もないし、いつもお家にいるから、電話をしてね。あなたの声を聞く方がいいから」といつも言うのだ。文章を組み立てて返事をすることが面倒くさいらしい。
甚三が電話して、
「今日は具合が悪いから、早めに帰る」
と言うと、ぱっと明るい声で
「早いのね! 具合が悪いのなら、おかゆでも作る?」
と言った。
「そうだね。そうしてもらおうかな」
会社の帰りにとりあえず風邪薬と栄養剤、マスクなどを買い、さっそくマスクをつけたが、JRの車両の中で人に押され、人の熱気がどんどん不快に感じられるようになり、家にたどり着く頃には、もうへとへとになっていた。
美佳はと言えば、ときどき具合が悪くなっている事があり、甚三が帰るとけだるく、寝ているような時もあった。身体が弱いらしい。だから甚三は美佳にうつることを心配した。
「どうもインフルエンザに罹ったらしい、ミカにうつると困るから、今日は書斎のほうで食事をして、そっちで寝ることにするよ」
と言うと、美佳は泣きそうな顔をして、
「せっかく帰って来たのに、寂しい」
と言うのだった。
「でも、しょうがないよ。とにかくオレは横になっているから、おかゆ? できたら持ってきてくれ」
と甚三は言った。




