孤剣夜想、そして祈りよりも遠く
赤い瞳の女が山道を歩いていた。
舗装などされていない、小石と土が踏み固められただけの細い道。
両脇は、鬱蒼と茂る藪と雑木林。
独行だった。
黒漆のように艶のある髪が風になびく。
背中に大剣と雑嚢を背負っている。
鈍色の、船の舳先に似た鎧を装着していた。
重く湿った曇天。
暗い午後。
今にも雨になると、人を不安にさせるような空模様だった。
一人歩む人物を監視している者がいた。
数は二人。弓で武装している。
相談を始めた。
「親父。一人だぜ。剣を背負っているみたいだ。傭兵だろ!」
「いや。そうとは限らねぇ……。旅人だって武装ぐらいしている」
「小柄だな。髪が長いし、女みたいだ」
「黒髪……。亜人か。手強いかもな」
「やっちまおうぜ。傭兵どもの仲間に決まってら」
「だめだ。俺が話しをする。お前は森の中から狙っていろ。俺が合図するまで射るなよ」
女の歩む先に、一人の男が姿を現した。
「おい。あんた! 止まってくれ」
猟師風。手足に鹿の毛皮を巻き付けていた。
鎧は装備していない。
深緑に染められた麻の服を纏っている。
初老で、年齢は五十歳ほど。
日焼けで肌は浅黒い。
額の皺は深く、頬に硬そうな髭が生えていた。
眼つきは、険しい。
男は黒髪の女の顔をよく見た。
気圧されるほど、美しい。
人間族で言えば十六か……せいぜい十八歳程度にしか見えない。
だが、魔人氏族は長命属なので実年齢は分からない。
突然、行く手を塞いだにも関わらず、少しも動揺していない。
ただ、冷然とした無表情。
まるで神殿に安置された彫刻のような、麗しくも不動の顔貌……。
輝く紅玉に似た瞳が静かに見つめ返してきた。
少しも暴力を感じさせないのに、言い知れない迫力があった。
こんな相手は珍しい。
初老の猟師は相手に呑まれないよう、腹に力を込める。
「こ、この先に何の用事がある?」
「東に……移動している。目的は人に話しても分からないことだ」
「戦ばかりの土地で、意味もなく一人歩きするわけはねぇ。お前は傭兵だろう?」
「違う」
「この先にいる傭兵団に加わろうとしていた……。そうじゃないのか」
「お前が何のことを言っているのか分からない。傭兵団とは……」
「この先に奴隷狩りをしている荒くれが大勢いる。まぁ、野盗と言ってもいい奴らだが」
黒髪の女は首を僅かに傾げて言った。
「それで?」
「お前がそいつらの仲間ではないかと疑っている」
「違う。私に仲間はいない」
「なんで一人歩きなんかしている? 治安は最悪だってのに。襲ってくれと言わんばかりだ」
「探しているものがある。一人で探している」
「……」
猟師の男は息が荒くなってくる。
これまで、数え切れないほどの獲物を仕留めてきた。
狩りは命がけの危険な営みだ。
狐一匹とて油断は許されない。
瀕死の生き物の、最後の反撃は強烈。
目の前の女は、手負いの羆よりも危険だと直感が告げていた。
「……嘘を吐いているようには見えないな。一応、信用しておく。だが、悪いがこの道を使うのは止めてくれ。引き返して、ここで俺に会ったことは誰にも言わないでほしい」
「理由を聞かせてくれないか」
「俺がここにいた事を、この先にいる奴らに知られたくない」
「傭兵どもと戦うつもりか。どうしてだ?」
「村に俺の娘と孫が住んでいる。傭兵どもは価値のある村人を奴隷として売るつもりだ。抵抗した者は殺されたらしい。俺はせめて家族だけでも助けたい」
「……敵はどれぐらいいる?」
「おそらく六十人はいると思う。捕まっている若者は三十人ぐらいだ」
「お前と、横の藪にいる二人で助けられるのか」
「隠れている奴に気づいていたのか……。ふん。確かに望みは薄い。だが、娘と孫のためだ。放っておけない。戦うだけだ」
「いずれにしても私の行き先を変える理由にはならないな……。村に行って、そこで何が起こるか。それは私の問題だ。お前とは関係のないこと」
猟師は手に持つ弓をつがえた。
黒髪の女に狙いをつける。
「止めろ。矢は当たらない。弓矢は飛ぶ方向の予測が容易だ。この距離でも私の急所に命中させるのは不可能」
「毒が塗ってある。猛毒だ。むろん、藪にいる男も同じもので狙っている」
「それでも私を殺すのは無理だ。傭兵どもにお前らのことを伝えはしない」
「あんた正気か? 無事に通過させる奴らじゃない。捕まって俺たちのことを話されると困る。家族の命が掛かっているのだ。退き返せ!」
今にも切れそうな緊張感。
猟師は女の言うことが張ったりではないと直感する。
矢は当たらない。
汗が噴き出る。
まぐれ頼みで矢を放とうか迷った瞬間、女が口を開いた。
「……では、こうしよう。私はお前らの襲撃に協力する。お前らはお前らの望みを果たすといい。私は私で好きにする」
初老の猟師は黒髪の女を睨みつける。
赤い瞳は恐ろしく澄んでいた。
顔に怯えはない。
まるで白磁のように滑らかな肌。
汚い手段で荒稼ぎする人物には到底見えなかった。
戦いに加わるなど、あまりに突飛な提案だった。
しかし、嘘とも思えない。
どことなく女から発せられる気品。
勘が働く。
迷ったところで何が変わるわけでもない。
賭けだと思って信じてみよう……。
「分かった。頼む。俺たちに力を貸してくれ」
初老の猟師は矢を番えるのを止めた。
合図をして藪に伏せている仲間を呼び寄せた。
茂みから出てきたのは、やはり猟師風の男。
装備は初老の男と似ていた。
年齢は三十歳ぐらい……。口髭を生やしていた。
俺の義理息子だと初老の猟師は言った。
それから名乗る。
「俺は見ての通り猟師を生業にしている。名はザッハ。こっちの男は義理息子のポレオ。あんたは?」
「イースだ。イース・アーク」
「なぁ。アークさんとやら。傭兵じゃないなら冒険者なのか」
「もとは皇帝国の騎士だ。今は辞めている。組合にも所属していないから冒険者でもない」
「ははっ。放浪者ってわけか。けど、騎士だったてんなら腕は立つな」
三人は立ったまま相談を始めた。
初老の猟師ザッハは状況を語る。
「村を襲った傭兵団は、おそらく独立している奴らじゃない。元を辿れば亜人界最大の傭兵団、心臓と栄光に繋がる。簡単に言えば手下だ」
「心臓と栄光……。その首領はディド・ズマ」
「そうだ。もともと傭兵の元締めだから乱暴な男だったが、近年は狂ったようにメチャクチャをやらかしている。中立の街を襲ったり、手下に命じて人間狩りをさせている。奴隷や傭兵にするためだ」
「ここに来る途中でも、噂を聞いた。小さい村まで襲っているらしいな」
「ああ。何でも下部組織はディド・ズマに上納金を納めなくては酷い目に遭うらしい。ディド・ズマの手下どもは血眼になって村や街を襲っている。そうして捕えた奴隷は荘園に売る。そこがまた酷いところだ。光神教団という宗教が運営しているところなんだが。聖荘園などと呼ばれているが、過労で死ぬまで働かせられるだけの地獄みたいな場所だ」
「……いつ、襲うのだ」
「早い方がいい。移動中は警戒が強くて、どうにもならねぇ。それに奴隷狩りをすると故郷は焼き払うもんだ。帰る場所を無くせば、抵抗する気持ちを潰せるからな」
「寝込みを襲うなら、今夜か」
老猟師ザッハは頷く。
息子のポレオは怪訝そうに言った。
「なぁ。アークさんとやら。なんで俺たちを助けるんだ? はっきり言って殺されるかもしれないぞ。こっちは身内が奴隷にされるぐらいなら、いちかばちかで戦うつもりなんだ。それに親友や親戚も殺されているから……」
「探しているものがある。行けば見つかるかもしれない」
「何を探しているんだ。人か?」
「他人には分からないことだ……もう空が暗くなってきている。私は夜目が効くが、お前らは苦労するぞ。移動しよう」
三人は警戒しながら山道を進む。
やがて峠を越えると、広い盆地のような地形を見渡せた。
麦畑に牧草地。それから石造りの農家が数十軒ほど密集しているのが見えた。
防壁などで村は囲まれていない。
村の北側には川が流れていた。
空には依然として重たい雲が垂れ込めている。
やがて訪れた日没とともに、星月の光すら届かない深い闇が訪れた。
松明や灯火が村で動いている。
ザッハが言う。
「レイトの村と呼ばれている。貧相な村だろ? 住人は約百五十人。盆地一体で麦を作って、あとは羊を牧畜している程度のところだ。こんなところまで襲って来るとはよ……」
「村人はどこにいるだろうか」
「たぶん、どこかの家に押し込められているはずだ」
「襲うなら、夜中か明け方がいい。魔法を使う傭兵はいるのか」
「はっきりとは分からない。ただ、村人を買い取りに光神教団の者が村に入っている。教団の司祭は必ず魔法を使えると聞く」
「お前たちは魔法を使えるのか? あと村人は」
「俺たちは魔素を感じ取れる程度のものだ。村に治療魔法を使える人が一人いる。たぶん、捕まっているはずだ。炎弾を使える爺さんが一人いたが、抵抗したときに殺されたらしい。他に攻撃魔法っていうほどのものを使える者はいない」
イースは聞く。
「お前たちは、どうして無事だった」
「猟師小屋は離れた山の中にあるんだ。俺と息子はそこで仕事をしていた。一人だけ、襲撃から逃げることができた女がいて逃げてきたわけだ。そいつから事情を聞いた」
「……そうか」
「で、これからどうやって戦うつもりだ」
「ザッハ。貴方は私と村に潜入する。案内をしてくれ。できれば村人を助けて混乱を起こしたいが、おそらく厳重に拘束されているだろうな。村人は戦う気力がありそうか?」
「逃げはするだろう。しかし、傭兵相手に真っ向から戦う者は少ないと思う」
ザッハはレイト村について、地形や村人など、知っている限りのことを伝える。
村には既に光神教団の司祭が奴隷を買い取りにきている。
ザッハは離れたところから、それを目視していた。
傭兵たちは聖荘園までの連行も請け負うことだろう。
娘と孫が荘園に連れ込まれたら、もう本当に最後だ。
警戒が厳重な教団施設から助け出すことは、ほとんど不可能だろう。
傭兵も光神教団も、やることは冷酷だった。
奴隷が抵抗しなくなるまで木の棒で殴り、鞭で叩く。
人間は毎日毎日、圧倒的な暴力を振るわれると、やがて無抵抗になる。
光神教団は、穢れた人間は沈黙しなければならないという教義を持っていた。
奴隷は自由に会話すらできなくなる……。
教団で労働奉仕を続ければ、いつか穢れは消えると説いているらしい。
いつか、とは二十年後かもしれないし……五十年後かもしれない。
噂では狂信的なほど光神教団の教えを信じ切った者だけが、浄められたと認められるという。
バカげた教えだった。
ザッハとポレオは家族の危機、戦闘への恐怖に耐えながら、じっと待つ。
猟師は待つことに慣れている。
イースと名乗る魔人氏族らしい女は無口な性質で、もはや話しかけない限り一言も喋らなかった。
じっとりと、湿った闇が周囲を包んでいた。
季節は晩夏だが、標高が高いので夜は涼しい。
暗幕のような雲が、わずかに薄らいだような気がした。
ザッハがそろそろ真夜中だと思ったとき、イースが呟く。
「そろそろ、良い頃合いだろう。行こうか」
行こうか、と言われて……ふと思う。
殺したり、殺されたりの状況に入り込むというのに簡単に言ってくれるなと。
まるで隣の家を訪ねるというような……。
余計な荷物は邪魔なので、その場に置いていくことにした。
雑嚢などを捨てる。
イースはザッハとポレオを引き連れて暗闇の道を進む。
行く手に松明の明かりが見えた。
槍で武装した男たちが警戒をしていた。
しかし、じっと観察すると油断しきっているのが分かる。
四人の男のうち、二人は眠気を堪えて立っているだけ。
残りの二人は与太話で盛り上がっていた。
酒まで飲んでいるようだ。
「ザッハ。あいつらが傭兵か」
「ああ。間違いない。こんな村に槍や冑を持っているような男がいるか」
「あの様子なら私一人でやれるだろう。お前たちはここで見ていろ」
イースは音もなく大剣を背中から抜き、小脇に構える。
しゃがみながら、忍び歩きを始めた。
艶のある黒髪。
闇夜に溶け込んでいくようであった。
イースの姿は離れてしまうと、あっという間に見えなくなった。
どこに行ってしまったのかと、ザッハは目を凝らす。
猟師である自分の感覚でも捉えることはできなかった。
やがて松明の光が、うっすらとイースを照らし出した。
それとて、よほど観察してなければ気づかない。
イースは確実に這い寄っていく。まるで雪豹のようだとザッハは思った。
食糧の少ない冬季の森で、あらゆる生物の上位に君臨する美しくも猛々しい獣。
本当に戦うつもりなのかと、去来する疑問。
会ったばかり。
見捨てて何の呵責もない他人の家族。
それなのに先頭になって戦おうとしていた。
意味が分からない。
探しているものがあるという……。
もしかすると野盗のような連中に恨みでもあるのかもしれない。
ザッハの疑問を他所に、いよいよイースは低姿勢で駆けだす。
大剣一閃。
音すらほとんどしなかった。
首が一つ、飛ぶ。
返す動きで、もう一回薙ぐ。
傭兵の額が砕けた。
今度は野菜が折れた時のような音がした。
イースは流れるような挙動で突きを繰り出す。
やっと襲撃に気づいた傭兵が、鎖帷子ごと大剣の切っ先に貫かれた。
松明を手にする最後の一人。
叫び声を上げようとしたが、喉に弓矢が突き刺さる。
ザッハの放った矢だった。
傭兵が狼狽え、よろめき……しかし、すぐに倒れて痙攣した。
毒の効果だった。
短い戦闘が終わり、水を撒いているような音だけがする。
首を切断された男。その動脈から血が噴き出ていた。
殺戮の夜が、始まった。
ザッハとポレオの親子はイースと名乗った女の手並みに感嘆と恐怖を感じる。
あまりに慣れた手並み。
猟師だけに生物を殺める危険と苦労は知り尽くしていた。
ましてや武装した屈強の男など……。
魔人氏族の女が、魔獣の化身か何かに思えた。
ザッハは松明を拾う。
己が射殺した男の死体を照らした。
口から血泡を吹いていた。
荒れた面相の、三十歳ぐらいの男。
顔も名前も知らないが……人を殺したのは五十五年の人生で初めてだった。
憎い敵だが、気分の良いものではない。
見透かしたようにイースが聞いてきた。
「お前たち、戦闘の経験はあるのか」
「喧嘩ぐらいはあるがな。人を殺したのは初めてだ」
「大丈夫か。続けられないなら邪魔なだけだが」
「バカにするな。俺は猟師だ。娘と孫が奴隷にされるかもしれねぇんだ。怖気ていられるかよ」
「なら冑を奪え。槍もだ。闇夜なら味方と間違える」
二人は素直に従う。
奪った冑を頭に被り、槍を手にした。
ザッハは問うというより、指示を乞う気分でイースに聞いた。
それだけの実力がイースにはあった。
「次はどうするんだ」
「傭兵しかいない家があれば、出入り口を塞いで放火したい」
「荒くれの傭兵どものことだ。村の娘を連れ込んで犯しているじゃないか。傭兵のみの家はないと思う」
「それならば、一軒一軒と襲うしかないな」
イースの口調は淡々としていた。
まるで雑草取りのような地味な作業をするしかない……という口振りだった。
拾った松明は捨てて、三人は静かに村内へ移動する。
相手も、まるっきり警戒していないわけではない。
三軒の家の出入り口に、それぞれ一人の歩哨が立っている。
松明の明かりが、ぼんやりとその様子を映していた。
ただし、よく見れば暇そうにしている。
「お前らの弓矢で二人。残りの一人は私がやる」
「わ、わかった」
「親父。あの三軒だけに歩哨がいる。ということは中に傭兵どもがいるのか」
「いるのは捕まっている村人かもしれねぇぞ」
「ああ。開けて見なければ分からないな」
「では私が囮になって歩く。お前らは歩哨が私に気が付いて注意が逸れたあと、機会を見て矢を放て」
「乱暴な手だな。しかも危険な囮になってまで」
「他に方法が?」
「……分かった。賭けるか」
イースは背中に大剣を背負い、平然と歩く。
ゆっくりと……。
やがて歩哨たちは近づいてくる人影に気が付いた。
誰だとか呼びかけていた。
ザッハは暗がりを利用してさらに、にじり寄る。
敵がわざわざ松明を手に持ってくれたのは幸運だった。
姿が良く見える。
三人の歩哨は三方からイースを囲む。
イースは両手を掲げた。
荒くれたちの罵声、威嚇。
注意はイースに集中していて隙がある。
ザッハとポレオはさらに近づく。
外すはずのない距離。
鉄の胸甲を付けているのは一人だけ。
残りの二人は革の鎧と冑をしていた。
顔が一番、狙いやすい。
いよいよ矢を番える。
ポレオの心臓は激しく波打つ。
手にじっとりと汗が浮かび上がる。
狂っていると思った。
相手は五、六十人からの傭兵たち。戦いを職業とする集団だ。
しかも、得体の知れない魔法を使う教団の者までいる。
たった三人で勝負になるはずがない。
それでも、息子と妻の人生が掛かっている。
光神教団の聖荘園などに連れ込まれたら、一生を何の自由もなく異常な戒律の元に暮らさなければならない。
幼い息子は洗脳されて教団の教えが全てという人間にされてしまうだろう。
ポレオは歯を食い縛る。
かつてはあった、最低限の不文律すら守らない人攫いども。
戦乱に乗じて勢力を拡大している光神教団。
ディド・ズマや奴隷商人、戦争などが世の中をおかしくさせていた。
大きな破壊の中の、ちっぽけな抵抗……。
まず、ザッハは一発目を射る。
矢は狙い違わず傭兵の横顔を貫いた。
ポレオは残った二人のうち、顔を狙える方に弓を引き搾り、放った。
吸い込まれるように男の口内に矢が飛び込む。
最後の一人はイースが飛び掛かり、懐から抜いた短剣を首筋に突き込む。
呆気ないほど不意打ちは成功した。
ポレオは足だけでなく、全身が震える。
怒りと恐怖が交じり合う。
先の襲撃と合わせて、これで七人も殺した。
イースは素早く大剣を抜くと、一番近場の家の扉に手を掛ける。
鍵は閉まっていない。
イースが中に入ると十人ほどの男が床で寝ていた。
それから食卓に女を縛り付けて犯している男が二人。
あまりも明白な状況。
女を犯していた男二人は熱中のあまりイースに気づかない。
村の娘は全裸にされ、縛られたまま四つん這いにされている。
傭兵は下半身だけ衣服を脱ぎ捨てていた。
上半身には粗末な胸当て。
ケツ丸出しの間抜けな姿。
後ろから女の尻を犯している男たち。
興奮していた男の顔。
イースと視線が合う。
唖然として口を半開きにしている。
一転、狼狽した表情に激変。
イースが踏み込んだ。
狭い室内。
大剣は小振りに扱わなければならなかった。
それでも凄まじい斬撃だった。
丸出しの下腹部に大剣が突き刺さる。
血と臓物が噴き出る。
イースは跳ね飛び、空中で一閃。
もう一人の男の首を引き裂いた。
派手な物音。
飛び起きる男たち。
イースは冷静に、淡々と傭兵たちへ剣を叩き込む。
破れかぶれになった屈強の男が、武器も持たずに組みつきを狙って体当たりを仕掛けてきた。
イースは鎧に包んだ小柄な体を負けじと男に衝突させる。
強烈な魔力による身体強化。
吹っ飛んだのは、相手の男のほうだった。
岩にでもぶつかったように男が倒れる。
胸がへこんでいた。血を吐く。
肋骨が折れて肺に突き刺さっていた。
ザッハとポレオに援護する隙はなかった。
剣を掴んで、鞘から刃を抜き放った男。
イースに猛然と剣身を振り下ろす。
見切ったイースは紙一重で回避。
踏み込み、近づいて蹴りを食らわせる。
狙いは膝の関節。
鈍い音。
よほど強烈な蹴りだったのか男が悲鳴を上げて崩れ落ちた。
ザッハは男の膝関節が破壊されて、逆方向に捻じれているのを見た。
隙と見て、床に転がっている男を槍で思い切り突く。冷静などではいられない。
義理息子と一緒になって、汗だくになりながら滅多刺しにした。
残る敵は、たったの一人。
震える手で剣を持っていた。
イースが無造作に歩み寄る。
恐怖のまま乱雑に振り回される剣。掠りもしない。
冴えた大剣が横薙ぎにされる。
胴体が、ほとんど真っ二つになった……。
部屋の中の荒くれたちは、全員死んでいた。
十二の死体。
ザッハは犯されていた村娘の縄を切る。
全裸なので落ちていた外套で隠してやった。
「助けに来た。村人は」
「む、向かいの村長の家。全員が押し込められています。傭兵は他の家で勝手に寝ているみたい」
表に出ると、さすがに騒ぎを聞きつけた傭兵たちが次々に家から出てきた。
歩哨の立っていない家屋でも傭兵たちが寝ていたようだ。
村中が騒然としてくる。
ザッハとポレオは走って向かいの村長の家に行く。
親子は奪った冑を被り、槍を持っていたので暗い最中では傭兵と見分けがつかなかった。
扉を開けると慌てた風の傭兵が一人。
ザッハは無言のまま槍を突き出す。
腹に突き刺さった。
ポレオが獲物を解体するのに使う鉈を首に叩き込んで留めを刺す。
早くも人という獣を殺すのにコツを掴んできた。
イースは猟師の親子に言う。
「お前らは村人の拘束を解いてやれ。あとは逃げていいぞ。私は表で戦う」
「たった一人でか!」
赤い瞳の女は、当然という風に言った。
「なれている」
~~~~~~~~~
イースは家から飛び出してきた荒くれたちを眺めた。
さすがに戦い慣れている。
早くも盾や剣を構えて、足並みを揃えようとしていた。
ざっと三十人はいる。
まだ増えそうだ。
ここからが正念場だ。
敵は強ければ強いほどよい。
数も多ければ多いほどよい。
死の瀬戸際、それも肌に触れそうなほど近づくほうが命を余すことなく理解できる。
そうでなければ探しているものが見つからない。
以前と違って魔術の援護はない。
かつては……アベルがいた。
アベルは魔力の動静を素早く読み取り、大気の動きなどから敵の魔術を正確に見抜いた。
いつでも対抗魔術を行使して、守ってくれたものだった。
まさに一心同体。
アベルと二人でなら誰にも負ける気がしなかった。
人生の過半を戦いに費やしてきたが、あれほど気心の合った従者は初めてだった。
誰も共に戦えなかったから、いつも一人だった。
それなのに引き剥がすようにして別れてしまった。
心から血が噴き出るとは、あのことだ。
現実に血こそ流れなかったが、胸の奥深くから音を立てて裂けたようだった。
なぜ、そんな苦しい道を選んだのか。
理屈ではなかった。
そうしないと……二人とも生ぬるい温かさの中で崩れていっただろう。
あいつの成長を邪魔するわけにはいかない。
アベルは己よりも強くなれるのだ。
そう信じている。
別れたのだから、独りでないと出来ないことをやらねばならない。
そうでなければアベルとの約束を破ることになる。
命を失う寸前にまで自らを追い込んで、見つけなければならない。
なにを?
なんだろうか……。
自分自身でも明確となっていない、強いて言えば、何かの果てのようなものだ。
イースは移動しながら全体を見回す。
部分に囚われてはいけない。
敵らの細かい挙動から、さらに群れとしての大きな流れまで、同時に全てを掌握する。
どちらかに集中していては対応が及ばず死地に至る。
大剣を振るうのに障害のない野外。
思う存分、力と技術を発揮できる場。
ここが最良だ。
手にするのは最果ての遺跡で手に入れた大剣、孤高なる聖心。
かつて所持したことのない業物だった。
切っ先から物打ちどころに至るまで、優美なまでの柔らかい曲線を描いている。
使えば使うほど素晴らしい斬れ味が、さらに増していく。
革の鎧や冑など紙のように引き裂いた。
迷わずイースは飛ぶように駆けて、接近戦に持ち込む。
傭兵たちが次々に手足を斬り飛ばされ、臓物を撒き散らして死んでいく。
剣戟にもならない。
傭兵の荒々しくも雑な攻撃をイースは舞うように避ける。
倒れた瀕死の男たちが呻く。
流れた大量の血で地面がぬかるむほど濡れていた。
赤黒い腸を踏んづけて足を滑らせた男が転んで悲鳴を上げる。
「弩だ! 教団の奴らも連れてこい!」
そんな指示が闇夜に響く。
イースは敵の手段を察知。
まだ逃げる段階ではない。
あくまで声の方に突き進む。
今こそ、もっと危険な戦いに飛び込む時だ。
大剣を振るう瞬間。
一振り一振りは常に新しく。
それまでの積み重ねでありながら、全く新しい未知の攻撃になるべく、古い感覚を捨て去る。
数万回と剣を振るった末に、一瞬だけ、黄金よりも美しく輝くような境地が開ける。
新世界が開けた如くの新たに生まれた技。
そして、惜しげもなく生み出した技は、また捨てる。
弩を構えた男がいる。
まるで当たらない角度を取っていた。
なんの脅威にもならない。
慌てて撃った矢は闇夜に消えていった。
何か喚きつつ再装填に取り掛かるが、その隙を見逃すはずもない。
イースは駆け寄り、一薙ぎで弩兵の頭を捉える。
頭蓋骨は砕けずに真っ二つになった。
新たな脅威。
イースは魔力の気配を感じ取る。
新たに家屋から走り出てきた男が二人。
魔光を頭上に出現させていた。
青白い光が、あたりを照らす。
二人とも急激に魔力を高めていた。
間違いなく魔法を使って来る。
イースは足元から拳ほどある石を掴んで、渾身の力で魔法使いに向かって投擲。
鋭い音を立てて石は、魔光を発現させている男の腹部に命中した。
鎧を着ていなかったらしく、肉の潰れる湿った鈍い音がした。
そのまま前屈みに崩れ落ちた。
魔光が、掻き消えた。
隣の男が炎の塊を幾つも出現させる。
イースは姿勢を限界まで低くさせ、地を這うように移動。
むしろ傭兵の群れに近づいた。
炎の塊が放射される。
爆発。衝撃。
熱風が荒れ狂う。
飛来した礫が鎧にいくつも当たる。
だが、それだけ。
イースは立ち上がる。
体のどこにも異常はない。
相手は混乱していた。
怒声、罵声が無数に聞こえた。
「こんな近くで火魔法なんか使うなっ!」
「てめぇ殺す気か!」
そんな叫び。
飛び散った爆発物を体に浴びて、何人もの男が悶えていた。
どこからともなく矢が放たれ、魔法を使った男の胸に突き立つ。
ふらふらとよろけ、直ぐに泡を吹いて倒れた。
「助司祭が二人とも殺された?!」
「嘘だろぉ!」
慄き動揺した声。
再び松明を持った傭兵の顔面に矢が刺さる。
悲鳴、松明が地面に落ちて火の粉が飛び散った。
いよいよ恐怖が荒くれた男たちを支配する。
研ぎ澄まされた殺気を帯びたイースがさらに敵中に突撃。
もはや誰も止めるすべを持たなかった。
上段からの斬撃は、奇妙に軌道を歪めて変化する。
屈強の傭兵が、まるで剣を打ち合わせることすら出来ずに頭を砕かれ、腹を引き裂かれた。
数を頼んで囲もうとしても動きが素早く予期できない。
すでに三十人ほど殺され、さらに闇夜から矢まで飛んでくる。
「も、もう駄目だっ!」
「逃げろ! いったん逃げろ!」
硬いものが砕けた音がした。
逃げろと叫んだ男の頭を、野太い棍棒で叩き潰した者がいる。
巨漢。
イースはその姿を認めて、かつて主であったロペスを連想する。
獣人や亜人との混血なのか、色黒で、なおかつ体毛が異様に濃い。
防具を身につけていなかった。
袖の破れた、襤褸服を着ている。
顔面はケダモノよりも狂暴そのもの。
「てめぇら! 逃げやがったら許さねぇぞ!」
「お、おかしら! でもよ、あの女……強すぎる」
「俺が殺してやる。こらっ! そこの大剣の女! 俺と一騎打ちだ」
「一騎打ちも何も元から私一人だ。相手をしてやる。来い」
歯を剥き出しにした傭兵団の首領らしき男が、棍棒を頭上、最上段に掲げる。
大振りだが、一撃で鎧も砕くような大威力となる。
イースは構えを止めて、ごく自然に相対する。
静かに敵を見詰める。
体内から、強烈な魔力の起こり感じる。
身体強化が得意なようだ。
極めて強靭な四肢をしていた。
防具を身に着けていないから体術、俊敏さに自信があると見た。
かつて共に旅をしたワルトを思い出す。
まったく賢い獣人だった。何も言わず、黙って学習をしていた。
ワルトが得意としていたのは意表を突く、変則的な体捌き。
相手の男は力だけでなく、そうした動きを仕掛けて来る。
イースにその確信があった。
先ほどまでの騒々しさが嘘のように静まり、無言のまま相対。
イースは、ゆったりとした動きから、突然、踏み込む。
大剣を突きだす。
巨漢の敵はその大剣を打ち落とそうと、大上段から棍棒を振り落した。
見切って、棍棒を空かす。
棍棒は地面を打った。
イースはさらに接近。
あと一歩で間合い。
巨漢は、その図体のデカさを感じさせない機敏な動きで横に飛ぶ。
驚異的なほど意外な身軽さ。
距離を取ってから反動で、ふたたび素早い不意打ちをしてくる違いない。
敵の挙動。
全ては予期していた通りの動き。
イースは懐から棒手裏剣を抜いてあった。
下手投げ。
まさに跳ね返るような跳躍を仕掛けようとしていた巨漢の太腿に、深々と突き刺さった。
痛みで巨漢の足が乱れた。
イースは間髪入れずに駆け寄る。
体毛に覆われた男の獣じみた顔面。
はっきりと恐怖が現れていた。
驚愕で開かれた口。鋭い犬歯が見える。
イースの横薙ぎ。
掠った。
相手は反射神経だけで回避した。
それでも、切っ先が捉えた毛むくじゃらの右腕が千切れかけた。
皮一枚で繋がっていた腕が、ぶらぶらと揺れる。
最後の抵抗。
眼を血走らせた男が拳を握ってイースに飛び掛かる。
もう、既にイースは最上段に大剣を構え直していた。
振り抜かれる。
巨漢の男は脳天から下腹部まで、真っ二つ。
爆発のごとく、血と内臓が飛び散る。
「わああぁあぁあ!」
首領が殺されたことで傭兵団は統制を失う。
恐慌状態に陥った十五人ほどの男たちが走っていく。
イースはその背中を追うことはしなかった。
助け出された村人たちが状況に途惑い、どうすればよいのか分からないでいた。
ザッハとポレオが駆け寄ってくる。
「信じられん! 勝ったぞ!」
「すげぇな、あんた! おかげで嫁と息子が助かった!」
親子の顔には驚嘆と喜びが溢れていた。
対するイースの相貌には、何の感情も現れてはいなかった。
「……油断するな。村の中を隅々まで捜索しておけ。隠れている者がいるかもしれない」
忠告に従い、村の男たちが傭兵の死体から武器を奪い、組になって村に敵が残っていないか調べ出す。
イースは焚火を作り、その傍で休むことにした。
助けた村人の男たちは怒り狂っていた。
それもそのはずで奴隷として価値の低い年寄りは既に殺されていた。
隠れている敵がいないか探すために一軒一軒と、徹底的に村内を動き回る。
連れ去ったとしても故郷や家族が残っていると奴隷から逃れたくなってしまう。
だから人間狩りをしたあと、年老いた家族は目の前で殺し、家は焼き払うのである。
明け方。
前夜までの重たい雲は薄れていた。
雲の合間から、黎明の空に星が見える。
小鳥が鳴き始めた。
やがて村人は一人の男を見つけ出した。
捕らえて、村の広場に連れてきた。
立派な服を着ている。
白を基調にした、貫頭衣。
赤い染め模様が二本、肩から裾まで走っている。
光神教団の祭服だった。
頭には法冠まで被っていた。
宝石の嵌った金の首飾り。腕輪も黄金だった。
「止めろ! 私を解放しろ。せ、聖職者を殺す者は地獄に落ちるぞ! 救われずに、永遠に苦しむのだ!」
見苦しく叫んでいた。
年齢は四十歳ほどだろうか。
髯は剃り落としてあって、わりと身綺麗にしてある。
殺した傭兵たちに比べれば、遥かに知的に見えた。
「いいか。聖司祭である私を殺せば、呪いが掛かるぞ。光神様の呪いだ!」
「……」
「嘘だと思うか!? 本当だ……」
ザッハやポレオ、村人たちは顔を見合わせる。
呪いの類は、真実と信じられていた。
魔素や魔力が満ちた世の中。
奇怪な魔法を操る魔術師や司祭が、至るところにいた。
光神教団の教義には、司祭を殺した者には永遠の呪いが掛かる、というものがある。
有名な話しで、信者ではなくとも多くの者が知っていた。
はったりだと思う反面、もしかしたらという恐怖も湧く。
ザッハは呼びかけた。
「こうしていても仕方ねぇ。こんな外道を生かしておく訳にはいかない。クジ引きで、こいつを殺す役を決めようか。気分は良くないが……」
「愚かなことは止めよっ! わ、私を殺すな! 永遠に救われない地獄に落ちるぞ。生きている間も、絶え間ない苦痛に襲われる。なんの得にもならないのだ! だいたい我々は村人を殺していない。やったのは傭兵どもだ。憎む相手を間違えるな」
イースは一つの単語に興味を覚える。
立ち上がり、聖司祭を囲む村人たちに近ずく。
「どいてくれ。その司祭と話しがしたい」
村人たちは血相を変えてイースを通した。
怯え、顔面から汗を滴らせた司祭がイースを見た。
「今、救いと言ったな。私は救いという概念に興味がある。私の問いに答えられるか」
「い、言ってみろ。この聖司祭と聖典は正しく物事を導く」
聖司祭の顔に意欲が現れた。
死を回避する機会を見出した、という風情だった。
「私の……良く知る者は救いを求めていた。しかし、私にはその者は充分に自立し、力を持っている確固たる人間に見えた。いったい何を求めているのか分からなかった」
「その者こそ神を求めていたのだ! 間違いない。脆弱な人間は偉大な神に救われることによって安寧を得る。我々が人々を聖荘園に集めているのも、そのため。人は正しき場に集まることによって、正しい行いが出来る。迷いに満ちた者に必要なのは、まず迷いの生まれない場と指導者だ。聖荘園とは、まさにそうしたところである」
イースはアベルの言動を思い出す。
頻繁にではないが……たまに言っていた。
神は心底から嫌いだと。
だから神殿には祈りに行かなかったし、神像を拝んでいるところは一度も見たことが無い。
それではアベルは、どう救われるのだ……。
「それは違う。その者は神を嫌っていた。神を、憎んでいた」
「神を憎むだと? あ、哀れな。そして、罪深い。最悪だ。神を憎みなどするから混迷し、絶望に囚われる。救いを求めて、しかし報われぬ」
「神を信じないと救われないのか?」
「そうだ!」
「それは話しが逆さまではないか? 神とはどんな生命でも救うから神なのではないか。罪深くとも助けるから超越していると言えるのではないか。なぜ、選別する」
「神とは契約しなければらない。神は賢く正しいものしか救わぬ。神を信じる者だけが死後に永遠の快楽を得られるのだ」
「解せないな。神が世界を創造した完全なるものならば、そもそも悪人は存在させる必要がない」
「それは違う。人は性善なのだ。原因は様々だが、誘惑に負けて悪人となるのだ。神が悪いわけではない。負けた人が悪い」
「性善とはなんだ? 殺さない事。奪わない事などか」
「そ、そのとおりだ」
「殺さず、奪わない生物など、どこにいる? 虫も獅子も人も、他の命を食べることで生きている。それは自然ではないか」
「人と動物とは明確に違う。神の教えを理解できる人間だけが神を信じることができる。よって人間以外の下等な畜生は神とは契約できない。契約できない生き物はそのように創られたのだ。人として生まれながら神を認めず、あまつさえ憎んで疑うとは畜生以下の行いぞ」
「しかし神と契約したというお前らは悪を為している。奪うというのは、まさにお前のしていることだ。自活している村人を奴隷にして荘園で働かせている。これは酷い略奪だ」
「ち、違う! それは違うのだ! 聖荘園は人々を正しい生活に導く土地だ。奴隷にしているわけではない。導きを与えるのは我らの義務。尊い行いだ」
「仮にそうだとしても人を殺して、民を攫って来る傭兵と取り引きをしている」
「それは方便のため。仕方がない。武力では奴らに敵わぬ」
「例え敵わなくとも抵抗するべきだろう。正しくないものと取り引きするのは、お前らでいうところの悪業や堕落であろう」
聖司祭の眼が泳ぐ。
必至に考えを搾り出そうとしていた。
「……我々には役目がある。人々を導き救う、聖職だ。聖典にも、そう記されている。よって、まずは私の言うことを信じるのだ」
「お前の言っていることは矛盾している。正しく生きると、死後に永遠の快楽とやらを神に与えられるのだろう。それならば、なぜ、殺されるとしても戦わない。死んで本望ではないか」
「お前は、いまだ知恵を持たず、教えを知らないから意味のない疑問が湧くのだ。それは妄想と同義である。人も世界も、神が御創りになったのだ。そうでなければ、どうして我々がここにあろうか。この現実を前にして、神を否定するのは現実を否定するのと同じこと。そんな根本的な部分で疑義を持ち、そこから逃れらないようなものは……救えぬ。神の代弁者である司祭の言葉を信じよ!」
「……」
イースは考える。
いつか、アベルと再会したならば、あいつの持っていたらしい懊悩や欲求に答えてやりたい。
あいつの満足のために、体を与えようとしたが……受け取ってくれなかった。
では、何ならば満ち足りるのだろうか。
神でもないはずだ……。
この聖司祭の言う、薄っぺらな教義などでは全く足りない。
「困ったな。いつかあいつと再会したら、救いというものがなんであるのか教えてやりたいのだが……。お前たちの教えでは無理だな」
聖司祭は激しく首を振る。
額から汗が垂れた。
「ええい! 無知な女! 命も自然も神が御創りになったのだ。中でも別して神に仕えるよう運命づけられた司祭を、殺すなどと……。呪われろ。そうだ! 呪われるがいい!」
「お前、よっぽど死ぬのが怖いらしいな。それならどこか山奥の祠にでも隠居すればよいものを。どうして傭兵が駆り集めた人間を買い取りにきた」
「それは教祖様のご命令だ。聖荘園に一人でも多くの迷い子を導けとの、尊いお考えだ」
「かといって金を悪党に渡すのは感心しないな。取り引きをするということは、相手を認めたことでもある」
「人を救うためだ。か、金など惜しんでいられるか」
「……言葉正しくとも、行いは正しくない。お前のような者を、たくさん見てきた。神を騙るものに私は醜さを感じる」
イースから氷のように冷たい殺気が放たれる。
光神教団の司祭は、歪んだ笑みを浮かべた。
「神を信じず、我らを疑うものよ。永遠の罰を与えられるといい。ここで無慈悲に私を殺して、呪われるがいい……! 永遠に苦しめ!」
「手の込んだ擬態だ。ある種の蛾が、木の葉にそっくりな姿をしているように、お前らの教えは悪を隠した擬態である」
顔に汗を浮かべ、血走った眼でイースを睨む司祭。
本気で、呪いがあると考えているらしい。
呪文のようなものを呟き始めた。
成り行きを見ていたザッハが司祭を殴りつけた。
衝撃で頭に被っていた美麗な法冠が落ちる。
イースは大剣を振り上げた。
それをザッハが制した。
「ここからは俺の仕事だ。恩人のあんたに、これ以上の世話は掛けられねぇ」
「どうするつもりだ」
「俺がやる。こいつを生かしたら、光神教団にここであったことが知られる。そうとう敵視されるだろうよ。結論なんか、もう出ている」
ザッハは喚き散らす聖司祭を背中から押さえつけて、首を小刀で掻き切った。
思い切りのいい、迷いのない一撃。
見事な手並みだった。
一瞬だけ慌てたように、もがいた司祭。もう、絶命していた。
ザッハは落ち着いて言う。
「鹿や雉を仕留めたときも、なるべく苦しまないように殺してやるのが礼儀だからな。苦しめば苦しむほど救われるって話しの光神教団とは逆だぜ」
「親父。呪いは?」
ポレオが心配そうに聞いてくる。
「いまのところは無いな。何も感じない」
「あ、あとから来なければいいけれど」
「ふん。何の理由で呪いの執行は遅れている? そんなものは、ないんだ。人を襲うやつ。攫われた者たちを買い取って過酷な労働をさせるやつ。みんな毒虫みたいなもんだろう。毒虫を殺すのに理由なんか一つだ。危険だから、潰すだけ。余計なことは考えなくてもいいのさ」
戦いは終わった。
村人たちはイースやザッハに感謝と賛辞を惜しまなかった。
何しろ、大きな危険を顧みずに戦ったのだから。
だが、イースは終始表情を変えない。
離れたところに置き去りにした雑嚢を拾い、もはや旅を再開しようとする。
ザッハが慌てて引き止めた。
「待ってくれ。アークさん。礼をしたい! このまま別れるなど非礼なことだ」
「気遣い無用。私には既に充分な収穫があった。やはり、あいつの求めているものは神ではない……」
「探しているものとやら、見つかったのか」
「欠片はな」
「と、とにかく朝飯ぐらいは御馳走させてくれ」
「……大げさな宴は遠慮する」
「ああ。分かった。直ぐ済むようなものにしよう」
イースはザッハとポレオの家に案内された。
猟師の家だけあって壁には熊、鹿、狐、貂などの毛皮が飾られていた。
中でも黒貂の毛皮などは質感が良いので、高値で売り買いされるものだ。
鹿角などから、細工物も作っているらしい。
なかなか精巧に削り込まれた根付などが棚に置いてあった。
そうしたものを見物していると、料理が出てきた。
助けたポレオの妻が作ってくれたものだ。
麦とチーズの粥。
羊肉の煮込み料理など……。
肉だけでなく、内臓の部位なども共に煮込まれたものだったが、臭みなどはない。
滋養の多い、体の温まる食べ物だった。
イースは黙って食事をする。
ポレオが戦いの興奮が冷めやらぬまま、あれこれとイースの経歴を知りたがったが、詳しい回答は得られない。
イースは不愛想だった。
受け答えは、極端に短い。
会話は弾むどころか沈んでいく。
やがてイースは料理を平らげた。
「上等な食事だった」
気まずそうに黙っているポレオの代わりにザッハが答える。
「受けた恩に比べれば、こんなことぐらい……。アークさん。これから、どうするんだい」
「東か北に行こうと思っている」
「ということはウルグスク地方か。あの付近こそ光神教団の勢力地がいくつもある。魔獣界にも近いから怪物も多いし、なにかと争いの絶えないところだぜ。それでも行くのか」
「探しているものが、ありそうなら」
探しているもの。
それは心だ。
ずっとずっと探している。
慈悲も残酷も、善や悪すら超越した……。
言葉に変換することができない、自我と世界が隔たりなく結びついたような極地。
一瞬でいいから、見てみたい。
心から感じてみたい。
その瞬間に死んでしまっても、全てを肯定しながら消えることができる。
それなのに……あれからアベルのことばかり考えている。
険しい山を越え、荒野を歩み、暗闇に魔獣の息を濃厚に感じる夜。
いつもアベルが、そこにいるかのように、ほとんど実存に近い気配を持って思い出される。
幻というのとも違う。そんなもの見たことはない。
やがて大きな疑問が頭から離れなくなる。
アベルの欲していたものは、何だったのか。
時として自暴自棄なまでの戦い方をした。
それはハイワンド家に対する忠誠心からではなかった。
欲するものを手にしようとする足掻きのような……。
イースは鮮やかに思い出す。
アベルが持つ、あの危うさには異様な魅力があった。
強く強く魅かれて、いつしか己でも気づかないうちに激しく傾倒していた。
もし別れないまま皇帝国に戻り、アベルの奴隷にしてもらっていれば……どれほど楽しかったろうか。
自分で考える必要など何もない。
アベルが自分を悪く扱うことなどあり得ないのだから。
何もかも全て、アベルの言うまま従えばいい。
そして何でもしてやろう。どんなことでも……。
肉体だって、あんな風に突然と渡さない方がアベルの好みだったのかもしれない。
自分の思いもよらない作法があったのかもしれない。
そこを弁えていれば、あるいは抱いてくれたのかもしれない。
後から、そのことに思い至った。
アベルと初めて会ったとき、まだほんの幼い子供だった。
人間族の六歳ぐらい。
可愛らしい男の子……そんな印象はすぐに破れた。
油断も隙も無い態度。
次々に魔法を行使して、地面に空けた穴から爆発物を噴出させる異様な魔術まで使ってみせた。
そして、あの群青色の眼。
何ものも信用していない……欲望が踊っているような瞳。
そうだ。
今だから分かる。
アベルは、あの年齢して既に神を見限っていた。
矛盾しているようだが、救いを求めつつ、だが、救いを否定していた。
アベルのことが少しだけ理解できて、また分からなくなった……。
イースは大剣を背負い、雑嚢を持つ。
行ってしまうのかと、ザッハが聞いてきた。
「ああ」
「俺たち、下手したらここに住めないかもしれない。逃げた傭兵どもが、他の傭兵団を連れて来るかもしれねぇ」
「そうかもな」
「さっき皆と相談したのだが、王道国のガイアケロン王子が治める領地は安全らしい。それに移民を積極的に受け入れていると。もしかしたら村人全員でそこまで移動するかもしれないんだ」
「ガイアケロンは……信用できるかもしれない」
「できたらアークさんにも一緒に来てもらいたかったが……無理そうだな」
「目的が違う」
ザッハとポレオは、もう少し説得できないか考えていたが、無理だと悟った。
元は皇帝国の騎士だったというこの女のことは、何も知らないのだった。
探しているものがあるというのだが、それが何なのかも知りはしない。
「あんたの探しもの、見つかるように願っているよ」
「……ありがとう」
イースは家を出て、歩み始める。
村人たちが、もはや物言わぬ死体を一か所に集めていた。
誰も彼も自分が殺した相手だった。
振り返ることもなく、山道を進む。
進む先には何があるか。
行かねば、永遠に分からない。
いつも読んで貰って、ありがとうございます。
次回、未定です。
感想くれる方、レビューまでしてくれる方、感謝申し上げます。




