欲する者たち
ヨルグとの、おぞましい再会。
アベルには悪い夢のようですらある。
だが、夢ではない。師弟の契りまで結んでしまった。
運命の奇妙な回転に空恐ろしくなる。
イースがいなくなり、師の不在を意識していたところに……ヨルグが現れた。
すっぽりと欠けたところへ、あんな執念の塊のような男が嵌り込んできた。
師というものは第二の親みたいなものだ。
これに恵まれるかどうか……これは親同様に運次第ではないか。
自分の努力でどうにかなるものではない……。
アベルは身の置き場がないと訴えていたカチェを訪ねに行く。
自分の気分を変えたいという意味もあった。
とてもではないが一人稽古をする気にならない。
大邸宅の中に入った後、まずケイファードに挨拶だ。
カチェの予定はだいたい彼が把握しているし、一応、訪ねて来たことを報告しておかないとならない。
執務室の手前にある控室に行くと丁度カチェ、ロペス、モーンケ、ケイファードなどがいた。
「おはようございます……。みなさん、お揃いで」
「アベル! 来たわねっ」
カチェが嬉しそうに微笑んだ。
ケイファードも何故か、我が意を得たりという表情をしている。
「アベル坊ちゃん。いま人を遣って、こちらに来ていただこうと思っていたのです」
――坊ちゃんねぇ……?
ケイファードさん、様付けの代わりに俺の事をそう呼ぶことにしたんだ。
「え~と。僕に何か用事でしたか」
「衣装の仕立てにございます」
「服……」
家令ケイファードは微笑して頷いた。
服は出来合い物を買って着るということもあるのだが、体から寸法を測って注文制作するという手法も盛んだ。
特に高級服においては注文制作こそが、ごく常識というものである。
「どうして僕まで衣装なんか仕立てるのですか」
「今度、ロペス様らの帰還祝いを盛大に行うのです」
「出陣式のときみたいな。じゃあ、また僕は料理人ですね」
「バカを言わないでください!」
ケイファードは本気で怒っていた。
どんなときでも冷静沈着な彼が珍しいことだった。
「アベル坊ちゃんもハイワンド家の家門衆でございます! 晴れの舞台でございます。アベル坊ちゃんが盛装をなさればどこに出ても恥ずかしくない貴人となりしょう」
「そうよ。ケイファードの言う通りよ!」
カチェまで加わってきた。
こうなっては勝ち目がない。
アベルは途惑いつつも渋々、頷く。
レイ家の人間という意識はあるが、ハイワンド家の一員かと言われれば、いまだに微妙だった。
その後、職人の準備が出来たというので全員で別室に移動。
アベルの前には、初老の品の良い仕立て職人がいた。
恭しく、笑顔で頭を下げてくる。
「貴族様。ご希望はございますでしょうか?」
「いやぁ。そういうの良く分からないから。適当で……」
「アベル! それなら黒がいいよ。きっと似合う」
カチェが助言してきた。
どうしたことか、やたらと嬉しそうだった。
「天鵞絨の黒で決まりね。わたくし、好きなのよ。お揃いにしましょう」
天鵞絨というのは絹で作られた美しい光沢の布である。
前世的なものに当てはめるとベルベットのような感じの素材だ。
超高級品と言える。
原料である絹の生産は森人族の国、エウロニアがほぼ独占していた。
生糸を生み出す蚕の飼育は彼の地でしか出来ないらしい。
どうした衣服にすれば良いかと、楽しそうにカチェが細かく指示をしている。
アベルはカチェに、お任せすることにした。
大柄なロペスの採寸は大変らしくて、職人は椅子の上に立って巻尺を当てている。
モーンケが派手で立派なやつが良いと、あれこれ細かく注文していた。
衣装の打ち合わせには、それなりに時間が掛かってしまった。
アベルはカチェに誘われるまま昼食もこちらで取ることにした。
たぶん、兄二人と食事などしても少しも楽しくないので誘ってきたのだ……。
「カチェ様。今日の夜も家に来ますか」
アベルがお返しにそう誘えばカチェは輝くような笑顔を浮かべた。
「いいの?」
「シャーレと何か変な雰囲気でしたけれど、あれさえなければ……ね」
「分かったわよ。あれは不意打ちだったから!」
「不意打ち?」
「何でもないわよ! じゃあ夕食の頃に訪問させていただくわ」
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昼食を摂ったあとアベルは昼下がり、馬で貴族区から平民区へと移動。
猥雑と混乱に満ちた帝都を進むのも、だいぶ慣れてきた。
ところが、ウール門を通過してすぐの広場で激しい混乱が起こっていた。
治安維持をしている巡邏隊が複数の人を追いかけている。
アベルは横にいる商人風の男に声を掛ける。
「どうしたんですか」
「あれだよ。平民議会派のやつらだ」
「平民議会って……税金の使い道を平民でも審議したいという人達の?」
「そうだ。辻で演説をしていてよ……。すぐに逮捕されるってのに無茶なやつらだよ」
「まぁ、少し気持ちは分かるけれど」
「いやぁ、へへへ。全く、ここんところの増税続きではな! ……ん? おにいさんは貴族じゃないのか」
商人風の男は青い顔をして立ち去ってしまった。
アベルは混乱を回避するために迂回してモンバール通りに向かう。
最近は帝都の地理に少々慣れてきた。
回り道をしてダンヒルの店に到着……。
もう受付の男とも顔見知りである。
軽く挨拶をしてお店に入った。
「アベル! 来てくれたんだ」
花が咲いているような笑顔。シャーレは本当に嬉しそうにしていた。
アベルは何だか、申し訳ない気分になる。
幼馴染からの無償の好意。
ありがたいような……、それでいて自分には勿体ないような……。
「シャーレ。今日は、また家に来るよね」
「いくいく!」
「あとさ。母上が生薬を手配してほしいって」
「どんなの?」
アベルはアイラの注文を思い出して伝える。
それはヨルグの薬となるものだ。
強い鎮痛剤や睡眠薬、胃腸薬の類だった。
お金を払って、シャーレに用意してもらう。
ダンヒルの店では、シャーレの他にも五人ほど若い見習いの女性が働いている。
皆、アベルとシャーレに注目していた。
そこには、ありありと羨望の表情が浮かんでいる。
貴族の青年と親しくなって付き合う、というのは平民の娘にとって一種の伝説なのである。
もう滅多には無いことであるし、あったとしても大抵は遊ばれて捨てられる……。
あるいは、肝心の相手が父親ほどの年上であるとか、酷ければ異常な性癖を持っていて、そのはけ口を求めているだけなど。
だいたい、そのようなものであった。
ところが、シャーレの相手ときたら貴公子と呼ぶにふさわしい姿。
しかも、平民であるシャーレをとても大切に扱っていた。
羨ましいという言葉でも、まったく足りないのだった……。
また、男の従業員も複雑な表情を隠せない。
シャーレは美人で性格も良く、腕も確かとなれば……人気があるに決まっていた。
それが、貴族の少年と二人で帰っていくというのは、嫉妬の一つも湧くというものだった。
夕方。ダンヒルの店の営業が終わり、残務処理をしたシャーレを連れて帰る。
途中、ちょっと食材なども買っていく。
ウール門を通過して、素早くハイワンド公爵の邸宅へと向かう。
アベルは背中のシャーレに話しかける。
「あのさ、カチェ様も来るから。仲良くしてね」
「うっ……。あたし、領主様のご令嬢はちょっと苦手」
「まぁ、確かに時々恐ろしいよな。カチェ様って素手で鉄の鎧とか凹ますことができるんだぞ。さすが魔力が豊富なだけあるよ」
「なにそれ! 怖い!」
「あはは。ごめん。ちょっと言い過ぎた。カチェ様は優しいよ」
シャーレは本気で怯えてしまった。
冗談のつもりであったのだが。
「シャーレだって魔法は使えるんだろう」
「初級程度よ。火魔法なんか危なくて使う気もないから勉強していない。それに魔力での身体強化は苦手なの。全然、上手く出来ない。たぶん才能が無いんだと思う。カチェ様に対抗するなんて不可能よ」
「僕だって不可能だよ……」
「ねぇ、アベル! あたし、どうしたらいいの?」
アベルが振り向くと、シャーレは困惑しきった表情をしていた。
「普通でいいんだ。普通で……。心配なんかいらないよ」
シャーレは頷く。
アベルがそう言うのなら……そうなのだろうと思うことにする。
アベルは大邸宅の厩に赤毛の愛馬を預けて、シャーレと共に徒歩で家に向かう。
すると、ちょうどカチェが歩いているのが見えた。
邸宅の周囲は見通しが良いので目に付いたのだった。
背後から近付いていくとカチェが気配を感じ取り、振り返る。
「アベル!」
カチェは動きやすそうな乗馬服の姿だった。
革の長靴。
膝が見えた短い裾の下穿き。
白い絹の上着。
レースや刺繍が嫌味にならないように施されていて、心地いい品位があった。
飾らない軽快な服装はカチェらしくて似合っていた。
服の趣味がいいなとアベルは内心、感心してしまう。
対して自分の服など実用一点張りであった。
いまでこそウォルターの服を借りているから貴公子みたいだが……。
「よかった。これから行くところだったのよ。シャーレさん。ごきげんよう」
「あっ。はい。こんばんは」
カチェはいつもの通りの態度でシャーレに接する。
恋の好敵手……なのかもしれないが、ここでシャーレに辛く当たるなどしたくない。
不安になることも卑怯になることもやめよう。
あからさまなアベルへの好意と距離の近さに嫉妬を感じずにはいられないのだが、それでも正々堂々としていればいい。
カチェはそう思った。
三人で家に行く。
カチェは今度こそ本当に緊張する。
まず、アイラに挨拶をしにいった。
「アイラ様。ごきげんよう。今日もお邪魔します」
「カチェ様……」
アイラには、やはりどこか硬さと途惑いがあった。
元来、明るい性格の彼女が含むものを持っていると、それが態度によく現れるようだ。
それにシャーレに対する親愛の様子と明確に異なるのである。
時に理不尽な暴力を振るう支配者……ハイワンド家の人間。
そのように思っているのだと理解する。
離婚を薦め、愛娘の養育権を要求し……そんな横暴振りではそう思うのも無理はないのであった。
カチェは勇気を出す。
こういうことは話しをするしかない。
「アイラ様。今日は、まずこのカチェの事情を聞いていただけますか」
「……分かりました。座ってください」
二人は今の食卓に座る。
「わたくし、兄二人とは母親が違います。そこにもってきて年齢の差もあり、あまりにも気風が違い過ぎて兄たちと話しは全く合いません。淑女らしい遊びもそれほど好まず、友人というものがいないのです。肝心の母とも、ほとんど音信不通で父はご存知の通り生死不明……」
アイラは真剣な顔で頷いた。
「帰還の旅をしているときは一人の女性と友誼を結べましたが、帝都に来てからというもの知り合いがいません。アベルは……わたくしと唯一、話しのできる相手なのです。アイラ様とも冒険のことなど語り合えたら、どれほど楽しいかと思っています。今日はそう思って再び訪ねました」
「少し理解できてきました。貴方にも複雑な家庭があるのね」
アイラは気の毒そうな表情を浮かべている。
カチェは自分の立場が少しは伝わったのかと安堵した。
「お爺様。バース公爵様に機会を見て聞いてみます。その……叔父上様とアイラ様の離婚を薦めてみたり……ツァラの養育権を要求するなど……。いくら何でも、酷いと思いました。お爺様は重職に就いておられ厳しい面もありますが、わたくしには温かい手紙を送ってくれる方です。何かの行き違いがあるのかもしれません」
「貴方は、とても真っ直ぐな性格をしていますね」
アイラの顔に柔らかい笑みが広がった。
カチェは、自分が受け入れられたのだと感じる。
ほっとしたというのが、正直な心境だった。
何といっても、ここは叔母アイラの家庭なのだ。
彼女に受け入れられなくては、訪ねることも儘ならない。
「あの今日は、わたくしも料理の手伝いをさせてほしいのです。ただ食事をしに来た客になりたいのではなくて……その……レイ家の一員にしてもらいたいものですから」
「それは……いくらなんでも公爵家の御令嬢に対して失礼すぎるのでは」
「アイラ様。お願いします」
カチェは懸命に頼んだ。
飛び込まないと壁は越えられない。
越えられなければ……永遠に家族にはなれないのである。
いつまで経ってもお客さんだ。
アイラは迷っていたが躊躇いがちに頷いた。
「分かりました。では、一緒に」
「はい!」
その後は、アイラ、シャーレ、カチェで協力して料理を作る運びとなった。
献立は牛肉と根菜の煮込み、蕪と人参の入った麦粥、豚の腸詰めと野菜のソテーなどであった。
大きな肉の塊を切断して筋を取り分けたり、野菜の皮を剥いたりなど手間の掛かる作業を協力して進めた。
雰囲気は和気あいあいとしている。
ウォルターは上機嫌だった。
いつにも増して明るい。
ツァラを膝の上に乗せて遊ばせながら、にこにこと笑っていた。
「父上。嬉しそうですね」
「そりゃそうさ。お前は無事に帰ってきて、家には若い女の子が二人も来て。これが楽しくないはずないだろう」
「言われてみれば、そうですよね。女性が多くて華やかだ……」
「アベル……二人とも嫁にするか? 別に皇帝国は重婚を違法とはしていないからな」
「父上! な、何を言っているんですか! カチェ様に聞かれたら尻がへこむほど蹴り飛ばされますよ。本当に、すげぇ強いんだからね」
「ははは……」
ウォルターは陽気に笑っている。
膝の上に乗っているツァラは不思議そうな顔をしていた。
だが、ウォルターは物憂げな表情をして独り言のように呟いた。
「面倒な問題が片付けばいいのにな。どこか静かなところで、また診療所をやりたい。戦争なんか早く終わってほしいぜ」
「バース公爵様は和平派……」
「そうだ。バース様は現実主義だ。膨大な戦費の維持、貴族の分裂を招いている現状が長続きするとは思っていない。帝国内の混乱が激しくなり、負け戦が続くほどバース様の主張に賛成する者が増えてきている。だが、反面、意地でも戦争をして勝利するという主戦派も、ますます強硬になっているらしい。そういう奴らにとって和平派の首魁たるバース様は邪魔なんだと。そこへ来て後継者争いだ」
「溝は深まるばかりですか……」
「行き場のない浮浪者の大群、平民の辛苦なんか見もしないで貴族たちは派閥争いに明け暮れてやがる……。もっとも、この俺だって貴族様の端くれで、こうしてお零れで飯を食っている身分だがよ。冒険者の頃が懐かしくなってきたぜ」
たまたま葡萄酒を運んできたカチェが公然たる社会批判を聞いていて、びっくりした顔をしている……。
しかし、すぐに取り繕って澄ました態度で銀杯をウォルターの前に置く。
赤い葡萄酒を壺から注いだ。
ウォルターは礼を言って杯から酒を飲み、少し考えてから喋り出した。
「アベル。近いうちにバース公爵様はお前に何か任務を命じるつもりじゃないかと思う」
「任務……騎士団のですか」
「う~ん……。俺の想像だともっと内密の、よほど信頼のおける人間しか関われない、そういう事案に絡むのではないかな」
「良く分からない話です」
「バース公爵様はきっとお前のことを高く評価しているだろう。カチェ様やロペス様たちをここまで守護してみせた上に、お前には妙な賢さがある。視野の広さっていうかな。そこらの貴族にはないことだ。だから、懐刀にする気かもしれない」
「そうだとすれば、どうしたらいいのですか」
「うむ……そうだな……。もう、自分自身で決めていいだろう。アベルは子供の頃から、どうにも思索的なところがあるよな。何かをじっと考えているような……。けれど考えているだけではいけないから、実際に見聞させるという意味があって俺は従者の件を了承したんだ。もう、ここまで成長したアベルにあれこれと干渉して本来持っているはずの志向を捻じ曲げるつもりはない。前に言っただろう。嫌になったら辞めちまえばいいって! もし、爺さんの使い走りが無理だと思ったら、別の道に行けばいいさ。俺なら、いつでも相談にのってやるぞ」
ウォルターの大らかで賢明な姿勢が胸を打った。
本当に自分のことを考えてくれて、しかも力まで貸す人なのだなとアベルは感じる。
前世では絶対に出会うことが出来なかった人物だ。
こういう時……心の中がグシャグシャになる。
素直に、上手く感動できない……。
アベルは俯いて、じっとしていた。
料理が完成した。たっぷりと量がある。
大皿や深鉢に盛られていて、各人が適量を取り分ける。
カチェはこういう食べ方が好きだった。
邸宅で出てくる小奇麗で洗練された料理もたしかに美味ではあるのだが、広い食卓に一人で座って、一皿一皿と提供されていく料理を食べていくのは、どこか滑稽であった。
どうやら望んでいた和解が成りつつある。
カチェは明るく笑った。
牛肉と根菜の煮込みは香辛料で味が整っていて、最上等の料理屋でも出てこないような味わいだった。
カチェとシャーレの仲も、だいぶ解れてきてアベルは安心する。
不機嫌なカチェは怖いのだ……。
家族団欒。
温かい泥に埋没したような、安堵感。
アベルは美味い葡萄酒を飲み、少しぎこちないけれど片付けを懸命に手伝っているカチェや慣れている様子のシャーレをぼんやり眺めていた……。
そんな平和も翌朝には粉々に砕けていた。
ヨルグという、地獄に片足を突っ込んだような怨念の鬼と対峙しなければならない。
「昨日、俺が去った後は何をしていた? まさか、遊んでいたわけじゃないだろうな」
「……」
昨日は衣装合わせをしたあと、シャーレを迎えに行って……そして皆と夕飯を食べて、寝た。
ヨルグからしてみれば、まさに遊んでいたというところだ。
答えないアベルを前にして、ヨルグは見る見るうちに表情を変えていった。
もともと青黒い顔色、死相の浮いた不気味な表情をしていたのに、そこに激怒の色までが加わる。
修羅場を切り開いてきたアベルが思わず後ずさりしたくなる迫力だった。
病魔に侵され痩せているとはいえ鍛錬と戦闘を続けてきた肉体には、いまだ屈服しない鉄杭のような頑健さが備わっている。
ある意味、魔獣より危うい男……。
「この糞ガキめ……! え? お前みたいな小才者が一番勘違いしやすいんだよ! ちょっと力をつけたところで、あっさり殺された奴をいくらでも見てきたぞ。お前、脳みその色を見たことぐらいあるだろうがよ。お前の正体が、ぱっかり開いた頭蓋骨から漏れて出て来るのを自分で見る破目になるぞ。俺は知っている……。頭から飛び出た脳みそを手の平で受け止めて、絶望の顔をしながら死んだ奴をな。なにしろ、俺が殺した奴の事だからな! 忘れるわけがねぇ……」
語りながらヨルグは特異な構えを見せた。
木刀を右手一本で上段に位置付ける。
左手は手の平を全開にして、腕を前に出す。
良く似た形を以前、一度だけ見たことがある。
ガイアケロンと決闘をしたときだ。
イースが、こんな構えをしていた。
アベルはすっかりヨルグの鬼気に包囲された気分になってしまい、手にした木刀一振りを攻刀流正眼の構えに持ってきたものの、そこから先はどうすればいいのか分からなくなりつつある。
ヨルグは手の平を開いたり、あるいは閉じたりしながら巧みな足捌きで近寄ってきた。
明らかに突き出した手は囮だ。
しかし、アベルの視界を邪魔するように嫌らしく手を蠢かす。
逃げていても稽古にはならない。
そして、それ以上にイラつきを堪えられずアベルは強引に接近して、上段斬りを繰り出す。
ヨルグは瞬間的に両手構えに変化して、渾身の力を込めたはずのアベルの攻撃を受け流した。
アベルは驚嘆しつつ、バックステップで距離を取ろうとした瞬間。
ヨルグは右手でアベルの左腕を掴んだ。
そして、残った左手の木刀で突いてきた。
アベルも負けじと再度、斬撃を加える。
アベルは胸を突かれた痛みに顔を顰めた。
ヨルグは鬼の形相をしていた。
目線だけで人を呪い殺せそうな、そういう眼。
すぐ至近距離にそんな顔があると、いくら平静を取り戻そうとしても心は引き摺り回される。
「相討ちだ! 実戦なら、これでお終いだ。お前には治療魔術があるらしいが、だからなんだ 太い血管を絶たれたら直後に意識は消えかかる。体はほとんど動かない。分かったか、この屑野郎。自分にちょっとでも価値があると勘違いしているのか! 俺程度が相手でも相討ちを取られる低能が!」
たった一回の立ち合い、体も精神もバラバラに引き千切られそうになる内容。
眩暈にも似た感覚を得た。
このままこんな稽古を続けていたらどうなってしまうのかと慄きに近い心理に突入していたが、ヨルグは早くも体力を失い、激しく息をついている。
だが、それでもアベルを睨んで言った。
「そこで……、形を見せてみろ。素振りもだ!」
アベルは言われた通り、様々な構えと変化を実演してみせた。
それらは攻刀流であり、防迅流であり、また暗奇術でもあり、あるいは戦いの中で斬り覚えたものであった。
本当は人に見せたくない。
どれも血飛沫によって磨き上げた技で、大げさに言えば秘術のようなものであった。
公開するものではないのだが、ヨルグに逆らえなかった。
それに相手はもうじき死ぬ人間である。
秘密はすぐに墓穴へと転落することになるのだ……。
最後にイースの真似をしてみる。
頭を攻撃すると見せかけて、実際は敵の腕を落とす技。
「今のは……イースが教えたのか?」
「いいえ。見て覚えました」
「それはな、夢幻流の技。風華落葉というのだ。華というのは無論のこと首の見立てだ。頭に風が触れるように……ところが実際は腕や手が落ちるという意味になる」
ヨルグはそれから、自分が戦ってきた強敵。
それらとどうやって戦闘を運び、殺したか……執拗に詳細に語り出した。
貴重な体験談だが、必然としてその内実は陰惨無残なものであった。
「いいか。一番重要なのは恐怖心をどれだけ飼い慣らせるかだ。恐怖を感じなくなったら、それは死兵というものだ。そうなったら一回きり、敵を道ずれにできるが自分も殺されるだろう。敵を殺して、なおかつ自分は無事に済む。そもそも、そんな都合のいい状況を作り出すのが、どれほど難しいか……今更説明はいらないな」
「はい……」
「恐怖というのは竈の炎みたいなものだ。なければ、敵を料理することはできねぇ。だから、炎は消すな。上手く利用しろ」
「イース様は恐怖心を持っていましたか……」
「持っていたさ! 不気味だろう、イースは。あの面の皮……綺麗に見えやがるが、どんな攻撃を仕掛けようとも奇手を用いたとしても僅かも動かねぇ。彫刻みたいだ。やりあっていると……自分が遊ばれているような……独り相撲を取らされているような、そういう気持ちにさせられる。もう、ここで、勝負は半ば決まる。そう感じてしまえば恐怖心が暴れ出す。押さえつけるのは無理だ。そういう恐怖心はイースの中にもあるはずなんだ。もし、無いのなら……とっくに自滅している」
アベルは固唾を飲み込んだ。
自分が感じていることに、かなり近い。
――イースのことを不気味と思ったのは……初対面のときだ。
初めて会って話をしたとき、既にイースは俺の異常に気が付いていた……。
ところが、再会してからも普通に受け入れてくれたな。
イースは相手によって態度を変えるということをしないから。
ただ単に通常の対応をしていた。
戦闘でも日常生活でも、要は同じようにしているだけ。
そして、いつしか俺はイースに、例えようもない清らかさを見出して……。
ヨルグの戦いの歴史、あるいは強さへの執念が混交した語りは続く。
「乱戦になり、あるいは相手が強くて勝負が長引くことがある。そうなると最初の高揚感は消えて体は石みたいに重く硬くなる。だが、それは肉体の疲労じゃない。そんなヤワな体なら、農民すらできやしねぇ。毎日、鍛えていれば体は忍耐強くなってくれる。では、何故それほど疲れてしまうか……。それは心だ。恐怖が手足を縛る。やめてしまえ、逃げてしまえ、命乞いしてしまえ、戦士なんかやめてしまえ……恐怖はありとあらゆる説得をしてくる。だから疲労するんだ!」
粘着質なヨルグの教えには、しかし、無視できない真実味を感じる。
アベルはいつしか夢中で聞き入っていた。
「いいか。イースに届きたかったら、まず恐怖を飼い慣らせ。そして……超越しろ。集中を全方位に、無限に拡大させろ」
「イース様は……そういう世界を目指している……」
「その通りだ! あいつの目指している高みとは、そうしたものだ」
アベルは歯を食い縛りながら、ヨルグの精神に取り込まれまいと抵抗してみるが、どうしようもなく引き寄せられる。
まさに、ヨルグの洞察は正しかった。
否定しようとしても、間違いなく共感してしまう。
「お前は欲するものを手にしたいんだろう? だったら、まず、くだらない自分を完全に壊せ。俺が身につけた程度の技も覚えられないならイースに近づこうなど……愚かに過ぎるというものだ」
「……」
「欲しいものを追求しろ……。魂に塩を撒かれようとも諦め果てるなよ!」
――俺の欲しいもの……。
俺は飢えている。
欲しいものは確かにある。
だが、それが何かと問われれば……よく分からない。
もし見つからなかったら……行き着くのはこいつと同じところ……?
ヨルグの息切れが激しくなってきた。
アイラが新しく調合した薬を飲むが、立っているのもやっとの様子である。
「今日、見せてやった技を使い込んでおけ。いいか。遊んで上達が感じられなかったら、ただじゃ済まさねぇぞ……。明日、また来るからな」
ヨルグとダンテは去っていく。
アベルは、やっと僅かに緊張が解けていく……、と思っていたらヨルグが離れたところから恐ろしい眼つきで凝視していた。
血走り、黄疸で濁り、怨念が渦巻くその眼は、まともな人間のそれではなかった。
粘着質な精神が、執拗に追及してくる。
――なんだ、あいつ!
気持ち悪いなんて生易しいもんじゃねえ……、まるで悪霊だ……。
アベルは顔を背けて、それから訓練を始めた。
背中に侵食してくるような気配を感じる。
無視して、体を動かす。
とにかく我武者羅に木刀を振り回した。
やがて……本当に去っていったようだ。
しばらくの間、言われた通りに一人稽古をしていたが、どうにも心が重い。
動きにも迷いのようなものがあった。
やはりヨルグという男には常軌を逸した狂気の臭いがする。
精神に憑りついてくる気迫に、呑まれそうだった。
アベルの脳裏に、ふとカチェの顔が思い浮かぶのだった。
ここは時に頼りになる従姉の力を借りてもいいかもしれない。
稽古の相手ぐらい喜んで引き受けてくれるはずだ。
アベルは邸宅へと向かった。
お読みいただき、ありがとうございます。




