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獣の見た夢  作者: MAKI


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執念の男

 




 アベルはノアルト皇子の接待を終えた後、暗い夜道を「魔光」で照らしながら家に戻る。

 ウォルターとアイラは寝ないで待っていてくれた。


 ワルトは部屋の敷物の上で、幸せそうな顔をして寝ている。

 ここのところ奴は、腹いっぱい食べては寝ることを繰り返していた。

 あとはツァラと遊んでいるか……。

 なんかもう、太ってきた感じがある。

 今度、むりやり訓練に付き合わせて絞ってやらないとならない。


「ごめんね。遅くなってしまった」


 アイラが目敏く、ベルティエに破られた袖を見つけた。


「あら。どうしたのこれ」

「ちょっと試合をしたら……、不覚です」

「試合……。それでシャーレは迎えに行ってあげなかったの?」


 珍しくアイラは非難するような顔をしていた。

 アイラはシャーレを子供の頃から可愛がっている。

 一緒に薬草の採取をして、他にも調薬の仕方などをあれこれと教えていたぐらいだ。


 親友の子供で、同時に弟子でもあるといえるだろうか。

 アイラにとってもシャーレは大切なのである。

 今日も一緒に帰ってくると思っていたらしい。

 アベルは思わず弁解する。


「あの……。ちょっと今日はいろいろあって。ああ、そうそう。僕、初めて皇族の方に会ったよ。ノアルト第三皇子様」


 ウォルターは頷いた。


「バース様は長い間、テオ様とノアルト様を助けられている。この邸宅にも頻繁に来られるよ。特にノアルト様はな」

「明日はシャーレに会いに行ってあげなさい。あの子、本当に喜んでいたからね」


 そう言って、アイラは食事の支度のために台所へ行った。

 アベルは考える。

 アイラは以前からシャーレを息子の結婚相手の有力候補としている節がある。

 それは現実となるか……。


 シャーレと本当に結ばれたら、それはそれで最高に幸福だろう。

 もう「上がり」という感じ。

 そうなったら、どこか戦乱のない場所を見つけて、治療所を始める。

 ウォルター、アイラと同じになる。

 治療魔術師と薬師というのは、黄金の組み合わせみたいなものだ。

 人を癒すという能力において、お互いに足りないところを補える。

 きっと患者が押し寄せることだろう。

 忙しくも充実した日々。

 そのうち子供ができたりして……。


 そうしたら愛らしきものが見つかるかもしれない。

 愛に対する怯みのようなものも、長い時間の中で薄まっていき……。


 甘美な想像。

 ぶち破ってイースの面影が再生される。

 神秘的な気配をたたえて、何もかも見透す紅玉のような瞳。

 滑らかで、艶のある白い肌。

 黒髪は、滝のように美しく流れていた。

 からからに乾いて罅割れた心を潤わす、澄んだ水のような精神。


 忘れられるわけがない。

 なんとかして近づかなくてはならない。

 もう一度、会わねばならない。

 イースの行動を考える。

 きっと、生死の境に身を置くような日々を、あえて選択しているのではないか。

 戦乱や混乱が渦巻く地域か、あるいは危険な魔獣が跋扈しているような場。

 そういうところにいるはず。


 イースを無かったことにして安全なところでぬくぬくと過ごすなど、できるわけがなかった……。




 翌朝。

 アベルはいつもの通り、体を動かす。

 相変わらず調子はいい。

 力が湧き上がり、充溢していた。

 朝食のあと、アイラが稽古しようと誘ってくる。

 どうも息子の成長が、ずっと気になっていたらしい。


 家族全員、表に出る。

 アベルは木刀を持って二刀流で構える。

 対するアイラは攻刀流第六階梯の腕前。

 それも冒険者時代に実戦の渦中で鍛えられた技である。

 はっきり言って、かなり強い。

 子供のころ、無数に稽古をしたが、とうとう一本も奪えなかった。


 どんな勝負になるかとアベルは、ちょっとドキドキしてくる。

 ところが向かい合っているのに、アイラは攻めてこない。

 どうも、途惑っているみたいだった。

 アベルは摺り足と跳躍を組み合わせて間合いを詰める。

 右手を上段、左を下段に移行しつつ、さらに近づいた。


「アベル! わたしの負け!」


 アイラは構えを解いた。

 アベルは拍子抜けしてしまう。


「母上? どうして。まだ打ち合ってもいないよ」

「アベル。殺人刀(せつにんとう)そのものね……」

「……え」

「怖くて向かい合えない。百回やっても、一回の勝ちも拾えないでしょう。お母さん、複雑だわ」

「複雑ってどういうことですか」

「アベルが強くなって嬉しいけれど、この荒れた世の中では戦に駆り出されることになるわねぇ」


 アイラもウォルターも、思案気な顔をしていた。

 そのときであった。

 誰かが近づいてくる気配がある。


 二人の男だった。

 片方の男は、ふらふらと足取りが覚束ない。

 アベルは怪訝に思う。

 どうも見覚えのある男たちだった。


 アベルは歩み寄る。

 記憶から蘇る、やりとり……。

 そこにいたのは、かつて一度だけ共に戦ったことのある者たち。

 イースの祖父と、血の繋がらない父親。

 ダンテとヨルグだった。


 ヨルグは刀を杖替わりにして、やっとのことで歩いているという感じである。

 顔色は、ほとんど死相のそれであった。

 土気色に変色した肌、目の下には濃いクマが浮いていた。

 白目は黄疸で、濁ったように変色している。

 頬は病的に、こけていた。

 ヨルグがアベルを見て、絞り出すように声を掛けてくる。


「お前は、たしか……アベル。イースの従者」

「あんたはイース様の……。ヨルグさん……」


 アベルは記憶を辿る。

 イースから教えてもらった。

 父親ヨルグとは血縁関係ではないと。

 本当の父親は名も知らない、どこにいるかも分からない魔人族……。

 滅多にあることではないが、やや悲しみを感じさせる気配でそう言っていた。


 ヨルグは夢幻流の剣士で、強さに憑りつかれた男。

 剣に執着して、ついには娘のイースと命を奪い合うような試合に臨んだ。

 そして、その結果、敗れた。

 負けたヨルグは、果てしなく娘のイースを憎み恨んだ。

 怨念の塊のような男……。

 そのヨルグが掠れた声で言う。


「今、見ていたぞ……」

「……」

「二刀構え。見事だった。血が噴き出るような剣法だ。人斬りだけが到達できる領域……」


 アベルは気を取り直して聞く。

「あんた、こんなところでどうしたの」


 答えたのはイースの祖父ダンテだった。


「ここにハイワンド騎士団所属の治療魔術師ウォルター殿がいると聞いたのだが」

「はい。いますけれど」

「私の従者ヨルグを診てやってほしい」

「体調が悪そうだね。見れば分かるけれど」


 イースの祖父。ダンテ・アーク。

 人間族と魔人族の合いの子。

 髪は褐色。

 瞳は、茶色と紅の中間ほど。紅褐色をしている。

 肌はイースのように白かった。

 すっきりと整った、やや細面の顔貌には、どこかイースに似た雰囲気がある。

 鼻筋が通っていて、少し冷たい印象。

 人間族の四十歳ぐらいの男性に見える。

 髪を染めるなどして変装していると聞いたことがあった。


 ふらつくヨルグは、ゆっくりとしか歩けない。

 彼を家の居間に運び込み、長椅子に寝かせる。

 とりあえずウォルターが治療魔法を腹に当てた。

 ダンテが言う。


「私も治療魔術を使えるのだが、強力なものではない。それでも、これまで騙し騙しで奴にかけていたのだが、とうとうそれでは済まなくなった。お力を借りたい」


 ウォルターが、気の毒そうに答える。

「こいつは、どっちかというと妻アイラの分野ですね。内臓の病でしょう。知っての通り、治療魔術は外傷に最も効果があります。そうでないのは……薬で治すものです」


 アイラがヨルグの診察を始めた。

 かなり長い時間、何度も腹を押したり、それから舌を診たりする。

 身体検査が終わったら、次は問診。

 食欲や便の状態を仔細に聞き取っていた。


 やがてアイラは手持ちの薬から調合を始めた。

 それを飲ませてから、アイラはダンテを表に誘う。

 アベルは付いていった。

 アイラは、やや沈鬱な様子で切り出した。


「騎士ダンテ・アーク様。従者ヨルグ殿の病状ですけれど……悪いです。内臓のうち、肝臓、膵臓、胃などが機能を著しく低下させています。たぶん、腫物の病。癌だと思います」


 ダンテは無表情に頷いた。


「そうか……。治るのか」


 アイラは、きっぱりと首を振った。


「薬でも魔法でも、どうにもなりません」

「どれぐらい持つか」

「半年は無理でしょう。下手したら二ヶ月」

「そうか。分かった。痛みが酷いらしいのだ。私の治療魔法ではほとんど効果がなくなってきている。なんとかなるか」

「痛みを和らげる薬ならあります」

「金ならある。なんとかしてほしい」

「分かりました。今日の薬は手持ちから作ったものです。明日は材料を揃えた物で調薬します」


 アベルは呆然と聞いているだけだった。


-死病に掛かっているのか。あのヨルグという男は……。


 はっきり言って、ヨルグは嫌いな人物だった。

 イースを憎んでいた。

 あの穢れないイースを、一方的に敵視していた……。

 性根の歪んだ、陰惨な男。

 そういう印象しかない。


 家の扉の開く音がする。

 アベルが振り返ると、そこにはヨルグがいた。

 刀を杖の代わりにして、何か重たい荷物を引き摺っているかのように歩いてくる。

 アイラが慌てて制止した。


「寝ていなさい! 痛むだけよ!」

「アベルに用がある……! どけっ!」


 どうしたことかヨルグはアベルの前に来た。


「アベル。お前……。イースはどうした? なんでここにいない」

「イース様は……ハイワンド家を去りました。旅に出ています」


 ヨルグは、死相に加えて狂相じみたものまで浮かべた。

 眼がギラつき、歯を食いしばっている。


「旅……! 修行ということだな。あれ以上、まだ強くなるのか。まだ満足しないか……さすがだ」


 それから、じろりと殺気そのものを湛えた視線でアベルを見た。

 アベルは正直なところ逃げ出したいぐらいだった。

 初めて会った時も粘着質な攻撃性を感じ、絶対に近づいてはならない人物だと察した。

 今はもっと危ない何かを発している。

 まともに相手をしてはいけないと思うのだが、逃れられない磁力のようなものが纏わりつく。


「それで、お前はこんなところで何をしているんだ。あれほどの殺人剣を見せたお前が、どうしてイースに付いていかない」

「……イース様とは別れた。向こうが、僕を突き放した」

「なぜ」

「依存心を断ち切るためだと。お互いの為にならないから……」


 口からは真実しか出てこなかった。

 嘘など吐けば、すぐに見破られる気迫をヨルグから感じる。


 -それと、俺を強くするためだとも言っていた。

 でも、どうすればいいのか分からないよ……。イース。


 ヨルグは何かを考えている様子。

 それから、にたりと笑ってアベルに聞いてきた。


「……お前、イースを抱いたのか。あいつに依存心など起こさせるとは、それぐらいしか考えられないが」

「そういうことはしていない」

「別に隠さなくていいぞ。あいつ、体だけは女だった。好きにすればいい」

「やってない!」


 ヨルグは爛々と輝くように、ほとんど邪悪な顔をしていた。

 それからダンテに向く。


「ダンテ様。俺の体は、もう長くないでしょう? 自分の体だから、自分で分かります」

「ああ。もう半年は持たないそうだ。早ければ二か月ということらしい」


 ヨルグは頷いた。

 それから杖替わりにしている刀を取り直して、鞘から刃を抜く。

 アベルは、自殺するつもりなのではと緊張した。

 刃物を持った達人の自殺を止めるなど、およそ有り得ないほどの危険行為である。

 だが、ヨルグは否定として首を振った。


「違う。自決じゃない。そうしようとも思っていたが……運命の神は俺を見捨てていなかった」


 アベルは首を傾げる。

 なにを言っているのだ。

 この男は……。


「アベル。お前に、俺の技を教えてやる。俺が身につけた夢幻流の全てをだ」

「な、なんで? 技なんか……人に教えるものじゃない」

「ふっ……。俺はもうじき死ぬ。俺はダンテ様の従者で一生を終える。だから弟子という者を、これまで一人も持たなかった……。今際のきわに、お前が現れた。これは、啓示だ。だから、俺の言うことを聞け」

「そ、そんな……」

「お前。イースに憧れているだろう? もはや憧憬などという生易しいものではないはずだ」


 まさに真実をついていた。

 ヨルグという恐ろしく嫌悪感しか湧かないような男に、しかし、心を読み取られていた。


「あ、ああ。そうだよ。僕はイース様を……」

「お前は俺に似ている。前に会ったとき、そう思った。やはり間違いじゃなかった」

「……どこがだ! 似てなんかない!」

「イースが欲しければやるよ。父親の俺が家長権として認めてやる。妻にでも奴隷にでもすればいい」

「ふざけるな! お前はイース様を娘として認めてなかったのだろう! イース様から聞いたぞ。殺し合いまでしたって。そうして、あんたに深手を負わせたことがあったと。自分の娘に負けて、そして憎悪するようになった父親なんだと」


 ヨルグは笑っていた。

 怨念と執念が混ざった、この上もなく因業な笑みだった。


「お前しかいないんだ。強くなりたいのだろう。剣は全てが現れる。お前の構え……滲み出ていた。殺したくて殺したくて堪らない奴がいる。そういう人間の剣だった。隠しても無駄だ。俺には分かる!」

「……!」


 アベルは心を見透かされた衝撃で、何も言えなかった。

 それから、ぎこちない動作でダンテを見た。

 彼は良く出来た彫刻のように無表情で、少しも感情が読み取れない。

 やはり、イースに似ていた。


「アベル殿。死に行く者に慈悲を与えるつもりで、従者ヨルグの頼みを聞いてもらえないか。ヨルグはどうやら貴方のことを気に入っている。生きてきた証を、貴方に授けたいのだろう」


 途方もない要求だったが、アベルは冷静に考える。

 夢幻流の技を会得できれば、素晴らしいことだ。

 千載一遇の機会とも言える。

 もしかすると、悪魔と取り引きするようなものなのかもしれないが……。


「父上、母上。いいのかな?」


 アイラは、痛ましいものを見たという顔を隠しもせずに頷いた。

「もう、痛め止めや吐き気を抑える薬を飲むぐらいしかできない者の頼みです。寿命は縮むでしょうけれども、好きにしたらいいわ」


 ウォルターも黙って頷いた。

 両親の承諾があり、それ以上に絡みついてくるようなヨルグの執念があった。


「分かったよ。ヨルグ……様。今から貴方は僕の師匠だ」


 そう言ったものの、だが、アベルは開けてはならない箱を開けるような……そういう気持ちになる。

 とはいえ、新たな師弟は、すでに誕生した。

 イースを憎みぬいた者と、イースを追い求める者の組み合わせという因業な男たちの……。


 もう、すぐに稽古は始められた。

 アイラとウォルターは用事があるので、立ち去っている。

 ダンテが離れた所で、木に背中を預けていた。

 見ているような、そうでないような……存在感を消した感じで佇んでいた。

 あとはツァラが家の側から興味深そうに様子を窺っている。

 ワルトはツァラの側で待機しているというか、寝そべっていた。


 ヨルグは周囲を気にする余裕すらないのかもしれない。

 今は木刀を手にして、構えていた。


「いいか。夢幻流は敵の心理や死角を最大限利用する技が多い。アベル。お前はとっくに分かっているつもりだろうが、くだらない慢心だ! 自分を信じることは大事だが、それ以上に自分を疑え」


 ヨルグが接近してきた。

 アベルは防御の体勢。

 うっかりしていたら骨ぐらい圧し折れるような斬撃を仕掛けてくるのが、はっきりと伝わってくる。


「戦闘になったら剣先も足も絶対に動きを止めるな。止めたら機や謀が消える。流れや淀みの中から、相手を幻惑させるものが生まれる」


 ヨルグの年齢は不明だが、たぶん六十歳ぐらいなのではないか。

 長年の研鑽と実戦を経てきた動きは、老獪というのに相応しかった。

 言葉以上に、読み取れない足捌き、剣先の移動。


「いいか。教えてやるとは言ったがな、もし、お前が見込み違いのウスノロ野郎なら、木刀で頭をブチ割ってやるかなら! 俺を殺す気でいろよ!」


 もうとっくにヨルグという男は真正の狂人で、本気でそうしてくる……アベルはそう感じずにはいられない。

 それだけの鬼気迫るものがあった。

 粘ついた恨みと攻撃本能と、何か他人には到底のこと理解不能な怨念……。

 汚濁と腐臭を放つ願望に満ちた男の教えとは、そうしたものだった。


「強い奴っていうのはな、嘘も上手い。相手を騙さなくても勝てるような強者? そんな奴、どこにいる! 書物の中の英雄のことを言っているのか! いやしないんだ、そんな奴……。どんな強者でも弱点を突かれれば殺される。それを分かっているから弱点は隠し、塗り込め、絶対に露見しないようにする。逆に強い所は、どんどん見せていく。騙してくる、謀ってくる!」


 ヨルグが説明しながら木刀を振ってくる。

 足運び、体捌き、瞬間的に右構えから左構えに変化する動作など、まるで手品でも見ているようだった。

 目の前で見ているのに、現象が理解できない。

 そんな技術の数々。


 時間の感覚が吹っ飛んでいく。

 アベルは全身から冷や汗みたいなものが出てきた。

 ヨルグの剣法は、イースのそれを見ているかのようであった。

 イースは、時として凄まじいとしか言いようのない剛直な剣を使った。

 あの背丈を超えるような大剣で、鎧ごと敵を真っ二つにするような。


 ところが、そうした剣術をいつも使うわけではなかった。

 それよりは精緻な技術によって繊細なまでに正確な剣捌きをしていたし、相手を騙す、詐術に満ち満ちた動きを見せた。

 奇妙に軌道を歪めたように見える剣の数々……。

 もちろん、実際に剣が曲がっているのではなく、刃の侵入方向を巧みに変化させるなどしているから、そう見えるわけなのだが。

 ヨルグの剣が、まさにその動きを示していた。


 訓練が、いよいよ激しくなってきたところでヨルグは咳き込み始めた。

 やがて止まらなくなり、片膝を付いてしまった。

 それまで存在感を消していたダンテが近づいて来て、治癒魔法を発動させる。

 ヨルグの胸元に治療を施した。

 少し楽になったのか、ヨルグの激しい咳は鎮まっていく。


「今日はこれぐらいにしておけ。これ以上やっても明日から寝込むことになるだけだ」

「……」


 ほとんど狂人のようなところのあるヨルグだが、義父でもあるダンテのことは素直に聞くらしい。

 ヨルグはそれで静かになった。

 ダンテはアベルに言った。


「我々は二日前からここに逗留している。北側の兵舎を宛がわれているから、そこで休むとする。アベル殿。明日も午前中にはここにくる」


 ダンテはヨルグに肩を貸しながら去って行った。

 二人の関係は何か不思議な感じがする。

 見た目で言えば、長命属の血が混じっているダンテの方が若く見える。

 しかし、ヨルグはダンテに服従しているのが一目で理解できた。


 ダンテは義理息子であり従者でもあるヨルグを大切に扱っているような気がした。

 ヨルグもまた、ダンテに対しては従順である。

 酷く歪な、それでいて絶妙なバランスで成り立った二人……。


 アベルは疲労困憊してしまった。

 巨大な重たさの伴う稽古だった。

 精神的にも肉体的にも、くたくたである。

 特に心理面での重圧が、疲労をより濃厚に感じさせるのかもしれない……。


「お兄さま」


 声に振り向けばツァラがいる。


「いまの人……こわい」

「ああ、怖いね」

「でも、かわいそうな人」

「……そうかもな。でも、そうだとしても自業自得なんだよ。他人のせいにしたらいけないんだ。死に方には生き方が現れる……。あいつの死に方に僕は付き合ってやらないとならない」

「じぶんと、にているからですか」


 ツァラの言葉に不意打ちされたような、本当に頭を叩かれたごとくの衝撃を得た。

 穢れのない美しい澄んだ瞳でツァラはアベルを見て来る。


-ヨルグから似ていると言われても狂人の戯言と否定できたものだが、

 純粋な子供にまで指摘されると……。

 なんだろうな、この気持ち。

 それに俺自身、あいつの始末に協力する義務のようなものを感じてはいなかったか。

 それこそが動かぬ証拠……?


 アベルは頭を振る。

 一端、気持ちを切り替え、ヨルグのことは努めて忘れようとした。

 ああいう男のことを、ずっと考えているとこちらの頭までおかしくなってしまう。


 アベルは井戸水で体を清めて、着替える。

 カチェが身の置き場がないと訴えていたので、助けてやらないとならない。

 邸宅に向かう前にツァラに声を掛ける。


「お留守番できるかな」

「ワルトがいるからできます」


 ツァラは出かけていくアベルの背中を見送る。

 それからワルトに向き合った。


「ワルト。さっきの、けいこというのはなに?」

「強くなるためにやるんだっちよ」

「あのヨルグっていう、こわいおじさん……。ぐあいがわるそうだったよ。それなのにつよくなりたいの?」

「あの男。体から病気の臭いがしたっち。もうじき死ぬ人だっちよ。そういう人は最後に誰かへ教えたいことを伝えるものだっち。おらっちのお父さんもそうだったっち」

「つよさを、つたえたいの? つよさっていうのは、そんなにだいじなものなの? もっとたいせつのものはないの」

「くぅうぅぅん。強いより怪我しないほうが大事だっちねぇ。治らない傷を受けたら、勝っても負けたことになるんだっち」

「わたしも、けいこというの、やったほうがいいとおもうの。ワルト。やろうよ!」

「おらっちは、やらない。強い人の様子を見ていて、あとで真似してみるだけでいいんだっちよ」

「え~。じゃあ、こんどお兄さまにたのもう……」

「あの男を見ていれば分かるっち。無理して強くなっても、何にも面白くないだっち。アイラ様の美味しいごはんを食べて寝ているほうが楽しいっちよ……」





いつも読んでもらって、ありがとうございます。

次回投稿、未定です。

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