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獣の見た夢  作者: MAKI


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絡み合った家と家

 




 カチェは朝、夜明け前に目を覚ました。

 窓を塞ぐ木戸を開けると空はまだ薄暗い。

 こんな早い時間に起床するのは長い旅の習慣からで、体に根付いた感覚はそうそう消えない。

 なにしろ、まともに移動できるのは明るいうちだけ。

 太陽の光が惜しい毎日であった。


 昨日もアベルは来なかった。

 そのことばかりカチェは考えている。

 いったい、どうしたのだろう……?


 起きて、雑嚢から服を取り出して着替える。

 実用一点張りの革と木綿で作られた服。

 扉を開けると警護の女性騎士が片膝を付いて、正式な儀礼をしてきた。

 夜間、誰かが部屋を守っていると感じていたが顔を合わせるのはこれが初めてであった。


「お早いことでございます。カチェ様」

「おはよう。これからは略礼でいいわ」

「はっ。カチェ様」


 そう答えた女性騎士は二十五歳ぐらい、暗褐色の髪をしていた。

 髪は三つ編みで纏められている。

 白鋼の全身鎧を装着していた。

 腰にはおそらく両刃になった剣を佩いている。


「貴方、名前は?」

「騎士クラリス・ラインと申します」

「クラリスね。よろしく。朝食にはまだ早いかしら」

「半刻ほどお待ちください。女官が告げに来るでしょう」

「夜の間、ずっとここにいたわね」

「はい。スタルフォン様より夜警を命じられてございます。夜間は私がカチェ様をお守りさせていただきます」

「じゃあ、昼は」

「いずれ誰か適した者が警護に選ばれるかと」

「そのうちアベルという者が、わたくしの側仕えになります。それまで我慢します」

「は、はぁ……」


 カチェは朝食まで暇なのでクラリスを相手に剣術の稽古をした。

 最初、クラリスは途惑っていたが直ぐにカチェの実力を知り、本気で訓練に付き合い始めた。

 かなり腕に自信のあったクラリスなのだが打ちのめされることになった。

 カチェは、さほど力を出し切っていない様子にも関わらず、まるで歯が立たない。

 それは、まさしく朝食前の軽い運動……という態度だった。

 クラリスは嘆息しつつ質問しないわけにはいかなかった。


「カチェ様は、いったいどこでこれほどの剣術を身につけたのですか」

「師が何人かいます。側仕えになるアベルは……悔しいですけれど、わたくしよりも強いのですよ」


 悔しい、と言うわりにはカチェの顔は嬉しそうだった。

 眦が上がり気味のカチェの瞳は溌剌とした生命力を反映して輝くようであるが、それが一層、華やかに彩られた。


 そんな稽古の後、カチェが朝食のために訪れた食事の間は広々としている。

 二十人ほどが揃って席に着ける巨大な食卓に、白い布がシミも皺も一つなく敷かれていた。


 ここのところ多忙で食堂に姿を見せなかった祖父バース公爵がいた。

 主人席に着いていて、向かい合ってロペスが、その右隣にモーンケが座っていた。

 カチェはロペスの左側に座る。

 配膳はそれで全てだった。

 アベルの分はない……。


 カチェは貴族の食事作法を思い出しながら、食前のお茶だとかを口にする。

 家令のケイファードだけでなく給仕の者、女官など六名ほどが控えていた。

 なんだか違和感がある。

 旅をしていた時はアベルが手早く大麦の粥を作り、自分は前夜、焼いておいた肉を再び過熱して切り分けたりしたものだ。


 祖父バースとはモーンケが一番、頻繁に会話をしていた。

 政治や物価についてのことだった。

 ロペスはもともと無口な性質なので、少ししか話しには加わらない。

 カチェは黙って食事に徹した。

 ミルク風味、鳥と蕪のスープから鹿肉の煮込み料理まで七皿にも及ぶ豪華な朝食だったのだが、大して美味くは感じなかった。


 祖父バース公爵は朝食のあと、すぐに政務があるという。

 夕食も共にできるか分からないらしい。

 さらに、こうも言われた。


「お前たちが生き延びていたことについては、箝口令を敷いてある。だが、そう遠くない時期に外部の者へ漏れるだろう。その前に根回しをした上で、こちらから生存を公にするつもりだ。それなりの騒ぎになる。それまで、お前らは自分の正体を人に軽々しく伝えるな。それから、基本的にはこの敷地の外には出ないように。特にモーンケ。お前は口の軽いところがある。注意せよ」

「わ、わかったよ。公爵様。ひへへへ……」


 何もかもお見通しという気配のバース公爵は、軽薄なモーンケにひと睨みをくれていた。

 カチェは、昨日の昼に稽古をした人物のことを、ふと思い出した。

 供を連れた、目つきの鋭い男。

 やたらと尊大な態度。

 しつこく所属と名前を聞かれた。

 それは伝えないほうが良いだろうと判断して、何度聞かれても言わなかった。

 教えなかったのだから別に問題なかろう……。

 カチェはそう思い、あの眼つきの鋭い男がどうして自分の素性をそんなにも知りたがったのか、ということは少しも気にしなかった。

 もう、どうでもいいことであった……。



 朝食の後は、さっそく儀典長騎士スタルフォンの授業である。

 スタルフォンはやたらと元気な様子であり、こんなに楽しい気分で教育のできる日が再び来るとは思わなかった、などと嘯いていた。

 対してカチェは、げんなり……。


 昼食前には女官長モールボンに捕まってしまった。

 モールボンの容姿は五十がらみで、艶のない金髪を質素に結い上げていた。

 どことなく底意地の悪そうな女性であった。

 いつも分かるか分からないかの微笑をしている。


 カチェにとってモールボン女官長は、馴染みの薄い人物であった。

 数日前に自己紹介されたばかりだ。


「私は女官たちを束ねております者で、リゼ・モールボンと申します。モールボン家は男爵の家柄でございまして……」


 そんな風にモールボン女官長は自分の出自を卒なく説明して、これまでハイワンド家に女性はいないも同然であったが、これでカチェ様にお仕え出来るというようなことを延々と喋りまくったものだ……。

 そんなモールボン女官長が、隙のない身のこなしで話しかけてきた。


「カチェ様。今日はご昼食の前に衣装の着付けをしていただきます」

「なんでよ! お腹が空いているわ」

「いけません! 満腹になった体で着付けなどできるわけがございません。衣装合わせというものは、お腹の中が空になった時間にするものなのでございます」


 カチェは大きな溜め息をついた。

 溜め息など旅の間、一度たりともしていなかったが、特大のやつが出てしまった。


 昼食すら摂れないまま、カチェは仕方なくモールボン女官長に連れていかれる。

 そこにはすでに数十着に及ぶ、若い令嬢が着るような服が用意されていた。

 それらを四人の小間使いが次々にカチェに着せては大きさを測り、どこを仕立て直せば良いか調べていく。

 まるで自分が着せ替え人形になった気分だった。

 コルセットなども強引に締め上げて嵌めようとしてくる。

 なるほど、これでは食事などできはしない。


「苦しいわ!」

「カチェお嬢様は素晴らしいお体をされています。もっと腰が細く見えれば、なお美しいことでしょう」

「わたくし、黒鉄の鎧とか着るから、体の線なんか見えないからコルセットとかいらない!」

「ほほっ。ご冗談を」


 モールボン女官長は一笑に付して、着せ替えを続けるのであった。

 カチェは抵抗できないまま、苦行と諦めて耐える。

 中には、たしかに綺麗な衣装もあって、少しだけ楽しい。

 しかし、今となっては服など、どれだけ動きやすいかとか鎧と相性がいいとか、そういうものが基準になっていた。

 ヒラヒラした華麗なレースがふんだんに使われた衣装を着た自分に、なんとも違和感がある……。


 結局、午後の大部分は衣装の合わせに使われてしまった。

 野盗と戦うよりも疲労困憊してしまい少し休もうとカチェは食堂へ行った。


 そこではロペスとモーンケが葡萄酒をかなり飲んでいる。

 干した果実やチーズなんかをつまみとして、杯を重ねていた。

 すっかり酔って、にやにや笑いながら女とどこでどうやって遊ぶか相談をしている二人の兄ら。

 当たり前だが会話の糸口すらない。

 顔を伏せて嘆きたくなる。 

 思わずカチェはケイファードに聞いてみた。


「ねぇ。アベルは?」

「先ほど人をやったところ、出かけているそうです」

「出かけるって、どこによ!」

「そこまでは知りません」

「お爺様、言っていたわ。外に出てはいけないと」

「そ、それはお三方のことでございましょう。アベル……様は別でございます」

「え~! なんでっ! ズルい!」

「カチェ様には公爵家令嬢として学ばれることが沢山あるのです」


 そうして午後も、げんなりしたまま幾つもの授業を受けた。

 臨時雇いの家庭教師が何人も次々に姿を現して、詩学や文法学、修辞学を教えてくるのだった。


 夕方となり晩餐室でカチェは席に着いたが他に誰もやってこない。

 祖父バースは出かけていて今日は帰らないかもしれないという。

 ロペスとモーンケまでも、どうしたわけか来なかった。

 邸宅や敷地を酒でも飲みながら徘徊しているのかもしれない。

 もっとも、同席していたとしても話すことなど何もなかったわけだが……。


 昨日は知らない男と稽古をして、なんとか憤懣を払った。

 しかし、今日は朝にちょっとクラリス相手に遊んだ程度で運動もできない。

 食事すら満足に摂ることができなかった。


 アベルに怒りが向いていく。

 どうやら昼間は邸宅の外に出て、遊びまわっているらしい。

 羨ましい!

 カチェは自分も帝都や貴族区の見物をしてみたかった。

 どうしてアベルは自分を連れて行かないのだろう。

 それどころか一度も顔を出してこない。

 つまり、これは、わたくしの事などどうでもいいと……?

 カチェは唇を咬んだ。


 カチェは、ほとんど詰問するようにケイファードに聞く。

 隠しようもなく不機嫌だった。


「アベルは?」

「はい。先ほど人をやったところ、ご家族とゆっくり過ごしたいとのこと。強いご希望ですので……そのように」


 ぶちっ、という音がした。

 体の中のどこかで。

 我慢の限界を超えた。


 止めるケイファードを振りきり、そのまま邸宅を出て北側に向かう。

 たしか、林の中にあるという家にアベルは両親といるはずだ。


 石畳で舗装された薄暗い道を歩いていくと、やがて煉瓦造りの質素な小屋が見つかった。

 扉の前で何か作業をしている人がいた。

 アベルかと思ったが、もっと背が高い。

 近づいていくと、カチェは心底から驚くことになる。


「お父様! どうして……!」


 背格好、なにより顔の造作が父親ベルルとしか思えなかった。

 思わず声にしてしまう。


 だが、すぐにカチェは気が付く。

 目の前の男は、穏やかな視線をしていた。

 父とは別物だ。

 雰囲気も柔らかい。

 いつもどこかに敵を見出していた父親ベルルとは、根本的に何かが違う。


「俺は若いころ、けっこう遊んだもんだがなぁ。君のように綺麗な紫色をした瞳の子は……記憶にない。困ったなぁ」


 相手は本当に困り顔で頭を掻いていた。


「あ、あの。失礼いたしました。見間違えです。その……貴方はウォルター・レイ様ですか」

「そうだよ」

「わたくしは、カチェ・ハイワンドです」


 心臓がどきどきしていた。

 アベルの父親で自分の叔父だ。

 そして、父ベルルに顔だけは似ていた。


 夕闇に惑わされてしまったが、しかし、こうして言葉を交わすと別人なのがさらに良く分かった。

 受ける印象が、まるで異なる。

 ウォルターには、どこからともなく陽性の気配が滲み出ていた。

 父ベルルに、そういう部分は絶対になかった。

 貴族の誇りに満ちていて、つまりそれは傲慢で冷たいということでもある。


「あっ! これはこれは……カチェ様。お初にお目にかかります。バース公爵様の準騎士、ウォルターめにございます。アベルが世話になっているようで、ありがたいことです」

「え……? あ、あの。ウォルター様はお爺様の実子でございましょう。わたくしの叔父上様であります。そのう、わたくしにとっては目上の方」

「とんでもない。俺は貴族院にもハイワンド一族として登録されちゃあいません。家臣でございますよ」

「ど、どうして? お爺様、あんまりです、数少ない血族でありましょうに」

「……込み入った話しです。実はバース公爵様には情けを頂いて、一門衆に組み入れてもらうところだったのですが、俺は庶民育ちの者。過分の計らいにてお断りしたものでございます」


 カチェは上手く返事ができなかった。

 公爵家に加えてもらうのを断る。

 そんなことをやってしまうウォルターという叔父に、肯定と否定の気持ちが混じる。

 皇帝国の貴族として生まれた以上は義務があるのだ。

 しかし、今やどうしようもなく貴族の社会に違和感を得ている自分……。


「さぁ。ここへおいでになったということはアベルに用事でございましょう。どうぞ中へ。そうだ。食事もとっていかれますか」

「え、ええ。そうしてもらえると……助かります」


 カチェは今更だが、何も考え無しでここまで来てしまったと少し後悔する。

 我慢の限界で走り出してしまったが、アベルの母親にも挨拶しなくてはならない。

 服装は貴族の令嬢が着るような、裾の長いスカート。

 腰が思い切り細くなるように締め付けられた様式のものなので、少なくとも無様ではない……。

 しかし、アベルの母親と初めて会うのにふさわしいかと考えれば、不安になってきた。

 あり得ないことだが、緊張してきた。


「どうされました? 遠慮はいらないのですよ」

「……はい」


 カチェは勇気を出して扉を通る。

 内扉を開けると、すぐ居間になっていた。

 食卓にアベルが座っている。

 カチェを見て、あっという顔をしていた。

 やけに驚いている。


 カチェは料理のたてる良い匂いを捉えた。

 ちょうど食事時だったようだ。

 まだ若い十六歳ぐらいの女性がアベルの前に肉料理を供していた。

 その横顔は優しい笑顔に満ちていて、なんだかこの上もなく幸福そうであった。

 アベルとその女性は信じられないが、ほとんど若夫婦のようにカチェには見えた。


 カチェの心が激流に呑まれたようになる。

 妬心や悔しさで煮えくり返ってきた。


 その若い女性がカチェに気が付いた。

 視線が、ぶつかり合う。

 歯を食い縛っていたカチェは見覚えのある人間だと思った。


「どこかで会ったわね。ポルトだったかしら」

「えっと……もしかして貴方はカチェ様ですか」

「思い出しました。貴方はお抱え薬師ダンヒルに雇われていた、シャーレ・ミルですね」

「えっ! あたしの名前を憶えていてくださったのですか!」

「わたくし、バカではありませんので」


 カチェの言葉は止めようもなく鋭くなる。

 シャーレが早くも不穏な気配を察して、途惑った。


 ゆっくりカチェが室内を見渡すと、ワルトが部屋の隅で寝そべっていた。

 それから五歳ぐらいの可愛らしい女の子が食卓に座っている。

 奥の台所と思しき場所から一人の女性が出てきた。

 華やかな金髪をしていて、女性にしては長身。

 活発な印象のある美人だ。

 カチェはこの人こそアベルの母親、アイラだと確信する。

 アイラの前に行き、優雅な仕種で貴族の礼をした。


「わたくし、カチェ・ハイワンドと申します。貴方はアイラ様でございますね。このカチェ、以前からご挨拶したいと願っておりました。今日は突然の訪れ、ご無礼をお許しください」

「ええ。私がアイラです。カチェ様。……私に敬称は不要でございますよ」

「そうは参りません。ウォルター様はわたくしの叔父上様。つまり貴方は叔母上様なのでございます」


 アイラは首を振る。

 その表情は硬く、親戚に対してではなく他人への眼差しだった。


「続柄はそうかもしれませんが、私たちはハイワンド家の者ではございません。家臣として接していただかないと困ります」


 それは丁寧な口調ではあったが、固い拒絶とも受け取れる態度であった。

 カチェは親しくなる切っ掛けを見出せず、内心では困惑の極みであった。

 もしや自分はアベルの母から嫌われているのかもしれないと、慄きに近い心境を持った。

 賊との戦闘でも揺るがない心が風に吹かれた枯葉のように震える。

 ウォルターが席を示して言う。


「取り合えずこちらにお座りください。幸い料理が多めにありますので、何もご遠慮なさらず」


 内心、動揺しつつもアベルに向かい合った席へカチェは座った。

 驚いているのが見て取れる様子でアベルは聞いてきた。


「カチェ様。急にどうしたの?」

「……わたくしの側仕えが姿を現さないのは、なぜかと思いまして」


 アベルはカチェの声質に恐怖を感じた。

 こういう妙に落ち着いた声の時は要注意なのだ。

 ウォルターが意外そうに聞いてきた。


「アベル。カチェ様の側仕えになっていたのか?」

「い、いやぁ……? 変だな。正式な命令は出ていないです」

「出ていなくても、そうなるに決まっています」


 カチェは目の前のアベルを改めて見据える。

 服装が旅の頃と違う。

 貴族の子弟が着るような、白い絹の上着。

 品の良い刺繍とレースがしてあって、やたらと似合っていた。

 髪もすっきりしていて……、身綺麗になっている。

 まったくもって、どこぞの貴公子だった。

 こんなオメカシして、幼馴染の女の子と一緒に暮らしていた……。

 心に突き刺さる衝撃だ。

 気を取り直して、いや、それは無いはずだと否定してみる。

 即座にアベルへ確認しないわけにはいかなかった。

 そんなはずはないのだ。


「アベル。シャーレさんは、ここに住んでいるわけではないのよね? だってダンヒル殿の雇われでしょう。普通、そういう場合は住み込みか下宿するものですもの」

「えっと……。そうなんだけれど、たまたま二日前から泊まりだね」

「……泊まり?」

「そうなんです」


 カチェは頭を殴られたような気になる。

 確定した。

 一緒に暮らしていた。

 親公認で。


「じゃあ一緒に暮らしていたんだ……」

「暮らす? いや、そんな大げさなものではないけれど」

「どう大げさじゃないか説明して。できるわよね?」


 アベルは唾を飲み込んで、喉の引っ掛かりを落とそうとする。

 でかい石が詰まったみたいだ。

 だめだ。取れない。

 何か奇妙なことになったな。まずいことになったようだぞ……、そんな思いがグルグルと頭の中を巡るが、だからといってどうしようもないのだった。

 杯に満ちていた葡萄酒を飲み下す。

 カチェは説明を待ち続けている……。


「シャーレはダンヒル様と御親戚のテルマ様が共同経営している薬品店で働いているから、朝は送り届けて……昼間、僕は帝都を見物して……、それから午後に迎えに行って、それで買い物とかして、ここに帰ってくるという感じですね」

「そういうのを一緒に生活するというのよ……」


 カチェは、心中で絶叫していた。

 しまった! 

 やられた!


 これはいくさだ……!

 戦いにおいて、なによりもの禁忌は出遅れなのである。

 遅参した者を死罪に問えるのは、そのためだ。

 その戦に、何日も遅れをとっていたわけだ。


 取り戻さなくてはならない。

 失地を奪い返すのだ。

 カチェは笑顔を作り、有らん限りの魔力を眼に込めてシャーレを睨んだ。

 シャーレはエメラルドグリーンの瞳で、まっすぐに見詰め返してくる。


 カチェの額に青筋が浮かんだ。

 たった数日、一緒に住んだぐらいで正妻きどりか。

 こっちは三年も旅を共にしてきたのだ。

 負けないぞ……!


 アベルは異常に気が付いていた。

 二人の女性の間で魔力が渦巻いて、バチバチと火花が散っているような気がした。

 何か良くないことが起こっていた。

 もはや、どうしようもなかったけれど……。


 カチェはまず観察する。

 偵察してから作戦は立てるものだ。

 アイラとシャーレは、かなり仲が良かった。

 二人で楽しそうに、てきぱきと料理の支度をしていた。

 これは既に同盟をも結んでいるのではないか……!

 だとすると、戦況は思っていたよりも遥かに悪化している。

 危機である。


 アベルが銀杯を用意して葡萄酒を注ぎ、渡してきた。

 カチェは舐める程度に口を付ける。


「給仕ごくろうさま。肉の切り分けの練習もしておきなさい。側仕えになったら、毎食の切り分け係りをやらせてあげるから」


 アベルは思い切りの顰め面。


――え~! なんか面倒なこと言い出しやがったなぁ!


「いや、あの……カチェ様。旅の間、粥とか作ったでしょう。僕、あれぐらいが限界。牛の部位とか鳥の種類によって何十種類も切り分けかたの作法があると聞いたけれど、ちょっとそういうの出来ない」

「どうしてよ。アベル、できないことなんか無いでしょ」

「ま、まぁ。冷めないうちに母上の料理でも食べてみてよ……」


 アベルは、なんとか誤魔化そうと決心する。

 とりあえず酒食をたらふく与えて、思考力や感情を鈍らせようと試みる。

 我ながら姑息な手で情けないが。


 カチェは次々に出て来る野菜炒めや豚の燻製肉、卵料理などを口にする。

 味付けに派手さはないが、じんわりと美味しさが伝わってくる。

 少し余裕が出てきた。

 食卓に五歳ぐらいの、飛び切り可愛い女の子が座っていた。

 宝石が乱れ飛んでいるような青い瞳と視線が重なる。

 カチェは思わず微笑む。


「アベルの妹ね。可愛いわっ!」

「あなたは、だれですか」

「わたくしは、カチェ・ハイワンド。貴方の従姉ね」

「わたしはツァラです」

「知っているわ! 貴方はわたくしの妹も同然です。明日は一緒に遊びましょう」


 それはカチェの本気の気持ちであった。

 家族が増えたようだ。

 あの兄二人、武骨なロペスや軽薄で捻じれた物の見方ばかりするモーンケに比べて、なんと親しみの湧くことか……。

 だが、そうした気分を引っ繰り返すようなことをアイラから言われてしまう。


「ツァラ。ハイワンドのお嬢様のお言葉は戯れですからね。本気にしたらいけませんよ」


 カチェは驚く。

 戯れなどではない。


「あ、あの。アイラ様。わたくしは本気です」


 アイラは困り顔で、首をゆっくり横に振った。

 カチェは追い詰められた気持ちになってしまった……。

 なんだろうか。

 この壁のようなものは……。

 何かあると感じる。

 確かめなくてはならない。


「ウォルター様。このカチェに教えてください。どうも何か、ハイワンド家と確執を感じます」


 ウォルターは少し思案していたが、やがて一つ頷く。


「……まぁ、いずれ分かることですし、アベルにも説明していないから、話しましょうか」


 ウォルターは葡萄酒を飲み下して、それから語り始めた。


「知っての通り、この俺はバース様の子ですが認知はされていません。当然、相続権も認められていないわけだったのですが……ベルル様と孫全員が戦死したと言われ……事情が変わりました。バース様はお変わりないように振る舞われていましたが、やはり心に負った衝撃は大きかったのでしょう。ある時、俺を内密に呼び出して、言いました。この俺が生きていてくれて良かったと。これまで息子として認めてこなかったが、愚かな事であったと……。信じられませんが、俺に一言ですが謝って来ました。すまなかった、とね」


 アベルは、あの貴族の冷厳さばかり感じられるバース公爵が、そうした態度を取ったということに深く驚く。

 父ウォルターの話しは続く。


「まぁ、ここまではいい話しだったんですがね。ちょっとここから曲がってくるのです」

「はい。ウォルター様。先を教えてください」

「バース公爵様は、こう言われました。お前を継嗣として認める。ツァラもハイワンドの跡継ぎになる……。だから離婚しろと」


 カチェには何となく意味が理解できた。

 出自だ。


「俺の妻のアイラは、亜人界にあるアララト山脈の猟師の娘です。職業は薬師。公爵家夫人として認められるものではありません。よって俺は離婚して、政治的に価値のある家の娘と再婚しろ。ちょうどいい相手がいる……これがバース様の理屈でした」


 アベルは脱力する。

 そんなこと、ウォルターがやるはずもない。

 絶対に。


「まぁ……所詮は貴族様の物の見方ですね。せっかくですが愛する妻と離縁するつもりはないんで、お断りしたんでございます」


 カチェは上手く言葉を繋げなかった。

 沈黙するほかなかった。

 カチェには自分が貴族だと言う、生まれながらに植えつけられた強い意識がある。

 しかし、長い旅をして様々な人間に会った結果、平民に対する分け隔てのようなものは極小になっていると自覚する。


 アイラの低い身分。

 祖父バースの主張。

 自分の価値観などが複雑に絡み合う。


「そうして俺が頑固に主張を曲げなかったら……今度は娘のツァラだけでも寄越せと言ってきましてね。五歳の娘が公爵家の跡取りだと……、突飛なことを言いだす始末です」


 アベルもカチェも、その強引な主張に呆れる。

 アイラにしてみれば、たった一人の可愛い娘である。

 手放すのがどれほど辛いのか、考えなくても分かりそうなものだ。


「俺は貴族なんてもんは、もともと嫌いでしたけれど、もっと嫌になっちまった……。それでも父親……バース様が一言謝ってきたから、憎みもできねぇし……というわけです。つまらない話しでお耳汚しをしましたね」


 カチェは俯いて、何も喋れなくなってしまった。

 どうりで叔母のアイラが距離を置くわけだ。

 家族扱いなどされては迷惑なだけだったのだ……。


 せっかくの家族団欒をメチャクチャにしているのが嫌になってきた。

 思い切ってカチェは席を立つ。


「アイラ様。事情を知らずに突然訪ねてご無礼をしました。さぞかし迷惑だったことでしょう。わたくし、失礼いたします。料理、とても美味しかったです」


 カチェは一礼して扉を開けて外に出る。

 アベルは慌てて追いかけた。

 黙ってついて行く。


 ウォルターの話しを聞いて、やっぱり複雑な事情があったのだなとアベルは考える。

 今にして思えば家令のケイファードも、腫れものを触るような態度であった気がする。

 一度はハイワンドの継嗣になりかけたウォルター。

 バース公爵の厳重な保護下にあるレイ家。

 家柄。

 貴族。

 跡取り。

 家族の愛憎に、財産や名誉なども絡む人間世界の懊悩……。


 アベルから見て、カチェは酷く気落ちしていた。

 しょんぼりしている。

 アベルはカチェの肩を叩く。


「カチェ様は元気な方が似合っていますよ。明日はそっちに行きますから……側仕えは勘弁してほしいけれど」

「……わたくし、身の置き場がないの。さっきはアベルの家……なんて居心地がいいんだろうと感じたけれど、思い違いだったようです」

「気にしなくていいよ。また来てください。跡継ぎ問題は解決しているんだし。もうロペス様がいるからさ」

「そう思う?」

「まあね」


 大邸宅の勝手口までやってきた。

 カチェはここでアベルと別れなくてはならないのが嫌だった。

 本当なら一つの家族だ。

 隣の部屋に住んでいたとしても、いいはずだ。

 それなのに……。


 シャーレという娘がアベルの至近距離にいるのも気になる。

 これこそ悩みだ。

 心配になる。

 例えばイースとアベルの関係は、生臭いような男女のそれとは違っていた。

 友情、師弟、親愛、そういうものがさらに純化された間ではなかったか。

 時として恋人のようでありはしたけれど、それは瞬間のことで……お互いに踏み越えない理由があったというか……。

 それに比べてシャーレは、まったく女を丸出しで……つまりアベルに女性として接するであろう。


 盗られたくない。

 それがカチェの本心だった。

 しかし、シャーレという娘は幼馴染なのだ。

 死んだと思われていたアベルが帰ってきて、どれほど嬉しかっただろうか。

 それを思えば二人が親密になるのは避けられない。

 邪魔しようとするのは、醜い行為のような気までする……。


 カチェは悩んだが相談相手もいなかった。

 ライカナの知的な瞳が思い出されたが、もはや遠く離れている。

 この戦乱の最中では手紙も届くかどうか不明だ。

 自分で決めなければならないだろう。


「明日、待っているわ」

「昼に顔を出します」

「うん。剣の稽古をしたい。相手はアベルしかいないのよ……」


 カチェが戻ると、ケイファードが安心したような顔をしていた。

 そのまま自室に入り、着替えて横になる。

 なんと家族とは難しいものであるのかとカチェは途方に暮れるしかなかった。





いつも読んでもらって、ありがとうございます。

次話掲載、未定です。

それでは。

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