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獣の見た夢  作者: MAKI


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決意と越境

 


 イースと別れた翌日。

 アベルたちは中立の商業都市クタードを目指す。


 カチェはアベルの様子が気になり、時々、そっと窺った。

 やっぱりいつも通りというわけではなかった。

 例えば、アベルは夜明け直前に目を覚ますと、まずお湯を用意する。

 イースに使わせるためだ。

 今朝もやはり同じことをしていた。

 もう、イースはいないのに……。

 結局、湯は冷めるまで放置されていた。


 カチェの胸は痛む。

 アベルとイースの絆の深さは、深く理解しているつもりだ。

 いつも一緒に居て、それでいて不思議な清潔感のある関係だった。

 アベルは常にイースを敬い、誠実に仕えていた。

 決して男女の関係ではなった。

 でも、どこかには恋人同士に似た交感もあったのは間違いない。

 それはカチェからしてみると若干の嫉妬を感じるような関係ではあったが、かといって気安く踏み込める領域ではなかった。


 アベルの痛んだ心を受け止めてやれるのは、自分だけではないのか……。

 カチェはそう思う。

 ただ、どこか良心が咎めるのである。


 イースにいつか訪ねて来てくれと言った。

 それは真実、自分の気持ちだった。

 そう言ったにも関わらず、アベルと今までより深い関係になったのなら、それはハイワンドのために命懸けで戦ったイースからアベルを奪ったことになるのではないか……。


 カチェは悩んだ。

 答えは出なかった。





 商業都市クタードが見えてきた。

 街は水路と堀を兼ねたもので、ぐるりと囲まれている。

 壁もあって、堅固な防御になっていた。

 木造の橋があって、そこで入市税を払えば誰でも内部に入れる。


 さっそく家令ハンジャに街を案内されて、とある商家を訪ねる。

 その商家では金次第で身分の売り買いを請け負うという。


 アベルたちは、今のところ身元を保証する組織や血縁を亜人界に持たない。

 素性不明の戦士風では、皇帝国への越境は不可能であった。

 アベルたちは皇帝国に入国するため、商人の身分を手に入れるつもりだった。

 ハンジャも商人に何らかの用事があるという。


 混雑するほど活気のある街。馬を曳きながら歩いて移動した。

 やがて石造りの二階建てで、立派な店構えの商家に行き着く。

 アベルは掲げられた屋号を読む。

 西方商友会所属、銀の羊……と読めた。



 一階部分は店舗になっていて、羊毛織物や絹製品、紙などを扱っていた。

 客が出たり入ったりしているので、流行っている店なのが分かる。


 ハンジャが番頭に声をかけると、向こうはゼノ家の者だと一目で理解した。

 やがて店の二階に導かれる。

 そこには、でっぷり太った四十歳位の旦那が椅子に座っていた。

 黄色に染められた絹の衣服を纏っていて、見るからに裕福そうな男。

 腹と同様に頬も弛んでいた。

 名前はラフドックというらしい。

 ハンジャとラフドックの間で一通り、ゼノ家やバルティア自治州の惨状について会話がやりとりされると、本題となった。


「ゼノ家はまだ滅んではおりませぬ。シフォン・ゼノ様がこうして逃げ延びました。エウロニアが協力しないとなれば、あとは皇帝国に行くのみ。属州総督官に直訴するつもりなのじゃ。そこで、我々が皇帝国に速やかに渡れるよう協力を願いたい」

「ははぁ。それは大変なことでございますなぁ。このラフドック。これまでゼノ家の方々には取り引きで良くしていただいたものでございます。もちろん協力は惜しみませんが……、先立つ物はございますかな? 失礼ながら国境越えは金次第でございます」


 ハンジャは頷きつつ聞いた。

「私とシフォン様の二人だと、どれほどだ」

「貴方たちは皇帝国の役人とも親しいことですし、さほど金は使わなくてすみましょう。おそらく、入国審査官にいくらか渡せば入国許可書が発行されることでしょう。私が懇意にしている審査官がいるので、こちらからも頼んでおくことにしましょう」

「それは助かる……。実はな、ラフドック殿。相談があるのじゃ。恥を忍び頼むのであるが、我々に金を貸してほしいのじゃ。帝都でしかるべき立場の方に献金をしなければ属州総督官と面会は叶わない。そうした資金がいるのじゃ。むろん恩には報いる。ゼノ家が復権したときには、貴方を御用商人にするであろう。バルティアでの独占的な商業権利がいくつも約束されましょう」


 シフォンとハンジャは現金をあまり持ち合わせていないようだ。

 ラフドックは、肥え太った腹を摩りながらシフォンの顔をじろじろと見回した。

 それから宙を見て考えていた。そして、頷く。


「よろしいでしょう……。皇国金貨百枚を貸し付けます。返済期限は一年。利息は年二割。ただし、担保の一種としてシフォン様はこのラフドックの養女になってもらいます。期限までに全額返済が無い場合には、人を派遣してシフォン様の身柄は確保させていただきます。商人組合の借金返済にまつわる能力を軽く見ないでくだされ。どこにいようと、必ず見つけ出します」


 アベルは、えぐい手で来たなと思う。

 もし、一年後に金が返済できないとなれば、ラフドックは自分の娘をどうしようと勝手というわけだ。

 シフォンを呼び戻して愛人にするなり、奴隷として売るなり……もっと酷い扱い方もあるかもしれない。例えばゼノ家を滅ぼした敵対勢力に売り渡すなど。


 ハンジャは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「仮にも名家ゼノの御息女であるぞ。あまりに過大な要求……」

「ハンジャ。構いません。このシフォン、何としてでも皇帝国にバルティアの惨状を訴え、父母様を助け出さなくてはなりません」


 アベルは余計な世話と思いつつ口出しすることにした。

「やめておくべきです。他の方法にしたらいい。旅費ぐらい僕らが貸してあげるよ」


 シフォンは俯き、ハンジャは辛そうな顔をして言った。

「アベル様。帝都に行っても、賄賂がなければ役人にも大臣にも会うことすらできないでしょう。纏まった金が必要なのです」

「ロペス様……! 武人として見過ごすのですか。援助してあげたらどうですか」

「金のことはモーンケに聞け」


 一行の金庫番はいつの間にかモーンケがやっていた。

 北方草原で戦利品を獲た時、アベルは金貨五枚程度を小遣いとして分配されたが、それ以来は自由になる金など貰っていない。

 アベルがモーンケを見ると、険しい顔で首を振った。そして、言う。


「ちっとは同情するけれどよ。旅費ぐらいならともかく、政治工作に使う大金までは貸せねぇだろう。総督官に直訴するだけじゃなくて、軍まで動かそうってんだろ。金貨がいくら必要になるか分からないんだよ。そんなもんに金が出せるか」

「いや、だけど……、シフォン様はそれでいいの」

「何事も無償と言うわけにはいかないものです。バルティアで復権すればお金は何とでもなります」

「でも、大金だよ。それに縁組の重たさを知らないの? たしか、皇帝国の習慣法に従えば、家長は子に対して生殺与奪の権利まであるはずだ」


 シフォンは栗色の瞳に、驚くほどの意思を漲らせて答えた。

「アベル様。貴方たちにこの上、お金のことまでお世話していただくわけにはいきません。商人ラフドック……、いえ、父上。担保として一時的に今から義理の父になっていただきます。以後よしなに」

「ほっほっほっ。こちらこそ」


 ラフドックは、あまり上等とは言えない笑みを浮かべた。

 それから番頭に命じて金貨と契約書、養子縁組宣誓書などを持ってこさせる。

 その間にモーンケが身分の購入についてラフドックと相談に入った。


 金の交渉はモーンケが得意とするところだ。

 アベルは横で、やりとりを聞いている程度だった。

 ラフドックは話しに聞いていた通り、金さえ払えば様々な便宜を図る男だった。

 その代わり、取るものは取る……という態度だ。

 ラフドックとモーンケの話しが纏まりつつある。

 モーンケは金を出して西方商友会の会員権を購入するという結論であった。


 もともと北方草原で手に入れた戦利品や、ホロンゴルンで購入した香辛料があるので資金はある。

 ラフドックが幹部を務める西方商友会に金貨三十枚を払い、それとは別に仲介料としてさらに金貨を十枚支払うことになった。

 かなり金を使ってしまったが、商友会の会員権とはそうしたものらしい。


 西方商友会は皇帝国と亜人界の間を取り持つ、有力な商友会として百年以上の歴史があるので、そこの会員となればまず越境は上手くいくだろう……。


 だが、アベルは素直に喜べないでいた。

 ゼノ家の手引きがあったから、ここまで話しがすんなり進んだとも言えるので、シフォンたちを助けたのは無駄ではなかった。

 ところが、せっかく助けたシフォン本人は成り行きでラフドックの養女になってしまった。

 半ば人身売買に近い。

 シフォンは退路を自分で断ったわけだった……。




 西方商友会の会員権は高い買い物であるけれども商友会に属すると、いろいろな特典がある。

 たとえば、商友会から低金利で融資を受けられる。

 それから商友会の経営する宿屋をいくらか安く利用できるし、なにより商人の情報網を利用しやすくなる。


 会員権を取得する際、ハイワンドを名乗るわけにはいかないので、ハイベルクという偽名を名乗り、かくしてアベルたちはクタード出身の商人に身分を偽った。

 ラフドックとの取り引きが終わり、アベルは去り際に質問してみた。


「あのラフドックさん。皇帝国にハイワンド伯爵家という貴族がいるのを知りませんか。僕たち、ちょっとした知り合いがそこにいるのですが」

「ハイワンド……ああ、あの武勲が目覚ましいと聞いた貴族ですな。たしか、今は公爵になられているはずですぞ」


 これにはモーンケが食いついた。


「本当か! 公爵に格上げなんて、滅多にあることじゃねぇ。何百年ぶりかのことじゃないのか」

「皇帝国の貴族についてはそこまで詳しくありませんが、そうかもしれませんなぁ。なんでも王道国との戦争で大した働きがあったとか。商売の相手としてはいいかもしれませんねぇ」


 西方商友会への登録が済むのは翌日だというので、クタードの街で休息をとることになった。

 街行く人には商人が多い。

 クタードの街は大河ドナに隣接していて、水路が発達している。

 穀物や家畜などを満載した船がやってきては、水路を利用して街の中に入っていく。


 職人の工房と店舗が並んでいる。

 革製品を製作していたり、羊皮紙を作っているところもある。

 革製品を作るのには大量の水が必要なので、水路から水を手に入れられるクタードは条件が良いようだ。


 街は、どこも活気があった。

 なんとなく戦争で好景気という気配がある。

 直接、戦災を受けなければ戦争は産業を活性化させるのだろう。

 もっとも攻め込まれたら、そこで全て破滅だ。

 傭兵も将兵も略奪にかけては徹底している……。

 街はポルトのように破壊され、ありとあらゆる物は奪われ、人は奴隷業者に売り飛ばされる。


 もう夕方なので、商友会の経営する宿屋に部屋を取った。

 西方商友会に登録しているところだと事情を説明すれば、向こうは快く認めてくれた。

 素泊まりの安宿などとは設備や待遇が違う。

 風呂まであった。

 カチェとシフォンは同室で、男連中は大部屋をひとつ貸し切りにしてそこを利用となった。


 アベルたちは夕食をとりに行く。

 河が近いので魚料理が豊富だった。

 ウナギの串焼き、チョウザメやカワカマスの料理が並ぶ。

 蒸したり、焼いたりした魚に香草と香辛料で味付けしたソースをかけた料理は、かなり美味だった。


 腹も膨れて、ロペスたちは遊びに行く。

 もちろん女を抱けるような店であろう。

 そういうのに付き合わないのはカザルスとワルトだ。

 カザルスはカチェ以外の女性に興味がないし、ワルトは発情期でないとそういうことはしない。

 強制的に付き合えなくさせられているのはアベル……。


 アベルはカチェばかりかシフォンの刺すような視線に追い立てられて宿屋まで戻った。

 だが、あきらめて寝ようとしたが、どうにも寝付けない。

 カザルスやワルトなんか、もう熟睡しているのに……。

 やはりイースとの別れから神経が高ぶっている感じがした。


 -ちょっくら葡萄酒でも飲みに行きますか……。



 普通の宿屋だとパンと酒ぐらいは置いてあるものだが、やはり風情がほしい……。

 アベルは、ひとり宿屋を出た。

 もうすっかり陽が落ちて暗い。


 飲食店が並ぶ通りでは、夜中から朝まで営業する店舗が灯りを燈している。

 中からは賑やかな声がしていた。


 どの店にしようかと思っていたら、路地の暗がりから飛び出してきた手に腕を掴まれた。

 そこにいたのは、黒いローブを纏った異様な美女。

 魔女アスだった。


 色素の薄い巻き毛の金髪を背中まで伸ばしている。

 額にはルビーのような赤い宝石の嵌ったサークレットが輝いていた。

 完璧なほど整った中性的な顔には、どこか妖しい笑み……。

 背はアベルとほぼ同じ位置だった。

 魔女アスの澄んだ空色の瞳がすぐ目の前にあった。


 アベルは開いた口が塞がらない。


「魔女アス。……な、何でこんなところに?」

「ふふっ。言ったでしょう。私は貴方がどこから来て、どこへ行くのかを知りたいのよ。だから会いに来たわ」


 -なんだろう、こいつ……。



「ねぇ。話しをしましょう。苦手なイースもいなくなったことですし」

「イース様のことも知っているのか……。どこに行ったか分かりますか」

「知らないわ。ああした手合いは私にとっても、怖いのよ。見ているだけなのに察したりするから。さぁ、行きましょう」


 魔女アスは親しげにアベルの腕へ、手を絡めてきた。

 抵抗する意味もないのでアベルは、促されるまま歩いていく。

 やがて辿り着いたのは、裏路地にある目立たない店だった。


 店の中は、どこか雰囲気が一般の飲食店と違う。

 客のほとんどが、男女の組み合わせになっていた。

 女性は薄着をしていて、それすらも崩して着こなしているから肌がかなり露出していた。


 暗い店内の一角にアベルは座った。

 魔女アスは隣に座ってくる。

 すぐに葡萄酒の入った素焼きのデカンタと杯だけが運ばれてきた。

 つまみのようなものは、出てこない。酒のみ……。

 アベルは黙ってそれを飲んだ。


「この店は……」

「男が売春婦を買って、そのまま宿に行かないとき……ちょっとお酒を飲むような、そういうところよ」


 言われてみて、よく分かる。

 やたらと体を弄り合っている男女ばかりだった。

 魔女アスが、アベルの太腿を撫でてきた。

 触り方が上手くて驚く。快楽が走り、背筋がぞくぞくした。


「ねぇ。貴方の前世のことを教えてくださいな……。私の魔術でも全てが分かるわけではないのよ……」

「いいけれど、何について知りたいの?」

「何でもね……。まず、世界の起源とか」

「そうきたか。それは分かっていない。宇宙っていうのはビッグバンという大爆発が始まりだと言われているけれど……はっきりしていない」

「そう。世界が在るのなら、どこかに始点が必ずある。でも、その始点は無から生まれたのかしら? 完全な無から有が発生するなどということはあり得るかしら……」

「その謎を解いた人は、俺の前世の世界にもいないよ……」


「私は時空間転移魔術が宇宙の起源になりうると考えているわ。その理論を数百年ほど突き詰めて探究したこともある」

「……なるほどな。詳しい魔術理論までは分からないけれど、それだと無から有が発生してしまう矛盾は……説明できるような気がする」


「それで貴方の世界に魔法や魔素はないのね」

「ないとされている。少なくても俺は一度だってそういうものを感じたことはない」

「……本当に? この世界にも魔素を感知できない人間なんかいくらでもいる」


 アベルは幼馴染のリックを思い出す。

 彼は魔素を全く感じることができなかった。


「そういや、今ひとつ思い出した。前世の世界では、存在が予想されているのに観測ができていない物質があったような……。俺も詳しくは分からない。簡単に言うと、その物質がないと宇宙が成立しないのに、どこにあるか不明という……そんな感じだったかな」

「面白い話しね」

「でも、これ以上は説明できない。というか、この説明で正しいかどうかすら悪いけれど分からない」


 魔女アスは葡萄酒を飲み干し、舌で唇を舐めとった。

 それから黒いローブを脱ぐ。

 胸の谷間から臍、さらには下腹部のほとんどが見えてしまうような服を着ていた。

 豊満な、大人の肉体であった。

 アベルは目のやり場に困る。


「とにかく貴方の居た世界には、こっちにあるような魔法はないのね。それで代わりに機械が進歩した」

「たぶん、そうなんだと思う。本当に機械産業が発達したのは俺が死んだ二百年ぐらい前からだと思う。はっきりとは憶えていないけれど。蒸気機関とか産業革命っていうのがあって……」


 魔女アスからの質問は多岐に渡った。

 文明、社会制度、生物、物理、科学……。

 それらの問いかけに、できるだけは答えてやる。

 もっとも、前世のポンコツ頭では大したことは憶えていなかったが……。


 どれぐらい話しをしただろうか。

 もう夜中だろう。

 アベルはだいぶ酒を飲んだせいで、かなり酔ってきていた。

 まるで深い水の底で漂っているような感覚。

 魔女アスが、さらに体を寄せてきた。

 濃厚な女の匂いがする。

 アベルの脳髄が、さらに痺れて来るような香りだった。


「ねぇ。転生するのって、どういう気分?」

「どうって……別に新しい人生って気はしないな。お前……知っているんだろう。俺が、父親を殺したってこと」

「辛い記憶まで継承しているのね」

「ああ、そうだ」


「生まれ変わっても記憶があるのなら……地獄が続いているだけってことかしら」

「そうかも、しれない」

「貴方が本当の意味で新しくなるには……過去と決着をつけないといけませんねぇ」

「ばかを言わないでくれ。そんなこと、どうやってやるんだよ。もう、とっくに終わっていることなんだ。俺は誰にも助けられなかった……。俺は殺しても満足しなかった……。人生にやり直しなんかないんだ。たとえ生まれ変わっても」


「私……貴方が何をこの世界でやるのか、知りたいわ。それに貴方のいた世界に行ってみたい」

「……あの世界に行きたいなら行けばいいじゃないか」

「時空間魔術は、本当に難しいのよ。特に召喚ではなくて、転移はね。召喚ならば失敗するだけですけれど、自分自身の転移をしくじった場合……どうなることか……。いくつもの安全装置が必要となるわ」

「安全装置……」

「そう。皇剣もその一つね。あれは私と始皇帝が力を合わせて、持てる限りの魔力を注ぎ込み創ったもの。あれには異世界とこの世界を繋ぐ羅針盤のような機能すらあるわ」


「……行方不明ではなかったのか、皇剣」

「そう。私にも、どこにあるのか分からない。どうしようかしらねぇ」

「俺はもう、あの世界に戻ろうとは思わないけれどな。これは勘だけれど、もう二度と転生なんかないよ。今度こそ、死んだらそれまでだ」

「ふふ。アベル。私に協力してね……。代わりに私も貴方を助けるから。二人で見たことの無い景色を、見に行きましょう」


 魔女アスが、もたれかかってきた。

 艶のある、ぬらりと光った肌が絡みついてくる。

 腕に豊満な乳房が当たった。

 固く尖った乳首の感触が伝わってきた。


 アベルの心臓が高鳴ってくる。

 イース相手には少しも奮わなかった男が、激しく反応していた。


 -ちょっと下品なぐらいの女のほうが興奮するのは、なぜなんだろう?

 イース相手にはどうしても無理だったのに……。

 それにしてもこの女、出会ったとき第一印象は神聖な感じすらしたものだが。

 今はまるで淫売だ。



 気持ちがグチャグチャになっていく。

 だが、イースの事を思い出していたら、急に醒めてきた。

 アベルは首を振る。


「そろそろ宿に帰るよ。カチェって女の子がいたろ。あいつ、怖いから……」

「あら……。もっと楽しみましょうよ。私のこと抱きたかったらそうしていいのよ。やりたいこと、なんでもしたらいいわ。どんなことにも応えてあげる。これまでの人生が色褪せるほどの快楽になるかも」


 魔女は淫靡な笑みを浮かべていた。

 暗い照明のもとで、その肉体が妖しく輝く。


 ここでこの誘いに乗るのも面白いと思った。

 さぞかし甘美な柔肌だろう……。

 だが、やはりイースの面影が心に差すのであった。


 -何処にいて、何をしているのだろう。イース……。



「……や、やめておくよ」


 慌ててアベルは席を立った。支払いをして店の外に出る。

 冷たい夜気が心地よかった。

 アベルの酔いが消えていく……。


「貴方には、まだまだ聞きたいことがたくさんあるのよ。では、また会いに行くわ……。」


 魔女アスが路地の暗がりに消えていった。

 黒いローブと闇が融け合って、すぐにその姿は見えなくなった。

 アベルはしばし、その暗闇を呆然と見ていた。

 別れてしまうと、まるで夢の中の出来事のようだ……。




 宿屋に帰ると、カチェとシフォンが拳を握りしめて待ち構えていた。

 二人とも、すごい顔をしていた。


「……ど、どうしたのかな。二人とも。僕は敵ではありません。……怖いね。……怖いよ」

「アベルこそ、どうしたの。こんな夜、遅くまで」


 カチェの語り口は静かだったが、かえって不気味だ。


「ち、ちょっと酒が足りないなって。そ、それだけです。飲んできただけ」


 カチェが近づいてくる。

 それから顔を寄せてきた。

 アベルの服の匂いを嗅いでくる。


「な、なにしているんですか。ワルトじゃあるまいし」

「匂う! いい匂いがする! 香水? 女の人の匂いじゃない、これ」


 -お前はどっかの専業主婦かよ!



 吊り目気味のカチェの瞳が、ぎりぎりとさらに吊り上がっていった。

 シフォンが後ろでカチェの応援をしている。

 数的にも立場的にも、まったく敗北。

 こうなったら降服したほうがいいのである。


「カチェ様。ごめんなさい! でもね、本当に悪さしていないの。ちょっと急に女が誘ってきたのは事実なんだけれど、何もしてないから。嘘じゃない。隣に座ったから匂いが移ったかも……。でも、それだけです。許して、ください」

「……次は許さないから」


 背筋の凍るような声色でカチェが言いつけた。

 アベルは黙って頷いた。


「カチェお姉様の言うこと、よくお聞きになってくださいまし!」


 シフォンはいつの間にか、カチェのことをお姉様と呼んでいた。

 その迫力にタジタジになってしまう。

 なんというか、このままいくと小さいカチェみたいになってしまいそうだ。

 いや、もうすでになっているか。

 アベルは一応、シフォンにも謝っておく……。


「ごめんなさい」

「カチェお姉様を悲しませたらいけませんよ」


 腕組みをして鼻息も荒いシフォンだった。




 ~~~~




 翌日、ラフドックの店に行き、アベルたちは商友会の会員証を手に入れた。

 鈍色をした金属のプレートに、登録日や名前が刻まれている。


 いよいよ、これから越境の交渉をしなくてはならない。

 クタードの街には皇帝国の出張所があった。

 家令ハンジャが交渉を上手くしてくれたおかげで皇帝国の役人と面会が叶う。

 ここで予備審査を受けておいて、許可をとり、船で大河ドナを渡るのである。


 皇帝国の役人にこれまでの経緯を説明して、丁重に賄賂を渡すとシフォン・ゼノの越境許可書は発行された。

 アベルたちはゼノ家が懇意にしている商隊で護衛を兼ねるという触れ込みである。

 西方商友会の会員証を見せて、いくらかの賄賂を渡すとこれも上手くいった。


 アベルはちょっと呆れる。

 ロペスなんか、どこからどうみても生粋の武人にしか見えない。

 突っ込まれると不審な点などいくらでも出て来る。

 だが、賄賂を渡すと役人は見逃すのである。


 -まぁ、世の中はこんなもんだよな。

 金やコネで何とでもなるぜ……。



 桟橋に行ってみると、大小の様々な船が係留されていた。

 皇帝国が管理している渡し舟は、かなり大きい。

 全長三十メートルほどはありそうだ。

 いわゆる河船なので、喫水線は深くならない構造になっていた。

 浅瀬が多いので、船底がぶつからないような工夫をしているのだった。


 アベルたちは馬と荷物を船に運び入れる。

 荷物の量に応じて料金は上がっていく制度だった。


 正午ごろに、船出。

 アベルは離れていくクタードの街を眺める。

 いよいよ亜人界を去る。

 イースとの距離は開いていく一方だった……。


 大河ドナを進んだ船は、夕方に流れの緩い水域で停泊して夜を過ごす。

 翌朝、再び船は櫓走と帆走を併用して、大河を進む。

 河の流れは穏やかなのだが、とにかく幅が広い。

 アベルの見たところ、数百メートルはありそうだ。

 この大河ドナの源流は北部山脈に発している。

 そして、最後には氷絶海と呼ばれる北の海に流れるようだ。


 渡し舟は、やはり正午ごろに皇帝国の船着き場に到着した。

 モーンケが燥いだ声を上げる。


「とうとう皇帝国だぜ! やっと帰ってこられた!」



 上陸したら、まず関税ための荷物検査、それから越境希望者の検めがある。

 関税は旅に必要な物には掛からないという法律になっている。

 だからアベルたちが連れていた馬、身につけている衣服や装備などは問題なかったのだが、多量に持っていた宝石や香辛料を申告したら大変だった。

 それは西方商友会の商人であるという名目を成り立たせるものでもあったのだが、量が多いので徴税官が何人もやってきて鑑定を始める。


 関税率が低いのは穀物や肉などの食料品。逆に高いのは、絹、宝石、香辛料などの贅沢品である。

 アベルたちがたくさん持っていたのは、その贅沢品ばかりだった。


 ロペスなどは金に対する感度が低いので平然としているが、モーンケは青い顔をしていた。

 金切り声を上げて、これは税率が高すぎるとか、鑑定額が高すぎるだとか必死になって交渉していた。

 アベルはそれを見るにつけ、あいつは商人に向いていると思うのだった……


「だから、なんでこのクズ石が一級宝石なんだよ! どこからどうみたってガキの玩具だぜ!」

「胡椒の値段がそこまで高いわけねぇだろ! どんだけ高値にしてんだよ!」


 モーンケと徴税官たちの戦いは激しく長引いた。

 アベルたちは道に座り込み、ただジッと待った。

 決着がついたのは、そろそろ夕方も近くなった頃である。

 モーンケのありとあらゆる反論、お愛想、ごますり、騙し、言葉遊びが発揮されて徴税は一割ほど安くなった。


 最後に護衛の兵士を引き連れた役人が、皇帝国への来訪理由を問うのでアベルたちは答える。


「はい。お役人様。商売のためです」

「それにしては重武装だな」

「亜人界は大そう物騒でございます」

「最近は皇帝国の治安も乱れておる。いくらか謝礼を払うのなら、危険な場所を教えてやってもいいぞ」


 これも一種の賄賂の要求と見るべきであった。

 アベルは言われたまま銀貨を渡して、役人の注意事項を感心しながら聞いてやった……。


 こうして面倒な遣り取りを経て、やっとのことで検問を通過。

 アベルたちは、さっそく街で情報収集をする。

 もちろんハイワンド家の動向についてだ。

 出会った西方商友会の商人の中に、皇帝国の貴族事情に詳しい人物がいた。

 いくらかの謝礼を渡すと、親切にいろいろと教えてくれた。


 まずハイワンド伯爵家が公爵家になったのは二年前のことらしい。

 死守命令をやり遂げて、王道国のリキメル軍団に痛撃を与えた功績があまりにも大きいというのが理由だった。


 ハイワンド家の主だった者たちがどこに住んでいるのかまでは不明なものの、おそらくは帝都にいると思われた。

 となれば目指すは皇帝国の帝都。


 シフォン・ゼノと家令ハンジャも属州総督官と面会するために帝都へ行くという。

 一行は北西に進路をとる。

 急げば帝都まで三十日ほどだろう。







いつも、読んでもらって本当にありがとうございます。


次話は今夜に載せられるか微妙です。それでは。

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