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獣の見た夢  作者: MAKI


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馬上の少年は西へ旅立つ

 




 たまたま入った店の看板娘は胡桃色の瞳に哀願の色を浮かべてアベルに訴えてくる。


「あたしのお父さんが怪我して、いま困っているの。骨折なんだけれど、ちっとも良くならなくて、むしろ具合が悪くなっていて……。お願い! 貴方の治癒魔法で治してください!」

「……いいけれど、こんな大きな街なのに治療院ないの?」

「あります。でも、施術料が物凄く高いのよ。あたしが女給やっていても貯まらないような額なの! けれど先払いじゃないと絶対に治してもらえない。

 だからね、ただとは言わないわ。もし、お父さんが治ったら……今晩、あたしの体、好きにしていいよ」


 不意打ちにアベルの心臓は高鳴る。

 溌溂とした可愛い女の子が、さらっと大胆なことを言ってきた。

 ついつい看板娘の体つきを見てしまうけれど、引き締まった素晴らしい体だ。

 胸元などはわざとなのか大きく開いて、乳房の谷間が見えている。


 むりやり視線を外してアベルは仲間たちを見ると、みんな会話を聞いていた。

 ガトゥは大きな口を曲げて笑っている。

 野性的な鋭い目がアベルを楽しそうに見ていた。


 モーンケはそっぽを向いて拗ねたような態度。

 ロペスやカザルスは表情に変化がない。

 ライカナは子供の悪戯を見つけた保護者みたいに、うっすら笑っていた。


 イースも同じく平然としている。

 しかし、目線がアベルの顔を捉えて離さない。

 何となく気圧されるような迫力がある……。


 凄いのはカチェだ。

 眦がいつもりより、さらに吊り上がっている。

 下手な返事をしたら一瞬でやられるって感じだ。


――ひぇ~!


 アベルは慌てて看板娘へ答えた。

 平静を装うが冷や汗が出てくる。


「あ、あのさ。ただでいいよ。体なんて、そんな……」


 看板娘は胡桃色の瞳に意外なほど甘やかな魅力を湛えて言う。


「あたしの体じゃ満足できないって思っているの? 試してみなよ。いま少し触ってもいいよ。その代わり治療は最後までやってよね」

「え~と……なるほど」


 バコッ、という激しい音がした。

 貫かれるような強い衝撃にアベルは呻く。

 カチェが鋭く重たい正拳突きを、アベルの背甲に食らわしていた。

 鉄板越しなのに、かなりのインパクト。


 アベルは口をパクパクさせて狼狽うろたえる。

 これ、板金が凹んでいるんじゃねぇの……。


「なるほど、じゃないでしょ! わたくしも付いていくから。怪我を治してあげたらさっさと帰るわよ」


 それまで黙っていたモーンケが意地悪そうに言って来た。


「アベルよぉ。これまでもそうやって生娘だろうと年増だろうと見境なく犯りまくってきたんだろぉ。

 イースも無料ただ、街の女も無料ただ。治癒魔術ができるだけで役得だな。いまさら善人ぶるな。朝までには帰って来いよ」


 にやにや笑っているモーンケが先に宿へと帰っていった。

 ロペスは興味無さそうに黙って弟と離れていく。

 ガトゥまでが別れ際に、上手くやれよ、なんて言ってきた。

 

 今更ながらモーンケの性格の歪みっぷりに驚かされた……。

 アベルはそっとカチェの方を窺うと、顔を真っ赤にさせながら握りしめた拳をブルブル震わせている。

 それから、キッと切れそうな視線でアベルを睨みつけてきた。


「わたくし、今のはモーンケ兄さんの冗談だって分かっているのよ。とても品のないものですけれど。でも万が一にも本当のことにならないようにしませんとね。だって旅の途中なのですから。

 アベルはもちろん理解していますね? 手間を取らせないでくださいね?」


 怖いのでアベルは何度も頷いた。

 一つ間違えたら鎧どころでは済まない。身体に深刻なダメージを負うことになるだろう……。

 

 そうして娘に案内されてホロンゴルンの夜の街を歩く。

 治安は絶対に良いはずがないのだが、この面々なら安心というものだ。

 強盗団が襲ってきても負ける気がしない。

 家の陰は暗いのでアベルは「魔光」を出した。


 裏路地を折れ歩き、道に果物の皮などゴミが散らかっている地域に入る。

 貧民街一歩手前という風情だった。

 だが、本当の貧民街はこんなものではないとアベルは聞いたことがある。

 皇帝国の帝都にある巨大な貧民街は、治安がどうしたというレベルではなく、戦場さながら命を捨てる覚悟で行く所らしい……。


 やがて一軒の集合住宅に着く。

 その中の一室に看板娘は入っていった。

 アベルがついて行くと、灯りのない暗い六畳ぐらいの部屋で三人の人間が寝ていた。

 燈油を買う金もないから、日が暮れたら寝ているしかないみたいだ。

 アベルの魔光を眩しそうにしている。


「ただいま!」

「あれ? お姉ちゃん、早い……、まだ朝じゃないよ」

「今日は特別。お父さん! 起きて。治療魔術師さまを連れてきたよ!」


 看板娘の弟と妹がいた。まだ二人とも十歳ぐらいだった。

 見るからに粗末な継ぎ接ぎだらけの服を着ている。

 部屋に母親らしき人はいなかった。

 

 怪我を負った父親が仰向けになっている。

 だが、父親は熱でもあるのか消耗しきっていて反応は曖昧だった。

 足を骨折しているらしく、添え木がしてあった。

  

 アベルは幼馴染のリックを思い出す。

 彼は戦争で足に重傷を受けてしまったが、治療魔術に浴する機会の無いまま自然治癒した結果、骨が正しく接合しなかった。

 以来、曲がった足首のまま歩行する体だ。

 下手に治った後だと、治癒魔法をかけても元通りには回復しない……。

 ともかく、傷の確認である。


「カザルス先生。イース様。お願いします」


 アベルは骨折した親父の体をカザルスやイースに押さえてもらう。

 痛みで動かれると厄介だからだ。

 最悪、患部が激しく壊疽などを起こしていれば治癒魔術ですら治すことはできない。そうとなれば切断するしかなかった。

 アベルはウォルターがノコギリや鑿といった大工道具で手足の切断をやっていたのを思い出す。


 こういうのはさっさとやった方がいいので、アベルは添え木の結束帯をナイフで切ると、患部を露出した。

 病状を観察する。

 脛がパンパンに張れていた。

 太腿と同じぐらいの太さになってしまっている。

 肌は黒色に変色していた。

 折れた骨が上手く嵌っていないのは明らかで脛が不自然に曲がっていた。


「いてえぇええぇぇ!」


 少し患部に触れただけなのに、親父が絶叫を始める。


――かなり悪いな。

  ただ魔法を掛けるだけでは治らないかも……。

  たしか、こういう場合ウォルターは悪い血を出して、

  それから魔法を使っていたはず。



 アベルは魔力を高める。

 右手が白い光で輝く。


 脛に膿んで悪くなった血が溜まっている。

 それを出さないとならない。

 アベルは蒸留酒で消毒した小刀を黒く腫れた患部に、迷わず突き入れる。

 血膿が流れ出る。

 どうせ後から治すので、思いきり傷を切り開いた。

 さらに患部の血を絞り出す。

 親父が叫び、暴れる。

 イースとカザルスが、しっかりと抑え込む。


 おおかた血膿を出しところでアベルは回復を強くイメージして、湧き出る魔力を一気に注ぎ込んだ。

 変形した脛の形が正しくなり、腫れが見る見るうちにひいていく。

 膿を出した傷口も一瞬で塞がる。

 すぐに元通りの足になりアベルは声をかけた。


「オヤジさん。もう痛くないでしょう? 立ってみなよ」


 痛みが消えたため呆然としていた父親が促されて立ち上がる。


「どうですか? 痛みはまだありますか」

「い、いや。少しも痛まないぜ! 嘘みてぇだな」

「すっ、すご~い! お父さんの足が治ったよ!」


 涙ぐんだ看板娘が嬉しそうにアベルへ抱き付いてきた。

 胸甲があるから、全然、少しも感触が楽しめないのだが。

 アベルは後悔する。

 なんで装甲なんか着てきたのだろう……。


 家族も狂喜乱舞していた。

 看板娘がほとんど泣きながらアベルに言う。


「このままじゃ、あたしたち奴隷になるところだったよ!

 あたしと妹は娼館、弟は下手したら魔獣界に連れていかれたかも。そうなったら、絶対帰ってこられなかった……!」


 アベルが聞けば、稼ぎ頭の父親が臥せってしまい、一家の蓄えは底をつきかけていたらしい。

 母親は既に亡くなっているので、幼い弟と妹までも働いていた。

 しかし、子供が働いて貰える金額などたかが知れている。

 親父の足を治す金のために、看板娘だけでなく弟と妹まで身売り寸前だったらしい。


 皇帝国では奴隷にも色々な種類があった。

 そのなかでも最下底の奴隷とは、重犯罪奴隷や戦争奴隷だ。

 これは年季といって奴隷として勤める期限も決まっていない、つまり永久奴隷になる。

 働く所も辺境の農場とか鉱山などの過酷な地域ばかり。


 身売りの場合は、三年とか、五年などの年季が普通はある。

 そういうのは年季奴隷や期間奴隷とも呼ばれる。

 そして、年季が明けたら主人は奴隷に決められた金を払って解放する。

 そのまま解放奴隷の身分で同じ主人に雇われることを選ぶ者もある……。

 ともかくアベルは怪我を治すことができて、ほっとした。


「君の親父さん、治って良かったよ。僕の魔法でも治せない傷はあるんだ……。それにしても、ここらの治癒魔術師は冷たいね。僕の父上も治癒魔法を使う医者なんだけれど、お金が払えない人にはツケを許していたよ。本当は法律違反らしいんだけれど」

「立派なお父様だね。ここらの治療魔法使いはさ、周りの魔法使いと値段を合わせていて、安くなんか絶対しないしツケなんかあり得ない。貴方みたいな親切な魔法使いが来てくれないか、ずっと狙っていたんだ。こんなに上手くいくとは思わなかったけれど」


 看板娘は尊敬と思慕の眼差しで、アベルを見て来るのだった。

 なんというかイチコロという感じだ。

 このまま頼めば、たぶん何でも聞いてくれるだろう……。

 アベルと娘の間で雰囲気が高まってくる。

 お互いの視線が絡み合う。


「ね、ねぇ。よく見ると貴方って凄く整った顔をしているのね。もしかして身分のある人なの?」

「いや、平民さ」

「あの。あ、あたし……」

「さぁ、アベル! 行くわよ」


 そこへカチェから冷徹な宣告がある。

 紫の瞳はもっと冷たかった。

 アベルは逆らえるはずもなく、とぼとぼと部屋から出て行く。

 看板娘は名残惜しそうにアベルの手を握ってきた。


「貴方、アベルって言うんだ。あたしはミライナ。また、お店に来てよ」

「……どうかな? 明日はもう旅立つかも」


 たぶん、もう二度と会うことはないだろうとアベルは感じる。


「そっか……あたしの初めて、アベルみたいな素敵な人だったら良かったけれどな」

「……!!!」


――お、俺がステキ……。

  騙されそうになる……。


 断腸の心境だがミライナという看板娘に手を振って、アベルは別れる。

 アベルは人助けもいいものだと自分に言い聞かせ、宿に帰る。

 かなり勿体ないことをしたとも思うが……。

 宿に戻るとガトゥが、からかってきた。


「よぉ、とうとう童貞捨てられたか」

「無理に決まっているでしょ」

「へへっ。突撃失敗かよ。情けねぇな、槍が役に立たなかったのか」

「突撃失敗っていうか突撃の許可が下りなかったというか……」

「くだらないこと言ってないで早く寝なさいっ!」


 カチェがイラついている……。

 アベルは怖いし面倒くさいので言われた通りにする。

 防備を外して背甲を調べると、きっちり拳の形状に凹んでいた。

 冷や汗が出て来る。

 これもう、素手で人殺せるんじゃねぇの……。


 寝台に横になり目を閉じると猛烈に眠くなる。

 意識が落ちた。

 カチェさっそく寝息を立てているアベルからようやく視線を外してライカナに小声で相談した。


「アベルって、もしかしたら女の子から凄いもてるのかしら? 街に着いた途端にこれよ。マラガ村ってところでも女の人に人気だった」

「顔はなかなか端正。心は優しい。そりゃあね……」

「アベルったら、顔をニヤニヤさせちゃってさ」

「男の子だもの。仕方ないわよ。けっこう可愛い娘だったし」

「わたくしでは勝ち目ないのかしら……」


 ライカナは微笑しながら小さく首を振り、横になった。

 もう寝なさいとも言いつつ……。

 だが、カチェは飽きずにイースにも話しかけた。


「イース。主として従者の行動は戒めてね」

「……アベルは自分の不始末は自分で解決できます。戒める必要はないでしょう」

「だから、そもそも不始末を起こしたらマズいってこと」

「私はアベルを信じています」

「甘いわよ……」


 すぐにイースも横になって寝てしまう。

 カチェは一人考え込む。

 まずいぞ、と悩む。

 この先、下手するとちょっと目を離したすきに女の子と仲良くなって、そのまま結婚とか言い出すかも。

 背筋が凍るようだ。

 あり得る……。

 そんなことはあってならない。

 皇帝国まで首輪を付けてでも連れて帰らねば!


 翌朝、夜明け前にアベルは目覚める。

 イースのためにお湯と水を用意するためだ。

 しかし、なぜかカチェが、ずっと付いてきた。


「カチェ様? お湯なら僕が用意しておきますよ」

「アベル。あんたは、しばらく見張っておくことにしたから……」

「うへぇ! どういうつもりですか? 意味が分からないですよ」

「いいからアベルは自分の仕事をしなさい。わたくしはわたくしの仕事をします!」


――なんか、カチェのやつまた面倒くさいこと考えているな……。

  こういうときは逆らわないほうがいいや……。





 アベルたちは身支度をして宿屋の旦那に別れの挨拶をする。


「また来ておくれよ。わしら、泊まってくれた人の顔は忘れないようにしてるでな」

「親切にありがとうございました」

「気をつけてな」


 まず、アベルたちは市内で簡単に朝食を食べることにした。

 早朝から賑やかな市場の露店では、羊肉の串焼きなどが美味そうな匂いを立てている。

 天幕の下にはテーブルと椅子が並び、様々な旅人が肉や穀物を口に運んでいた。

 豆の粥、肉饅頭を人数分頼んで食べる。


 いよいよ目的である馬の値段を調べる。

 市場は朝早くなのに人々が活発に動き回っていた。

 様々なものが売られているが、馬商人はいない。


 生きた家畜は壁外で遊牧民族が売っているものを買うのが普通らしかった。

 アベルたちは、とりあえず香辛料や衣服、生活雑貨などを買って、門から外へ出る。


 来た時と同じく、一万頭を超える家畜が草原を闊歩していた。

 数十の遊牧部族たちが家畜や物品の売り買いをしている。

 アベルはライカナに質問をした。


「草原氏族と遊牧部族って何が違いますか?」

「遊牧部族は平地から山岳まで、家畜を遊牧できるところならどこにでも行きます。草原氏族は、その名の通り草原を生活の場にしています」

「なるほど。では、騎馬民族というのは?」

「馬を移動手段にしていて、農耕は全くしないか、したとしても少しの人たちです。騎馬民族は男も女も馬に乗ります。遊牧によって生活している点では遊牧部族と同じですから、厳密に分けて考える必要はありません」

「今いる所から北方草原までは、そういう遊牧民が多いってことですよね」

「その通りです。街の周辺では農耕をしている人もいますが、広大な草原は遊牧にとても適しています。ごく自然に人の生き方も遊牧という形態で育まれるのです……」

「どんな人たちなんだろう?」

「北方草原にいる騎馬民族らの性格は剽悍で、争いを恐れません。彼らは野盗ではないのでこちらが礼儀を守れば攻撃してきませんが、無礼なことをしたら……穏便に済ますことはできないでしょう……」



 アベルたちは二手に分かれて、質の高い馬を捜し歩く。

 特にロペスやガトゥは馬で妥協するつもりはない。

 値が張っても、良馬をここで手に入れると意気込んでいる。

 午前中をまるまる費やして、これはという馬を多く扱っている遊牧部族を見つけ出した。


 アベルは馬たちを観察する。

 どの馬も馬体は引き締まり、足腰に粘りがある。

 毛にも艶があって、陽の光に輝いていた。

 見ているとワクワクしてくるような馬だった。


 人が乗るのは去勢されたオス馬が一般的だ。

 そうでないと発情期に乗馬不能になるし、性格が荒々しくて乗りこなせない。


 一人二頭を買うことにする。

 一頭は予備と、荷物の運搬のために使う。

 ただし、ワルトだけは徒歩。

 馬に乗るのは狼人の誇りが許さないらしい。

 馬なんか追い駆けるものだっち、乗るなんて嫌だっち、とか言っている……。

 よく分からない拘りだ。


 さらに、馬だけ買っても仕方ない。

 馬具がいる。

 人がお尻を乗せる鞍、足を引っかける鐙、馬の口に咬ませるハミ。

 そして、ハミを繋いだ手綱などなど。


 問題は値段交渉である。

 良馬十六頭とさらに馬具ともなれば、かなりの額になる。

 ライカナと皆で話し合って、魔獣界で手に入れた砂金は全て使ってしまうことにした。


 交渉相手である遊牧部族の長は中年の男だった。

 商人ではないので愛想笑いもしない。

 日焼けによって色黒で眼目鋭く、むしろ話しかけにくいぐらいだ。

 ところが彼に手の平いっぱいの砂金を見せると、ほとんど表情が動かない人であったのに、さっと顔色を変えた。

 やはり黄金はかなり貴重らしい……。


 ライカナが強気に交渉を始める。

 これで売らないのなら、他の部族のところへ行くと切り出す。

 相手は駆け引きがムダだと察して、早々と態度を軟化させたような気配がした。

 だからといって笑み一つ浮かべはしないが。

 しばらく話を続けて、さらに宝石をいくつか渡すことで交渉は上手く纏まった。


 アベルは馬上で扱える弓に興味があるので、ついでに遊牧部族の人に矢と共に売ってもらった。

 動物の骨と木から作られた複合構造の短弓である。

 皇帝国の弓とは構造が異なっていて、こうした物を見ても文化が違うことが分かる。

 なお、こうした弓は良質の木材を年単位で乾燥させて膠などで張り合わせるため、作るのに手間がかかるから高価だった。

 ところがアベルがロペスに相談すると、彼は平気な顔で金貨を渡してきた。

 武具の類にケチな考えはないようだ……。


 アベルは赤毛をした去勢済みのオス馬に声を掛けて、何度も撫でる。

 馬は神経質で知らない人間をかなり警戒するのが普通だ。

 慣れていても背後から近づくと後ろ脚で蹴り飛ばされることもある。

 

 そうやって安心させてから鞍や手綱を付けて乗る。

 強靭な足腰をしていて、かなり反応がいい。

 ひとたび本気で走り出すと止まらなくなってしまう気配を湛えた若い馬だった。

 そんな馬だからこそ、アベルは気に入った。


 一行の中ではカザルスがちょっと下手だったが、そこは性格の穏やかな馬を当てればいい。

 意外なのはモーンケが水を得た魚のように自在に馬を乗りこなしていたところだ。

 思わずアベルは声をかける。


「モーンケさん。馬に乗るの上手い」

「へっ! こっちは伯爵家の生まれだぞ。四歳の時から馬に乗ってんだ。あったりまえだ!」

「あんたの特技、やっと見つけたよ」

「アベル。てめぇに褒められても嬉しかねぇんだ!」


 モーンケは厳つい兄ロペスの顔を軽薄に緩めたような男だが、今こそはちょっと威勢がいい。

 それから小麦と羊肉、乾燥果実や木の実を買い求めて、馬にくくりつける。

 このまま西へ進むことになった。

 ホロンゴルンを後にする。

 目指すは北方草原。


 アベルは、ふと看板娘ミライナを思い出すが、一瞬の出会いと別れだった。

 ただそれだけのことだ。

 あの子、幸せに暮らせればいいなと思う。


 人は過ぎ去り、ただ僅かな記憶だけが残るのみ……。






お読みいただき、ありがとうございます。

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