魔女アス
アベルたちは岩壁にできた細い切り通しを歩み続けた。
はっきりと空気の匂いや湿度が変わる。
岩壁を抜けると、いきなり景色は激変した。
そこは清浄な風が吹き抜ける高原。
吸い込むような青空、見渡せば広大な山脈が幾重にも連なっている様は雄大としか言い表せない。
すっかり霧は消えている。
小鳥の囀る、陽光に満ちた午後の野原。
危険な魔獣の気配も全くない。
別世界のようであった。
しばし壮大な自然に一行は息を呑んだが、のんびりしていたら日が暮れてしまう。
目標を探すと、アベルは遠くに建築物らしきものを発見した。
取り合えずそちらへと歩んでいく。
高原は途中から小規模な畑になった。
麦が栽培されている。
他に標高が高くとも育つ野菜を栽培している形跡があった。
「わっ! アベル。あれなに!?」
カチェが驚いて指さすのは、ロボットのような装置だった。
木馬に蜘蛛のような多脚が生えた構造で、どうやら自動で作物を育てたり収穫するものらしい。
カザルスが興味深そうに観察しつつ、アベルの代わりに答えた。
「あれは魔法機工で作られた自動機械の一種類だろうね。見たところ畑で作業をするものだから危険はないはずだ」
「便利な道具なのですね。あれがあれば人間は働かなくてもいい」
「ふふ。そう簡単な話しではないよ、カチェ君。あの手の物は製造や管理するのが困難なのだ。大帝国の時代、ああした自動機械はずいぶん作られたらしいけれど、現存しているものは極僅かだよ。ボクも帝都の魔法学院で壊れて動かなくなったやつを見たことがあるだけだ……」
アベルたちは物言わず作業する自動機械を脇目に、さらに進んでいく。
やがて現れたのは、まるで時間の流れから取り残されたような威容を誇る建物であった。
全体は雲のように白い大理石で作られていて、アベルは実物を見たことは無いけれども前世のパルテノン神殿を連想させられた。
克明に似ている建築というわけではないが、受ける全体的な印象は近い。
神殿は優美かつ堂々とした列柱に囲まれて、その内側に壁がある。
だが、壁にはいくつか窓があり五色に変化していくステンドグラス風のものが嵌っていた。
ガラスを用いた建物など始めて見るので、アベルはやはり特別な場所なのだと察する。
今にも動き出しそうな美女や戦士を模した荘厳華麗な彫刻が列を成して配置されている。
その奥に正面玄関があり、太陽と月を紋章化したと思しき浮き彫りの施された大きな扉が閉ざされていた。
ライカナは獅子を模したドアノッカーを幾度か打ちつける。
しばらく、誰しもが黙って待っていると扉が内側から、ゆっくり開いていった。
興奮のあまりアベルの心臓が動きを速めた。
魔女というと皺クチャの婆さんでも出てきそうだが……。
しかし、意外な者が中から出て来るのを認めた。
出てきたのはメイド服のような装いをした十代の少女だった。
顔は整っているが完全な無表情。
灰茶色の瞳。冷たい陶磁器のような肌。
瞳と同じ色をした髪は短く、ショートカットになっていた。
アベルは首を傾げた。
――この子が魔女アス?
十五歳ぐらいに見えるけれど。
いや、違うだろう……たぶん。
ライカナが少女に問う。
「ここは魔女アス様の邸宅でしょうか」
「はい。そのとおりです」
少女は無機質的な受け答えで、感情を感じさせない声をしていた。
表情も全く変わらない。
「突然の訪問をお許しください。わたしは魔人氏族の学者、リリーナ・ライカナ・ヴィエラという者です。今日は魔女アス様にお会いさせていただきたく参りました」
「……主人は、迷い人ならば食料と案内を提供したのち帰っていただくこととしております。ですが、ここがアスの邸宅だと知って訪ねて来た者は、面会するのが規定でございます。どうぞ、こちらへ」
メイド服の少女は大きな扉を開けると建物の中に導いてくれる。
内部は床、壁ともに白い大理石で造られていた。
天井が際立って高い位置にあり、通常の三倍はとられているので空間が広く感じる。
アベルは一目見て博物館のようだと思った。
なぜなら壁には何かの戦いを現した壮麗なモザイク画があり、あるいは美々しいタペストリーが規則的に並んでいる。
そればかりでなく遺物か財宝と思われる装飾品、剣、書物などが透明なガラスケースの中に納まって、整然と展示されている。
どれもこれも濃厚な来歴を窺わせる品々であるのだけは伝わってきた。
ただし解説文まではないので、それがどうした由来のものであるのかまでは分からない。
アベルは巨大なエメラルドらしき深緑色の宝石が嵌った冠を見つけた。
その隣には竜と戦う人間を描いた巻物がある……。
イースとワルト以外、そうした収蔵品に目を奪われるばかりだ。
しばし、時を忘れて数多の宝物に魅入られてしまう。
イースは周囲を警戒する。
もし罠なら、よく考えられた上等な手だと感じた。
こんなところまで来るのは遺物を目当てにした発掘者などであろう。
長い長い旅の果て、まさに己の欲望そのものと呼べる宝を目にしたら……。
喜びで隙だらけになる。
つまり、不意打ちを仕掛けてくるのなら、今であるが……。
小間使いらしい少女は咎めるでもなく黙って佇み、微動だにせず一行を待っていた。
変化はない。
ライカナが尽きない興味を中断させてメイド服の少女に語り掛ける。
「失礼しました。案内をお願いします」
少女は何事も無かったように奥へと導いていく。
次の部屋に案内される。
部屋は何らかの仕組みで発光する光源があるので充分に明るかった。
その部屋には様々な生物の全身骨格標本が並んでいた。
陸棲の生き物だけでなく、首長竜と思しき巨大な海棲生物の骨まである。
さらには手のひらほどの齧歯類から小鳥、鹿、熊、虎など無数の骨格が、ずらりと静止した状態で飾られていた。
どうやってこんなものを揃えたのかアベルにも分からない。
皆、呆けたように見たこともない生き物の骨を眺める。
次の部屋は動物の剥製と昆虫標本が並んでいる。
獰猛な獅子が敵を吼え威嚇する姿のまま、剥製になっていた。
それから象もいる。
象牙を伸ばし、長い鼻を今にも動かしそうにくねらせていた。
「アベル。なに、あの生き物。わたくし、見たことないわ。顔から手が生えているみたい」
「カチェ様。ほら、象ですよ。あの白い牙が装飾品などの材料になる象牙です。凄く長いのは手ではなくて鼻なのです。あれで物を掴んだりできます」
アベルの説明を聞いたライカナが感心したように言う。
「アベル君、物知りね。象は皇帝国には生息していません。王道国と亜人界、魔獣界にいる生き物です」
美しい極彩色の鸚鵡が数百羽も生きているかのように羽を休めている。
しかし、その全てがやはり剥製であった。
広い壁は数千羽に及ぶ夥しい黒揚羽蝶の標本で埋め尽くされている。
眺めていくと、羽根の模様が微妙に異なっていくのが分かる。
赤い縁取りがあるもの、青い斑点が羽根にある個体……。
突然変異と、その変異が伝播していく様子を標本に纏めたものではないかとアベルは思う。
次の部屋こそは宝物庫と呼ぶにふさわしい、目も眩むような装飾品の収められた部屋だった。
赤や緑に輝く大粒の宝石が嵌り、精緻な文様を刻み込んだ額飾りがある。
首飾り、腕輪、指輪、耳飾り……。
それらが数百種類、何千点と棚や壁に整然と並べられていた。
およそ、この世のすべての宝飾品が残らず揃っているのではと思えるような膨大な量。
この世にこんな場所があったのかと信じられない思いだ。
「はああぁぁぁ……」
という声とも呻きともしれないモーンケの叫び。
煌びやかに輝く宝物に目の色を変えていた。白目が血走っている。
ところがイースなどは圧倒的な美を誇る宝石の連なりをつまらなそうに一瞥くれているだけであったのが、妙に対照的だった。
カチェは編まれた金鎖が流れる滝のようになっている首飾りに息を飲んだ。
それは首飾りであるのだが、首だけでなく肩から胸に至るまでを飾る構造になっている。
いったい、どれほどの価値があるのか想像もつかない……。
ここもじっくり見れば日が暮れるまで堪能できそうな部屋であったが、そうした暇はない。
未練たらたらのモーンケを引っ張って先を進む。
次の部屋には、魔法機工を用いた道具が置いてある。
驚くべきことに、ほとんど人間と見分けがつかない自動人形が内部の機構をさらした状態で展示されていた。
皮膚に相当する体の表層部品が、いくつか外されている。
「うおおっ」
今度はカザルスが絶叫を上げる番であった。
カザルスはその複雑精緻な機構に瞬間、熱中する。
それから展示されている自動人形の顔の造形が案内をする少女に酷似しているのを発見した。
カザルスはメイド少女に近づく。
その無機質な顔を覗き込み、尋ねた。
「キミは、もしかして自動人形か?」
「その通りでございます。名前をフロイアと授けられてございます」
「素晴らしい技術だ! キミを作ったのは誰だい」
「アス様でございます」
様々な質問を連発し始めたカザルスをアベルが諫めた。
詳しいことは後にして今は主の魔女アスに挨拶しないとならない……。
カザルスは我を取り戻し、次の部屋に行く。
「ここが収蔵品を納める最後の室でございます。その次がアス様のお待ちになられている謁見の室となります」
フロイアがそう案内した最後の収蔵部屋には、時計ばかりが集められていた。
その数、優に百を超えている。
水時計、砂時計、それから数百の歯車で構成された機械式時計。
それらが、どれも動き止めることなく機能を発揮して時を刻んでいた。
中には月齢や冬至夏至までも知らせる大掛かりな仕組みの時計もあった。
黄金と銀で作られた円盤、星の位置を示すルビーやサファイアが煌めく大時計である。
アベルは考えてみればこれまで日時計は見たことがあっても、それ以外のものは初めてだと気が付いた。
機械式時計もあるとは聞いていたが、機構が複雑で持ち運びができるようなものでもなく、壊れたら専門技師が修理しなくてはならないためほとんど普及していない。
それがこの部屋に限っては、数百種類と揃っている。
魔女アスという人物は時間に興味があるのだろうか。
――時計……時間と言えば時空間魔術という特殊な魔術もあるんだったな。
魔女アス……。
どんな人だろう?
やがて一行は鍍金が施された大きな両開きの扉の前に到達した。
フロイアという自動人形が両手で押すと、ゆっくり音もなく重厚な扉が解放されていく。
謁見の室……これまでの部屋の中で最も広い。
床には正方形の黒い御影石と白い大理石が規則的に敷き詰められている。
ドーム型の天井には様々な意味を感じさせる幾何学模様が色鮮やかに着色されていた。
謁見室の最も奥。
十段ほどの階段が広く伸び、最上段に玉座と思しき座具があった。
アベルは思わず息を呑む。
その漆黒の石材で作られた玉座にも太陽と月の紋章が刻まれ、王侯貴族でもこれほどの物は所持しないであろうと感じるほど威容があり、犯し難い聖域を感じさせる。
床、壁、天井、そして玉座と完璧な調和がとれていて、何という美しさだろうか。
そこに一人の髪の長い女性が座っていた。
あれこそ魔女アスに違いない。
他にも人影が見える。
近づくと姿がよく確認できた。
それは全身鎧を着込んだ騎士である。
数は四人。
全く微動だにしないので、もしかすると置物かと思ったがアベルたちが謁見室の中ほどまで進むと剣を抜いて、儀礼的に剣を垂直に立てた姿勢で構える。
それからフロイアと同じようなメイド服を着た、おそらく自動人形であろう女性が二人。
いずれも踊り場の隅で直立不動をしている。
アベル達が階段の前に到達すると玉座の女性から声が掛かった。
「そこで止まりなさい。名乗り、ここに来訪した目的を述べよ」
涼やかで高雅な美しい声だった。まるで空から響いてくるような心地よさ。
そのせいなのか命令形の口調だったが、アベルは少しも不快にならない。
アベルは階段の先にいる魔女アスの顔をよく見る。
若い。
せいぜい二十五歳ぐらいの人物。
とても齢千年の人物に見えない……。
顔は女らしいというより、あまりに理想的に整い過ぎているためどこか中性的な雰囲気も感じる。
完全なほど綺麗に通った鼻や、無駄が全くないラインを描いた頬……男とか女とかの分類、性別を超えた美貌。
髪の毛は、色素の薄い金髪。だが、角度によっては白金のようにも輝いた。
直毛ではなく、うねるようなウェーブが豊かに広がっている。
目の色は青いがアベルの群青色の瞳などと比べると、もっと淡く澄んだ青。
明るい空色をしていた。
アベルは少し呆然となる。
こんな人間が世の中にいるのかと思う。
――不思議な人だな……。
ライカナが一歩前に出て、一礼する。
そして、口を開いた。
「わたしは魔人氏族のリリーナ・ライカナ・ヴィエラと申します。貴顕の極み、智慧の輝くこと星彩の如しなる魔女アス様に教えとお力添えを頂きたく推参いたしましたこと、お許しください」
「用向き、聞くだけは聞きましょう。ただし、私に出来ないことを要求されても、叶えることはできません。ですが欲しいものが私に与えられるものであれば、惜しまず与えましょう。そして、どちらの場合でも事が終わり次第、疾く、ここより去りなさい」
「今、人間族の戦争、亜人界の騒乱は激しさを増す一方でございます。この不肖ライカナはこれらの事態を深く憂慮しております。そこで、魔女アス様にお尋ねします。魔女アス様におかれましては、諸種族の混乱を治めるうる賢者英雄に力をお貸し願えないでしょうか。
二つ目の問いは、皇剣を所持保管されているのは他ならぬ魔女アス様でありましょうか。もし、そうであるならば、皇剣を混乱の深まる世界を正しく統治するためにお貸し願えませんか。以上、恐懼の至りではございますが、遥々とこの願いを聞き届けられることを夢見て、辿り着いた次第にてございます」
アベルはライカナの真の願いと旅の目的を知った。
彼女は世界平和のために行動をしていたのだ。
アベルは願いに出てきた皇剣について本で僅かばかり知識を得ていたのを思い出す。
皇剣というのは、ほとんど伝説の存在になっている魔剣の一振りである。
「始皇帝の剣」、あるいは「スメラノツルギ」とも呼ばれる。
大帝国の創始者、始皇帝が己の魔術魔力を注ぎ込んで製作した剣。
それを所持すれば、単に所有者の戦闘力が増すに留まらない。
皇剣には大帝国の正統な後継者が持つ聖具としての意味と価値がある。
例えば王などが持てば、これ以上ない箔付けになるだろう。
魔女アスは沈黙している。
表情には、わずかな変化がある。
アベルはそれを憂いと見た。
誰しもが、何も言えない。
ただ静かに返答を待つしかなかった。
アベルは訳も分からず汗が出てきた。
やがて魔女アスが完璧に整った唇を、ゆっくりと開く。
「リリーナ・ライカナ・ヴィエラよ。お前の志は理解した。しかし、もはや私は人間や諸種族に関わりたくない。私が干渉すれば、結局は数えきれないほどの死者をさらに生むであろう。ゆえに第一の願いは断る。
第二の願い、皇剣についてであるが、それは私の所持するものではない。在り処も知らぬ。よってその願いも叶えてやることはできない。以上だ」
はっきりとした拒絶だけがあった。
アベルはライカナの希望が砕けたのを聞き、同情する。
だが、ライカナは気丈に言葉を重ねる。
「お待ちください、魔女アス様。それでは、せめて大帝国末期から崩壊期に至るまでの詳細な記録を、わたしに授けてはいただけませんか。皇剣の行方、諦めきれませぬ」
「ならば書庫の本を自由に読むとよい。また持ち出すことも許可しよう」
ライカナは一礼して引き下がった。
アベルには、やや押しが弱いとも思われたが、ここで無理な要求を重ねて機嫌を損ねれば失うものが大きすぎると判断したのかもしれない。
「さて、他に願いのある者はいるか」
意外なことに手を挙げたのはワルトだった。
「お前は狼人だな。中でも真狼族の者とみた。願いは何か」
「ご主人様の目を治して欲しいだっち」
アベルは思わぬ言葉に驚く。
今までそのことを考えもしなかった。
それをワルトに気づかされて二重に驚く。
部分欠損した肉体は、最高階梯の治癒魔術師でなければ回復することはできない。
そうした高位の魔術師は滅多にいるものではなく、国や魔術門閥が奥深くに隠しているか、あるいは余計な事態に巻き込まれないために本人が能力を秘しているらしい。
よほどの幸運がないかぎり受けられない再生治癒魔術だが、魔女アスなら行使できるかもしれない。
魔女アスの視線がアベルに注がれる。
「……私は誰でも治すわけではない。その眼帯の少年が治癒に値しない者であるならば、願いを聞き届けることはできない。少年よ。階を登り、こちらへ参れ」
アベルは促されるまま魔女アスへと進む。
十段ほど高くなっている壮麗な玉座へ登って行った。
登り切った場所、見たことも無いほど見事な装飾の施された座所に魔女アスが腰を沈めている。
改めて至近距離から見ると魔女アスは白い薄絹の長衣を纏っていた。
薄い布から浮き上がってくるシミ一つない滑らかな肌は、なんと艶やかだろうか。
アスの肉体。
髪の毛一本から指先に至るまで、何もかもが美しかった。
想像するまでもなく激しい魅力を感じさせ、よく見ればうっすらと淡く乳首の色形までもが見えてしまっている。
手が届くほど近づくと、より一層、魔女アスの不思議な気配が伝わってくる。
圧倒的な存在を前に、痺れるような感覚になったアベルは眼帯を外す。
左眼球が無くなっているので、眼窩は落ち窪んでいた。
「そこに跪くとよい」
アベルは言われるままに従う。
これで治れば……まさに思いがけない幸運。
魔女アスの足元に片膝をついた。
黙って処置を待つ。
アスの空色をした、澄んでいても底が見えない湧泉のような瞳と視線が交差する。
「少年……。無事な方の瞳を見る限り正気とは思えないほど業の深い人生を送ってきたようだな。私は失われた目を治すとは言ったが……お前が見るにも堪えない下賤ならば、このまま殺すこともある」
「えっ!」
――しまった、罠だ!
アベルは驚いて身を翻そうとしたが、もう魔女アスの掌が額を掴んでいた。
万力にでも締められたような拘束。
外れない。
逃げられない。
その瞬間、アベルの頭の奥で、光が爆発した。
どろどろと土砂崩れのように記憶が噴き出してくる。
僅かも抗することができない……。
王道国との戦争。
死体の山。
厳めしいハイワンド城。
カチェとの訓練。
賊退治。
イース。
いつも共に寝て、食べて、移動した。
始めは少しも信用していなかったのに、いつしかイースを深く慕っていた。
恬淡としていて感情の起伏は少なく、怒りもせず、憎みもせず、妬まない。
そんなイースに例えようも無い清らかさを感じていた。
それからウォルター、アイラが現れる。
ウォルターの大らかな態度。
要所で自分を的確に指導してくれた、尊敬に値する男。
アイラの優しい匂い、柔らかな笑顔。
家族。
幼い頃、シャーレと遊んだ日々。
故郷テナナの四季と自然。
野に咲き乱れる花々。
子供らしからぬ警戒に満ち満ちた心。
用心深く、誰も信用できない。
いつも疑っていた。
信じるということは裏切られるということ。
こんな毎日は簡単に終わりが来ると思っていた。
欲しいものがある。
だが、それが何か分からない。
破れて、飢えた、畜生の視線。
殺伐とした、罅割れた心。
もう二度と元には戻らない。
血を吐いていた。
食道と胃が焼けるように痛む。
家族がいない。
だから誰にも助けられることがない。
からからに荒れ切った人生。
くだらない仕事。
くだらない人間ども。
ただただ黙って働くしかない自分。
刑務所。
クズ人間のゴミ箱にいた自分。
最低の存在。
己のどこにも自慢できるところなんかない。
自ら、いっそ笑えるほどの、何も持たざる者。
地獄の記憶。
あの小男。
卑屈で、陰険で、そして弱い者に暴力を振うことしかできなかった人の形をした糞の塊。
ずっと殴られ、蹴られ、罵られてきた。
いつもいつも死ねと思っていた。
とうとう一回だけ反撃したら、あっさり死にやがった。
殺しても、殺したりない。
何度でも殺してやりたかった父親。
そうだ。俺は、父親殺し。
許されない罪を犯した男。
それでも飽き足りない、飢えた畜生。
光の爆発が止んだ。
アベルの意識が戻る。
目の焦点が合う。
魔女アスと視線が合った。
表情が一変していた。
驚愕と困惑で、完璧に整っていた顔貌が歪めく。
「おっ……おお! お前……。このアスが……」
魔女アスが眩暈でも感じたのか、額を手で抑える。
それから再び面を上げると、そこには同一人物のはずなのに先ほどまでとは別人のような顔付きをした魔女アスがいた。
淫蕩に微笑む女だ。
小声でアベルの耳元に囁く。
「貴方。異世界人なのですね」
アベルの背筋が凍る。
冷や汗が、どっと出てきた。
喉に物が詰まったようだった。声一つ出ない。
全身が硬直していた。
「今、貴方の記憶を断片的に見ました。天に聳える建築物。数百万の人間が暮らす、文化文明が爛熟を超して退廃にまで至った都市の群れ」
「うっ……」
「そして貴方は大罪を犯しました。肉親殺し。父親を殺めた」
「ひっ……!」
力を失い、腰を抜かした。
自分の秘密。
この世界の誰にも知られたくない事実が呆気なく全てバレた。
恐ろしい。
恐怖そのもの。
硬直した体、しかし、ぐらついて腰の部分から崩れる。
倒れそうになる上体を魔女アスが支えた。
続けて耳元で囁く。
「大丈夫です。貴方が隠したいのなら、私は黙っていてあげます」
「な、なにが目的だ? 俺、何も出来ないぞ……」
魔女アスは端正な唇を歪める。
淫靡な、底なし沼のように底意を読み切れない笑み。
「ふふっ。一つ教えてあげます。私も、異世界から来たものです」
あまりの驚愕でアベルは反応できなかった。
この魔女と呼ばれる女も同じ異世界からの転生者……?
「さて。潰れた眼球を再生させたいのですね。片目ではさぞかし不便なことでしょう。治してさしあげますから、着いてきてください」
魔女アスは長く繊細な指でアベルの頬を優しく撫でる。
玉座を立ったアスに促されるまま、操り人形のように従うことしか出来なかった。
魔女アスは階段下のイースたちに宣言する。
「この者の目を癒します。しかし、ここでは出来ませぬゆえに、しばし、そなたらはそこで待つがいいでしょう」
残った者たちにそう言うやアベルを伴い、威容を誇る玉座の背後側へと歩んでいく。
裏に別室があった。
装飾品のない、簡素な部屋。
バルコニーがあって、ちょうどレザリア山脈に沈む夕日が見えた。
部屋の中は、本来ある大理石の白さに夕陽の赤が加わって、紅に染まっているようにアベルには感じられる。
壁や床と同じ素材で造られた、長椅子とも寝台とも似ている場にアベルは座るよう促された。
だが、我慢できず慌てて聞く。
「あ、あの。異世界から来たって言いましたよね。俺の世界から来たのですか?」
「いいえ。もっと別のところです」
「そうか。他にも居たなんて」
「それは私の言葉……。さて、少年。お名前を聞いていませんでした。教えてくださいな」
「俺は……」
アベルの核にいる男は一瞬、迷う。
アベルと名乗るべきか、前世の名を語るべきか。
「俺……いや、僕はアベル。アベル・レイ」
「アベルですね。じゃあ特別、念の入ったおめめをアベルに授けてあげます」
魔女アスは左の小指を右手で摘まむと、粘土でも弄るように蠢かす。
それだけの仕草であるのに、なにか淫らな気配の漂う指の動きだった。
そうこうしていると魔女アスの小指が変形して、団子のような塊になった。
それは見る見るうちに、半透明のゼリーになり、すぐに白い眼球となった。
魔女アスは右手の親指と人差し指で、一つの眼球を摘まんでいる。
だが、その代わりに左手の小指は根元から消失していた。
「さぁ、痛くないから顔を動かさないで」
――自分の体から眼球を作りだした?
そんなもの俺の体に入れていいのか……?
いくつもの疑問が浮かぶが、すっかり頭は小指のないアスの左手でがっちりと強固に押えられていたので、動かさないでと言われた以前に、すでに動けない。
左の眼窩に球体が押し込められる。
目の奥から脳髄にかけて、えも言われぬ強烈な快感が広がる。
これまで感じたことのない、掻痒感と射精感がグチャグチャに混じったような……。
「ふあぁあぁ……」
思わず声を漏らす。
直後、視界が倍になった。
曇りないクリアな焦点。
左の眼球が己の意志の通り自由に動いた。
魔女アスの濡れたような淡い空色の瞳に、自分の顔が映っている様子すら見える。
「うぁ! すげぇ……見えるようになった」
「当たり前でしょう」
「でも、変な機能をつけてないでしょうね? 怪光線が飛び出るような」
「あら、そういうのが良かったのですか。普通の方が良いと思っていました。やりなおしましょう」
「わっ、嘘です嘘。冗談」
「私も戯言です。そんなもの出るようには作れない。それともアベルが元いた世界ではそういうことができたのかしら」
「どうでしょうね。多分むり……。あのアスさん。そのぅ、貴方の長くて綺麗な指ですけれど、小指がなくなってしまいました。この眼球のせいで?」
「はい。そういうことですけれど気にはしなくてもいいです。別に大した問題ではないですから」
「そ、そうかなぁ……」
アスは白金色にも見える金髪を嫋やかに揺らし、少し砕けた姿勢を取る。
すると長衣の開いた襟から胸の谷間が現れた。
かなり薄い素材なので、桃色をした乳首の色や形までもがうっすらと浮き出ている。
アベルは注視したい気持ちを抑えて目を逸らせる。
アスは魅惑的な笑みを浮かべていた。
恐ろしくもなる。
何もかもお見通し……アスからはそんな気配がしていた。
「ところで、眼球の再生は狼人の願いでしたね。アベルは他に欲しいものがあるのでしょう。今度はそれを叶えてあげる。さぁ、私に言ってみなさい」
「……」
途方に暮れた。
欲しいもの……。
あること確かだが、誰かに与えられるものではない気がする。
それだけは確信があった。
アベルは首を振る。
「いや。僕はこの目だけで十分です。アスさん。ありがとう」
「遠慮はいらないのですよ。欲するままに行う。それこそ人間の喜び、自然なことなのです」
「……」
「おや、なにか警戒しているのですか。用心深いですねえ……、もっと自信を持ってください。アベルの前世の知識と私の協力があれば、貴方は王にもなれる。それも、ただの王ではありません。王道国、皇帝国、亜人界を統べる……偉大なる覇王。
始皇帝の再来ね」
アベルは開いた口が塞がらない。
「な、なに言っているんだ、あんた。俺はそんなものにはなりたくない……」
「どうして? 王になれば全て思うがままよ。抱きたい女がいれば抱ける。壊したいものがあれば壊せる。作りたいものがあれば作れる。こんなに楽しいことはない」
「それなら俺じゃなくてライカナさんを助けてやってくれよ。きっとあの人なら世の中をいいように持っていく」
「ふふ。甘いわねぇ。どんな英雄豪傑も、それは無残に悲惨に死んでいくものよ。美しい願いも理想も、砕け散る。散々そんなものに加担させられて、私は疲れてしまっているのよ」
「それで協力してやらないのか。じゃあ、俺は何だよ」
「アベルは別。異世界人なんて滅多にいるものではありません。貴方が何を願い、何を成すのか、私はとても興味があります。それから、貴方が元々いた世界。私は全く知らないわけではありません」
「え。そりゃどういうことだ」
アスはうっすら笑って答える。
「波という概念があるでしょう。波動とか電波という言い方もあるのかしら。宇宙にもそういうものがあって、百年に一度ぐらい、貴方の世界の波動がこちらまで伝わることがあるのですよ。だから、そのとき朧げながらですが、あっちの世界の像を観測したことがあります」
「そんなことができるのか……」
「私は貴方の世界に行ってみたいと思うことがありました。しかし、とうてい叶わぬ夢と諦めてもいたのですが、面白いことになりました」
「言っておくけれど、あんたの言いなりにはならないぞ」
「そんなことは要求しないわ。貴方は貴方の欲望を叶えるため、足掻き悶えることでしょう。そこで私が力を貸してあげます……。とりあえず、皇帝国に帰りたいのですね。そして、こっちの世界の父と母に会いたい」
「そこまで分かっているのか。そりゃそうか。人の頭んなかをノゾいたわけだからな」
「私の飛竜で砂漠を越えたところまで送ってあげます。その先の亜人界はいずれも縄張りがあって、竜を飛ばすと面倒なことになるから行けませんけれど」
「そりゃ助かる! 砂漠なんてどうなることかと思っていた」
「私もさっそく貴方の望みを叶えることができて嬉しいわ。
ねぇ……いいこと、アベル。私は貴方の運命の女。これからも力になってあげる」
そう言って笑う魔女アスには、底なし沼のような淫らさと色気があった。
男なら誰しも食指を刺激される、蠱惑的な気配。
思わず引き摺りこまれそうになる。
アベルは慌てて席を立った。
「せっかくだけれど僕の願いはこれっきり。残りの人達の声を聞いてあげて……」
隣の玉座の間に戻り仲間たちと合流する。
カチェが急いだ様子でアベルの群青色をした瞳を覗きこんだ。
澄んだ紫水晶のようなカチェの瞳が近づく。
「凄い! アベル、見えているの!?」
「はい。カチェ様。治りました……」
だが、アスの体の一部から作られた眼球であるというような説明はできなかった。
それを喋ると前世の記憶など諸々まで語ってしまいそうだ。
「よかったぁ!」
何も知らないカチェは大喜びだ。
イースも微笑んでいる。
魔女アスが玉座で足を組み、願い事をされるのを待っていた。
そこでモーンケが大声で言う。
「次は俺だ。俺は金が欲しい。余計なこと、できもしない願いは持たない主義だ。現実的だろ」
「ふふっ。それでは収蔵の間にあった物の中ならどれでも一つだけ貴方にあげます。ただし、それ以上を手にしたなら、盗賊と見なして処分しますから」
「一番に価値があるのは、どれだ?」
「価値など人間が勝手に作った幻ですよ。収蔵庫にあるいずれの物も、欲しいと思う者に提示すれば、いくらでも金貨を積むことでしょう。逆に興味のない者に渡しても銅貨一枚の価値も見出さぬことでしょう。そこまで私は面倒を見ません。次の者、願いを」
今度はロペスだった。
「俺はロペス・ハイワンド。俺は強くなりたい」
「強くと言っても心や体などがあります。どう強くなりたいのですか」
「岩を砕き、鉄すら切り裂く力。一人で一軍を屠るような剛腕」
「それは私に叶えることはできません。この魔女アスは魔法使いゆえに、魔法でしたらいくらか教えてやれるものですが、武道の方は領域外です」
「そうか。ならば他に望むことはないな」
「……護衛の騎士人形と模擬戦をさせてあげます。なにか学ぶところがあるでしょう。では次の方」
手を挙げたのはカザルスだった。
「ボクは魔道具の製作に人生を賭けている学徒であります。名前はカザルス・ラーロ。飛行魔道具については一段落したので、今は自動人形に興味があります。この屋敷にいる自動人形の仕組みを教えてください」
「ならば、ゲルダかフロイアの構造を直接見るといいでしょう。壊さない限り、お好きに。次の者」
ゲルダというのは隅の方に控えている長身の女性自動人形のことらしい。
今度はガトゥだった。
「おれぁ、ガトゥ。望むのは女」
「一夜限りの女ですか。それとも生涯の伴侶ですか」
「一夜限りですな」
「それもゲルダとフロイアに任せます。そういうこともできるようになっているゆえ。生身の女に劣ることの無い甘美な体を楽しんでください。今夜、ガトゥ殿の寝所に行かせます。次は」
イースは黙っていたが、カチェは手を挙げた。
「魔女アス様。カチェ・ハイワンドと申します。わたくしたちは皇帝国に一刻も早く戻りたいのです。お力添えを願えますか」
「その願いはアベルと既に交わしています。飛竜を使って砂漠を飛び越えるのです。他の望みを言ってください」
「……。では、わたくしたちを客としてお認めになってください。それ以上は望みません」
「謙虚な方ですね。分かりました。最大限、貴方たちを客としてもてなします。最後は魔人氏族の……混血のようですが、そちらの黒髪の女性になりますか。願いをどうぞ」
「私には人に叶えてもらう望みがない」
「では、願いはなしですね」
イースは自分の内面を探る。
願いはあるが、他者の助けはいらない。
むしろ有害ですらある。自分自身で追及することに意味がある。
では、他に望みはないのか……。
やはりアベルのことに尽きる。
時として、いとも容易く命を投げ出してしまう態度。
強くなってほしいという気持ちと、安全なところにいてほしいという矛盾。
「そうだ。願いはない。しかし、強いて言うならアベルの体。これからも酷く傷ついたのなら治してあげてほしいなどと考えている。そんな都合のいいことはあり得ないと分かってはいるのだが」
「……心得ました。では、会見はこれにて終いです。今夜は細やかな歓迎の宴を用意します。それまでこの館を好きに歩くことを許します。見物を望まない方は客間で休んでください。風呂の支度もさせます。ロペス殿は騎士人形と庭で手合せするといい。それでは、のちほど」
おのおの、ばらけることになった。
ライカナは書庫へ。
カザルスはさっそくフロイアの服を脱がして、さらに表層部品を剥すと、内部の機構に見入りだした。
カザルスの、やや細めの瞳が好奇心でぎらぎらと輝いていた。
その様子を見たカチェが眉を顰めている。
これで好感度は激落だとアベルは思ったが、いちいちご忠告するような話しでもなかった……。
ロペスは動き出した騎士人形に促されて庭へ行く。
モーンケは慌てて収蔵庫へ早歩き。
どの宝物にしようか、じっくり選ぶつもりらしい。
おおかたデッカイ宝石の嵌った冠でも選ぶことだろうとアベルは想像する。
アベルは、あまりのことで疲れ切ってしまい、ゲルダという名の自動人形に案内された客間の椅子に座って沈黙してしまった。
カチェとイースも客間で静かに休んでいる。
ゲルダは上品な白磁の喫茶道具でお茶を煎れてくれた。
ワルトとガトゥは茶を飲んでゆっくりするような趣味はないので散歩というか見物に行ってしまった。
アベルは目を治してくれた魔女アスに感謝する一方で、どうにも奇妙な印象が拭えない。
女神と見紛う美しさであったのに、次の瞬間には淫蕩な雰囲気を纏っていた。
万華鏡のように印象が変化していく……。
――不思議な女。
運命の女……。
いつしか赤い夕陽は沈み、夜がやって来た。
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