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獣の見た夢  作者: MAKI


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夢は死の影

 






 必ずイズファヤート王を殺す。

 その手下どもを皆殺しにする。

 憎悪を糧にして力が湧き出てくる。


 アベルは深呼吸をした。

 破裂しそうなほどの逆上を静めるため。


 脳裏に響く声。

 怨念と怒りの塊。

 意味不明な内なる唸りはやがて女の声に変化していく。

 天上から響いてくるような心地よいアスの声。


 欲望を叶えなさい。

 望むまま、ありとあらゆる快楽を味わう力が貴方にはある。

 神をも恐れず飢えて求めるのが貴方の本性。

 逆らう者など焔で焼き尽くせばいい。

 全てが手に入る。


 おのれ自身の声も重なっていく。

 邪魔者は消せ。

 誰も彼も殺せる。

 全てを手に入れろ。


 だが、最も大事なこと。

 どうすれば心から満足できるのか。

 何を手に入れたら飢えが癒されるのか。

 明瞭な答えが見つからない。


 ただ、はっきりしているのはガイアケロンとぴったり一致した憎悪と殺意。

 自分とそっくりだった。

 巨大な欲望。

 同じ敵。

 同じ渇き。


 だが、敵はあまりにも数が多すぎ、また強すぎる。

 イズファヤート王を殺さなければ満たされないかもしれない……。


 どうせ破滅するなら、そのあとだ。

 今はまだ、その時ではない。

 アベルは息をゆっくり吐いた。


 これからどう振舞うか……。

 ヒエラルクにしてみれば都合の良い、いつ死んでもいい鍛錬相手が見つかっただけ。

 共に剣の精妙を……などとは言っていたがあまりに期待外れだと、生かしておく理由も無くなるわけだ。

 奴隷一匹。虫けらに等しい。

 弟子たちの遊び相手。

 ふざけた話だった。

 ヒエラルクが声を掛けてきた。


「アベル。刃を潰した鉄刀では不満か。お前の考えを聞かせい」

「例えば……長物、槍には多くの利点がありますが、反面、狭い地形や草木の生い茂った野では使いにくいことがあります。騎乗の際には便利ですが」

「その通り。金棒やハルバードなど様々な武具があるが、中でも刀剣は最も使いやすく、また体から離さず護身用にできる。貴人が寝所や書斎に槍を持って入るなど難儀というもの。刀剣のみを尊ぶのは愚かなれども刀すら使えぬ者に武人としての道は開けぬ」

「王族に剣を教えるような立場になれば出世も出来ます」


 ヒエラルクは薄い口唇を釣り上げた。

 まるで血まみれの悪魔が笑っているみたいだ。

 

 アベルは以前、ヒエラルクの陣中における態度を垣間見てきた。

 禁欲的な人間とは正反対だったはずだ。

 歓待されれば酒も飲んだし女も抱いた。

 傲慢ではあったが、それは己の技術に絶対の自信があるからだ。

 闘いを愛してはいるが、それだけで満足する男ではないはず。

 もっと大きな傲岸不遜と呼んでも足りない、極まった野心があるに違いない。


「立身出世。そうだ。私には夢がある。それは世界で最も優れた流派を打ち立て、ヒエラルク・ヘイカトンの名を永遠不滅にすることだ。そのためにイズファヤート大王様のもとで並ぶ者のない強き人間であらねばならない。また従卒どもは比類ないほど精強でなければならない」


 アベルは頷く。

 首筋に鳥肌が立った。

 ヒエラルクの視線、熱狂と冷徹の入り混じった本気の眼つき。

 世界で最も強い人間となって歴史に名を遺す……。

 普通なら誇大妄想と鼻で笑えるところだが、あのイズファヤート王に認められて今の地位を築いた男の言葉には奇妙な信憑性があった。


「さて、奴隷アベルよ。ここにいる私の弟子らは誰もがそこそこは使えるのだが、それではまるで足りぬ。頭ひとつ抜け出してほしいのが私の願いだ。

 そのためには……命を捨てねばの。鍛錬だから自分を大事に、などという弱い心を消さねばならぬ。そのためにお前が必要だ」


 アベルは鉄刀を握りなおした。

 木刀ですら充分に危険な得物だ。

 それなのにこんな道具を使うのは修羅場でも折れない胆力を練るため。


 実戦において普段の実力の半分も出せない者は珍しくない。

 怯えから体が前に出ない、あるいは逆に興奮のあまり支離滅裂な行動をして呆気なく命を落とす。

 よくあることであった。


 アベルはそれとなく場を眺める。

 石造りの大広間に三十人ぐらいの人間がいる。

 女は一人もいない。

 獲物を追い詰めた野獣のごとき顔をした連中。

 師であるヒエラルクに認められる機会に飢えている。


 おそらく高名な剣豪であるヒエラルクに仕えたいという希望者などいくらでもいるはず。

 同僚、先行者、後輩、有象無象の中で埋もれたくない。

 どうにかして抜け出し、名を高め、人に認められ地位を高めたい、強くなりたい。

 そういう欲望が渦を巻いていた。

 これからそこへ、身一つで放り出される。


「プラジュ。まずはお前が奴隷アベルと立ち会ってみろ」


 名前を呼ばれた男が出てくる。

 二十歳ぐらいの、かなり俊敏そうな男だ。

 豹のように精悍な顔、戦闘意欲が漲っている。

 歩き方にも実力が滲み出ていた。

 摺り足で、素早い。


 準備運動をしている。

 気力が充溢していて身のこなしが柔らかい。

 わざわざヒエラルクが最初に呼んだのであれば、並大抵の使い手を超えているに違いなかった。


「アベル。お前はいくつか魔術が使えたかな」

「少しです。炎弾程度のものです」


 ヒエラルクは軍目付けとして常に王族の傍にいた。

 百人頭に過ぎないアベルの仔細に関しては軍団にあっても知りはしなかった。

 隠せるものなら、いくらでも嘘はついた方がいい。


「言うまでもないが魔術は使うな。別に身体を守るためではない。王宮でむやみに魔術を使うことは禁止されておる。禁を犯せば処刑だ。

 その代わり剣でなら眼だろうと首だろうと好きに攻撃しろ。そこで死んでいる奴隷のように私の弟子とて殺しても構わない。そうでないと鍛錬にならんのだ。

 もっとも、武運尽きれば殺されるのはお前のほうだが」


 アベルは頷く。

 鳩尾のあたりが押されるような重圧感。

 魔術なしの不利な条件で、殺し合いに限りなく近い状況。

 鉄刀などで打たれたら骨など容易に折れてしまう。

 壊れた玩具は……。ばらばらにされる。

 やるしかない。

 どいつもこいつも、ぶちのめして黙らせる。

 それだけだ。


 ヒエラルクが手で試合開始の合図を出した。

 プラジュの手にも鉄刀が握られていた。

 それを脇構えにしている。

 アベルを気迫で制しようと睨みつつ間合いを図り、摺り足でじっくりと接近してきた。

 もうそれだけで恐るべき手練れであるのが分かる。

 挙動に無駄がなく、かつ「起こり」が見えない。


 およそあらゆる武術は攻撃に移る際に現れる「起こり」を相手に悟られるのを良しとしない。

 起こり、すなわち手筋を読まれてしまえば、みずからの行動が致死に直結する。


 アベルはこの獰猛な敵に奇手で応じることにした。

 上段、脇構え、下段というような常識的な構えをやめる。

 膝を折り、腰を低くして刀を可能な限り地に這わすように寝かせた。

 夢幻流にある(おど)し技「蜘蛛」であった。


 経験のない異様ともいえる姿勢を取られると玄人ほど、どこを攻撃すれば良いのか困惑する。

 また、剣の位置が低いため迂闊に近づけば足を払われる危険を考えずにはいられない。


 こうしたあまりにも変則的な構えは戦場では普通やらない。

 なぜなら一対一でなければ充分な効果を発揮しないからだ。

 いわば外道邪剣の類いなのだが、ここはヒエラルクたちを騙す必要があった。

 威し技とは、こうした場面で使うことに特化した技法でもある。

 ヨルグから与えられた奥義書に簡単な図と文字だけで説明されていたが、密かに鍛錬を続けていた。上手く使えば恐ろしい効果を発揮するはずだ。


 アベルは待ちに徹する。

 まるで地面に座る直前の姿勢。

 辺りは静まり返っていた。

 しばらくプラジュという男は冷静に努めていたが……。


 機が来た。

 ついに隠しようもなく怒りと苛立ちが湧き出た。

 アベルはある種の舞踏か曲芸のごとく、膝だけを使って前進。

 プラジュは足元を払われると警戒して剣先を下段に落とした瞬間。

 気勢を制して、一気に跳躍。

 鉄刀は振りかぶらないで、そのまま突いた。

 プラジュは反射神経で身を捻ったが、狙いはもともと頭ではなく胸だった。

 防具の無い肉体を、刃が潰してあるとはいえ鋭い鉄が容赦なく襲う。


 嫌な音。

 手ごたえがある。

 胸骨が折れた筈だった。

 プラジュは倒れずに、強引に体幹を維持すると腕力で刀をすくい上げてきた。

 その刀を片手斬りで打ち落とすと、アベルは体当たり。

 骨の折れているプラジュは激痛でよろめき、膝を付いた。

 それでも闘志を失っていない。

 立ち上がる。


「もう勝負はついたはずだが」

「まだだ! もう一つやるぞ!」


 ヒエラルクが声を掛ける。


「プラジュ。やめろ。お前では勝てない」


 アベルは目の前の手負いの男が、両眼から凄まじい殺気を出しているので構えを解けない。

 わずかでも隙を見せれば命を捨てて襲い掛かってくるに違いなかった。

 ヒエラルクの審判など関係ない。殺されて終わりだ。

 そんなプラジュの前にゆっくりと出てきた別の男がいる。


「師が止めよと言ったのが聞こえなかったのか。早く手当てをしろ」

「兄者……」


 プラジュは苦し気に呻いたが、最後にアベルを猛烈に睨んだ後、引き下がった。

 代わりに出てきたのは、兄者と呼ばれていたのだから兄弟だろう。


「弟が失礼した」

「本当だな。止めるのが少し遅ければ脳天かち割って殺していたぞ。お前の弟は間違いなくウスノロだった。蠅みたいだ」


 四方八方から雪崩のように怒気が襲って来た。

 試合を見物していた者たちが挑発に反応した。

 アベルの背筋が震える。

 わざと怒らせたのだから当然だった。


「ヒエラルク様。俺に次の相手をさせてください。未熟なれど弟が蠅では兄の俺は蜻蛉となります」

「蜻蛉? 蠅は糞に集るんだよ。でっかい糞兄貴殿」


 名前も知らない男が、青筋を額に浮かべて睨んできた。

 瞳に尋常ではない怒り。こいつをどうやって殺してやろうかという視線。

 本気で殺しに来る。

 それがよく理解できた。

 ところが何を考えているのか上機嫌のヒエラルク。


「ザルーファ。いいだろう。奴隷アベルと戦ってみよ」


 歌うように許可をした。

 さっそくザルーファは鉄刀を中段、正眼の構えに取る。

 早く叩き潰して命乞いをさせたい。

 そのまま頭を斬り落としたい。

 そんな心の声が聞こえてきそうだ。


 先ほどと同じようにアベルは奇手、異様な体落とし、下段どころか地を這うような剣の構え。

 だが、これは罠だ。

 こうした一対一でしか通用しないような外道技は、行き過ぎた嵌め手である。

 ある一定の実力を持った者なら流れを見届けた上で攻略法を繰り出してくる。


 つまりアベルを馬鹿の一つ覚え。単なる癖技の使い手として認識しているはずだ。

 思い込み。

 そして冷静な計算を失わせる怒り。

 ここに付け入る隙が出来上がる。


 相対。

 アベルは腹を据えて殺意を受け止める。

 ザルーファを罠に嵌めるため、わざと同じ動きを繰り返した。

 体を沈めた姿勢。アベルは膝だけで進み、跳躍と見せかける。

 間合い寸前で突然「蜘蛛」の構えを捨てた。

 立ち上がり同時に上段の構え。


 アベルにとって至高の上段はイースのそれだった。

 美しく、かつ完全な攻撃姿勢。

 あれほどの型はどんな戦場でもお目にかかったことがない。


 これはザルーファにとっては予測していない動き。

 狙いを外されて挙動に乱れが出た。


 アベルは想像する。ザルーファの対策。

 先ほどと同じように低姿勢から跳躍して突きか斬撃を仕掛けてくると考えていたに違いない。

 そこで自分自身は直上に飛び上がって距離を取り、アベルのさらに上から反撃する、そういう策だったはず。

 それが全く違う状況に嵌められた。


 アベルは上段のまま間合いを越える。

 反射的に繰り出されたザルーファの斬撃。

 速いがそれだけだった。見抜ける。

 切っ先を接触させ、いなしてアベルは鉄刀を巻き上げた。

 がら空きの胴。

 駆け抜けざま、ザルーファの脇腹を刀で横薙ぎ。

 重たい手ごたえ。


 だが、ザルーファは体を捻りながらアベルの背中へ必死の斬撃。

 鉄刀で慌てて防いだ。

 重たく伸びてくる一撃。

 どうにかやりすごした。

 ぞっとして冷や汗が出る。


 ザルーファは腹を押さえて、片膝を付いていた。

 じわじわと麻の服に血が広がる。

 アベルの強烈な一撃は服と肉を裂いていた。

 敵意、怒りの視線をアベルに投げ掛けてくるものの、体が動かないようだ。

 ヒエラルクの審判が下る。


「そこまで。手当をしろ」


 アベルは荒い息を繰り返す。

 ぎりぎりの攻防。

 背筋が粟立つ。

 プラジュ、ザルーファの兄弟は共に恐るべき使い手だった。

 ほんの少し間違えれば、骨を折られるほどの斬撃を食らっていたのは自分だ。

 そうなれば終わり。

 なぶり殺しにされる。

 天井の高い訓練場は騒めく。


「次は俺に!」

「師匠、わたしに!」


 そんな絶叫のような声が方々から上がっている。

 どいつもこいつも眼を爛々と輝かせていた。

 この獲物を誰が仕留めるか……競争になってきた。


 弟子たちは動作に隙が無く、見るからに剽悍な者しかいない。

 一人一人が飽くなき日々、鍛錬だけを積み重ね、何らかの技を持っている。

 命懸けの戦い。しかも連続だ……。


 

 アベルは闘志を激しく燃やしたが、しかし、次の相手は拍子抜けするほど大したことが無かった。

 打ち合い、転変させた下段斬りがすんなりと決まる。

 腹に痛撃を受けた相手は倒れて、のた打ち回る。


 次から次へと出てくる男たち。

 やはりアベルはすんなり勝ててしまった。

 敵の頬を鉄刀で叩き、あるいは突きで肉を裂く。

 まるで相手の動きが、ゆっくりと、這うように見える瞬間がある。

 それは瞬きほどの時間なのに、止まっているように見えるのであった。


 一人、また一人と敵を潰していった。

 恐怖と興奮の繰り返し。

 時間の感覚が吹っ飛んでいく。


 鍛錬所の隅には奴隷の死体がまだ放置されていた。

 腹から赤黒い腸がはみ出している。


 アベルを突き動かす欲望。

 まだ死にたくない。

 まだまだ満足できない。

 せめてヒエラルクに一太刀浴びせたい……。


 そのヒエラルクは弟子たちの名を呼び続けている。

 よほど楽しいのか満面の笑み。

 シェバと呼び、ボアズと呼び、ラケルと呼び、ルツと呼び……。


 そして、どいつもこいつも叩き伏せた。

 悪あがきした者は容赦なく足蹴りを食らわせる。

 飛び散る血潮。

 床には元からどす黒い血痕があったが、そこにさらに新しい血が加わる。


 やがて連続する戦いでアベルも浅く攻撃を食らいだした。

 腕から血が垂れていた。

 それから額からも出血。

 汗と共に手で拭うと指先が血液で赤くなる。


 ヒエラルクはここにいる全員と戦わせるつもりなのか、さらに名前を呼ぶ。

 アベルの呼吸は、いよいよ荒く乱れていた。

 肩というか上半身全てが呼吸のために激しく律動する。

 心臓は破裂しそうだった。

 破裂するとしても戦わないとならない。

 動くのを止めれば、それが死ぬ時だ。

 イズファヤート王どころか手駒に過ぎないヒエラルクにすら届かない。


 冗談じゃねえぞ、と呟いて、また出てきた男にいきなり襲い掛かって脳天に鉄刀をぶちこむ。

 もしかしたら殺してしまったかも、というぐらいの覚めた一撃。

 崩れるように男が伏して動かなくなる。


 だが、この場にいる誰も生死など気にしない。

 下級の従卒が失神した男を引きずって端の方に移動させた。

 一応、医師がいるらしく手当をしている。

 別に死んでも構わないと思った。

 ヒエラルク自身が殺しても構わないと約していた。

 なにより弟子たちは誰も手加減などしてこなかった。

 アベルを殺そうと凄まじい斬撃を仕掛けてくる。

 それはたとえ刃が潰してあるとしても、死に至る攻撃だ。

 朦朧としつつある意識で感じる。


――やっぱり殺す気なんだな。


 もう何度目か分からないが、再びヒエラルクが弟子の名を呼んだ。

 相手が出てくる前にアベルは肋骨を折られて床で呻いている弟子を、わざと蹴り上げた。もちろん折れている部位だ。

 鼓膜を打つ酷い悲鳴。

 それからさらに鉄刀でぶっ叩く。

 肉が爆ぜて血が噴いた。

 威嚇だ。

 敵の動揺を誘う。

 もはやこれは稽古ではなかった。

 殺し合いだ。

 殺し合いでは何をしても、どんな卑怯なことをしても許される。


 案の定だった。

 相手の顔面は蒼白になり、眼が泳いでいる。

 鍛錬を積んでいたとしても、たとえ実戦で殺人の経験があったとしても人間、怖いものは怖いのである。


 脳は理屈ではなく本能に支配される。

 逃げたくなる。

 だが、理性は逃走を否定する。

 その本能と計算の狭間、矛盾する異常な環境に精神は揺らぐ。

 すると身体の動きにそれが直結される。

 足は動かなくなり、腕はぎこちなくなる。


 アベルが襲い掛かろうと一気に前へ出ようとした時。

 ふとヒエラルクが動いた。

 抜き打ち……だったのだろうか。

 アベルの眼にもはっきりとは捉えられなかった。

 光が一瞬、明滅した。


 ぼとりと床に落ちた。

 腕だ。

 怯えて戦えない弟子の右腕が断絶。

 僅かに遅れて血が噴き出し、悲鳴が上がる。


「興醒めよう。失せい」


 まるで荷物のように腕を失った男が運び去られていく。

 場に満ちていた熱狂が醜態ともいえる出来事で薄らぐ。

 アベルはどうしても喉の渇きが我慢ならなくなってきた。


「水、貰えないですか」


 ヒエラルクが快活に答える。


「おう。誰か水桶と器を」


 素早く走ってきた従卒がアベルの前に水の入った桶と素焼きの器を置いた。

 器で水を掬い、喉を鳴らして飲んだ。

 あまり飲むと動きに差し障りがある。

 一杯で我慢した。

 それから汗と血脂がべったりとついた顔を洗う。

 疲労は激しいがすっきりした。


「お前ら聞けい。恐怖などというものは結局、我が身の可愛さよ。狂うて身を捨ててこそ得られるものがあるというのに。私の従卒に狂えぬ者はいらぬ。アベルよう」

「はい」

「お前は実にいい。とっくに狂い切った男だ。そういう者だけが些末な事柄を無視して高みへ昇っていく……。

 次に呼ぶ者は、ちょっとこれまでとは違う男だ。そいつと戦って勝ったら、私みずからが稽古をつけてやろう。普通ならこういうことはない。お前があまりに素晴らしいので興が乗った。がっかりさせないでくれ」


 ヒエラルクは手招きした。

 出てきた男。

 図体がでかい。

 やや長身のヒエラルクよりも頭ひとつ高く、しかも筋骨が並ではない。

 腕は太く、足など獣のように筋肉が付いていた。

 暴力に慣れ切った原始的な顔をしている。


 アベルは直感的に嫌な相手だと察した。

 力だけではなくて素早さもある。

 そして、それだけならヒエラルクが別格扱いするはずがない。

 何か予測できない曲がった技を使ってくる……。


「俺はエルナザルという名だ。ヒエラルク様の弟子のなかでは最も強いと自負している。そこもとは奴隷なれど見事な刀術の数々。遠慮なくやらせて貰おう。おそらく殺してしまうだろうが許せよ」


 好戦的な、残忍なほどの欲求が眼に現れていた。

 許せよと言いつつ、別に済まなそうでもない。

 脅しでもあろうが、またそういう結果になると信じ切っていた。

 すでにアベルよりもさらに長い大刀のような得物を肩に担いでいる。

 そして、それはそのまま構えになる。

 八双の型……と呼んでいいのだろうか。


 やや変形した構え。

 八双にも色々とあって刀を立てていれば一種の上段のように見えるが、刃を背負うように寝かせられると、まるで別物。

 刀の位置や長さが分からなくなるから間合いが測れない。

 一種の隠剣に近い。

 エルナザルという男は、そういう風に構えていた。


 あの強靭な肉体から全身の力を使って振られる一撃は、鉄刀であっても即死の威力だ。

 アベルは切り札の一つを使うことにした。

 摺り足での移動を止めて、武帝流のステップ歩法に切り替える。


 タンタンタンと鮮やかで気持ちのいいリズム。

 アベルが突然、全く違う動作を始めたので周囲は驚きから騒めいた。

 足の動きは間合いに直結するものだ。

 ここに「起こり」を見抜く者は大いに惑わされる。


 まるで舞踏のように軽やかに、常に足を上下させた。

 これによって動きの「居付き」を無くし、加えて次への挙動を早くさせる。

 また動きには移動のための動きと、攻撃のための動きがある。

 この二種類は実のところ全く別物であるが、これがはっきり分かってしまうようだと二流以下だ。攻撃の意図が丸わかりなってしまう。


 ステップ歩法を使って移動、敵に挙動を読まれないようにする。

 ところがエルナザルという男は慌てた素振りもなく、顔色一つ変えていない。

 依然として変形八双のまま待ちに徹している。


 しばらく円を描くように動き続ける。

 時間が粘つくようだった。

 アベルは疲れを意識する。

 息切れ。

 あまりにも激しい運動を繰り返している。

 負傷もしていた。

 足がだるくなってくる。

 拙いぞ、と思ったがどうしようもない。

 先んじて攻撃しようか迷った瞬間、敵が動いた。


 猛然と駆け寄ってきた。

 寸秒で間合いが破られる。

 斬撃が来ると感じるが、なぜか敵は右手を柄から離して片手打ちを仕掛けてくる。


 ――受けたらだめだ!


 理由は自分でも不明。

 だが、アベルは横っ飛び。

 敵は攻撃を控えた。

 相手の策術に乗らなかったことが幸した。

 意図が見えた。


 強烈な片手斬りは牽制で、本命は空の右手。

 その拳に鉄の籠手が嵌っていた。

 アベルが受け止めたと同時に拳で急所をぶん殴るという恐ろしく粗野な攻撃をするつもりだったのだ。


 似た手を使っている男がいた。ロペスだ。

 あの怪力はハルバードを得意としていたが、片手で大剣を振るい、拳で敵の頭蓋骨を叩き割るという野蛮どころではない攻撃も好んでいた。

 たまたま実例を間近に見てきたから気が付いた。


 攻撃が不発に終わったエルナザルは、しかし同じ構えで、再び見になった。

 まだ見破られていないと思っているのか、あるいはバレていたとしても防ぐ手立てなど無いと考えているのか。


 アベルは必死に頭を回転させる。

 魔術も使えない状況、まともに戦っては勝ち目など無い。

 エルナザルからは気魄が放射され、粗野で冷酷な殺気が身を苛んできた。


 アベルは覚悟を決める。

 奇策に打って出る。

 先ほど負傷したが、それでも戦いを食い入るように見ている男がいる。

 最初に戦ったプラジュという名の男……。


 アベルはゆっくり間合いを図りながら移動。

 大柄のエルナザルは、じっくりと圧迫しながら寄って来る。

 また爆発的な突撃を繰り出してくる寸前。


 突然、アベルは方向転換。

 振り向きざまプラジュに襲いかかる。

 完全な不意打ち。

 プラジュの首筋に斬撃が当たる。昏倒。

 アベルはプラジュが腰に差したままの鉄刀を奪うと二刀流となってエルナザルへ突っ込んだ。


 間合いを犯した直後、狙い澄ましたエルナザルの片手斬り。

 極めて鋭い一撃。

 強すぎて受けられない。

 それは見抜いている。


 アベルは上段に構えていた右の鉄刀を至近距離から投げつける。

 エルナザルの片手斬りと衝突。

 剣が逸れていく。


 次に下から狙いすました拳が襲ってくる。

 予測していた。


 プラジュから奪い取った鉄刀をその拳に叩きつけた。

 籠手と衝突して指の骨が折れた音がした。


 即座にアベルはバックステップで距離を取ったが、エルナザルは憤怒の狂相を浮かべて踏み込んできた。

 右手に残っている大鉄刀を激情のまま振るう。

 初撃に比べれば乱れた攻撃。


 アベルは鉄刀を両手持ちにして腹を据え、その斬撃を撃ち落とした。

 鉄刀を返して、渾身の力でエルナザルの脇腹に叩きつけた。

 肉が裂ける。

 だが、エルナザルは骨の折れた拳で殴りつけてくる。

 腹に信じられないほどの打撃。


 アベルは慌てて跳躍。

 いつもの半分も飛べなかった。

 猛烈な吐き気がする。

 刺してくるような殺意に怖気がした。

 エルナザルが諦めない。まだ、前に進んでくる。

 殺さなければ殺される……。


 アベルが無理やり刀を構えたところで、ヒエラルクが出てきた。


「そこまでだ。引き分け……としたいところだが、エルナザル。お前の負けだ」

「師よ。俺はまだやれます」

「実戦ならお前が先に死んでおる」


 エルナザルは呆然としていた。

 これが鍛錬だということを、ゆっくりと思い出していった様子だった。

 アベルは思わず安堵する。

 止められなければ、また接近戦だった。

 勝てるか分からなかった。


 アベルは汗を流し、荒い呼吸を繰り返す。

 周囲は静まり返っていた。


 とうとうヒエラルクまで届いた。

 剣聖と謳われる男と戦える。


 死と破滅が、手を伸ばしたところにあった。

 興奮が恐怖を塗り潰していく。


「奴隷アベル以外、ここから出ていけ」


 突飛な命令。

 逆らう者は誰もいない。

 負傷した者も体を引き摺りながら鍛錬所から出ていく。

 やがてアベルとヒエラルクだけになった。

 向き合う。


 ヒエラルクの面相に傲岸不遜さだけではなく、どこかアベルを認めている気配がある。

 褐色の眼は濡れたように光り、いつも以上に戦いを欲していたが。


「アベルよ。お前の手筋は実に奇妙だな。異な構えをするかと思えば、堂々たる上段すら出来よる。どこでどうやって身に付けた?」

「……あちらこちらで戦ってきましたので自然と」

「お前だけ教えろとは言わぬ。私の来歴を教えてやるから聞かせてみよ」


 ヒエラルクからの意外な提案。

 適当にはぐらかして身に付けてきた技のことは説明しないでおこうと思ったのだが、心動かされる誘い文句だった。

 ヒエラルクの強さの片鱗が掴めるかもしれない……。


「父は防迅流、母は攻刀流の使い手でした。二人とも旅の最中に亡くなるまで僕に技を教えてくれました」

「なるほど。腰の位置、刀の筋には攻刀流の癖がないこともない。だが、それだけではあるまい?」


 ヒエラルクは面白そうに笑っていたが、視線は粘っこく熱を孕んでいる。

 いい加減な答えを許さない。

 嘘を言えば、すぐにばれる。

 こと剣にかけて虚偽を見逃す男ではない。


「様々な剣士に出会ってきました。我流を名乗っていた者からは受け流しの技を貰ったこともあります。それから……夢幻流を少し」

「ほう。夢幻流か。私も噂に聞くことはあったが使い手に出会ったことがない。こんなところで見つかるとはな」

「夢幻流については僕も会得しているなどとはとても言えません。ほんの僅かの事です。口で説明できることはこんなところかと」

「よし。いいだろう……。このヒエラルク・ヘイカトンの出自は戦士階級だ。遡ること六代、みな戦士よ。ただし、下級のな」


 アベルは頷いた。


「ヘイカトン家は代々に渡って斬流の研鑽を深めていた。妻を娶るときは斬流の心得がある女を必ず選ぶ徹底ぶりよ。ところが私の父は何を思ったのか妻に武道の心得がある女を選ばなかった。頭のいかれた巫女を選んだのよう」

「巫女……」

「その女はな、特定の神殿に仕えもできず、ふらふらと彷徨い、行きずりの街角で未来を観るなどと言って占いじみたことをやっていたそうだ。

 普段は意味不明の言動ばかりだが、時には妙に当たることもあって不気味な女だと言われていたらしい。私の父は代々に渡って厳しい稽古を続けても研鑽の果ては見えず、さりとて出世の方策も立たず、絶望しかけていたところその巫女に偶然出会った。そして己を観させたそうだ」


 ヒエラルクが唇を釣り上げ、笑っていた。


「不思議な占いだったそうだ。今日、この場で巫女が孕めばヘイカトン家にかつてないほど優れた剣士が生まれる……そう解釈できる言葉を得たのだとよ」

「そして……」

「父はその場で巫女を犯して、家まで連れ帰ってきた。そして生まれたのが私だ。幼少のころ、その巫女はまだ生きていたがよく壁や空に向かって話をしていたものだ。私の姿を見かけると震えて逃げ出すくせにな。しかし、予言は正しかったぞ。巫女の力が継がれたようでな、私には観る力があるのよう」

「観法というやつですか」

「こればかりは言葉で伝えることはできぬ。では立ち会うとするか」


 ヒエラルクが鉄刀を上段に構えた。

 獰猛で力漲り、しかも美しい姿勢。

 思わず圧倒されそうな威厳すら漂っていた。


 アベルは考える。

 今の話し……真実だろうか。


 嘘を言っているようには感じなかった。

 観法とか未来予知というものは武術において、一つの到達点とされている。

 しかし、例えばあのアスにしても未来視というのは苦手などと言わせるほど曖昧で、在るのか無いのか不明のものだ。

 イースですら、それは予知などという大げさなものではなかった。

 全身の感覚を極限まで研ぎ澄ませた果ての境地というものではなかったか。


 あるいは、相手を呑み込む心理戦なのか。

 だが、確かにヒエラルクには機を読む天才性がある。

 それは、これまで奴の戦いを観察して明瞭に感じてきた。

 起こりや手筋を読み取ることに常人離れした相手と戦うには……。


――だめだ。全く分からない。


 アベルはじりじりと火に炙られるような感覚、そして後退の一手。

 焦る。

 せめて一太刀と思えば思うほど、どこへ打ち込んだらいいのか迷う。

 隙がどこにもない。

 なにより全感覚が激しく伝えていた。


 こいつとは戦うな!


 本能が拒絶していた。

 興奮と高揚感は消え失せて、おぞましい嫌忌の念が全身に広がる。


――甘かった……。

  ヒエラルクは化け物だ。


 ヒエラルクが摺り足で一足一刀の間合いに滑り込む。

 ぬるりと、不可視の境界線を越えてきた。


 電流のようにアベルの体が動く。

 ほとんど癖のように出した技。

 頭を狙うと見せかけて敵の腕を落とす夢幻流の技。

 イースの得意技だ。


 アベルには自分の極めて速い切っ先が、スローモーションのようにゆっくりと視認できた。

 ヒエラルクの刀が遅れて繰り出されてくる。

 剣の軌道はヒエラルクよりも有利。

 腕への打ち下ろしと変化していく。

 

 勝った!

 

 アベルは心で叫ぶ。

 輝かしい勝利の映像。

 ヒエラルクの腕をへし折り、返す刀で脳天を叩き割る。

 そのあと魔術を使って外にいる奴らを皆殺し、王座まで全力で駆ける。

 そこには、あの怨敵イズファヤートがいるはず。


 紫電裂。

 最後の切り札。

 あの防御が極めて困難な高等魔術で王を焼き殺してやる。

 父親。

 殺してやる。

 殺すべき敵。

 父王。

 殺してやる。

 父親なんか俺が殺してやる。


 殺すのは俺だ!


 視界が暗転した。

 どうしてかイースとカチェの姿が現われた。

 闇の中で二人の白い裸身が浮かんでいた。

 連れだって、ひどく悲しそうな表情をしている。

 声を掛けようとしたのに喉が動かない。

 そんな顔をしないでくれ。

 二人ともせっかく美しいのだから。

 笑ってくれ。

 その顔もやがて闇に消えていった。


 これは夢……。

 自分は死んだのだろうか。

 死の影。

 体が動かない。

 光が明滅する。

 白い光線と闇が交互に現れる。

 石造りの天井が見えた。

 

 急速に感覚が現世へ戻っていく。

 体が、ぶっ倒れていた。


 アベルは半身を起こす。

 ヒエラルクが刀を首筋に突き付けていた。


「負けたんだ……」

「恥ではないぞ。このヒエラルクに勝てる者はおらん」


 アベルは顎に痛みがある。

 ここを激しく打たれたらしい。

 まるで知覚できなかった。


「アベルよ。痛みがなくては人は憶えられない。弟子どもを痛めつけてくれて感謝するぞ。ありがとう」

「……では、負けた奴隷一匹は労役に戻ります」

「醒めたことを抜かすな。お前はまだまだこれからも私と共に狂うのよぅ。それに、あれほど弟子たちを罵り叩き伏せては後で仕返しされよう」


 今日にも武装して死罪を覚悟した男どもが襲ってくる。

 魔術を使って戦うほかない。

 それはつまり、いずれにしても殺されるということだ。

 悔しいが事実だ。

 

「ひとつだけ助かる道がある。私の弟子になれ。そして兄弟子たちに平伏して許しを乞え。怒りが解けるまで私が面倒を見てやる。それだけが残された道よ」


 悠然と笑うヒエラルクからの助け舟。

 ここは一端、その要求を飲んで様子見……馬鹿げた話だった。

 奴隷といえども王の直属かヒエラルクの手駒か。

 全然立場が違う。

 それこそヒエラルクの従卒など犬みたいなもの。

 犬死に人生の始まりだ。 

 しかし、断れば、もうここで殺されるかも。

 終わりだ。

 未来が塞がった。


 扉が開き、誰かが入って来る音がした。

 足音。

 圧倒的な余裕を見せていたヒエラルクの顔に、怪訝の色が現われる。


 アベルは這い蹲ったまま振り返る。

 燦々と艶めく、飛び切りの美女がいた。

 黄色いトパーズを想わせる瞳。

 見る者を魅了する美貌。

 肉感的な肢体を、惜しげもなく晒すような切り込みの深い長衣を纏っている。

 張りのある豊満な乳房は半ばまでも見えていて、綺麗な輪郭を描く肩は丸出しだった。


 ランバニア王女がそこにいた。

 橙褐色の視線はアベルを捉えている。


「ヒエラルク。あんまり奴隷を無駄遣いしないでください。ただでさえも人手不足なのですよ」

「これはこれはランバニア王女様」


 ヒエラルクは恭しく控えて、頭を下げる。

 先ほどまでの不遜さは消え失せた。


「このヒエラルクは王宮の治安を預けられたものにて。奴隷の身柄についての裁量権を戴いております」

「ただの奴隷ならねぇ。奴隷アベルは父王様がお召しになる予定なの。殺されたりすると困るのよ」


 アベルは驚きで眉を痙攣させた。

 イズファヤート王が呼んでいる……。


「なんと。このヒエラルク、それにつきましては聞いておりませなんだ」

「そういうわけですのでアベルは貰っていきますよ」

「いや。それはお待ちを。もう少し事情を確かめさせてもらいたく」

「貴方、まだまだ出世したいのでしょう。なら王族の言うことはいちいち嗅ぎ回らずに黙って聞きなさい。望めばズマみたいに姫御すら手に入るかもしれないわ。例えば、このわたくしだって自由になるかもしれない……」


 ヒエラルクは沈黙した。

 ランバニアは美しい金髪を掻き上げた。

 柑橘系の香水、女の匂いが混ざっている。

 男なら思わずその気になる情欲の香り。


 しかし、ランバニアは会話を打ち切りアベルを促す。

 さっさと先を歩み、鍛錬所を出ていく。

 廊下ではヒエラルクの弟子たちが待ち兼ねていた。

 アベルを害意に満ち満ちた眼で睨みつけてきた。

 当然だった。

 無駄と思いつつ言ってみる。


「聞いてくれ。ヒエラルク様に完敗だ。僕の負けだ」


 それからプラジュの前に行き、頭を下げる。

 奇襲しておいて謝罪などあまりにも滑稽であるが、形だけ……。


「すまなかった。追い詰められていたんだ」


 だが、プラジュは顔を憤怒で赤く染めている。

 眼が吊り上がっていた。


「誰が許すものか! 奴隷め。お前を殺さなければ屈辱は絶対に晴れない」


――何が奴隷だ。

  なら、お前はヒエラルクの飼い犬だろうが……。


 むかつくような殺意がアベルの内側に湧き上がる。

 だいたいアベル自身、別に心から謝ってなどいなかった。

 上辺だけ取り繕っただけだ。


「弟子ども、聞け。奴隷アベルは大王様の召使いだ。勝手に殺せば王の不興を買う。水に流せ」

「ヒエラルク様。このアベル、天下最高の使い手に相手をしていただけた名誉は生涯忘れません」


 アベルは背中に殺意を感じつつランバニア王女に従って、場を離れる。

 危機一髪で助けて貰った……と考えるのは早計だ。


 どういう狙いだろう。

 だいたい、やけに絶妙の間で介入してきたではないか。

 きっとランバニアの元へ報せが行くように仕組まれていたのだ。


 これから何が起こるだろうか。

 黄金が煌めく絢爛な王宮の深みへと沈んでいく自覚だけがあった。






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