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獣の見た夢  作者: MAKI


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奴隷と牢獄

 




 奴隷の人生が始まった。

 ここ数日というもの、ひたすら働く日々。

 夜明け前。宿舎に響く起床の大声。


 奴隷たちは整列する。その日の仕事が申し付けられる。

 アベルの属している下級奴隷一等という立場は、単純な肉体労働専門の部門だった。

 労役として多いのは荷物運びである。

 あと一つ昇格すると中級奴隷なれるらしい。別にありがたくもないが。


 朝の一番に仕事の割り振りが決まり、それから朝食にありつく。

 豆の入った麦の粥に羊肉と野菜の汁。

 栄養状態は悪くなかった。

 空腹ではろくに働くこともできないから当然と言えば当然だった。

 味などどうでもいい。

 体を弱らせるわけにはいない。

 アベルは良く噛み、飲み込む。


 食事が終わり、アベルは奴隷仲間たちと共に移動して内宮正門まで行くと、荷車に乗せられた大量の荷物がある。

 王宮には王族だけではなく官僚や衛士、むろん奴隷など大勢の人間が働いているので消費される食糧も大量なのであった。


 アベルは一抱えほどもある素焼きの瓶を何往復も持ち運ぶ。

 中身は油やバター、香辛料などのようだ。

 午前中の労働はそんなことに終始して昼飯。

 今度は平べったいパンに辛口のソースがかけられた鶏肉が出される。

 素早く食べて奴隷たちと車座になって話をした。

 すると、色々な情報が手に入った。


 世の中には数えきれないほどの人間がいるようで、実際はどこも人手不足だという。

 特に宮殿の内部がそうだというのだ。

 なにしろ王の傍で働かせるからには、奴隷と言えども怪しい者であってはならない。それなりの選考基準というものがあるのだという。

 例えば、三代に渡って精勤している奴隷の家系であるとか、不幸にも奴隷となりはしたが元々は優良臣民であるだとか……。


 王道国は長引く皇帝国との戦争に加えて地方や藩国の騒乱が相次ぎ、王宮からもたびたび奴隷を派遣しているという。

 どうやら、再び近い時期に奴隷や王宮軍団の将校を編成して、いずこかに出征させるのではと噂されていた。

 それは予想とはいえ、ほぼ確実に行われるだろうと古参の奴隷は口を揃えて言う。


 次に話題となるのは、大王主催の武闘大会のことであった。

 皇帝国との戦争に勝利した祝いの行事である。

 大円形闘技場で華々しく催される大会では、ガイアケロン王子とハーディア王女までもが自ら試合に出るという。


 遠く皇帝国本土で勇敢に戦い、見事に勝利をおさめた王族兄妹を王道国で知らない者はなく、人気は異常なまでに高まっていた。

 また、その姿の高貴なこと、さらに美しいことは誉れ高い王族にあっても際立っていると聞き、人々は空想を膨らませている。


 その二人がイズファヤート王に命じられて、大会では臣民のために魔獣や凶悪な犯罪者と戦うというのだ。

 人々が興味を示さないはずはない。


 武闘大会の噂は王都ばかりか、街道筋や海路までも伝って知れ渡っているというのだった。

 大円形闘技場には、無理をすれば十万人すら収容できるというのであるが、それでも足りないほど人がやってくるだろうと言われている。


 奴隷仲間のホルモズがアベルにガイアケロン王子の話しをせがんできた。

 本当は目立ちたくなかったので、アベルはしばらく静かにするつもりだったのだが人の噂は止めることができない。

 王子と共に、イズファヤート王へ謁見したものの即座に奴隷なったアベルは変わり種として好奇の視線を向けられていた。


「ガイアケロン様は本当に立派な武将さ。大王様のために命を捨てて戦っている。その勇敢なことは比類ない。それに僕のような身分の低い者も働きが良ければ認めてくださる」

「それはきっと大王様の真似をしたんじゃないかなぁ」

「どういうことだ?」

「いや、大王様こそ身分に拘らず大抜擢される御方だぞ。ラべ・タル王宮軍団将軍やヒエラルク様は大貴族の血筋ではない。どちらも下級戦士の家系だと聞いたことがある」

「……なるほど」

「なぁなぁ、アベル。ハーディア王女様ともお話しされたことがあるのだろう。どんな方なんだ」


 ホルモズだけではなく、十数人の奴隷たちが身を乗り出すほど興味深々だった。

 当たり前だが情報というのは相手に喋らせるから集まる。

 自分が舌を回すのはせいぜい相手を説得するときだけだ。

 とは言え、こうした状況になってしまったのなら仕方がない。


 アベルは慎重に言葉を選び、事実だけを小出しにする。

 ところが大げさな話しぶりをしなかったせいで、却って信憑性が増したらしい。

 奴隷たちは一様に頷いたり感心してみせた。

 そんな事をしているうちに、たちまち昼休憩が終わり午後の労役が始まった。


 それはまったくの単純労働。

 王宮拡張のために石材を運ぶ仕事だった。

 地面に置いた木材。滑りをよくするためにオリーブ油が塗られている。

 そこに人間の背丈ほどもある四角い大理石を載せて、押したり引いたりして運搬するわけだ。

 汗だくになりながら日暮れ近くまでそんな作業をして、その日は終わり。


 もう一日が過ぎたのかとアベルは夕暮れを呆然と見つめる。

 もしかすると本当にこのまま歳月が流れてしまうのだろうか。

 ついにイズファヤート王に会うところまで来たというのに……。

 王宮の片隅で、奴隷としての時間を送るだけの毎日。

 アベルは考えないようにしていたが、つい、焦りの気持ちが生まれてくる。


 大きすぎる欲望。

 相応の報いといえばそれまでだった。

 身を滅ぼす予感は常にしていた。

 分かっていて、望みのまま王道国にやってきた。

 自分の怨念をガイアケロンの憎悪に上乗せした。

 善意であったなどと恥ずかしくて言えやしない。

 血塗れの賭け金の上に、さらに黙って賭けただけだ。

 そして、あっさり罠に落ちた。


 イズファヤート王の冷酷さ、人間を人間扱いしないことへの予測が足りなかった。

 中途半端に近づき、たちまち食い物にされた。


 アベルは玉座にあって何ものも睥睨する、あの視線を思い出す。

 完璧な王だった。

 威厳、冷徹さ、残忍さ。

 誰しも戦って勝てる相手だとは考えないだろう。

 大きすぎる欲望を制御できないような愚かな男でなければ……。


 しかし、この世の中に完全なものなどない。

 イズファヤート王を支えているのは巨大な恐怖だが、いわばそれはたった一本の柱だ。

 恐怖で人を縛り付けていれば万事が上手くいくという政治。

 ところが、もしイズファヤート王を上回る恐怖が現われたとしたら。

 拘束は綻び、やがて破綻する。

 たかが恐れによって従う人々は、まるで家畜の群れに等しい烏合の衆と化すであろう。

 

 アベルは我に返る。

 ただの奴隷一匹が王を殺そうと思索を広げていた……。




 夕食を口にしていると、どうも視線を感じた。

 危険への察知能力は重要だ。

 どんなときも意識していなければならない。

 一人となってしまった今なら、尚更。


 アベルが一瞬だけ横目で確認をすると、いかにも陰険な目つきをした奴隷が三人。

 たしか昼間の会話には混ざっていなかった。

 遠巻きにしていたはずだ。

 覚えのある雰囲気。

 どこにでもいるクズ。

 自分よりも優れた者がいると卑怯な手段で叩き潰して満足する低能。


 アベルが席を立ち、便所の方へと歩いていくと彼らは予想通りに付いてきた。

 便所の前は素通りして、奴隷用の宿舎の裏まで歩いていく。

 建物と建物の狭い場所。

 待っていると向こうから、のこのこと近づいてきた。

 改めて眺めても、不満を溜めきった男たちなのが理解できる。

 金、女、待遇。どれもこれも足りていない人間。

 代償として新入りを虐め抜く、それしか楽しみのない者だ。

 アベルへ脅し文句をぶつけてくる。


「おい。お前……。戦士崩れがやたらと偉そうにしているが、おれら奴隷の掟を知らないらしい。これから教育してやるから、まずは跪け」

「断れば?」

「これがお前の腹に突き刺さる。犯人なんか分かるものかよ」


 いかにも粗野な目つきをした男が懐から鉄串とそっくりの形をした、粗末な突き刺し専用のナイフを取り出してきた。

 命を奪うには充分な威力を持っている。


 アベルは油断させるため……手で分かったという仕草をして歩み寄り、膝を付く動作を利用して、そのまま跳躍。

 アベルの拳。ナイフの男の鼻を潰した。

 次に腕を掴んで捻り上げた。

 相手が優れたナイフ使いだと、腕を取っても捻り斬りで逆に攻撃されかねないが、得物は刺突専用なのでその恐れはない。

 ナイフが地面に落ちて音を立てた。


 残った男たちが素手で攻撃してくるが狭い路地だ。

 二人同時には来られない。

 単調な突撃を見切って、アベルは偽の挙動をする。

 上半身を左右に振って、敵に目標を定めさせない。

 そして、低めの足蹴り。

 痛みで怯んだ相手を突き飛ばす。無様に転がった男の横顔に蹴りを入れる。

 残りの一人はもっと簡単だった。

 顎に張り手を一撃入れると舌を噛んだらしく口から血を流して、ひっくり返った。


 呆れるほど弱い。

 これまでも数を頼みに単独者を攻撃して悦に入っていたのだろう。

 自分を強いと思い込んだゴミども。

 

「今までもこうやって人を襲っていたな。楽しかったか」


 鼻血を流して這いつくばる男をさらに蹴り飛ばしていると、相手が堪らず許しを乞うてきた。

 中途半端に許すと必ず復讐を考えてくる。

 やるときは徹底的にが鉄則だ。

 だが、さすがに殺すわけには……。


「おい。俺は魔法も使えるんだ。本気になったらお前らを殺すこともできるんだぞ。今から本当にやってやろうか?」

「馬鹿いうな! 魔法なんか使ったら経緯は関係ねぇ。死刑になるのはあんだ……」

「俺は死ぬのが怖くない。お前らみたいなクズに負けるぐらいなら必ずやる。脳みそは大切に頭ん中に入れて憶えておけ。次は無いぞ」


 それからアベルは倒れた男たちの懐を探る。

 小銭の入った革袋が出てきた。

 それから刺突用の小さなナイフを拾い上げた。

 便利なことにナイフの柄には(トゥニカ)の内側に隠せるようにピンが付いている。


 もちろん、それら金も武器も全て奪い取った。

 何か恨み言を述べる男たちをさらに蹴り飛ばした。

 今日、襲って来たこいつらと似たような奴隷は他にいくらでもいるだろう。

 うんざりするが、どこまでも自業自得だった。




 ~~~~~




 次の日の朝。

 マジャンホ奴隷監督官が、わざわざアベルの元までやってきた。

 ポニーテールで太った彼は、屈強な衛士を四人も連れている。

 そうして意地悪そうな顔で言ってきた。


「奴隷アベル。昨日、騒ぎを起こしたらしいけれど」

「何のことですか」

「持ち物を調べる。抵抗したら酷いことになるから覚悟しなさい」


 アベルは大人しく体をまさぐられた。

 予想はしていた。

 あのゴミどもなら揃って情けなく監督官に跪いて、あることないこと訴えるだろう。

 だからナイフだけは土の中に埋めて隠しておいた。


「この袋はなに? 銅貨が入っているじゃないの」

「奴隷だって小銭ぐらい持っているでしょう」

「戦場帰りはこれだから嫌だね。脅して殴って奪った」

「それはここに来てから真っ当に得たものです。それとも銅貨に名前でも書いてありますか。僕が真面目に働いているのはご存じのはず」

「ふん。まぁいいわ。どうせあの三人とも、大して働きもしないくせにやたらと煩いから。そろそろ処分のときかしらねぇ……」


 マジャンホは革袋をアベルの足元へ捨てるように投げた。

 金は一応、返してくれるらしい。

 奴隷は罪人とは違う。

 所持できる程度の貨幣を持っていたとしてもそれは法律違反ではない。

 だが、武器の方はどうだか分からない。曖昧なところだろう。


「奴隷アベル。あんたには牢獄の労役を命じます。しばらくやってみて自分の立場を理解しなさい。ありがたくて涙が出てくることになるから。いいこと。余計なことはするんじゃないよ」


 マジャンホが太った体を大儀そうに揺らして歩いていく。

 それから例の奴隷三人を指さして何かを命令していた。

 処分とか呟いていたから、あの三人にはあまり素敵な未来はなさそうだ。あちらはあちらで自業自得……。

 離れたところで様子を窺っていたホルモズがやってきて、同情気味に言う。


「アベル。ついてないなぁ。牢獄役か。まぁ、しばらく我慢するこった」

「どんな仕事なんだろう」


 経験者のホルモズは早口で、その労役がいかに危険で割に合わない役目なのか教えてくれた。

 聞くにつけて、アベルは溜息を抑えられない。


 奴隷頭の大声が聞こえる。

 奴隷たちが労役ごとに分かれていく。

 アベルだけは衛士に連れられて、これまで入ったことのない場所へと歩いて行った。

 王宮には壁に仕切られたいくつかの区画があって、境界には必ず門と衛兵がいる。


 装飾と歴史が沈殿に沈殿を重ねた宮殿。

 この世の美と富の全てを集めたような華やかな場所。

 だが、光り輝くところには、より一層、暗い澱みがある。


 宮殿の西側の隅まできた。

 古ぼけた石造りの二階建て。

 彫刻や優雅な飾りはどこにもなく、よく見ると窓には鉄格子が嵌っていた。

 どうやらあそこが牢獄らしい。

 出入口に衛士が立っていた。

 建物を管理する獄吏に引き合わされて、簡単に仕事を説明された。

 清掃、荷物の運搬……。そういった労役だ。

 道具である桶と壺を受け取り、さらに牢獄の内部へと歩む


 アベルの前に見るからに不気味な陰気臭い入り口が開いていた。

 罪を犯した囚人たちが捕らえられているという地下牢への階段だ。

 そういえばハイワンド伯爵家の城にも犯罪者たちを閉じ込めておく牢獄があったと思い出す。


 それほど大きいものではなかった。

 地下と地上に分かれていて、六部屋ぐらいだ。

 せいぜい五十人程度を捕らえておくのが精いっぱいの規模。

 大人数を管理するのはそれだけで大変な労力を必要とする。

 拘束しておくにも食事などの経費が掛かるため、つまらないコソ泥などはさっさと釈放するが、本当に人を殺した凶悪犯などは速やかに処刑としたものだ。


 牢獄とは実に陰気な場所で、好き好んで足を踏み入れるものではない。

 アベルも仕事で何度か仕方なく行きはしたが自分から訪ねたことなど無かった。

 ハイワンドの牢獄でも囚人同士のいざこざは絶えなかった。

 ときには死体がいくつも出来上がったが、大抵は病死ということになる。

 口裏を合わせて合意のもとに行われる囚人内での殺人は犯人を特定するのに手間がかかる。

 また、犯罪者からも見捨てられたような人間は、まさに命運尽きた者として誰も関心を払わない。

 むしろ処刑の手間が省けたとされる場合すらあった。


 アベルは因果なものだと苦笑しながら歩んだ。

 今となってはその牢獄の中で色々と仕事をしなければならないわけだ。


――人生ってのは分からんものだな。


 天井は低く、少し屈まないと頭をぶつけてしまいそうなほど低い。

 空気が耐えがたいほど黴臭く、風の流れはほとんどなかった。

 素足から伝わる湿気だらけの床の感覚はぞっするようなものだった。

 正直、一秒たりとも居たくない。


 石造りの階段を降りきると獣脂蝋燭が灯されていた。

 獄吏が二人、椅子に座っている。

 見るからに無気力であり、また、この環境に嫌悪しきった表情をしていた。


「あの。今日の当番なのですが」

「見ない顔だな」

「初めてやるのですが」

「へっ。新しい奴隷かよ……。ここのことは誰かに聞いているのか」

「少しは」

「いいか。地下牢は懲罰房だ。どうしようもない奴らの吹き溜まり。気を抜いていると凶悪な犯罪者にとっ捕まって殺されるぞ。牢獄は暗くて入り組んでいるから奥に引きずり込まれても助けねぇ」

「まぁ、そういう所だと話には聞いてます」

「一度だけ忠告してやるよ。ここの囚人は死刑か重奴隷刑になるのが確実の奴らだ。人生になんの希望もねぇ。そういうのはな、捨て鉢になって意味もなく人を殺す」


 獄吏たちはアベルを助ける気などまるで無かった。

 椅子から立ち上がろうとしないで薄ら笑いを浮かべていた。

 奴隷風情がどうなろうと知ったことではない、本当に危険な仕事は奴隷に任せるということだ。


 アベルは気合を入れる。

 虚弱な者、抵抗の意思を失った者は徹底的に叩き潰し、命までも奪うのが監獄の慣わしだ。

 妙な話だが、獄には獄の掟がある。

 真っ当な者なら誰しも触れたくない世界だからこそ、その住人たちは独自の習慣を作るのである。

 それは監獄の秩序を守るために機能しているので、獄吏たちは黙認する。

 根性を入れて行かなければ、たちまち付け込まれて何をされるか分からない。


 アベルが地下道を進むと、いくつか房があるのだが、手前にあるのは独居房である。

 ホルモズに手早く教えてもらった通りだ。

 そこは別名、狂人房とも呼ばれ、完全に正気を失った者が閉じ込められるという。


 あるいは、極めて反抗的な囚人が罰として投入されることもあるらしい。

 光のささない独居房は横になると足が延ばせないほど狭い。

 獄吏は話し掛けられても独居房の囚人を無視するのが習慣だという。

 さらに一日二回の、ごくごく粗末な食事。

 そういう状況が数十日も続けば、ほぼ例外なく体を壊し、心を病み、そのまま牢獄で死ぬことも珍しくない。

 ただ、幸いなことにアベルが当番の今日という日、独居房は空室だった。


 もっと進むと、再び蝋燭の灯が見える。

 頑丈な(かんぬき)が嵌められた扉が見えた。

 どうやらここが目的地のようだ。

 扉には小さな覗き窓があって、中を確認してから開けなくてはならない。

 淀んだ空気の奥に複数の気配がある。

 閂を慎重に外して、ゆっくり扉を開いた。


 いくらか幅の確保された部屋がある。

 囚人が四人いた。

 ぎらついた、激しい感情を湛えた視線をしている。

 洗顔などできるはずはなく、いずれの顔も汚れきっていて、それでいて汗を掻いているから濡れたように光っていた。


 囚人たちはアベルの顔を凝視してきた。

 犯罪者によくある、面通しだ。

 目の前の人間がどういう人物なのか、見抜こうとする。

 理由は利用するためだ。それ以外にない。


 アベルは口を引き締めて中に入る。

 飛び掛かられても対応できるようにしておく。

 もし妙な挙動をしたら容赦なく殴りつけなくてはならない。

 囚人が武器を隠していることもよくあることだ。

 もしかしたら魔法を使える者もいるかもしれない……。

 不安材料は尽きなかった。


「よぉ。お前、見ない顔だな。新人か」


 一番手前に座る若い男が話しかけて来るが無視した。

 糞尿の入った壺を運び出して新しいものと交換する。

 背中はなるべく向けないようにした。


「壺の交換が二回目と……。ってことはあと三日で懲罰も終わりか。昼も夜もねぇから時間がさっぱりだぜ」


 そんな声が聞こえてきた。

 アベルは黙々と作業をする。

 次は食事を配膳しなければならない。

 ところが部屋の一番奥に座る男が話しかけて来た。


「青年よ。宮殿で大謁見が執り行われたと聞いたが、ナバルジャンという者を見かけなかったか。将軍だ」


 無視することが出来ない強制力のある声だった。しかも、聞き覚えのある名前。

 たしか王に自決を迫られた男の名だ。

 思わずアベルは問いかけてきた囚人を見る。

 

 それは並々ならぬ迫力のある人物だった。

 黒髭だらけの顔面。年齢は五十歳ほどだろうか。

 頬や額に切り傷などがあり、目線や物腰はちんけな子悪党などとは比べものにならない。

 静かな威厳すら感じさせる。


「見たけれど、それがどうした」

「どうなったか気になっている。教えてほしい」


 アベルは謁見を思い出す。

 王威が嵐のごとく吹き荒れ、何者も従うほかなかった。

 イズファヤート王へ意見を述べた将軍ナバルジャンは、壮絶な自決を遂げたのだった。


 アベルの前に座るその囚人は両手に木製の枷を嵌められていた。

 狭すぎる手枷は絶えず手首を傷つけるので血が滲んでいる。

 ところが枷を嵌められた姿であっても、卑屈さなど微塵もなく、それどころか礼儀正しい態度だ。

 間違いなく高位の戦士か、あるいは貴族。

 アベルは正直に見たままを伝えるべきだと直感した。


「ナバルジャンという人はイズファヤート王から自決を命じられました。見事に首筋を短剣で貫いた様は、ご立派でした。まさに武人の鑑と誰しも感じ入ったことでしょう」

「家族はどうなった」

「たしか奴隷刑です。名も無き農民に農奴として使えよと王が自ら命じました」


 囚人……と呼ぶには風格のありすぎる男は軋む音が聞こえるほど歯を食いしばり、中空を睨みつけていた。

 やがて頷き、手枷の嵌った腕を強引に動かして股座から何かを取り出してきた。

 それは銀貨だった。


「答えてくれた礼だ。受け取ってくれ」

「……いや、結構です。それよりも貴方の名前を教えてほしい。愚かな盗賊とはとても思えない」

「儂か……。儂はドルゴスレンだ。ナイレン・ドルゴスレンはかつて王道国の将軍であった。今では見ての通り、地下牢の囚人よ。そしてナバルジャンは儂の義弟だ。奴隷となった者の中にはきっと儂の妹がおったことであろう」


 もと将軍を名乗る男の相貌には、殺気とも憤怒とも言える感情が渦巻いていた。強く唇を噛んだせいで血が流れている。

 鬼の形相。

 アベルはそこに共振というべき、同種の震えを感じ取った。


「聞きたいことは、それで最後ですか」

「今はな……ところで青年よ。見たところ奴隷とも思えない見事な体。おぬしは戦士であったのではないのか」

「ガイアケロン王子の配下でした。今はイズファヤート王の奴隷です」


 アベルは掌に魔力を集中させる。

 淡く白い輝きが零れ落ちた。

 枷で傷ついた手首を握りしめると、見る見るうちに治癒していく。

 ドルゴスレンは驚いた顔をしていた。

 黙って離れようとしたアベルの足を掴むのは別の囚人。


「な、なぁ! 俺は社会学者ミサロの子弟。マイヤールだ。学徒マイヤールと言えば有名だろう?」

「いや、ミサロは聞いたことがあるれど、あんたは知らないよ」

「お、俺も金を払うから頼みがある。外部の者と連絡をつけてくれないか。金貨だって手に入るぜ」

「そりゃ無理さ。僕はただの奴隷……」

「なんとかしろって。俺たちは悪くすると重奴隷刑として、どこか辺境に送り込まれるか、そうでなけりゃ見せしめに処刑される。その前に手紙を送りたい。最後の頼みなんだ」

「あんたは民衆議会派の人か」


 マイヤールという男は頷いて見せた。

 社会学者ミサロは元々皇帝国の下級貴族だった人物だ。

 ミサロは大学で史学を修め、やがて社会をいくつかの階層に分類した論文を発表する。

 それだけならばまだしも、なかでも非貴族階級においては税金の使い道を決定する機能がないことを問題視して、民衆の意見を集約した民衆議会があるべきだと主張した。


 貴族ならびに皇帝の専制権利である税金の分配と真っ向から対立するこの意見は直ちに危険思想とされ、ミサロは断罪を受ける前に逃亡。

 その後は、なんと王道国へと潜入して、やはり民衆議会の設立を訴えたのだった。当然のように王道国でも極めて過激な思想であると認定され、ミサロ本人だけでなくその弟子たちも見つけ次第、捕らえられることになっていた。


 議会派は両国の間で厳しく追及されていたはずなのだが、貴族に反感を持つ者らのなかにはミサロを秘密裏に支援する者が現われたと噂されている。

 とはいえ、高尚な理論を信じて協力している者はそう多くはないとアベルは感じていた。


 おそらく……戦乱と飢えにうんざりした人間が深い意味も理解しないまま力を貸しているのではなかろうか。

 アベルはマイヤールの手を振りほどいて牢獄の外に出る。

 すると、それまで黙って鎖に繋がれていたままの、名も知らない老人が笑いながら言った。この老人だけは他の者とは顔つきが違う。

 穏やかなものだった。


「奴隷に将軍に学者、さらには惚けた老人と……。地獄の底に駒が集まったは良いが、肝心の遊戯盤はどこへ行った?」


 深い知性を感じさせる老人のしゃがれた笑声が牢獄に響くのみ。


「政治家にして哲学者のソロン・ダイク様ともあろう御方が惚けた老人などと自嘲するのは感心しませんな」


 何がそれほどおかしいのかダイクという老人は笑い続ける。

 アベルは扉を閉めて閂を掛けた。

 通路を戻ると獄吏が口を歪めている。


「よお。遅かったから本当に殺されたかと思ったぜ」


 アベルは無言のまま建物の外に出て、新鮮な空気を味わった。

 栄華を極める王宮の、まさに最も暗い影を目の当たりにした。

 奇妙な興奮がある。


 犯罪者を捕まえて牢屋に閉じ込めるというのは合理的なようでいて、一つの大きな欠点がある。

 それは社会から逸脱した人物たちが寄り集まって、知り合いとなり情報交換を繰り返し、時には気心まで通じ合うことだ。

 すると犯罪気質は薄らぐどころかその逆、むしろ相乗的に純粋培養されていくのである。

 より洗練され、より強靭になっていく犯罪者たち。


 獄にいる囚人の多くは、イズファヤート王の政治に都合の悪い者らだった。

 しかも、単なる強盗犯などではない。

 政治犯、思想犯、忌まれた武人……。

 言ってみれば巨大なものに叛逆しようというアベルに近い存在だ。

 絶対的な王権にも、実は数多くの亀裂がある……。

 それが確実となった喜び。


 アベルは獄舎で作業を続けたが、牢獄内の作業が辛いせいなのか、その後の労役はほとんどなかった。

 また獄吏たちは本来の業務に忙しいせいでアベルには関心を持っていない。

 空いた時間に運動をしたあとは昼寝をして過ごした。




 のどかなほどの午後に衛士と共に奴隷の宿舎へ戻る。

 まだ奴隷たちはどこかで働いていて、辺りに人は疎らだ。

 

 油断していたつもりはない。

 アベルは普段の通りにしていたはずが……。

 突然、アベルの心臓が激しく打つ。

 驚愕と怖気。

 背後に異様な気配がある。

 

 完全に間合いを越えられている。

 その気配に全く気が付かなかった。

 錯覚だと思いたかった。

 だが、事実だ。

 急激に身を翻して相対すると……さらに信じられない。


 戦闘に愉楽を感ずる者でしか浮かべることのできない、倒錯的な視線。

 じっとりと興奮で濡れた褐色の瞳。血走っていた。

 薄い唇に笑み。

 

 剣聖とも呼ばれる男。

 ヒエラルクがそこにいた。


 嫌でも全身に刺さるほどの、言葉にするのも馬鹿らしいほどの殺気。

 景色が歪む。

 もう自分がどこにいて何をすればいいのか分からなくなるほど感覚が歪んでいく。


 ヒエラルクが気配を殺して、音を立てずに背後から忍び寄っていた。

 それは完璧な動作に違いない。

 無様にも、ここまで危険人物に無防備なまま接近されたことはこれまで無かった。

 もし、ヒエラルクがこちらを殺すつもりだったとしたら……もう意識は消えている。

 とっくに殺されているところだ。

 ヒエラルクは刀の柄に手を掛けていた。


「アベルよ……。いいぞ、お前。やはり、いい眼をしている。欲深いケダモノのごとき眼だ。天性の戦士に間違いない」


 アベルは瞬きすらできない。

 した瞬間、ヒエラルクの刀が抜き打ちで襲ってくる。

 そういう想像しか湧かない。


 ヒエラルクはありとあらゆる意味で、消さねばならない難敵だった。

 もし、アベルが皇帝国の戦士であったと露見していたとするなら……この場で殺されるのが自然だ。

 一つ問題があるとすれば、捕らえて拷問にかけて経緯を聞き出そうとするか、それとも問答無用で斬り捨てるか……それぐらいだった。


「惜しいことだ。お前ほど使い手が下級奴隷とは」

「どうして背後から」

「ふふ。許せよ。戯れだ」

「……僕は奴隷で満足です。奴隷とはいえ王様の直属なのですから」

「強がるな。私には分かる。お前は血を求めている男だ。戦いが無ければ生きている価値のない人間よぅ」

「……」


 言葉を返そうとしたが上手く返せない。

 数え切れないほどの死線を掻い潜ってきた達人は、異常としか言いようがない感覚を身に付けている。

 イースがそうだった。

 生まれつき持っていた資質だけではない。

 おのれの命を守ることなく危険へ曝した果てに、鋭敏な、常人を超越した直観力を磨き出していた。


 ヒエラルクも同種の、そういう人間。

 つまり逃げられない。

 ところがアベルの心から恐怖以外の、奥底に隠れていた感情が沸き上がってくる。

 恍惚感。

 ふわりと浮き上がる興奮。

 相手がヒエラルクほどの者だからこそ、身を苛むような真実の遣り取りができる。そしてイースに近づくことができるという、甘美な幻想。

 あるいは狂気。


「そう……! その眼だ。いいぞ、アベルよ。私に付いてこい」

「僕は奴隷です。勝手なことはできません。監督官が」

「もう話はついている」


 ヒエラルクがもどかしそうに説明した。

 どうやらそっくり舞台は整っているらしい。もはや従うしかない。


 今日、これから死ぬのだろうか……。

 それなら、せめてヒエラルクに一太刀浴びせたい。

 そうすれば遠く離れたイースや懐かしい知り合いたちに、その噂が伝わるかもしれない。


 通路を歩いているとマジャンホ監督官が咎めるような顔つきをして、それから手で斬首の仕草をしてみせた。

 せっかく忠告したのに、あんた死ぬことになったわね。

 そうとでも言いたげだった。


 しばらく歩く。

 ヒエラルクの背中。

 まるで絶壁を感じさせる。

 どんな攻撃を仕掛けても無駄だと理解させられた。


 広大な内宮。

 歴史絵巻を再現したと思しき荘厳華麗な壁画や彫刻が続く。

 やがて、大勢の人間のざわつきが聞こえる。

 通路にいる戦士たちはヒエラルクの姿を認めると、どんな体勢からも頭を下げた。どことなく見覚えのある男たち。

 ヒエラルクの従卒や弟子たちだ。


 そこは訓練施設だった。

 そして、血の臭いが濃厚に立ち込めている。

 アベルは床に流れる血液を見た。

 剣を手にした男が倒れて、すでに絶命していた。

 片腕は斬り飛ばされ、体に深い傷をいくつも負っている。

 血だらけの怨み深い表情がいずこかを睨んでいた。

 なんということはない。昨日、アベルを襲って来た奴隷の一人だった。


「木剣での試合では、どうしても鍛え足りぬものよ。弟子どもには真剣を使った殺し合いをさせておる。もっとも弟子同士を戦わせるのも、そうそうはやれぬのでな。適当な奴隷か捕虜……あるいは咎人を用意させておるわけだ」

「そいつは……たしか僕と同じ奴隷」

「そうよ。マジャンホに、まだ生きの良い、それでいて扱い難い者はいないかと相談しておいたゆえな。もっとも、私の弟子に勝てば奴隷から解放のうえ金貨までくれてやるとの取引だからの。正当なものよ」


 何が正当なものか……。

 戦う相手は一日と欠かさず厳しい鍛錬を積んでいるヒエラルクの子弟だ。

 どちらが勝つかなど分かり切っている。

 ただ動いている人間を斬り殺すのは本当に難しい。

 よって野犬や魔獣を目標に訓練する武人もいるというが、その延長に過ぎないのだった。


「では僕のこともマジャンホが良しとしたのですね」

「いいや。お前は奴隷として使えるからと断ってきた。戦場のことは忘れて、心を入れ替えて働いているから見逃してくれとな。だが、私はそんなはずがないと思っていた。いや、お前を忘れることが出来なかった、というべきだな。

 あの大王様の御前での片腕斬り……。失敗はしたが、心から震えたぞ」


 ヒエラルクが親しい友人に対するような笑みを見せてきた。


「お前はここで今から我らと共に剣の精妙を極めるのよぅ」


 従卒が鈍い光を放つ刀を捧げてきた。

 それは訓練用に刃を潰してある鉄刀だが……うっかり急所へ当たれば簡単に絶命に至る得物だ。

 ヒエラルクの弟子たちにしてみれば、アベルは見知らぬ奴隷。

 そこに無残な死体として転がっている男と同じ。


 ゆっくりと辺りを眺めてみれば彼らはアベルを、追い込まれた犬のごときものとして見ている。

 アベルを華麗に切り捨てればヒエラルクから一目置かれるとでも考えていそうだ。


 アベルは鉄刀を手に取る。

 焔のような怒りが燃え盛っていた。

 ヒエラルクと戦えるならまだしも、他の者へ生贄のように放り出され殺されるのは絶対に我慢ならない。


――俺を犬だと思っている犬ども。

  喜んでヒエラルクの足を舐め、

  涙を流してイズファヤート王に這い蹲る犬ども。

  一人残らず、ぶち殺してやる……。


 爆発しそうな憎悪。

 何度も何度も誓った。

 王を殺すと。

 こいつらも、同じだ。

 どいつもこいつも殺してやる。


 内なる声が、獣のように唸りを上げていた。






次回も未定です……。

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