奴隷アベル
「ねぇ。奴隷アベル。貴方はよほどハーディアやガイアケロンに気に入られていたのでしょう。そうでなければ、たかが百人頭の身分で謁見に推されるはずがない。だから色々と想像してしまうのよねぇ。おまけにハーディアの髪まで体に纏わせて」
「そんな髪……だからどうしたっていうんだ」
「まぁ! 奴隷の身分で何という口の利き方ですか」
王道国の第一王女、ランバニアは気品のある微笑を浮かべているが、実際のところ圧倒的な立場で圧迫してくる。
奴隷と王女。比べるまでもない。
天と地ほどの身分差。
ということは彼女はやろうと思えば不敬罪などで、いつでもこちらを殺すことができるのだろうかとアベルは考えてみる。
奴隷は生命ある道具。
人であるが家畜でもある。
こんな風に認識している者が世の中の大多数だ。
奴隷を金槌や牛馬と同等と見なしている。
ただ、そうは言っても、主人と奴隷で会話が出来ないということもない。
身分が奴隷だからといって無意味に殺したり残虐に扱う人物は、いないわけではないがむしろ少数だ。
飼い犬程度には可愛がる主人が、いくらでもいる。
もっとも……働かない家畜を捨てたり売ったりする人間が当たり前であるように、そうやって気に入らない奴隷を処分する者もたくさんいる。
それからよくあるのが男女の奴隷をつがいにさせて、繁殖を試みる場合だ。
もし生まれれば、その子は生まれながらの奴隷ということになる。
皇帝国でも奴隷は普通にいて、仮に誰かの奴隷を勝手に働かせたりすると窃盗に近い罪になる。
もし殺したりすれば、関係者で話し合いになって補償だ何だと面倒だ。
アベルは誰の所有物であるのかと問われればイズファヤート王であると答えることができる。
つまり王の財産だ。
そのアベルを勝手に殺すとなれば、それは王の持ち物を壊すのと同じ意味になる。
そう考えれば、奴隷と言えども王の直属という並ではない価値が出るから不思議なものだ……。
アベルが視線を巡らせると回廊の陰に数人の人間が控えていた。
目立たないようにしてはいるが刺すような視線をしていた。
腰には剣まで帯びている。
ランバニアの護衛らしい。
まだ、宮殿の掟や力関係などが分からない。
王の奴隷だからといって安心など出来やしなかった。
それに味方どころか知り合いすら、皆無であった。
「……すみません。ランバニア様。まだ慣れていなくて、無礼でありました」
「素直な子は好きよ。わたくしはハーディアと違って醜男どもが血みどろの争いを演ずる戦場など興味はないですから。その代わりに国内や王宮で地味に働いていますので、ここでも顔は広いのです。色々と出来ることはありますよ。もちろん父王様の権能の足元にも及ばないものですが、貴方に有利になるよう取り計らってあげることも……ね」
「はい。承知しました」
「ねぇ。わたくし、他にも気になっていることがあるの。貴方の片腕斬り。わたくしは武術に詳しくないですけれども凄い勢いなのは分かりました。あれほど斬りつけたのに腕が落ちなかったの、変ね。それについて何か不満とか言いたいことはないかしら……。わたくしが相談に乗ってあげる」
ランバニアは穏やかに笑い、その美貌も相まって、つい信用してしまいそうな魅力があった。
また巧みな話術である。
いかにも助けてやれるというような口ぶりだ。
しかし、そのまま受け取るわけにはいかない。
ガイアケロンの別れ際の言葉。
誰も信用するな……。
やはり短剣が劣悪な鈍らだったことは黙っているべきだろう。
剣のせいにでもすれば王の差配に不満があると思われかねない。
あんな酷い代物を渡してきたのは、やはりガイアケロンとハーディアの功績をすんなり認めさせない陰謀だろうとアベルは想像する。
あの大謁見で一番得をしたのは、他ならないイズファヤート王だった。
リキメルは王統から抹消、派閥は解体。
後見人の大貴族ビカスは、勇気や豪胆さに欠けると見なされ影響力は地に落ちた。
新参のシラーズへは不満があると言いつつ、ラカ・シェファに酷薄な処分を加えたものの、最終的には寛容に接した。
それを見てシラーズの支援に回ろうという者もいるだろう。
焚きつけられたシラーズは益々、死に物狂いで皇帝国との闘争に乗り出す。
そして肝心の功績大なるガイアケロンとハーディアにリキメルの戦力や領地を与えはしたが、王家からは銅貨一枚と渡していない。
つまりイズファヤート王の懐は減っていない。
それでいて、イズファヤート王は何もかも支配した。
思う存分、王威を振るい、人々を震え上がらせた。
ガイアケロンの秀でた戦果は霞んでしまった。
王子が一人減り、また新たに加わり、ガイアケロンはさらに巨大な戦果を求められて当然という立場に追い込まれる。
すべてはイズファヤート王の都合の良いように進んだ。
あそこで……片腕斬りが成功してしまえば、ガイアケロン軍団は確かに精強なりという結果になって、ただそれだけでおしまいだ。
王権と恐怖は増さない。
アベルは沈黙した。
このことについて吹聴して回れば命取りになるかもしない。
べらべらと喋って利益となることなどなかった。
そういう時は口を閉ざすに限る。
「奴隷アベル。そんなに警戒しなくてもいいのよ。わたくしの妹と弟が認めた貴方を見捨てるのは惜しいと思っているの。約束はできないですけれど、二人が王都に滞在している間でしたら、機会があれば話ぐらいさせてあげてもいいのよ。わたくしにはそれが出来るわ」
心を動かされる提案だ。
緋色の豪華な長衣を纏うランバニアには優しさすら感じる。
とても嘘とは感じられない。
彼女のすらりと伸びた腕と、露出した肩の白さが艶めかしくも美しい。
その手首には緑や紅色をした五色の宝石が編まれたブレスレットが輝いている。
一介の奴隷でなくとも平伏したくなるような姿と態度だった。
「……今はガイアケロン様に会わせる顔がありません。この奴隷アベルにも恥と言うものがあります。こうなったからには奴隷として大王様に仕えたいと思います」
「あらまあ。立派な態度ですこと。でも、それでいいのかしら。もう二度とわたくしから話しかけるなどということは無いかもしれないわよ。機会は一度きりということもあります」
「はい。まったく光栄なことでありました。ランバニア様のような気品ある御方と会話できるなど、どれほど感謝しても足りない名誉というもの」
ランバニアはしばらく笑顔のまま沈黙していたが、底意のある視線を絶やさない。
手の平に乗るものを放り投げるか、それとも慰撫するか考えているのかもしれない。
「……まぁいいわ。今日のところはこれ以上、立ち話を続けても意味が無いみたい」
ランバニアが合図をすると護衛たちが近寄ってくる。
彼らに守られてランバニアが身を翻し、宮殿のいずこかに姿を消した。
アベルは溜息をつく。疲れる相手だ。
どうにも食えない感じの王女。
信用するには材料がまるで足りていない。
それからどこに行けばいいのか考えていると、ナビド儀典執行官が姿を現した。
きっと離れた所から様子を覗き見していたのだろう。
一応、ナビドは男性であるけれども、お局のおばさんみたいな雰囲気だった。
小走りに寄って来る様子など、なよなよしている。
「これ! 奴隷アベルよ。ランバニア様が直々に何のお話でしたか。言いなさい」
「……世間話です」
「嘘を言うでありません! 奴隷ごときにそんなことで話しかけるわけがありませんでしょう」
ナビド儀典執行官は目を怒らせていた。
嫌な感じではあるが別に怖くはない。
「いや、本当ですよ。その……ガイアケロン様の元で働いていた僕に労いの言葉をかけてくださいました。寛大な王女様に感謝しています」
「……なるほど。いいでしょう。そう言い張るのでしたら私から差し出がましい事は言いません。ですが、立場を弁えずに出しゃばると直ぐに後が無くなりますよ。真面目に働いていればこの宮殿は居心地の良いものとなりますが、誤れば……分かっていますね? あとで助けてくれと言っても知りませんよ。ではこれからマジャンホ奴隷監督官のところへ行きます。ぶざけたりしたら最下級の奴隷にされますからね」
早口でべらべらと喋りまくるナビドにアベルは無言で頷き、再び宮殿を歩く。
やがて到着したのは奴隷監督官の部屋だった。
広い部屋に棚が幾つもあって、巻物や書類が詰まっている。
マジャンホという名の監督官は、どってりと太った五十歳ほどの中年男だった。
なぜか髪を伸ばしてポニーテールにしてある。
室内には他にも役人か奴隷か分からないが数人の者が働いていた。
「お前か。新入りの奴隷は。服を脱げ」
話の繋がりがあるのか無いのか良く分からないのだが、しかも最初の要求からそれかよと思わなくもないのだが、アベルは言われるまま服を脱いだ。
抵抗してもさらにややこしくなるだけだし……。
「下着も。靴もだ」
「……」
まったく一糸纏わぬ姿となり体を調べられる。
やたらと体が涼しくて情けなくなった。
周りが着衣しているのに一人だけ真っ裸だと自分が動物にでもなったような気がしてくる。
理屈を超えて立場や身分が落ちた感じがしてしまった。
奴隷監督官やナビド儀典執行官だけでなく室内の者たちもジロジロと不躾に見てくる。
こんな哀れな様子をカチェやアイラが見たらどう思うだろうか……。
それを考えると涙が滲むほど惨めだが、歯を食い縛って無理やり気分を変える。
ここで背中を縮めてもさらに消沈するだけなので堂々と胸を張ってやった。
大事なところが丸出しだが。
「これといって傷はないな。真っすぐ立て。手足の指を動かせ。よしっ、次は腕と足をその場で振れ。首もだ! 屈伸をした後は背中を反らせろ。それから左右交互に片足で立て」
次々と全身の動きを、くまなく調べられる。
まずは五体満足なのか確認するわけだ。
治療魔術は誰でも受けられるというわけではなく、怪我で障害が残るなどありふれている。
傭兵や軍人には片目や四肢欠損など珍しくもない。
肉体に不自由がないというだけでも、それは素晴らしいことだった。
「歯を見せろ。口を開けて、指で唇を捲れ」
奴隷監督官が歯と舌を見た。
何度も頷く。
「虫歯は一本もないな」
「歯は大切に……」
「目も動かしてみろ。右左、上下。あの壁に書いてある字を読んでみろ」
「善き奴隷とは口でなく手を使う……」
「よし、目は見えているな。ついでに字も読めると」
それから、なぜか局部をじろじろと見る。
さすがにこれは恥ずかしい。
「おい。お前。あそこは起つか。まさか不能じゃないだろうな」
「大丈夫に決まっているでしょ! それ、どういう質問なんすか……」
「女の奴隷なんか内宮だけでも千人以上はいるのだ。さらに言えば、やんごとなき貴婦人も数百人と。まぁ男はもっといるがよ。色々と使い道はあるだろうが」
「……男」
「間違っても王様の奴隷女に手を出すなよ。指一本だろうと触っただけで女ともども死罪だぞ」
これは別に脅しでも誇張でもないらしい。
監督官の表情が物語っていた。
この宮殿にあるものは全てイズファヤート王の所有物である。
奴隷女など王が犯したければその場で立ったまま犯してもいいわけだ。
そういう奴隷女と男女の関係になったりすれば……それこそ不敬どころでは済まない。
即座に打ち首か、もしかすると、もっと酷い刑罰になることすらあり得る。
肥満で頬肉の垂れ下がった奴隷監督官の質問は続いた。
オーツェルがでっち上げた偽の家系図に謁見推薦状のような書類を手にしていた。
「お前、なんか特技はあるのか。もと百人頭よ」
「字は読むだけではなくて書けます。あと計算も」
監督官は簡単な掛け算の質問をしてきたのでアベルは答える。
楽勝だった。
「あと特技っていうと他には料理かな。五百人分を作ったこともありますね」
「お前、戦士だったんだろう。普通はそこらあたりを自慢するもんだがな。魔法は?」
アベルは少し考えて治療魔術のことだけは伏せておくことにした。
切り札になるかもしれないので、ばれるまでは黙っていようという作戦だ。
「攻撃に使うような魔法や気象魔法がいくつか。後は剣を少々」
「いやはや……。奴隷アベル・クルバルカよ。お前はなかなか上等の奴隷だ。褒めてやる。まさに一級の奴隷だぜ」
褒められているのか貶されているのか良く分からない文句だった。
アベルは唇を苦笑で歪める。
「監督官様。一つ質問なんですが、いいですか」
「なんだ。言ってみろ」
「僕……別に罪を犯して刑罰で奴隷になったわけじゃないですよね。年季奴隷ってことでしょ。三年ぐらいで終わりにしてもらえますよね?」
「なんと馬鹿な男だ、お前は。あのなあ。お前は大王様との賭けに負けた上で処罰もされず奴隷にしていただける果報者だぞ。自分だってそれを望んだんだろうが。奴隷と言えども王様の直属になりたいと。だったら今から年季のことを気にしてどうする」
「でも、いつかは戦士に戻りたいです。一応、戦士の家系です」
「ふむ。しかし、お前は分類するなら財産的な破産者ということになる。大王様とお前は賭けたんだ。お前が勝てば将軍に取り立てるという条件でな。でも、お前は試練を超えられなかった。賭けに負けた。負けたからには身代金は払わないとな。筋は通せ」
「金ですか。幾らぐらいですか」
「さてね。お前に払えないぐらいなのは違いない。だから破産者だ」
「いや、ちょっと待ってください。その理屈はおかしい。それじゃ一生奴隷だ」
「では大王様に訴えてみろよ」
「……」
「ふへへっ! まぁ大王様が満足されるまで働けや。かえって人生の好機到来だぞ。認めていただければ出世もさせてもらえる。遣り甲斐があるだろうが。慣れれば居心地のいいところだぞ、ここは。奴隷仲間もたくさんいる」
「ブラックの理屈」
「ああ? なんか言ったか」
「何でもないです……」
アベルは黙るしかなかった。
金ならディド・ズマから奪って、商友会に預けたものがある。
足りなければガイアケロンに貸してもらうという手もある。
だが、金で解決がつくことではないだろう。
奴隷監督官からしてみれば勝負に負けた結果、奴隷となったと見るのだろうが。
アベルは考えてみるが、イズファヤート王の真意はよく分からない。
単に話の流れでああなったのか……本当に奴隷として働かせたく思って拾ったのか……。
あるいは鈍らな剣で罠に嵌めた以上、逃がすつもりはないのか。
おそらく百人頭の一匹ぐらい虫けら同等に考えているのは間違いない。
イズファヤート王はガイアケロンを警戒している。
そのはずだ。
彼は英雄と称えられ、それに相応しい肉体と頭脳を有している。
しかし、道具は思い通りになるからこそ使える。
良く斬れる剣が自らの意思で動くのだとしたら、安心して握ってなどいられない。
ガイアケロンへの牽制なのは確かだろう……。
それから、この宮殿でのことを想像してみる。
普通なら侵入するだけでも不可能そうなイズファヤート王の近辺に紛れ込んでしまった。
もしかしたら……信じられないような好機が来るかもしれない。
忽然と光差すような刹那。
王殺しの時。
――俺こそがイズファヤート王を殺す……。
考えただけで心臓が飛び上がるほど高鳴る。
根拠もないのだが、なぜか自分にはそういう瞬間が訪れるような気がする。
ただの妄念が生み出す虚構だろうか。
やるかやらないか……というよりは、我慢できるかという問い。
イズファヤート王の残酷さ。
ガイアケロンの怒り。
自分自身に渦巻く、激しい憎悪。
絶対的な存在だからこそ叛逆しなければならないという、噴火のような欲念。
それらが混ざり合い、底知れない力となる。
アベルは自分でも自分が分からなかった。
結果を考えずに、衝動に任せてしまうかもしれない……。
なぜ欲望に限って一度に爆発のごとく噴き出すのか。
健全な小さな幸せを捨てて、愚かと知って破滅を選んでしまう。
確実なのは、王を襲えば地獄に真っ逆さま、ということだ。
「よしっ。これで検査は終了だ。腰巻だけはこれまでのものを使ってよし。服と靴は没収だ」
質素だが作りは良く、それなりの値段がした服などが取られてしまった。
腰巻を奪われなかったのは幸いだった。
実は生地の中に金貨を一枚だけ縫い込んで隠してある。
いざという時、何かの役に立つだろうということでウォルターから貰ったものだ。
代わりに王宮付きの奴隷が着用することになっている木綿の服が渡された。
いわゆる貫頭衣で、言ってしまえばТシャツの裾が長いだけのものだ。
腰のところを粗末な麻紐で結んで、裾の長さを太腿のあたりで調節してやる。
着てみると、全く没個性となる。
それが狙いだと思われた。
きっと偉くなってくると、色々な装飾が許されていくのだろう。
アベルは派手な飾り羽がついた帽子を被る官人たちを思い出す。
奴隷監督官が大声で威圧的に言ってくる。
「アベル。今のお前は奴隷の中でも下級の奴隷だ。下級奴隷はいずれも履物は許されん。裸足で歩け」
「おべべも立派に新しくなって、すっかり奴隷って感じですね。こりゃ」
「おお。もと百人頭さん。不満なら頭と体の両方を使うんだな。取り合えず大浴場の掃除、ごみ捨てあたりからやらせてやるぞ」
「もうちょっと気の利いた職場を希望します」
ナビド儀典執行官とポニーテールの奴隷監督官は、二人そろって陰湿に笑った。
それから奴隷監督官は机から鞭を取り上げて、軽くアベルの腕を叩く。
弾けた、軽快で鋭い音がする。
アベルは腕に走る痛みに顔をしかめた。
「くだくだ言ってないでやるんだ! それがここの掟だっ」
「奴隷アベル。お前なら確かにいずれは読み書きを使った上級奴隷になれるかもねぇ。けれど、始めはきつくて辛い仕事をさせますからね。さっき言ったでしょう。五年は雑用と。
じゃ、これから係の奴隷に案内させます。私たちはお前みたいな下級奴隷に本来はこれほど手間を取らないものなの。お前の場合は王族様方々といくらか顔見知りですから特別に手間暇かけてやったのです。さぁさぁ働いて!」
アベルは別の奴隷に連れられて監督官の部屋を出た。
案内してくれるのは三十歳ぐらいの男の奴隷だ。
裸足であるから同じく下級奴隷なのだろう。
――五年雑用ね……嘘っぽいな。
たぶん脅しだろうと思う。
落としておいて、後から少しずつ飴を与える……。
そうすると犬と同じで、やがては残飯に尻尾を振るようになる。
でも、そうじゃないかも。
本当に雑用かもしれない。
考えても仕方なかった。
案内の奴隷はホルモズという名前だった。
十歳の時に王宮付きの奴隷となって、勤めること十九年だそうだ。
その間、ずっと下級奴隷……。これからも確実に同じ階級。
死ぬまでここで働くわけだ。
「ねぇ、アベル。僕はたまたま見ていたんだけれどアベルは王族の方と親しいんだ。凄いね」
「ガイアケロン様の配下だったんだよ」
「ははあ。それが奴隷とはね。残念だったな」
「まあね」
大理石で造られた宮殿を歩く。
内部を把握しておくに限るので、道順や建築構造などを頭に叩き込んだ。
やがて大浴場に辿り着いたが、そこは圧倒的な広さと豪華さだった。
床は白い大理石、壁には青空よりも鮮やかな藍色タイルが隙間なく張られていた。
窓から陽光が降り注ぐように巧みに設計されていて、透明な水を煌めかせる様子は息を呑むほど美しい。
特に巨大な浴槽が中央に配置されていて、その周りに様々な種類の風呂が十種類以上はある。
湯加減の違うものや薬湯などであるらしい。
アベルが思わず視線のやり場に困るのは、十数人の女性が入浴中であることだった。
それぞれが数名の女奴隷を侍らしていることから、おそらくイズファヤート王の側室であろう。
いずれも、ほぼ全裸か、あるいは湯浴み用の絹の薄着を身に付けているだけだ。
彼女たちは浴室で働く男の奴隷など気にもしていない。
これはブラシに羞恥心など湧かないのと同じで、奴隷を完全に道具であるとしか見なしていないのだった。
妙齢の女たちは肉感的な肢体を無造作に投げ出していた。
露になった乳房や太腿が鈴なりになった果実のようだ。
イズファヤート王のために饗された女だけあって、いずれも秀でた目鼻立ちをしている。
大きく膨らんだ胸の隆起に、お湯が滴り落ちている……。
アベルは溜息を吐いた。
うっかりあれらを収穫でもしようものなら即死罪なのだから……なんだか罰みたいな環境だった。
なるほど。これは下級の奴隷にお似合いらしい仕事だ。
掃除が始まった。
なにしろ広い。
とはいえ汚れなど許されようもなく、四つん這いになってひたすら軽石などで磨く。
あるいは華やかに意匠を凝らしたモザイク画も壁や床に施されているので、そこも繊維質の束で丁寧に磨く。
これが結構、力が必要で単調。
アベルは汗だくになりつつ無心に作業を続ける。
しかし、頻繁に裸の美しい女が直ぐ傍を歩くものだから平常心ではいられなかったが。
たちまち時間は夕方となった。
アベルたちに労働終了が言い渡される。
浴場には蝋燭で灯りがともされて、まだ入浴を続ける女性がいるものの、夜に掃除はしないことになっているようだった。
アベルは汗を掻いて気持ち悪いので隅の方にある誰も使っていない浴槽から桶でお湯を汲み、ざぶりと被る。
顔と頭も洗って全身がすっきりする。
ホルモズが慌てて言った。
「アベル。やめろって。どうやって乾かすんだよ」
「魔法が使えるから」
「え……」
手早く済ませてから熱温風の魔法で濡れた服と体を乾かした。
「なんだよ。アベルは魔法が使えたんだな」
「奴隷になったら意味ないけれどな」
「そんなことはないさ。魔法があるなら下級奴隷はすぐに終わって出世できるぜ」
「さてね。そう上手く行くか」
なにしろ広い浴室なので、隅の方でアベルがそうしたことをやっても誰にも咎められはしなかった。
その後、奴隷仲間のホルモズに連れられて奴隷用の食堂までやってきた。
宮殿からは離れた石造りの建物にあるのだが、食堂などと言っても椅子や机はない。
列に並んで食べ物を受け取り、床に座って食べるのである。
ゆうに三百人ほどはいると思われる奴隷たちがそうやって食事をしていた。
アベルは粗末な素焼きの皿に入っている食事を受け取った。
一つの皿には麦の粥に、干した魚の欠片が入っている。
もう片方の皿には塩味らしいスープの中に玉葱や青菜が浮いていた。
アベルは黙って口にする。
別に不味いわけではない。
こんなものでも王都の乞食がありついている腐ったゴミに比べれば、だいぶましだ。
戦場では温かい料理のほうが珍しいぐらいで、固くなったパンを葡萄酒で流し込んだことも数え切れない。
ただ、エイダリューエ家での豪華な食事を思い出してしまうと悲しくなってくる。
食事のあと、ホルモズに連れていかれたのは奴隷の宿舎だった。
入口のところで粗末な羊毛の布を一枚だけ受け取って、あとは中で寝るだけだった。
内部では無規則に、おのおのが好きな姿勢で横になっているので雑然としていた。やはり二百人ほどがそうしている。
出入口は扉で閉じられて、夜間は自由に出歩けない。
鍵は閉められないらしいが、衛兵が見張っている。
奴隷が用事もなく宮殿をうろついても良いことなど何もないというわけだ。
アベルは考えてみれば、今日はあまりにも多くのことがあり過ぎた。
ついにイズファヤート王に出会ったと思えば、今や奴隷だ。
ハーディアとの別れ……。
あの濃厚な情念の絡み合いは、何であったのだろうか。
この上もなく高貴な美姫が惜しげもなく体全体で抱き締め、慰めてくれた。
夢みたいな出来事。
纏わりつくような香しい匂い。
ハーディアの長い睫毛の奥に、不安とも喜びとも受け取れる感情があった。
想像は転じてカチェの面影となる。
別れ際……無事に済むとか、大丈夫だとか、そんなように説得した覚えがある。
あの説明は嘘と言えば嘘だった。
もしガイアケロンとハーディアが命懸けの叛逆を仕掛けるのなら、どうなってもいいから協力する覚悟は決めてあった。
カチェとシャーレさえ無事であれば……。
カチェの顔を思い出していると、どうしたわけか固まったはずの覚悟も揺らいでくる。
出来るか分からないが、宮殿から逃走してカチェと合流するか。
しかし、そうしたところでガイアケロン軍団には戻れない。
もし舞い戻ったところを匿われたとして、それがヒエラルクにでも見つかったら大変なことになる。
王族兄妹を危機に陥れることなど以ての外だ。
――やはり、ここは一人きりでもイズファヤート王を道ずれに……。
そんなことを考えれば考えるほどカチェやイースを思い出してしまう。
風に舞う美しい紫紺の髪や、艶めかしい肌などが生々しく脳裏に再生された。
――別の方法でイズファヤート王を殺せないだろうか。
あるとしたら、どんな手か。
以前、アスが唆してきた。
少人数で殺せないのなら、大軍を用意すればいいと。
たった一人、徒手空拳の奴隷が大軍団を興して王と戦う。
陳腐な、というよりも狂人の妄想……。
妄想ではあるが確かに存在した。
アベルは己の心のうちに不遜な禍々しい欲望を見る。
王都を焼き滅ぼして、数え切れないほどの死体を積み重ね、その頂点にはイズファヤート王の首を掲げる。
夥しい、大河のごとき血を流しても後悔する良心などもっていないはずだった。
整然と歩む大軍団。
世界で最も豪壮華麗な宮殿は、巨大な業火に崩れる。
貧窶たる奴隷も栄耀を極めた貴族も関係なく、死んでいく。
王を殺すために、さらにそれを上回る大きな暴力を振るう。
アベルの血潮が熱くなる。
興奮。
恍惚感。
己が本当に欲しいものは、そういう景色なのではないだろうか……。
~~~~~~~~~
ガイアケロンがエイダリューエの邸宅に戻ったのは夜中を過ぎて、明け方に近かった。
大謁見が終了したあとには、有力貴族から次々と面会依頼があった。
公式のものもあれば、非公式に極秘で会いたいという要求もかなりの数だった。
本当は人に会いたい気分ではなかった。
それでもガイアケロンは心を押し隠して、人々に会わなければならない。
次々に現れる面相の醜さ。
どいつもこいつも姑息に利益を掠め取ろうという顔だった。
思わず捻り殺したくなる。
首を掴んで搾り上げれば造作もないことだが、やっとのことで我慢した。
笑顔の裏の憎悪。
心に渦巻く、怒り。
アベルを失ってしまった。
全身を叩かれたほどの激しい衝撃。
アベルとの別れ際、強く理解した。
あの青年は、実は友だったのだ。
理由すら必要ない、不思議な共感。
魂が似ていたのだろうか……。
片腕斬りを命じられた時、思わず理性を失っていた。
長い間、心で養われていた怨念が牙を剥いていた。
しかし、アベルは必死に伝えてきた。
耐えろと。
平静を取り戻して、従順の仮面を被った。
それが正しい。
あの謁見の場で襲い掛かったところで、返り討ちになっていた。
それでは父親は殺せない。
必ずあの男の心臓を体からひきずり抜いて、握り潰すと誓っていた。
ガイアケロンは自分の甘さを呪いたくなる。
父の理不尽さと暴力は、想像を超えていた。
分かっていたつもりが、まだ足りなかったということだ。
それからリキメルへの非情な処断。
彼もまた冷酷で陰謀を好む兄ではあったが、それにしても惨すぎる。
あれほど悲惨な光景を直視しても、しかし、ガイアケロンの心は恐怖を知らなかった。
代わりに怒りが赤々と燃え盛っていた。
外宮で面会を終えて、夜の王都を馬で駆けた。
激しく責めた馬は鼻腔から息を吹き出し、堅牢な前肢は王都の街道を蹴立てていた。
近衛たちは付いてこれずに、辛うじてハーディアとギムリッドだけが後に続く。
瞬く間にエイダリューエ家へ戻ったが、興奮で眠ることなどできない。
まず最初に安全のため王都に潜伏させていたカチェ・ハイワンドを呼び出した。
謝らなくてはならなかった。
謝罪したところで許されるとも思えないが。
アベルとカチェの睦まじさを知らないはずがない。
二人は主従だという説明であったが、時として恋人のような気がするほど親密でもあった。
戦場でもどこでも、常にカチェがアベルへ寄り添っていた。
形式的にはカチェの方が上の立場であるのに、どちらかと言えば彼女のほうが従っていた気配もあった。
エイダリューエ家にある秘密の皆合室でガイアケロンとハーディアは待つ。
ギムリッドに秘密同盟の件は伏せてある。彼には場を離れてもらった。
やがてオーツェルに連れられて部屋に入ってきたカチェ。
アベルが居ないことをすぐに察した。
麗しい顔に、不穏な陰が差す。
「ガイアケロン様。アベルの姿がありませんが……」
「我は詫びなければならない。望むなら、この頭を地につけて謝罪しよう」
「どういうことですか」
「アベルは父王に命じられて、王宮付きの奴隷にされた。我には止めることができなかった」
カチェは虚を突かれたように身を強張らせ、目を見開いた。
ハーディアには声を掛けることが出来なかった。
アベルへの恋心やカチェへの同情心などが混じり合い、思考が上手く整わない。
語るべきことが分からくなくなってきた。
オーツェルが無表情のまま口を開く。
常に冷静なはずの累代に及ぶ大貴族の血族が、その額に汗を垂れていた。
「皇帝国テオ皇子の密使にしてハイワンド公爵家の身内であるアベルの身柄を失ったのは、私の責任だ。必要ならまず私の首を差し出す。もし秘密同盟の決裂になるのであれば、まず私の首で許してほしい」
沈黙。
やがて俯いていたカチェが、ゆっくりと面を上げる。
ハーディアやガイアケロンまでが、思わず小さく呻いた。
愛する男のために、時には人を食い殺すという夜叉の凄みが、その美しい顔貌にあった。
蒼褪めた血色、気圧されるほどの睨み。
ハーディアは宥めることもできなかった。
「お前の首には、アベルの髪の毛ほどの価値もない。それで取引しているつもりか」
身も凍るような声質だった。
「よくも……わたくしとアベルを騙しましたね。信用したのが間違いでした」
「ま、待ってくれ。カチェ嬢。アベルが別れ際にハーディア様へ頼んだ。いまは事を荒げるのは得策ではないと。少し時間を置くと。救出するのは先の話だ」
「お前の話は信用できない。わたくしは勝手にやらせてもらいます」
「待て待て! 外宮までならエイダリューエ家の力で出入りは可能だ。そこからは……まだ考えさせてくれ」
扉の前で懇願するオーツェルだったが、カチェは刀の柄に手をかけていた。
紫の眼つきには器物を見る冷たさが宿っていた。
対する者に粗末な花瓶ほども愛着を持っていないのが知れる。
「もう、お前は間合いに入っています」
「斬るか……私を。だが、仕方ない」
「価値はありませんが、そうまで言うのなら貰ってあげます。もっとも首など腐るだけなので捨てていきますが。……それがいいでしょう」
待ってくれ、と声を掛けたのはガイアケロンだった。
席を立ち、カチェの足元で片足を付けて跪く。
「アベルの顔に諦めはなかった。自分で何とかすると、そう自信を持っていた。男が覚悟を決めていた。だが、君が裏切られたと思うのは当然だ。ただ、アベルのために我慢してくれ。もし、ここで君に何かあれば今度こそアベルに謝ってもすまされない」
カチェは沈黙する。
これまで言葉を発しなかったハーディアが語り掛けた。
「アベルはこうも言っていました。任務はもう終わりだと。それより兄に力を貸したかったと言ってくれました。アベルは逃げ出すつもりです。様子を見ましょう」
「……ガイアケロン様。どうか膝を上げてください。わたくしに膝をつくなどあってはなりません」
「カチェ。許してもらえたか」
「ハーディア様の涙を見てしまえば、考えも変わります」
ガイアケロンが振り返ると、妹の瞳から一筋の涙が流れているのを見た。
涙は朝日に照らされて、美しく輝いている。
妹の涙など、いつから見ていないだろうか。
雨にぬかるんだ道で踝まで泥に浸かり行軍を続け、凍える寒風に晒され、死人の埋葬を続けた日々。
どれほど悲惨な日にも妹は泣かなかった。
しかし、不思議なのは妹ハーディアの顔に悲しみはないのだった。
むしろ、何かを信じる兆しだけがある。
妹にそうした顔をさせるのはアベルの存在に違いない。
カチェは黎明の空に祈る。
アベルの無事を……。
しかし、祈る以上に執念じみた気持ちを滾らせていた。
待っていて、アベル。
必ず助けるから。
次回未定です……。




