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獣の見た夢  作者: MAKI


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薔薇の心




 

 ハーディアは激しく鼓動する心臓を押さえるつもりで胸に掌を当てた。

 自分の意思を無視して体が反応している。

 想像を超える事態の連続に目が眩みそうだった。


 片腕斬りに応じようとするアベルを止めようとした。

 思わず父にこの場で逆らおうともした。

 だが、彼は言葉とは裏腹に必死に制止してくる。

 兄の配下を辞めると口にしても、それは嘘に決まっていた。

 心と心が繋がった時。

 今は耐えろと、心の中で叫んでいた。


 ハーディアの脳裏に刻まれる光景。

 アベルが高々と短剣を掲げ、自らの腕に振り下ろそうという瞬間。

 残虐と気高い意志が火花を散らして衝突する。

 なんと美しいことか。

 勇敢な瞳は獰猛さだけでなく、何かをどこまでも希求していた。

 初々しい唇を抉じ開け、白い歯を食い縛って、しかし、無上に高貴な顔貌。

 輝いていた。


 振り下ろされた短剣。

 自分の肉体を破壊するために目指したとは思えないほどの鋭い勢い。

 ハーディアは息を呑み、腕の断絶を確信した。

 しかし、剣は不自然なほどアベルの腕の中で止まった。


 血が飛沫となって飛び散る。

 頬に血の滴をつけたアベルの獰猛な表情。

 狂気と理性。殺意と優しさ。

 あらゆる矛盾が渾然一体となってアベルの内に存在していた。

 こんなにも惨い光景だが、一生忘れられない感動がある。


 その刹那、ハーディアは克明に自覚した。

 愛と恋が明瞭に姿を結んでいく。

 まるで闇夜の嵐が過ぎ去ったあと、暖かな曙光が空を照らし出すようにアベルへの鮮烈な想いが心へ広がっていく。


 私はアベルを愛してしまった。


 おそらく自分の生命は短く、その間に兄を超える男に出会うことは無いだろう。また、それで悔いはない……そう無邪気に信じていた。

 しかし、現実は転変していた。


 なお恐ろしいことに愛した直後、別れが避けられなかった。

 アベルは奴隷として怨念積み上がる父に召し上げられた。

 ついに何も出来なかった。

 全て見過ごすしかなかった。

 愛情が熱量を増すほど逆に、父への怒りと憎しみはさらに色濃くなる。


 儀典が進行していく。

 ハーディアが視線を巡らせれば乳飲み子を抱えた女が二人ほど見いだせた。

 手の込んだ化粧をして、肌の露出が多い魅力的な服を着た若い女性。

 二人ともそれぞれ美貌を誇っていた。

 席の位置から後宮の女であるのが分かる。

 赤子の父親はイズファヤートに他ならないだろう。

 いったいどこに何人の実子がいるのか誰にも分からない。


 赤子たちには無言の圧力と餌という二つの意味がある。

 先に生まれた子供たちへは、お前の代わりなどいくらでもいるのだという警告。

 欲望を持った貴族や商人に対しては、操り人形としての価値。

 まるで市場の品評会だった。


 イズファヤート王が手に持つ笏が振るわれ、シラーズを指していた。

 ついに名を呼ばれたシラーズが、普段は滅多に崩れることのない冷静さを消し、今は歓喜の表情を浮かべていた。


「父王様! このシラーズは敵と戦ったうえで父王様に拝謁叶うことを夢見ておりました。どうか私を王道国の将としてお認めください。皇帝国と戦うことだけがシラーズめの望み。王族として振る舞えないのでしたら、そんな人生に意味はありません」

「最前線で勇敢に戦ったこと聞き及ぶ。シラーズよ。ようやった」


 父からの短い、たった一言にシラーズが感極まり、頭を垂れた。


「しかし、やはり戦果には不満があるぞ。ヒエラルクからの報告では弱兵ばかり率いたそうだな」

「それは……貴族たちの助力を受けられなかったせいです」

「おお。そこな商人が兵を用意したそうだな。お前、名乗りを許す」

「大王様。私めはラカ・シェファと申します。王都にて広く商いを営み、商神の加護があり成功いたしました。このうえは王道国に身を尽くしたくあります」

「お前には功績と罪の両方がある」

「なっ。つ、罪、ですと?」

「お前は腐った林檎を売りつけた商人に感謝しろというのか」

「兵は……兵の不手際は私のせいでは……」

「ではシラーズの責任か」

「そ、それも違います」

「いずれにしても充分とは程遠い働き。今後が思いやられる。それ故に功罪は明確にする」

「次こそ、次こそはっ!」

「王は罪のある者を叱るだけで終わらせると言うことは無い」

「……」


 圧倒的な王威、相対する人間を委縮させ思考力を奪う。

 言葉を繋げることのできないラカ・シェファが肥満した顔を青くさせていた。

 まるで屠殺されるのを理解した豚のようであった。


「まずお前を貴族に列してやろう」

「へ?」


 罰と言いつつ、矛盾した宣言。

 本来、商売で鍛えた、巧みな弁舌があるはずのラカ・シェファが一方的に翻弄されている。


「ただし、貴族は王族に尽くして力及ばぬ時は代償を払うものだ。先の例に倣い、此度も腕一本といたそう」

「そ、そんな! 片腕断ちなどと! そんなっ!」

「王道国の貴族になりたくないと言うのか。ならばお前の持っている富は没収のうえ追放とする」

「なぜ、なぜ! 間尺に合いませぬ!」

「悪き商人として罰を受けるか、誇り高い貴族として罰を受けるか、すぐに選ぶとよい」


 あまりのことにラカ・シェファは、口を開けたり閉じたりさせている。

 居並ぶ数百人の貴族たちは、陰湿な笑みを浮かべている者が大多数だった。

 いくら莫大な金を持っているからといって、適当なゴロツキを集め、ひとしきり王族を支援したぐらいで簡単に成り上がられては面白くない。

 戦争はそんなに容易くないのだと、高みの見物を楽しむ。


「自分で自分を腕を……それだけは無理ですっ。お許しを!」

「シラーズ。お前が選んでやれ。商人として罰を受けさせるか、貴族の名誉か」

「父王様。考えるまでもありませんな」


 帯剣を許されていないシラーズを見たヒエラルクが前に近寄り、自分の愛刀を授けた。


「シラーズ様は筋の良い方にて。上手くやられることでしょう。こら、シェファ。大人しくしておれ。お前の腕がしかと捧げられねば斬るのに仕損じてしまうぞ。王子に迷惑をかけさすな。ほら」

「あ、ああ……」


 シラーズが冴え渡る手並みで大振りの刀を抜き、鋼の白い輝きが光る。

 まったく美男子と評してもいいシラーズの顔に表れた酷薄さが、しかし、その面相に良く似合っていた。


「シェファ。私はお前に感謝しているのだ。晴れて貴族となって私に仕えよ」


 呻くラカ・シェファの腕がヒエラルクによって無理やり伸ばされ、シラーズは大上段に刀を掲げる。

 まるで迷いの無い、いわば見事としか言いようのない一閃。

 前腕の半ばから小気味よいほど、すっぱりと腕が落ちる。

 動脈から血が噴き出す。


「痛いいぃぃ! 痛いいいぃぃ!」


 脂汗を流し、大口を空けて絶叫するラカ・シェファ。

 王の直属らしい治療魔術師が近寄り、傷をたちまち癒した。

 アベルは父ウォルターから、断絶した直後という条件付きで強力な治療魔術師ならば肉体を繋ぎ治せると聞いたことがある。

 もっとも、この場合は刑罰なのでそうした試みはされないのだが。

 肩で息をするラカ・シェファが床に落ちた己の手首を、悲哀の籠った視線で見ていた。

 シラーズがイズファヤート王へ快活に報告する。


「これにてシェファの罪は償われました。どうか今後とも我らの働きを御照覧あれ」

「よかろう」

「シェファよ。寛大な父王様に頭を垂れ、感謝の言葉を。罪を赦された上に貴族の身分まで賜ったのだぞ」


 ラカ・シェファは平伏するや大声で王を称え、シラーズともども謁見を終える。

 ハーディアから見たところ、片腕を失ってまで貴族の地位を得たうえは、あの欲深い男のことなので今度はさらに屈辱と野心を燃やして、これまで以上にシラーズへ投資をするだろう。

 損切りするには失ったものと得たものが大きすぎる。

 完全にイズファヤート王に心を掴まれた。

 人生の全てを賭けに使わざるおえなくさせられたわけだ。


 だが……この謁見を経てシラーズに見込みありと認めた者も、さぞかし大勢いることだろう。

 新たな支援者が現れたところでシラーズがどのように対処するか。

 ラカ・シェファは襤褸切れになるまで使い倒されて、体よく捨てられるのではないだろうか。

 そうしたことに巻き込まれないように注意する他ない。


 いよいよ大謁見は最後の儀式に移っていく。

 リキメルの王統除籍だった。

 イズファヤート王は最後の慈悲と称して命までは奪わないと、そう言いはしたが、しかし王統から省かれる男子は陰茎と陰嚢を切除される慣わしだった。


 黄金を延べて作られた大皿を儀官が恭しく運んできた。

 何もこれほど多くの者がいる前で行わなくともとハーディアは思うが、だからと言って儀式が中止になるはずもない。

 いま、リキメルの派閥が崩壊の時を迎えていた。

 ビカス・カッセーロが中心となって二十年ほど続いた努力が、泡沫となって消える。


 リキメルは正気を失いつつある。

 首を左右に振りつつ、譫言のような意味不明の言葉を発していた。

 肩を掴まれ、捻じ伏せられると横に寝かされ、腰巻を外された。

 白い布で施術される部分を覆い隠す。

 それから王宮付きの、特に患部を切除することに秀でた医者が姿を現した。

 全くまともな意識を失ったリキメルの口に猿轡を噛ませ、四人の奴隷がそれぞれ両手両足を押さえつけた。

 医者の手捌きは速かったのだと思う。


 リキメルのくぐもった悲鳴が、長く長く続く。

 涙を流して体を動かそうとしているが、当然、何も出来ない。

 白い布に血が飛び散る。

 煌めく黄金の皿に腸詰のごとき肉塊が載せられていた。

 ハーディアなどは我慢すれば見届けられないことも無いが、男性の多くは目を逸らしている。何か滑稽だった。


 王座から見下ろすイズファヤート王へと、儀官が証拠の品を優雅なほど丁寧に捧げた。

 頷く父親。

 リキメルは傷口を治療魔術師によって治されると、そのまま奴隷たちによって運ばれて行った……。

 リキメルの視線はどこも捉えてはいなかった。

 廃人。

 ただその言葉しか浮かばない。


 恐怖と支配、栄光と絶望が万華鏡のように代わる代わる転変した謁見が終わろとしていた。

 王道国を支配している者だけが唯一、腰掛けることを許されている巨大な座具からイズファヤート王が立ち上がった。

 装飾の粋を凝らした絢爛なる伽藍から悠然と出ていく。


 全ての拝謁者はそれを見送る習わしだった。

 イズファヤート王を無視できる者など一人として居ない。

 尊崇、畏怖、慄き、あるいは固く心を閉ざした者……。


 アベル、ガイアケロン、ハーディアが王の背中を見送る。

 隠してはいたが、焔よりも熱い怨念をそれぞれが内に秘めていた。

 イズファヤート王に付いて警護の衛士、ヒエラルクらなども姿を消していった。

 王とその一行が完全に退室する。


 典礼では次に王族が伽藍から出て行くはずであったが、ハーディアはもはや堪えられず進行を無視した。

 また、ここでアベルと別れてしまえば次に会えるのは何時になるかも分からない。

 この機会を逃すことは絶対に出来なかった。


 儀典執行官の側に佇むアベルのもとへ優雅に歩んでいく。

 数百人の貴族たちは、いまだ退室せず事態を見守っている。

 イズファヤート王が去ったあと、全ての者たちがガイアケロンとハーディアに注目しているといってよかった。

 羨望、憧れ、称賛、嫉妬、憎しみ、恐怖……。


 先ほどの珍事は見物であった。

 イズファヤート王の褒美に、餓えた犬のごとく飛びついた百人頭。

 だが、王宮軍団の将として認められんがため行った片腕斬りは無様に失敗した。

 寛容に出世をさせてくれたガイアケロン王子を素早く見限り、しかし、試練も乗り越えられなかった青年は奴隷となる。

 そんな相手にハーディア王女は何の用事であろうか……。


「奴隷アベルよ。話があります。ついてきなさい」


 ハーディアへ、お待ちくださいと恭しく制止の声を掛けたのは儀典執行官だった。

 ナビドという名の儀典執行官は四十歳ほどの男性であるが、いかにも権力者へ(おもね)るのが巧みな印象がある人物だった。髭を生やしていない面相は、どこか噂話が好きな中年の女に近い。


「姫殿下。この者は既に王宮付きの奴隷です。いわば王の財産。例え姫とあれども勝手なことはおやめ下され」

「財産とな。私の要件もまさにそのこと。……実はその者とは貸し借りがあります。奴隷となったのは承知していますが、借金について話しておかなければならないのです」

「なんと……」

「すぐに済むことです。控室まで同行させなさい。執行官、貴方も付いてくるのです」


 有無を言わせずハーディアは勢いで押し切る。

 アベルは頷き、王女の元へと小走り近寄った。

 周囲から好奇心とそれ以上の嫉視を矢のように感じる。

 ハーディア王女から声を掛けられるというだけでも大変な名誉であるのに、もはや一介の奴隷風情ごとぎが、という空気を理解した。


 今日、謁見となったこの日にハーディア王女の姿は美貌と艶やかさにおいて、王道国で並ぶ者が無いかもしれない。

 純白の、(ドレープ)の連なりが靡いて華麗な長衣。

 肩から胸元まで襟は開いて、絹のように滑らかで健康的な肌が人の眼を惹きつけて止まない。


 男とあれば……誰でも狂うような女。

 しかも、王族で、戦えば負け知らずの強さだった。

 思わず権謀術数の計算を無視して、近づきたくなる、あわよくば親しくなり……そういう妄想を掻き立たせられる。


 だからこそ陰で、あれは傾国の女だと噂する者もいた。

 そのハーディア王女が奴隷を一人、呼び出して元の位置に戻る。

 衣服の上からでも逞しい筋骨を感じさせる長身の兄ガイアケロンと共に伽藍を出て行った。

 

 象牙の彫刻で作られた扉を潜り、広い廊下に出てからギムリッドが振り返り言った。


「アベル。お前の変わり身の早さには驚いた。私はお前の忠義に少なからず感銘を受けていたのだが……しかし、責めはせぬぞ。大王様の将になりたいという望みに答えるのは当然だ。結果は残念だったが」


 ギムリッドは口ではそう言ったものの本心とは異なっていた。

 やはり財宝と出世に目が眩んだか、と感じる。

 責めなかったのは単に年若いアベルの破綻に追い打ちをかけるような真似をしたくなかっただけだ。


 アベルは曖昧に笑って、だが沈黙したまま答えない。

 弟オーツェルの顔は強張り、酷く不機嫌で懊悩のそれになっているとは気づかなかった。

 割り当てられた専用の控室の前まで来た。

 ハーディアはアベルを手招きをして中へと導く。

 ナビド儀典執行官が同室しようとしたところで、態度を急変させた。


「執行官。王族の財産にかかわる話を立ち聞きさせるわけにはいきません。部屋の外で待機しなさい」

「姫殿下。何を無体ことを申されるのですか。それでは困ります。そういうわけには」

「お前は控えよと命じています! 無礼者め。私に恥をかかせるつもりですか」


 唐突な、激しい怒気。

 世に稀有なほどの美貌をしたハーディアは、しかし、それでいて数え切れないほどの敵を自ら倒してきた猛者でもある。

 不意打ちのごとく、真の気迫を帯びた言葉に儀典執行官が怯み、動揺した。

 ハーディアはアベルの背中を押して部屋に入れ、自分も続く。


「お兄様。お願いします。少しの間だけ二人きりで話をさせてください」

「分かった」


 ハーディアは扉が閉じられたのを確認してからアベルに向き直る。

 父王の残忍な暴虐に耐えた青年。

 自ら肉体を深く傷つけ、赤い血潮を流して耐えたアベルの瞳が、見つめ返してきた。

 憂鬱で、どこか夕闇のように仄暗く、しかも餓えた視線だった。

 胸が甘く傷んだ。


「貴方に確かめなければならないことがあります。あの時、私と兄を止めましたね。……まさかとは思いますが、私たちに叛意があると想像したのですか?」

「ガイアケロン様の立場が悪くならないようにと、そう思っただけです」

「それで、自分の腕まで切り落とそうとしたと。愚かなひとね」


 ハーディアはアベルを抱き締める。

 ついに……やってしまった。

 我慢できなかった。

 血の噴き出る闘争を経た男の匂いがする。

 思わず、さらに力が入ってしまう。

 過去を振り返れば、いつからか異様な魅力をアベルに感じていたのだった。


 アベルの体は逞しいが、それでいて意外なほど柔らかいのを知った。

 服を隔てた抱擁であるのに、よほど興奮しているせいか肉体の熱さが瀑布のように感じられた。

 まるでお互いが裸であるような気すらする。

 この熱い体も燃えるような気高い精神も、本当に死と共に砕け散ってしまうのだろうか。

 その儚さを思うと気が遠くなる。


 だが、それと反するようにハーディアの脳裏には幸福の景色が浮かんでくるのだった。

 世では己を戦姫などと持ち上げてくるが、その幸せな空想はなんとも平凡なものだった。

 静かな森、手を繋ぎながら二人で散策し、語らうような……。

 市井の小娘が持つような細やかな想いだが、それも悪くもないと考えながらアベルの顔に視線を転ずれば、彼は頬を赤くさせていた。

 思わず少し笑ってしまう。


「貴方は初心ですね。といっても、私とて()したる経験はないのですが……」

「な、なにを……。これって……あれ?」

「貴方が愚かなら、私はもっと愚かな女です」


 愛している、とは告げなかった。

 伝えたところで逢瀬すら叶わない。

 心の中の幸せを、秘密の小箱に仕舞うようにした。


 アベルは柔らかな拘束を解いたハーディアを呆然と見た。

 なんと温かく、豊かな体であっただろうか。

 どこまでも跳ね返ってくる乳房や、赤銅と黄金を混ぜ合わせた色合いをした豪奢な髪の香しさ。

 恍惚となり、名残惜しい刺激。


 ハーディアをそういう対象として見たことは無かったはずだ。

 恐ろしくなるほどの美貌ではあるが……心に叛逆の念を持つ仲間のつもりだった。

 きっと激しい興奮が原因で、お互いに勘違いをしているのだとアベルは自分に言い聞かせる。

 心に渦巻く欲望は、愛などと呼ぶには相応しくない。


 長くない時、二人は瞳を見つめ合う。

 信頼、真心、共感……言葉にしてしまうと、たちまち別物に成り兼ねない気持ちが形を取らずともそこにあるのが理解できる。


 扉の外で何か話し声が聞こえてきた。

 ハーディアは時間が迫ってくるのを悟る。


「……アベル。さて、財産の話とは別に嘘ではありません。奴隷には色々と種類や立場がありますが、少なくとも貴方には財産の所持が認められないでしょう。奴隷に個室が与えられるのはよほどの働きがあればのことです。そうでなければ何歳になっても大部屋の片隅に寝起きするもの。持ち物など限られるのです。だから貴方の私物は預かっておきます」


 アベルは突然と態度を冷静にさせたハーディアに驚く。

 女の豹変は魔法よりも鮮やかだ。


「刀や所持金はカチェ様に渡してください」

「どうやって貴方を助けるか、まだ策はありません。待っていなさい。決して見捨てたりしません。約束です」

「いや、僕のことは忘れてください。貴方たちは近いうちに戦線へ復帰しなければならないうえに敵対者から監視されています。今も、危ういでしょう。さっきだって視線が怖いぐらいだった。下手なことをすればどんな罠に嵌るか分かりません。ここは僕を無視してください」


 ハーディアは今しがたまで見せていた冷静さを再び崩した。

 流麗な(まなじり)が吊り上がる。


「それは……! それは出来ませんっ」

「もう例の任務は終わりです。実は言うと始めから、それほど大切なことではありませんでした。それよりもガイアケロン様に力を貸したかったんだ」

「アベル」

「僕は僕で何とかします。機会があれば逃げ出すとカチェ様には伝えてください。さて、そろそろ出ないと。ガイアケロン様に別れの挨拶をしておきましょう」


 アベルは精巧な鳥獣文様の施された扉を押し開けた。

 広い胸郭が視界を覆う。

 ガイアケロンだ。

 飛び込んできた彼の視線に気遣い感じられる。

 父であるイズファヤート王の瞳の色に似ているのに、違いは明瞭だった。


「ガイアケロン様。話しは済みました。子細はハーディア様に聞いてください」

「もう、これでお別れなのか。そうは思いたくない」


 アベルは視線を巡らす。

 儀典執行官の姿が見える。

 軽々と会話するわけにもいかない。

 それから、思わず二度見した。

 廊下の奥からディド・ズマが歩いてくる。

 悪趣味な黄金塗れの姿。見間違えるはずもない。


「ディド・ズマが……」


 アベルのその言葉に全員が反応した。

 ギムリッドなど、あからさまな敵意が面相に現れる。

 アベルは背伸びしてガイアケロンの耳元で囁く。


「またどこかで。きっと、必ず」

「アベル。お前はもう俺の配下じゃないからな。友よ。俺はずっとそんな気がしていた」

「友……」

「いいか。王宮では誰も信じるな。毒蛇の巣穴だぞ」


 歩み方にすら傍若無人ぶりが感じられるディド・ズマ。

 いよいよ近づいてくる。

 ナビド儀典執行官がアベルを促し、この場から離れなくてはならなかった。


 ハーディアは蠅のごとく執拗に追ってくるズマの視線を感じる。

 もしかするとこの怪物に抱かれて寝る運命があるのだろうか。

 私には選ぶことも逃げることも出来ないのだろうか。

 身に差し込まれるような、おぞましいほど腐った予感。

 肌が粟立つ。だが、消え失せろと命じたところでズマは居なくならない。


 アベルは後ろ髪を引かれる気持ちで廊下を歩くが、もはや仕方がない。

 ガイアケロンのいる前で、ましてや王宮の内部ではズマと言えども無茶はするまい……。

 

 先を行く儀典執行官の後を付いて歩く。

 広い回廊や天井の高い建築空間を支える穹窿肋骨状(きゅうりゅうろっこつじょう)をなした梁の連なりが見事だ。

 ナビド儀典執行官が神経質な態度で権高く言いつけてくる。


「アベルとやら。お前は王宮付きの奴隷となったからには、覚悟してお勤めなさい。今までの人生は一端捨てたのです。お前自身がそうしたのだから自業自得というもの」

「はい」

「お前のような戦争しか知らない武人崩れが出来ることなど床掃除ぐらいですよ。大王様の宮殿を磨く大事な仕事です。やることがあるだけ有難く思うのです」

「字ぐらい書けますけれど」

「そういう口答えする子は嫌い。お前には向こう五年は雑用しかやらせません」


 なんかいきなりどうしようもなく陰湿な感じだった。

 だが、王宮などこんなものかと、むしろ納得出来る気もした。

 アベルはこれからの生活を思うと暗澹としてくる。

 ガイアケロンの、からりと乾いた爽やかさが早くも惜しくなった。


 どこかへ移動する途中、青銅で作られた少女像があり、抱えた瓶から水が飛び出してくる噴水になっていた。

 こんな設備など初めてなので物珍しく横目で見ていると、突然、声を掛けられた。

 

 「そこな青年。待ちなさい。貴方は先ほど謁見に浴したアベルですね」


 涼やかな、いかにも高雅な女性の声。

 アベルが振り返ると声の主は思わず驚くほどの美人であった。

 長い直毛の、陽に輝く小麦色をした金髪。やや長身。

 年齢は二十五歳ぐらいだろうか。

 均整のとれた顔貌は、どこからどう見ても最上級の血統を感じる。

 橙褐色(とうかっしょく)、あるいは黄色い夕焼けを連想させるトパーズのような瞳。

 服は鮮やかな緋色の長衣。金と銀で編まれた豪華な首飾りをしている。

 一見したところ極めて豊かな大貴族の女性だろうか。

 雰囲気は優しげだが……。


「ナビド執行官。私はその者と話があります。疾く去りなさい」


 それだけで本当に、先ほど意地悪い態度を示した執行官は頭を下げるや無言のまま小走りに消える。

 どうするべきか判断が付かないままアベルは身を固まらせる。

 まさか、襲ってきやしないだろうが……方策が全く立たない。


 名も分からない、なにやら凄まじい位の高さを思わせる女性は、どんどん接近してくる。

 アベルは武装を警戒して視線を走らせるが、刀剣の類いは腰に帯びていない。

 あっさりと一足一刀の間合いを越えてしまった。

 それからアベルの肩に鼻を近づけて、芸術品のように整った鼻梁を蠢かせた。


「ハーディアの匂いがするわ」


 思わず呻きそうになるのを堪えるだけで必死だった。

 勘のいい女だ。

 これはヤバい。

 アベルは距離を取ろうとバックステップしようとしたが、女の方が速かった。

 まるで武術の心得など欠片もなさそうだが、素早く強烈な力で腕を掴まれた。

 動けない。


「さっきは自分で斬り落としそうになったこの腕。伸びやかで素敵なこと。良かったわ、無くならなくて」

「貴方は……」


 女性がアベルの肩から何かを摘まんだ。

 光の映える綺麗な瞳に近づけて、じっと観察している。

 それは細く長い髪だった。

 アベルは、ぞっとした。


「ふむふむ。この色合いと髪の長さ。どう見てもハーディアのものね。なんで貴方の体にこんなものが纏わりついているのかしら。抱き付きでもしなければ……ねぇ?」


 アベルは絶句した。

 反論か誤魔化(ごまかし)か、何だっていいからやらなければならないのは自分でも分かっているが、あまりにも完璧に見抜かれてしまい金縛りになってしまった。

 やっと口から絞り出す。


「あ、貴方は……誰なんだ」

「わたくし? わたくしの名はランバニア。イズファヤート王の息女。ランバニア・ゴットロープ・アレキアです。王道国の第一王女ですよ」


 ハーディアの姉。ランバニア王女を名乗る美しい女は摘まんだ髪を戯れにヒラヒラと空中で泳がせて嬉しそうに笑っていた。

 アベルは怒りにも似た気分で、そんな髪一本がなんの証拠になると言おうとした。仮にハーディアの髪だったとして、どんな罪になるというのか。

 それに、きっとハーディア本人に照会があれば上手く言い繕ってくれるに決まっている。


「こんな髪がどうしたって顔しているわね」

「……」

「取り合えず、わたくしの言うことを聞いておきなさい。さもないとリキメルみたいに大事なところを、ちょん切られるわよ。ねぇ、奴隷アベル」


 ランバニアは身の毛のよだつ恐ろしいことを穏やかなまま言うのだった。

 脅迫。

 断れば何が起こるのか分からない。

 ランバニアを信用できないのは当然として、どうした狙いがあるのか……。

 王宮の奥深くに棲む無数の毒蛇が絡みついてくるようだった。



 




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