謁見
ついに王に会うことが出来る。
世界を揺るがせる核心人物。
アベルは、己の運命が近づいてきたのを感じる。
凍てつく雪原で体が赤く染まるほど戦い、地平線の先に再び地平線を臨み、東へ東へと旅を続け、百万人が蠢く王都に辿り着いた。
そうして、イズファヤート王をこの目に捉えることが出来るのだ。
ガイアケロンとハーディアは誰にも悟られていないが、父親イズファヤートに激しい憎悪を抱いている。
巨大な殺意。
本能が理性を麻痺させ、あの大らかな男を獣に堕とすであろう。
同じ血塗れの獣のような自分だからこそ、誰よりも理解できる。
同じ欲望、同じ餓え、同じ夢……。
同じ敵を殺すことだけが望み。
王宮であろうと僅かでも隙があれば、躊躇わないはずだ。
その瞬間、叛逆が始まる。
血で血を洗う、これ以上ないほど醜い、底なしの戦い。
アベルは濃密に漂う死の匂いを感じ取る。
勝ち目は、どう考えても少ない。
王宮の警備状況は分からないが、ヒエラルクを始めとして王道国が選び抜いた精鋭たちが居並んでいるに違いない。
だが、ガイアケロンとハーディアの強さを知っている。
神業のような技の数々。
あの二人に自分が加わり死力を尽くせば、届くかもしれない。
イズファヤート王とディド・ズマの心臓に、怨念の刃を突き刺す。
あり得ないことではない。
不可能ではない。
引き換えに命は失うだろうが……。
「やぁ。君は今日、やけに美しいな」
謁見を知らせに駆けてきたオーツェルが薄化粧をして着飾ったカチェを前に驚いていた。
陰謀や事務処理に忙しい彼が人の容姿を褒め称えるなど、ついぞ無いことであった。
カチェは称賛に満更でもないらしく、優雅に一礼する。
そういう仕草だけで一流の教育を受けた貴族の子女であるのが分かるというものだった。
「私はただ美しいというだけで人を褒めたりはしないことにしている。危険や毒が隠れた美というものが最上なのだ。柔和なだけの美しさで満足できれば安全だろうが、あいにくとそうした好みではない」
「それでは退屈するというわけですか。でも、わたくし毒なんかじゃありません。危険な美というのは、わたくしの知る限りハーディア様が最もそれに相応しゅうございます」
オーツェルは苦笑して、首を振った。
まさに的を射ていたが認めるわけにもいかなかった。
あれはまさに男を狂わし、国を傾ける美しさだった。
「さて、せっかくお楽しみのところ悪いのだが、もうゆっくりしている時間はないぞ。色々と準備が多すぎる」
オーツェルは内密の話しがあると言い、アベルとカチェを邸内の奥深くへ案内する。
細い回廊の突き当りにある小さな部屋でガイアケロンとハーディアが待っていた。
部屋に入った時からどこか緊張感のようなものを感じとる。
宮廷儀典に詳しいオーツェルが知的な眼差しに憂慮を漂わせて説明を始めた。
「王の謁見は通常、少人数で行うものだ。イズファヤート王は完全な御親政を布いているゆえに宰相は置かず、ほぼ全ての政務に目を通し、重要な書類を見落とすことは無い。昼から夜まで忙しくされている。謁見で多くの時間を浪費するようなことはしない。しかし、大謁見と呼びならわされる拝謁者を数多く集める式典がある」
「我はごく簡素に、ご挨拶と報告のみを希望すると申し上げた。つまり内謁見を頼んだ。ところが王宮は貴族たちを参列させて大謁見を行うと回答してきた……。兄リキメル、それに弟のシラーズ。さらにはディド・ズマも列するとのこと」
「それは何か異常なことですか」
「父王の意図が分からない。大謁見は時間も手間がかかる。王都にいる貴族や藩国の者らも招くゆえな。おそらく数百人ほどはやってくるであろう。どういうお考えか……」
藩国というのは皇帝国にとっての属州と似たようなものらしい。
王道国という大国の周辺には、様々な事情によって直接統治が困難な地域がある。そういう地域は王道国の強い影響下に置かれた藩国という、属国のようなものに治めさせているという。
要するに、主だった貴族や関係者を呼べる限り集まらせる、ということだ。
ハーディアが優しく、諭すように言う。
王女はつい先ほどまで来客者と会っていたらしく気品のある青い長衣に金と真珠の装飾品を身に着けていた。
「父王のお考えは分かりませんが、何か異常を感じます。アベル。今なら引き返せますよ。貴方の謁見は理由をつけて辞退しましょうか」
「……ここまで来て機会を逃すことはできません。使命を果たさないとならない」
使命と言えば、密使としての務めと受け取るだろう。
実際はそうではない。
任務なんか初めからどうでもよかった。
テオ皇子とノアルト皇子、あの二人を主だと感じたことは一度としてない。
上辺だけ取り繕い、頭を下げていただけだった。
「お願いがあります。念のためカチェ様とシャーレの安全を確保しておいてください」
「アベル! わたくしも……」
「無理だよ。王宮にカチェ様は入れない。それより二人は切り札なんだ。おとなしく待っていて」
「嘘。側にいなくてどうして切り札になるのよ」
カチェの鋭い眼差し。
ばれていても突き通すしかなかった。
「大げさに心配しなくとも大丈夫ですよ。ただの謁見です。僕のような小者は面通しぐらいの意味しかないんだ。声を掛けられることもないでしょう。イズファヤート王の顔を確認するだけ……それだけです」
「ハーディア様! このカチェもお供させてください」
「それは断ります。皇帝国の密使を二人も王宮に招き入れるのは私たちにとっても危険が大きすぎます。アベル一人で精いっぱいです」
ガイアケロンはカチェを気遣う表情をしていたが、沈黙していた。
カチェは拳を握り、顔を俯かせる。
淡々としたオーツェルはアベルへ言う。
「アベル。お前を謁見させるのは、かなり危ない行為だ。できれば断りたかったが、バース公爵の依頼ゆえ仕方がなく受け入れた。間違っても粗相のないように短期間だが、儀典や辻褄合わせを徹底的に教育してやるからな」
「オーツェルが言うと怖いな」
「一度で憶えなかったら鞭をくれてやるぞ。お前は、王道国の落ちぶれた貴族の末裔として偽りの身分を用意する。なに、家系図など本物よりも本物らしく仕立ててやる。お前は中央平原でガイアケロン様の軍団に加わり、見出されたという筋書きだ」
「上手く隠せるかな……それで」
「それはお前次第だな。何か疑われて拷問された挙句に全てを話す程度の男なら、今ここでイズファヤート王に会おうなどという考えは捨てて、さっさと本国へ帰るのだ」
「切り刻まれても口は割らない。ただ一つだけ心配なのは……一度だけ会話をしたことのあるイエルリング王子だ。あの記憶力の良さそうな人が数年程度で僕を忘れるわけがない。もし出会ってしまったら、他人の空似で押し通せるか」
「そのことだがイエルリング王子が王都に帰ってくるという情報は得ていない。そうした重要なことは私たちの元に報せが来ることになっている。それと大謁見にイエルリング王子が加わるということは噂としても聞いてはいない」
「なら問題ないか……」
それまで沈黙していたガイアケロンが最後に言う。
「謁見の際、父王が何を要求しようと決して断ってはならない。どれほど無体な命令でもだ」
「断れば?」
「良くて普通の死罪。悪ければ凌遅刑もありうる。生きたまま魔獣に食わされるような……」
ガイアケロンの顔つきは真実を物語っていた。
王の前に出るということは生殺与奪を預けるということに他ならないのだった。
密談はそれで終わりとなる。
王族兄妹のもとには、今日も請願者や会見希望者が列をなしている。
王都の貴族界隈では二人に会って話しをしたとなれば自慢になるらしい。
もともと寡兵で勇敢に戦う二人は潜在的に人気が高かったようだが、ここにきて暴騰的に支持が増えているようだった。
もっとも、ただ波に乗って寄せられてきた有象無象に取り合っては、逆に墓穴となりかねないのが恐ろしいところだ。
それに、こうして支持者が集まれば脅威に感じる者も多いことだろう。
アベルは思う。
王道国に住む、ありとあらゆる貴族と平民、奴隷たちは度肝を抜かれることになる。
遠い異国で華々しく勝利して、名誉ある帰国をしたガイアケロンとハーディア。
王に絶対忠誠を誓っていたはずが……。
アベルは不安もあるが、思わず恍惚とした笑みが零れる。
探していたものが見つかるかもしれない。
やっと満足できるかもしれない。
アベルとカチェはオーツェルに導かれて、エイダリューエ家の図書室に連れていかれた。
書架には万に及ぶと思しき本や羊皮紙の巻物が収納されていた。
技術的には写本するしかないので書籍はとても高価だ。
人が見ればその知識の集積と豊富な財力の両方に驚くことになるが、アベルはこれを上回る規模の図書館を見たことがある。
人が訪れることなどほとんどないアスの館にそれはあった。
ライカナが言うには分裂戦争や長い歳月によって失われた貴重な記録の宝庫だったという。
真実であるがゆえに全て破壊され、執拗に否定され、無かったことにされた歴史。
アベルは見たことも無い嘘の出身地をでっち上げる為、オーツェルが捻りだした設定を憶えていく。
年齢十八歳。
アベル・クルバルカ……というのが新しい名だった。
王道国の辺境ルジャンドで生まれて、そのあとは各地を転々とする……。
家系は低位の戦士階級。
何とでもなるという家系図も棚の奥から引っ張り出してきた。
どうみても数百年は経過していると思われる羊皮紙は既に絶えた一族の家系図だった。
そこへオーツェルは平然と矛盾なく人物の名を書き入れて、最後にアベルの名を記した。なんとも罰当たりなことしているようだが、少しも悪事をしているつもりはないようだ。
最後にアベルは架空の両親の名。死没した年齢を憶えて繰り返す。
「ふむ。記憶力はなかなか良いと認めてやろう。出来の悪い生徒ではなくて安心したぞ」
オーツェルが出番のなかった乗馬用の鞭を少しも安心した顔ではなく、むしろ残念そうに撫でている。
どうもオーツェルの知性というのは邪智に近いのではと思えた。
「安心したのはこっちだっての。あんたは教師にならなくてよかったよ。やっぱり陰険な参謀がお似合いさ」
「数十人のガキどもに文字を教えるという苦行のような職業など誰がやるか。もしガイアケロン様と出会わなければ私は学者になっていただろう。まあ、アベル程度の人材が相手なら家庭教師も悪くないかもな」
「やめとけって……」
偽の出生を頭に叩き込んだ後も、まだまだ知っておかなければならないことばかりだった。
まずは王道国の政治状況を徹底的に教え込まれる。
王道国の貴族の中でも、特に名門五家と呼ばれる傑出した家柄がある。
その内のタリムナガル家とドゥーレ家はイエルリング王子を強く支持していること。
ヘイタオン家も控えめにではあるが、やはりイエルリング王子に加担している状況であった。
残る名家のうちエイダリューエ家は言うまでもなくガイアケロンとハーディア、最後のカッセーロ家がリキメル王子を支援している。
他にも中小の貴族や様々な商人が入り乱れており、およそ全体の六割はイエルリング王子の派閥に属しているという。残りの勢力は他の王子を推したり日和見を決めているなどで四分五裂らしい。
イズファヤート王という権力が絶対的ではあるものの、その次ということであれば、やはりイエルリング王子であるのは間違いなかった。
現在の王道国はかつてないほどの絶対王政が布かれていた。
過去には有力な貴族が力を合わせて王家を支え、統治にも深く携わるのが通常であったという。
しかし、イズファヤート王はそうした政治形態を完全に否定していた。
断固として皇帝国との戦争を押し進め、反対する貴族は王宮軍団を派遣して容赦なく取り潰したという。
また、裏切りを警戒しているらしく有力者の妻や子息を王宮かその近くに住まわせ、貴族の兵力は戦争や辺境警備に駆り出している。
かくして王道国の本国にはイズファヤート王直属の王宮軍団のみが存在して睨みを利かせていた。
さらに王道国周辺の地理などを地図を使って教え込まれる。
これまで旅の途中でいくらかは情報が集まってきたものの、それは断片的なものだった。
やはり王都という世界中から旅人や商人が集まってくる場所では、最新の生きた話しが入ってくる。
中央平原の東にある王道国は、皇帝国とおよそ国の規模は似ているようだ。
違うのは意外と海路を利用しているところだろうか。
比較的、海棲魔獣の少ない海域を縫うように交易船が行き来しているという。
王道国の北にはマカダン藩国という属国があり、そのさらに北があの懐かしい北方草原に隣接するということだった。
商人の情報によるとマカダン藩国は近年、北方草原に干渉を繰り返しているらしい。
マカダン藩国は王道国に負けず劣らずの重税らしい。
加えて国主のヤヴァナは贅沢と戦争を好む性格らしく亜人や他種族の住む地域をたびたび侵略しているという……。
アベルはかつて旅の最中にライカナから危険が高いため避けるべき地域として中央平原やマカダン藩国をあげられた記憶があった。
オーツェルの話を聞く限り、行ってみたい国ではなかった。
それから王道国の南にも藩国があり、さらに先は大雑把に蛮族の犇めくところと言い表されているようだ。
内容の濃い授業を受けているとたちまち時間が経過してしまい、窓からは滴るような赤い夕暮れが見えた。
「オーツェル。半日も付き合わせてしまって悪いな」
「仕方なかろう。お前らの正体を知っているのは御方と私だけなのだから。教育できるのも私に限られる」
「僕らの正体はギムリッド様にも伝えていないのか?」
「当たり前だ。あまりにも危険な秘密だからな。まったくアベルと出会ってからますます心配事が増えてきたぞ」
それまで言葉少なかったカチェがオーツェルの講義を横で聞いていただけで完璧に理解していた。いくつか鋭い質問をする。
オーツェルは出来の良い生徒にものを教えるのは楽しいらしく、喜んで返答を始める。
カチェは理路整然と物事を捉える賢さがあるのに、最後には不思議なことを言い出した。
「わたくし、やっぱり嫌な予感がするの。怖いわ」
「カチェ嬢。ただの謁見です。アベルなどは一礼して、それでお終いですな。主役はガイアケロン様とハーディア様。それに戦果の乏しかったリキメル王子。それぞれにどのような沙汰が下されるか……。
それよりディド・ズマが気になる。奴はイエルリング王子の名代でもあるので王宮で無礼は働かないでしょうが。先の急な訪問で兄とは完全に敵となりました。まことに厄介な男。なんとかして排除したいが、簡単ではない」
カチェは納得していない様子であった。
どことなく物憂げで、鈍い緊張感みたいなものが行き場なく漂っている。
女の勘は鋭いとアベルは内心、驚いていた。
腹心のオーツェルですら、主たちの叛意に僅かも気が付いていない。
いかにして権力闘争を潜り抜けるのかの打算に終始していた。
根本的に引っ繰り返る事件が起こり得るかもしれないのに……そんな破滅と同義の事態は想定していなかった。
賢いだけに、信頼しているがゆえに、理性とは真逆のことが発生すると考えられないのだ。
すっかり日も暮れてしまって、アベルとカチェは有り合わせのもので空腹を満たし、部屋に戻る。
もう特に出来ることもなく眼を閉じれば猛烈に眠気が湧いてきた。
夢の世界へ……。
~~~~~~~~
呼ぶ声がした。
誰だ……。
場所は分からない。
床も壁も天井も白い石で作られている。
殺風景で、温かみや装飾性がまるでない。
ここはどこだ……。
壁にひとつだけ黒鉄で作られた扉がある。
その向こう側から声が聞こえた。
×××様、来てください。
お願いです……、こっちへ……。
×××様……。
×××様とはなんのことだ。
意味が分からない。
×××様……?
俺は×××なんかじゃない。
そんなものになれるものか。
誰が×××になんかなるものか。
だが、執拗な呼びかけに必死の気持ちが籠っていた。
意味不明な呼びかけが頭に鳴り響く。
やめろ。
やめてくれ……。
呼ぶ声はいつまでもいつまでも続く。
やがて行かなくてはいけないという衝動が湧き上がって抑えられなくなった。
近づき、扉に手を掛けた。
見るからに重たく冷たい鉄の扉は簡単に開いていく。
向こう側から現れたのは……。
――イース!
思わず驚きで声が出そうになったが……違う。
似ているが、違う。
別人だ。
繊細に整った顔の輪郭、黒髪といい肌色といい、よく似ているが……瞳が異なっていた。
まるでオパールのような、複雑に刻一刻と変化していく不思議な虹彩。
催眠術にかけられたように目が離せない。
「×××様……貴方はこれから」
これから。
これからと、どこまでも鳴り響くような声が頭を駆け巡る。
アベルは悲鳴をあげて目を覚ました。
心臓が跳ね回り、半身を慌てて起こした。
全力疾走をしたあとほど息が荒い。
「何だったんだ。今のは……」
生々しい、夢とも思えない感覚。
まるで現実だった。
冷や汗が出ている。
「ご主人様……」
いつの間にか定位置で休んでいたワルトが扉を少し開けていた。
暗くて良く見えないが、けむくじゃらの忠実な友人がそこにいるだけで安心できた。
「いま……寝ていたのか。そうだよな」
「おらが飯を食べて帰ってきたら、もうご主人様は寝ていたっち。大丈夫だっちか? 凄い声だったずら……」
「あ、ああ。夜中に起こして悪かった。ちょっと厠に行ってくるぞ。ついてこなくていい」
アベルは部屋を出た。
時間は真夜中ではないだろうか。
奇妙な夢に、激しく疲労していた。
体が耐え難いほどだるい。
厳しい稽古をしてもここまで疲れることはないはずなのに……。
いったいどういうことなんだろう。
頭痛のする中で思考は堂々巡りをしていた。
庭園に出ると美しい月が、青い瑠璃のように輝いている。
蒲萄蔓を這わせて作られた日陰棚の下に誰かが立っていた。
もう、それはほとんど闇に同化していたがアベルにはっきりと誰であるか分かる。
「……アス」
――そうだ。
分かったぞ。あいつの魔術に違いない。
人物が闇から現れて姿を見せる。
月光に妖しい美貌が映し出されていた。
出会ってからずいぶんと経つが、いまだに正体が掴み切れない魔女。
豊かに広がる金髪に、思わず触れたくなる滑らかな肌。
女神のごとき美しさであるのに、突然と娼婦よりも淫蕩な女に変わる。
空色の瞳はアベルを直視していた。
「今の奇妙な夢……。お前の仕業だな。どういうつもりだ」
涼しい高雅な声で返答がある。
「貴方のことが心配で仕方ないから、いま未来視を試みました」
「今のが?」
「でも、やはり未来視というの苦手なのよね。あの夢……いったいどこの未来に繋がったのかしら。いや、そもそも未来であったのか、それすら分からない」
「自分でやっておきながら、まるで不明ってか。未来視とやらはもうやるなよ。これは凄く疲れる……」
「世の中は不確実に満ち、確定するや瞬間に過ぎ去っていく」
「夢に出てきたあの女性、イース様に似ていた」
「あの女が何者か。もしかすると未来でもなんでもなくて貴方の妄想かも」
「……」
「無数の可能性は常に幻のように蠢いている。確実なのは貴方の未来は定まっていない、ということ。いとも簡単にその身は虚無に帰すでしょう」
「死ぬってことか」
アスが長く綺麗な指を伸ばして、頬に触れてきた。
「ねぇ。アベル。ひとつ言っておくわ。王の周りには強力な使い手が幾人もいる。例えば貴方が危機に陥ったとして、すぐに手を貸すことはできないかも。いえ、これは正確な言い方ではないわね。私が裏から助けることができない、と言うべきね」
「これまでは色々と助けられたみたいだが……。当てにしているわけじゃない。俺がくたばるんだとしたら、それは自業自得だ」
「私の目的は貴方の欲望を成就させること。親を殺し、神を殺すとは素晴らしい夢だわ。もう一つは貴方が元々いた世界に行ってみることですけれど。だから必ずしも貴方の敵対者を殺すことが私の目的ではない。それに昔から数え切れないぐらい失敗しているのよね。私が表立って行動すると、貴方ではなくて私に媚びへつらうようになってしまうから。意味ないのよね、それじゃあ」
「アス。お前の思惑なんか関係ないぞ。こっちはやりたいようにやるだけだ」
「イズファヤートは今回だけ諦めないかしら? あとから殺すのよ。それより早く王か皇帝になりましょうよ、アベル。皇剣を探し出して帝国を造るの。アベルが追い求めている夢が現実になるのよ。世界を征服して本当に欲しいものを全て手に入れるのよ」
「目の前の事にしか興味はない。ガイアケロンとイズファヤート王。あとはディド・ズマ。俺は支配者になりたいわけじゃない」
アスは微笑したまま、しばらく沈黙していたがやがて諦めたようだった。
「……貴方の欲望を否定することはできないわ。どうすることもできないみたい。幸運を祈っていますよ」
アスの姿は暗闇へ溶けるように消えていった。
~~~~~
寝なおして、気が付くと夜明けだった。
木戸を開けると青色の靄が漂い、曙光が空を明るく輝かせる寸前だった。
アベルは身だしなみを整えてからガイアケロンの元へ行く。
まだ、休んでいるかと思ったが、すでに起きて書類仕事などやっていた。
ハーディアもいてアベルに笑顔を向けてきた。
「早いな、アベル」
「王子こそ……」
「今日は午前中に雑事を済まして、午後は弟シラーズと会見。明日、いよいよ王宮に登る。リキメル王子には何度も面会を申し入れたが断られた」
「あの……カチェ様とシャーレのことですが」
「もう手は打ってある。絶対に安全な場所を確保してあるから安心しろ」
しばらくして、すっかり夜も明けた頃に人が集められた。
まずは謁見を許された者たちだった。
ギムリッド、オーツェル、アグリウス、そしてアベル。
それから謁見には浴さないものの、親衛隊として宮廷への侍従が許された者たち。
スターシャ、ヴァンダル、クリュテを始めとして二十人ほどの人数。
ガイアケロンが彼らを前にして、特に緊張するでもなく自然な振る舞いで言う。
「明日は父王様に謁見である。何が起ころうとも、我に従うこと。命令はそれだけだ」
別におかしなことなどない言葉だろうか。
いや、違うとアベルは思う。
王道国の最高権力者はイズファヤート王だ。
誰に従うかなど、始めからわざわざ言うまでもないこと。
王族、臣下、臣民は一人残らず王に従わなくてはならない。
だが、たった今、ガイアケロンはわざわざ自分にだけ従えと命令した。
ギムリッドは別として、その他の者たちは幾多の戦場で王子と共に戦い続けた古強者だけだ。
何が起ろうと、その命令は実行されるだろう。
つまり、たとえ王が死のうとガイアケロンの命令が優先する。
――やっぱりガイアケロン、何か仕掛ける気か。
アベルは、もちろん何も気づかないふりをして頭を垂れた。
ガイアケロンは明るく朗らかに言う。
「さぁさぁ。貧乏所帯の我らだが粗末な姿で登城するわけにはいかぬぞ。鎧と剣はよく磨けよ。服も綻んでいたら縫い直しておけ」
「俺たち、ぶっ壊したり破いたりは得意ですが針仕事など苦手ですからなぁ」
そう答えたのは貴族の端くれとも思えないほど獰猛な顔をした千人長のアグリウス・コロブルだった。
つられて笑う者たち。
皆はこの時点でもガイアケロンの叛意には気が付いていない。
それで解散となったが、その後にシャーレだけが内密に呼ばれた。
麻の作業着にエプロンをした姿でシャーレが室内に入ってくる。
たいそう忙しく働く日々を送らさせてしまったが彼女の血色は良く、元気に満ち満ちていた。いつも薬を作っていて、出来たものは片っ端から無くなっていく。
ガイアケロンはシャーレへ近寄ると、実に親しみの籠った笑みを浮かべて小袋を渡した。
「薬師シャーレ。君はよく働いてくれた。感謝している」
「この袋は何でしょうか」
「報酬だ。いったん給料を払っておかないとならんからな」
「あの……。わたし、アベルについて行くように言われた時、すでにかなりのお金を頂いているので……これは受けるわけにはいかないかと」
「いや、成り行きとはいえ妹の薬をたびたび作ってもらって助かった。その報酬だ。それに本当のことを言うと、君は保険だった。初めのうちはな」
「保険?」
「君が手元にあればアベルが変なことをしようとしても出来ないだろう。もちろん、そうなったとて君に何かするつもりはこちらにもなかったのだが、王族であると余計なことも考えねばならぬ。許してほしい」
シャーレは不思議そうな表情をしていた。
「君とは別れ難いが、もしかすると……ここでお別れかもしれない。はっきりとは分からないのだ。だが、安心してほしい。もしもの時は信頼できる者を遣わせて、必ず故郷のテナナ集落まで送り届けるように手配した」
「アベル……」
途惑ったようにシャーレがアベルを見てきた。
それはそうだろう。
こんな異郷で、信頼できる者たちと離れ離れになるかもしれないのだ。
「心配しないで。ガイアケロン様は万が一の時を考えて、こうなさってくれただけだ。また皆で西に戻ることになる」
――これは多分、嘘になるだろうな。
許してくれ。シャーレ。
「そ、そうだよね……。まさか、お別れなんかしないよね?」
「当たり前だろう。念のためだから。それにガイアケロン様ともあろう御方が給料未払いなんて恥ずかしいからな。よかったな。お金持ちだ。金貨がたっぷり入っているぞ」
「ええ……そんな。やだわっ! 本当に金貨が入っている!」
あれこれと騒ぐシャーレをアベルとガイアケロンは言いくるめて、それからちょっと強引に部屋の外へと連れ出した。
まだ納得していない様子ではあったが、あまり抵抗すると失礼に当たると思ったらしくシャーレが立ち去っていく。
ガイアケロンが珍しく小さな溜息らしきものを吐いて言う。
「ひとつ白状すると……あのような普通の女性が一番好きなのだ。気位が高く血統ばかり誇る女性や、美しかろうと腹に隠しているものがある人とは安心できぬ」
「残念ですか?」
「ああ、本当に残念だ……」
「僕は子供のころからシャーレには助けられてきたと感じています。力ではひ弱なはずですが、どうしたわけか」
「それは人を助けるものは力だけではないからだろう」
ガイアケロンの言葉が、やけに胸に響いた……。
午後、王に捧げる貢物が次々と運び込まれてきた。
金糸銀糸をふんだんに使った美々しいタペストリー。
魔獣の毛皮や象牙が山ほど積まれている。
特に目立つのが鍍金が施された等身大の彫像。
筋骨隆々とした戦士像が弓を掲げた姿勢で静止していた。
アベルからするとちょっと仰々しいというかバカらしい気がしてしまうのだが、貴族への献上品というと、とにかく見た目が派手で誇大なほどのものが好まれる傾向があった。
それから決闘で殺したマクマル・ピラト執軍官の冑。
彼の遺体はそのまま皇帝国に渡したのだが、勝利の証として冑だけは奪ったのだった。冑にはガイアケロンが強烈な斬撃を加えた痕が生々しく残っている。
コンラート軍団を華々しく蹴散らした証拠のようなもので、謁見に際して最高の役割を果たすことだろう。
戦利品はそれだけに留まらない。
合戦のさなか捕虜にすることに成功したジブナル・オードラン公爵弟がいるはずだった。
彼の身柄は本国からの要請で逸早く、イズファヤート王のもとに送られていた。
これほど高位の貴族を捕虜としたのは異例なので、そこもガイアケロンの評価を高めるに違いなかった。
やがてシラーズ王子と彼の支援者であるラカ・シェファが物々しい姿でやってくる。周囲は完全武装の兵士、三百人ほどに守らせていた。
彼らはこのままエイダリューエ家に留まり、明日はともに王宮へと行くことになる。
シラーズ王子はガイアケロンとハーディアの強さに心酔しているようで、連合を組む覚悟を持っているようだった。
もっとも、そんなものは情勢次第ですぐに変わってしまうだろうけれども……。
そうして謁見前日の夜、アベルは会食にも出ず、カチェと二人きりで過ごす。
大庭園には月見台という浮世離れした優雅な施設があった。
二人で籐の椅子に座り、繊細な青い月光を眺める。
やけに無口なアベルに、カチェは語りかけるのを躊躇った。
やがて意を決して口を開く。
「ねぇ、アベル。ずっと前に死に番をやらされたことがあったでしょう」
「……そんなこともありましたね」
「今度も無事に帰ってくると信じているからね」
アベルは、取り合えず頷いた。
なんで頷いたのかも良く分からない。
長い旅の果てが近づいてきたようだった。
殺すべき敵。
魂の答え。
もし仮に答えも目的も忘れて生きることが出来たのなら、ここで引き返しているだろう。
あるいはアスの提案に乗っていた。
だが、それが出来ない。
破滅すると分かってガイアケロンとハーディアに力を貸すのだ。
どうしようもなく愚かな男……。
そんな男にここまで付いてきてくれたカチェの美しさは今日という夜、別格であった。
意思の光で輝く、紫水晶のような瞳。
怯えや途惑いは無く、信じる心があった。
アベルは仄かな罪悪感を得る。
だが、小さな幸福を憎悪が塗りつぶしていった。
アベルは明日の謁見を想像してみる。
ガイアケロンはそれほど小細工をするとは思えない。
協力者を作ると却って墓穴になりかねない。
偶然と必然、それらが複雑に絡まって行きつく場所と時……事は起こるだろう。
だが、何か矛盾するようだが、死が自分の行く手を覆いつくそうとすると逆に生命の塊が噴火のごとく湧き上がってくるのを感じる。
自分の命そのものを爆発させて、何もかも破壊してやりたくなった。
不思議とそんな途方もないことが実行できてしまう気がするのだ。
ただひとつだけ惜しいのは、その姿をイースに見せてやれないことだった……。
「カチェ様。もし、万が一にも異常があった時は以前に伝えた通り、西方商友会を使ってハイワンド家へ連絡をつけてください。そういうことが出来る手筈になっていますから」
「何も起きて欲しくないわ」
「大丈夫ですよ。念のためです」
「……今更ですが、わたくしたち、あまりにも遠くまで来てしまったみたい」
「僕は遠くへ行ってみたかったから、これで満足です。そして、とうとうあのイズファヤート王にまで会える」
「例の密談のあと、御爺様はわたくしに言いました。本当はアベルと共に帰還させるつもりだった。しかし、ガイアケロン王子の要望に沿う以上は命懸けになるだろうから心せよと。あとは、お前たちのために手を打っておく……そう申しつけられました」
秘密主義である祖父がどうした手段を取るつもりだったのかは分からない。
カチェはアベルと一緒に進んだ戦場を思う。
怒り狂った戦士どもが取っ組み合う地獄のような世界であった。
そんな修羅場を勇気一つで突破してきた。
すべては、常に戦いを求めているアベルの傍にいるために。
「バース公爵様はポルトや中央平原、さらには王道国にまで諜報網を持っているようでした。これは秘密なんですが実は、お抱え薬師のダンヒル殿は細作の元締めなんです」
「あのダンヒルが。それは知りませんでした。でも、薬師とあればどこへ行って誰と話をしても不審ではありませんものね。なるほど、巧妙に隠したものです」
「シャーレと組めば潜入も容易になると手配したのもダンヒル殿でした。それから亡くなった僕の師ヨルグとダンテ様は中央平原などへの潜入工作をしていたようです」
自分の知らないことばかりだったとカチェは感じる。
アベルは何かを考えているのか……沈黙のまま決意に満ちた瞳を闇夜へ向けていた。
王都は海が近いため、ときおり潮の匂いを含んだ風が吹いてくる。
くすんだ金髪がそういう風に揺られて、端整な横顔に陰影を落とした。
王道国の民衆は次々と厳しい勅令を発するイズファヤートを大王様と讃え呼ぶ。
しかし、裏に回れば、王は暴君なりと呪うように噂する者らが数知れぬほどいるのである。
やはり、謁見は途方もなく危険な試みであった。
カチェの胸中は震える。
アベルはどうして自分を抱き締め、安心させてくれないのだろう。
激しく口づけを交わして、この恐ろしい予感を静めて欲しい。
最後まで共に戦うはずなのに、なぜ置き去りするのか。
どうしても結びつかない心と体が耐えようもなく、もどかしい。
「わたくし、何があっても待っていますからね」
アベルから返事は無かった。
~~~~~~~~~
ついに謁見の日の朝。
アベルは精いっぱい身綺麗にしたものの、基本的にはいつもの装備を身に着けた。
革と麻の軽装。革靴。
白雪と無骨の二振り。
王宮に入るには身の検めがあるので隠し武器などは厳禁だと申し渡されてある。
謁見する者は通常、帯剣を許されるそうだが防具はつけない決まりだという。
こんな平民と大差ない姿で王に会うのは許されるのか疑問に感じたが、オーツェルはこともなげ言う。
身分ある者が貧しい身なりでは恥ともなるが下級戦士の末裔で百人頭程度の人間としては普通だと。
そうして僅かに麦粥を食べたぐらいで慌ただしく屋敷を発つ。
カチェとワルト、シャーレが見送りをしてくれた。
アベルは仲間に視線を走らせ、振り返らずに王宮へと向かう。
統一された武装の親衛隊が王族兄妹を守り、行列は王都を進む。
ガイアケロンとハーディアが顔も隠さず、堂々と見事な馬に乗れば、それはもう完璧な貴人だった。
エイダリューエ家の当主は老齢のセムなのだが、健康に問題があるらしくギムリッドを名代として遣わして本人は宮廷に赴かない。
ギムリッドは名誉ある警護と先触れをやり遂げるべく意気が漲っている。
先日のディド・ズマの件もあり、怖いほどの壮絶な顔つきであった。
貴族街から王城に至る専用の道がある。
そこは平民や奴隷の使用に制限があり、混沌を極める王都の大路とは異なっていた。物乞いもいなければ荷馬車で混雑することもない。
ただ道の両脇には希代の英雄と美姫を一目見ようと貴族やその郎党が佇んでいた。
ガイアケロンとハーディアが気前よく手を振ると歓声が上がった。
巨大な城が迫って来る。
特に目に付くのは尖塔を五つも備えた豪壮華麗なドーム状の建造物である。
天井部は丸みを帯び、優美な白色を湛えていた。
そこが王城の中心であり宮殿の核だという。
水堀と跳ね橋を何度も通過。長大な石壁と正門が見えてきた。
門が意外と大きい。
馬車が二台は並んで通れるほどの規模だった。
普通、城は攻められた時のことを考慮して門は出来るだけ小さく堅牢に作るのが常識である。
アベルがオーツェルにそのことを質問すると彼は律義に答えてくれた。
最初の正門の内側は外苑と呼ばれる地域で、王宮の使用人や軍団が駐屯する場なのだという。物資の出入りも多いため、便宜的に広い入口となっているらしい。
つまり、まだ広大な城の周辺でしかないということだった。
いくつもの路地を曲がり、外苑中庭に到着。
ガイアケロンの親衛隊は王城の中には入れないので、その手前の外苑で差し止められることになっていた。
親衛隊と別れて、総勢四十人ほどの少人数となった。
アベルは道順を頭に叩き込む。
もし宮殿で叛乱を起こした場合、なんとしてでもここに残した部隊と合流しなければならない。
平静を装うものの、至るところで隊列を組んでいる宮殿衛士を見つけるにつけて緊張してきた……。
やがて鉄の装飾で覆われた門が見えてくる。
先ほどのものとは異なり、馬一頭がやっと通れるぐらいの規模だった。
要所であるためか百人はいると思われる王宮衛士が整然と並び、厳重な警備をしている。
アベルは衛士の装備をよく観察しておく。
手入れの行き届いた鉄の胸当てを装着して槍か剣を所持している。
訓練の高さを感じさせる物腰だが、どことなくガイアケロンへの好意のようなものを感じさせる。
オーツェルが続けて教えてくれた。
「ここから先は外宮と呼ばれる場所だ。特に高位の貴族や王族とその関係者が住むことを許されている……というのは建前でここに居ることを命じられたら出かけるのも一苦労となる」
「つまり人質……」
「そういうことだ。王道国の大貴族は家族をここに集められている。藩国も同じだ。もし逆らったりすれば自分の妻子を殺されるわけだ。エイダリューエ家も例外ではない。私の姉と従弟が住んでいる。もっともブラブラしているわけではなくて税務執行官と財宝管理官として勤めているのだが」
外宮は同じような石造りの二階建てが整然と並んでいるだけで、変化に乏しい。
そこも通り過ぎると、ついに宮殿の外壁が見えてくる。
外壁は黄に近い色の大理石で作られていて、象でも通過できる巨大な正門は植物の葉や蔓を模した装飾で覆われ、かつ黄金に輝いていた。
驚くべきことに前面に渡って金箔を貼ってあるらしい。
王子が近づいていくとラッパが高らかに吹かれ、黄金の門が重々しく開いていく。
そこは宮殿の内側。
ヒエラルクや華やかな服装をした宮仕えの者たちが居並んでいる。
ガイアケロンとハーディアが下馬してヒエラルクに対して親しげに挨拶をした。
ヒエラルクの方はもともと戦場で共に戦った意識があるらしく最大限に歓迎している。
もっとも額に青筋の浮いた戦闘狂にそんな態度を取られたところで、アベルなどは気持ちが悪いだけだったが。
宮殿の中の控え室に通されて、待つことになる。
アベルは緊張感がさらに強まる。
喉がひりつくようだった。
どの瞬間でガイアケロンが仕掛けるか……本人にも定まっていないに違いない。
「なんだい? 難しい顔をしているんじゃないよ。晴れの舞台なんだから笑っていろよ」
スターシャがそんな声をかけてきた。
彼女は貴族の青年が着そうな絹で織られた乗馬服を纏っていた。
女性としては長身で引き締まった肉体をした彼女がそうした姿をしていると、とても良く似合っている。
「スターシャは……何か予感とかしないのか」
「予感? 別に……。まぁ大王様が王子に今度はどこをくださるか気になるってのはあるけれどな」
控え室にはひっきりなしに人が訪れてきた。
誰もかれも供を連れた高位貴族である。
「ガイアケロン王子。ハーディア姫。まことに喜ばしいこと至極にございます」
勝ち馬に乗ろうというあからさまな媚であるが、王族兄妹は邪険にせず終始、丁寧に応対していた。
アベルは控え室を少し離れてみる。
できるだけ情報を得るつもりだったのだが、斜め向かいの部屋を通りがかると、そこはリキメル王子の控え室だったらしい。
ガイアケロンとは対照的に、まるで火が消えたような静けさ。
リキメルの顔が一瞬だけ見える。
以前、戦場の時よりもさらに痩せていた。
視線は絶えずあちこちを彷徨い、それでいてどこも注目していなかった。
汗が酷く流れて、小姓が布で拭っている。
大貴族のビカス・カッセーロも乾燥した死体さながらの顔色で椅子に座っていた。
破滅が迫っている派閥を訪れる者はなく、今はイズファヤート王の裁定を待つだけだ。
オーツェルの予測では、もはや一軍の指揮権は与えられないだろうということだった。
問題は指揮権の剥奪だけではなく、どこまで不手際を追求されるか、ということらしい。
イズファヤート王は配下だけでなく血を分けた王族にも極めて冷酷なことは誰しも承知していることであった。
リキメルは廃嫡されるかもしれない。
王統から排除となれば彼の男根と陰嚢は切断され、一人の不出来な者として全てを奪われ、野に放たれる。
シラーズ王子の部屋にも人が盛んに訪れて賑やかだった。
初陣を華々しく勝利で飾り、その後も勇敢に戦ったとあれば、新しい勢力として注目されないはずがない。
気になるのはディド・ズマだったが、あの男は王族ではないため別の場所で待たされているようだ。
元の控え室に戻ってすぐに、王宮の儀典執行官がやってくるなりガイアケロンへ説明を始めた。
「これより大謁見を執り行いまする。謁見堂へ入られる前に、刀剣の類は全て私に預けてくだされ。寸鉄帯びることも禁じます」
ガイアケロンは表情を変えずに、落ち着いて聞いた。
「王族は特権として拝謁する際にも帯剣を許されていたはずだが。また王に仕える者は護衛の任もある故、やはり武装をするものだ」
「それは重々、承知のうえでございます。ただ、これは王命でございますれば御寛恕のほどを」
儀典執行官は喜怒哀楽を消して、そう言ったきり沈黙する。
ガイアケロンとハーディアは無言のまま腰の武器を渡した。
主が従うのであれば当然、謁見することになるギムリッド、オーツェル、アグリウスとアベルも同じようにしなければならない。
どういうことなんだ……。
アベルは必死に考える。
おかしい。
前日、オーツェルに教え込まれた謁見の流れにこんな予定はなかった。
暗殺に用いるような道具でなければ武装は許されるはずだった。
やはりこれは何か異常であった。
王族も貴族も、これは完全に王の家臣であって、その武力は王のためにあるというのが建前だ。
武器を持たない戦士が、どうして王のために働けようか。
よって王は滅多なことで家臣から装備を外させたりはしない。
それどころか武器を持っていなければ戦働きをするつもりのない軟弱か粗忽者として罪に問われてもおかしくなかった。
答えは出ないまま、儀典は淡々と進行していく。
まず、ガイアケロンとハーディアが二人並んで先頭を歩いていく。
その後ろをギムリッドとオーツェル。
最後にアグリウスとアベル。
スターシャやヴァンダルたちは別の場所、謁見堂の最外縁で侍従の役につくため別れる。
アベルは建物の威容に圧倒されそうになった。
アーチ状の梁がある廊下は見たことがないほど広い。
全て白い大理石で造られ、様々な彫刻が並んでいた。
また、宮殿衛士が両側で直立不動している。
いよいよ謁見堂が見えてきた。
内部に足を踏み入れる。
広い、円形闘技場に似た構造。
客席に当たる位置には王道国のありとあらゆる貴族や郎党が集められていた。
顔、顔、顔……。
おそらく四百人はいるだろうか。
歪んだ好奇、刺すような敵対心、濁った欲望、そんな視線が嵐のように注がれる。
ガイアケロンの広い背中の向こうに……見える。
黒く艶のある巨石で造られた、威容を誇る王座。
それは座るための道具というよりも、まるで凝縮された国家の姿であった。
王座は天井から差し込む光によって鬱勃と輝く。
その王座は中心に至るほど蒔絵に用いられる沈金のような妖しい装飾によって彩れていた。
現わされているのは、太陽。
そして、男が一人、悠然と座っていた。
アベルは息を呑む。
あらゆる感情が波濤のように高まり、渦巻いた。
背筋が粟立つ。
目を凝らすと顔が良く見えた。
まだ四十歳ぐらいに感じる。
髭は生やしていない。
ぞっとするほど冷たい瞳の持ち主。
煙で曇ったような暗く青い……そういう眼だった。
わりに端正な、ガイアケロンの父親であるのを納得させる顔貌だが、威圧と冷酷さだけが放射されていた。
遥々と長旅をしてきた実子を向かい入れる温かさなど、砂粒ほどもない。
王だけが発散する、固有の何かがある。
それこそが、王気だ。
数千万人の人間を、ただ一人の人間によって支配させ得る「力」がイズファヤート王に憑依している。
アベルは否定できないその絶大的な印象に驚愕するしかなかった。
――これが王……!
例えばイズファヤート王が頭に被る王冠。
全体は黄金で造作されている。
それは冠であるが一個の複雑な構築物の迫力が備わっていた。
王冠は堆く積もった宝石の展覧でもあった。
燃えるような紅玉の隣には澄んだ橙色の柘榴石、次には新鮮な海のように輝く蒼玉、森の精気を集めたごとくの翠玉。
色相環のようにぐるりと王冠を取り囲む巨大な鉱物が圧倒的な美を誇る。
それだけではない。
王の指には数種類の指輪が嵌っていて、そのうちの一つはまるで雲塊のように不気味に膨らんだ真珠だ。
手や指には心理状態が現れる。
緊張している者の指は強張っているものであるし、焦燥していれば絶えず蠢いているものだ。
ところが王の指は奇形的に膨らんだ真珠に護られ、微動だにしていない。
まるで呪いが掛けられた防具のようですらある。
対照的に王の服は象牙色をした簡素なほどの頭貫衣であったが、周囲の装飾があまりにも見事なために、却って王を目立たせる意味を果たしていた。
玉座の隅に衛士が控えていた。
ヒエラルクや戦場で会ったこともあるサレム・モーガンという魔術師。
きっちり両側に十人ずつ。
戦士はご丁寧に防具までつけている。
いずれも王道国から選び抜かれた最高の使い手に違いない。
そうしてアベルはやっと全体を見回せる余裕を得た。
謁見堂、王座、王冠、あらゆる装飾、取り巻く貴族たち……。
全てが王に隷属した関係であり、それぞれが支え補い、つまり王を王として成立させる部品としてだけ存在が許されていた。
ガイアケロンとハーディアが儀典に従った位置で片膝を付く。
遠き異郷で野蛮なる敵を倒した英雄も、世に稀なる美しい姫も、等しく王に跪くのだった。
アベルも慌ててそれに倣う。
ここにいる誰しもが、この光景を目に焼き付けるだろう。
いかなる者もイズファヤート王に傅くのだ。
皇帝国のウェルス皇帝は既に亡く、この世界にこれほどの権力者は二人といない。
王の命令とあれば、どれほど驕り高ぶったものであろうとも厳粛なる意義があるものとして実行されるだろう。
儀典執行官が合図をする。
全ての貴族たちが声を揃えて口にした。
「王は国家なり。国家は王なり。全ての人間の王。ただ唯一の王。我らここにイズファヤート王へ忠誠を誓うものなり」
その唱和が謁見の伽藍に響き渡り、止むことがない。
アベルの身に無数の声が圧し掛かってくる。
だが、破壊の欲望は消えない。
服従する者ばかりの中で、なおいっそう逆らう心の焔は激しく燃える。
あの男を殺せば、夢が現実になる。
ついに手に入るかもしれない。
黄金よりも眩く、自分の命よりも素晴らしいものだ。