純心と渇望
カチェは馬に乗るアベルを横目で見る。
頬についた血を拭ったので白粉が少し取れてしまったが、まだ完全以上に女性の姿だった。
誰しも思わず二度見してしまいそうな端整な横顔に、情熱を秘めた妖しい視線。
たったいま鎬を削るような襲撃が終わったばかりだが、まだ次の獲物を探している眼つきだった。
この変装には欠点があるとカチェは思う。
あんまり綺麗だから目立ってしまう……。
カチェの心は嵐に揺さぶられたように騒めく。
今日もアベルは大勢の血を流し、それでいて少しも満足していなかった。
どこまでも貪欲に敵を求めていた。
さらに危険な襲撃を企てているのが分かる。
際限のない殺し合いだ。
こんなふうに殺し続けていれば、いつかは逆に殺されてしまうのではないか……。
燃え上がるような殺意をどうやったら抑えられるのだろう。
ズマはありとあらゆる悪を寄せ集めた男だが、それだけがアベルの動機ではないように思えてならない。
カチェの脳裏にハーディア王女の類い稀な美貌が嫌でも思い出された。
そんなことはないと考え直す。
たった今だって、わたくしを綺麗だ……なんて言ってくれた。
別の意味で胸は騒めく。
たった一言でも心躍るような気持になる。
嬉しかった。
幸せだった。
変装を街中で解くわけにもいかず、そのままエイダリューエ家に戻る。
門番はオーツェルが手をまわしてあるので難なく通過することが出来た。
早く元の姿に戻りたいアベルは大邸宅へと移動した。
自室に急ぐ。
すると豪壮な正面玄関で馬廻りのヴァンダルと出くわした。
彼はガイアケロンの腹心であるドミティウス将軍の息子で、血気盛んな若者だ。
いかにも武骨な顔つきで頬には傷跡までついていた。
気の弱い人間なら睨みつけられただけで震えあがってしまいそうな迫力がある。
以前はスターシャとの仲を疑われて決闘寸前になってしまったが、何回も共に戦っているうちにすっかり戦友みたいな感じになっていた。
そのヴァンダルが変装したアベルに慌てて声を掛けてくる。
「お、おい。そこの女……。見ない顔だな。エイダリューエ家の者か」
「……」
「さ、さすが名家だな。俺はこんな美しい女を初めてみたぞ……。名前を教えてくれ」
ーなんだなんだ?
こいつスターシャに惚れてたはずだろ……。
「急ぎますので」
「なんだ?! 冷たいじゃないか。俺はドミティウス将軍の息子でガイアケロン王子の馬廻りだぞ。それなりの貴族でもあるのだ。名前ぐらい答えろ」
アベルは冷や汗を掻きながら首を振り、走って逃げようとするが、いつもと勝手が違うのでヴァンダルに肩を掴まれてしまった。
考えてみればヴァンダルは歴戦の闘士でもあり、なかなか腕の立つ男であった。ただでは振り切れない。
彼は何だかやたらと情熱的な視線で迫ってくる。
カチェは何故かモジモジと途惑って傍観していた。
どうして助けてくれないのだろうか。何か良い手を考えないと……。
とにかくヴァンダルを油断させなくては。
「あ、あの。とても立派な武将とお見受けいたしますが、せめて貴方様からお名前を聞かせてくださいな」
愛想笑いを浮かべてあしらうとヴァンダルは我が意を得たりという表情。
アベルの腕を離し満面の笑み。大仰な前口上を語りだした。
俺こそはガイアケロン王子の側近にして数々の戦場をお供させて頂いた……。
―今だ!
裏をかいて素早く懐に飛び込み、胸ぐらを掴むなり足を払ってヴァンダルを転倒させる。
不意打ちに反応できないまま無様に大股開いた姿で床へ倒された彼は驚きで大口を空けているが、関係ない。アベルは一目散に逃走した……。
部屋で変装をといて、すっかり普通の姿に戻った。
水を飲んだり、うがいをして声を変える薬の効力を無くす。
カチェは用事があるといって、どこかへ行ってしまった。
まずは事の顛末を報告しなければならない。ガイアケロンとハーディアに襲撃成功を伝えるべく面会を申し出た。
近頃は王族兄妹への面会希望者はますます多くなり予定を組むのにも苦労しているという。
だが、アベルはさほど待たされもせずに貴賓室へ入ることを許された。
入るなりガイアケロンが残念そうに声をかけてくる。
「なんだ。変装はもうやめてしまったのか。帰ってきたら二人で舞踏でもやろうと思っていた」
「ご冗談を。王子が誘えば泣いて喜ぶ貴婦人ばかりです。わざわざ僕を?」
「ははは! けっこう本気であるが……。まぁいい。それで偵察はどうだった」
「喜んでください。十傑将のギニョールを殺しました。火魔術で体をバラバラにしてやったので首はないんですが、確実です」
二人は成功を喜んでくれると思っていたが……。
ガイアケロンは打って変わって少し困ったような顔。
ハーディアに至っては、それまでの笑顔を消して不機嫌そうに眉根を寄せた。
それから王女は怖いほど強く言いつけてきた。
「あれほど念を押して危険なことはしないように言ったはずです! ヴェスメト向けに紹介状などを手配したのも万が一に備えての事。広場での襲撃ですら思わぬ反撃のせいで追い詰められそうになっていたではありませんか。なぜそこまで無謀な攻撃を繰り返すのですか。もうズマの手下を襲うのは止めなさい」
「機会でした。見過ごせなくて……」
「十傑将など代わりがいくらでもいる下っ端なのは貴方なら分かっていることでしょう。……その、感謝はしますが、これで最後にしなさい。しばらくおとなしくしているのです。いいですか。これは依頼ではなく命令ですよ」
「アベルが献身的に働いてくれているのはありがたいぞ。だが、もうじき謁見の予定も具体的になる。ここでお前が捕まりでもすれば何もかもお終いだ」
同じ手は二度までだ。
三度やれば、敵は必ず具体的な対抗策を整えて反撃してくる。
もはや遣り過ぎということだ……。
アベルは、しぶしぶ頷いた。
本当は自分でも理解していた。
あまりにも危険な賭けを続けていた。
ギニョールを襲った時も全身に怖気が走り、恐怖に脂汗を流していた。
たまたまギニョールの周辺に三十人ほどしか手下がいない瞬間がやってきた。そこを奴の病的な性癖を利用して近づいた。油断を誘うために丸腰にまでなった。
普通ではあり得ないような奇手だ。
まんまと嵌ったギニョール。
そして、アベルは暴力への渇望をぶちまけた。
失敗しなかったのは変装という奇策以上に、幸運でもあった。
だが、これでギニョールを襲ったのは金目当てではなかったとズマも気が付いた可能性が高い。
これまでは怨恨と金の強奪という両方の意味だと感じていただろう。
だが、殺されたギニョールは金を集めていたわけではない。
ディド・ズマが率いる「心臓と栄光」を襲った犯人を捜していたのだ。
それを殺したということは、金を奪うのではなく単に恨みが動機となる。
もっともギニョール自身も相当な凶状持ちであるから、狙われて当然であるのだが。
十傑将を襲うのは、ひとまずこれで終わりである。
退室したアベルをハーディアは見送り、溜息をついた。
またしてもズマの汚い手下を始末してくれた。
それも命懸けで……。
自分の感情を抑えるので必死だった。
思わず怒りの演技で隠したが、本当は有らん限りの称賛をアベルに送りたかった。
だが、ここで成果を認めてしまえば、またアベルは危険な戦いに出て行ってしまう。そうなってはならなかった。
やはりアベルに対して恋や愛とは違うにしても、特別な感情が生まれそうになる。
金や下心とは無関係の、剥き出しになった殺意や欲望で突き動いているアベルに強く惹かれるばかりだ。
改めて考えてみるとアベルは配下のようであって、やはり配下ではない。
アベルはもはや皇帝国を捨てて兄のために働くと約束をしているとはいえ、それでも密使であることには違いない。
純然たる家来や従僕ではないのに、むしろ誰よりも激しく戦ってくれる……。
ハーディアは首を小さく振った。
自分の心の機微をはっきりと感じていたが、それを理性や計算が押し留めている。
なによりも出生や身分という、覆せない運命がある。
「運命……」
ハーディアは思わず呟いた。
アベルはテオ皇子の腹心であるバース公爵の孫であり、皇帝国ハイワンド公爵家の継承権すら持つ。
密使としてやってきたアベルに過剰な好意を持つなど、愚かなことだ……。
精神的な余裕が無いせいで気の迷いが生まれていると考えようともした。
だが、血塗れになり凄惨な姿で戦うアベルを見るにつけて胸は疼いた。
堂々巡りの思考に決着をつけねばならないのに、さらに気持ちは揺れ動く。
ふいにハーディアの心へ差し込んできた父親の冷たい顔。
心の奥で絶えず憎悪している父王イズファヤートへの謁見は近い。
一瞬の機会さえあれば、ついに心からの願いである父親殺しを実行することになる。
もはやハーディアの中で父王は人肉を貪る怪物に等しかった。
奴の心臓を刃で体から抉り抜いてやらねばならない。
貴族たちは王の恐怖政治に圧倒されていた。
誰しもが冷酷で予測不能なイズファヤートに怯えている。
もし殺害が成功した時には、一気に兄ガイアケロンへ従うか、あるいはあくまで反逆者として攻撃してくるか……。
どちらにしても激しい混乱が起こることだけは確かだ。
だから、その隙を突いて王都で挙兵する狙いがあった。
素早く国内を鎮め、なんとしてでも最前線に残してきた軍団と合流する。
そうした上でイエルリングと王道国の政権について交渉する……。
全ては机上の空論だった。
ハーディアがずっと以前から抱いている予感。
父王の前で、己が体は引き裂かれて死ぬという夢の方が現実になりそうであった。
せめて、その時には……血路を切り開いてアベルだけは逃がそう。
そうだ。
そうとなれば、ますます好意を見せるなど、やってはならないことである。
所詮は呪われた王家に生まれた運命だった。
アベルは部屋で寝ている気分にもなれず、エイダリューエ家の広大で高雅な庭を歩く。至るところに水場があり、赤や黄色の可憐な花が咲いていた。
以前、ガイアケロンと稽古をした場所に行くと鍛錬をしている衛士が五十人ほどいた。
エイダリューエ家は潤沢な資産を背景に、有能な戦士や健康な若者を募り、訓練を施してからガイアケロン軍団に送り込むという。
アベルが様子を見ていると衛士のまとめ役に声をかけられた。
容貌魁偉なその男と少し話しをしてみると武術の教練頭だという。
彼の年齢は四十歳ほどで油断のない身のこなしだった。厳めしい黒髭を口から頬にかけて蓄え、目線は落ち着いているが、どことなく挑戦的であった。
「百人頭どの。貴方は王子のお相手をされていたほどの腕であるのに、そんなところで見ているだけでは退屈でしょう。私たちと模擬戦をしませんか。是非とも教えていただきたいものです」
遥かに年下のアベルへ、意外なほど慇懃な態度であった。
気持ちは迷ったが行き場のない憤懣を晴らしたい欲求が強かった。それに丁寧な対応をされて断りにくくもあった。承諾する。
アベルは誘ったからには教練頭が最初に相手をするのかと思っていたが、そうではなく別の者が出てきた。
現れたのは上背があり、筋肉も鎧のように分厚い男。
眼つきに負けてなるものかという気迫が漲っている。
まずは配下に試合をさせて、教練頭は様子見をするようだった。
指導する者として簡単に敗れてはメンツにかかわるため、負けるつもりなど全くないと知れた。むしろ模擬戦と言っても絶対に勝とうという思惑が感じられる。
アベルは木刀を借りて、出てきた長身の男と相対する。頭一つ分はデカい。
二刀流ではなくて、一刀の戦い方を試してみることにした。
非常に力がありそうなので、おそらく力押しや連続攻撃を仕掛けてくるだろうと想像する。
技量に差があっても初見の相手には注意がいる。思わぬ嵌め手を持っていて、そこへ落とし込まれると逃げられずに敗北することになる。
アベルの中に火焔のような戦闘意欲が湧いてきた。
試合開始の声は小さく、身振りだけで行われた。
即座に長身の男は絶叫を上げて踏み込んでくる。
「そらあぁぁぁあ!」
アベルの耳を劈き、はらわたまで響く気合。
下段からアベルの手首を狙って跳ね上げてきた木刀。
まずは小手を狙って動揺させて、さらに連携技を繰り出してくるとみた。
となれば出鼻を挫くに限る。
相手の切っ先をいなす。そのまま木刀を押し付けながらアベルは片手を柄から離して男の上腕を取る。
続けざま蹴りを入れると長身の男は怒りの顔になった。
掴まれた腕を振り払おうと雑な動きになったところで、軽く木刀で突きを入れた。
勝負ありの声。
居合わせた訓練生たちから感嘆の声がする。
長身の男はなぜ負けたのか分からない様子だった。
「さすがは百人頭どの。まだまだお相手してくださるな」
教練頭が眼つきをより一層、険しくさせていた。
~~~~~~~
ズマの顔面は赤く染まり、限りない憎悪が迸っていた。
場に居合わせたサルゴーダ、ロシャらは肝を冷やす。全身から嫌な汗が出た。
こうなるとズマは敵を血祭りに上げなければ治まらない。
無論、ここで不手際など仕出かせば十傑将という立場であってもその場で殺される。
怒りの原因。
ギニョールが襲撃によって死亡したとの報せが伝えられた。
襲撃犯を探しているはずが逆に殺される。
最低の結果。ディド・ズマの威信はこれ以上なく汚された。
ズマはそこにあった紫檀の机を担ぎ上げる。
額に青筋が立ち、歯軋りが不気味な音を立てる。
壁に向かってぶん投げた。
衝撃音。
数十人の凶悪な男たちは顔に似合わず委縮していた。
次にズマは自分の身を包む豪華な絹の服を掴むと、毟り、引き裂く。
醜怪な肉体が露わになった。訓練ではなく血の噴き出る戦場で鍛え上げた体。
隆起した筋肉のいずれにも大小の傷があった。
父親ズラフ・ズマは痛みがないと憶えないという信念の持ち主だった。だから幼少のころから受けた傷は、命に関わらない限り治癒魔術で治されることはなかった。
肩から下腹部まで蛇のように伸びた傷。
殺した人間の怨念が染みついたようにしか見えない奇怪な爛れが無数にある。
身に刻んだ傷は奪い、我が物にしたディド・ズマの業の足跡だった。
あらゆる悪事をこなしてきた十傑将を怯えさせるのに十分な暴力がズマから溢れ出している。
ギニョールの死体は彼の肉体だとも分かりにくい有様だった。
桶に入れて運ばれて来たそれ。
中には顔の一部と手足が無造作に詰まっていた。
装身具などて辛うじて本人と判別できる。
殺されたのは都の大通り。白昼堂々と女が一人で近づいてきたという。
物凄い美女だったと同行した戦士たちは口を揃える。
丸腰の女は接近するや隠れていた仲間に渡された刀を手に攻撃を仕掛けてきた。
鮮やかな腕前だったが、ギニョールは得意の魔術で対抗。
普通ならそこで決着はつくはずだった。
しかし、なぜかギニョール必殺の昏倒魔法は効果を示さなかった。
一瞬の隙を突いて女は反撃。
魔法と冴えた剣術に圧倒されてギニョールら十数人が殺されて、そのまま逃走を許したという。
狂気に等しい怒りを漲らせたズマ。
報告に現れた手下たち。
ギニョールの周辺にいながら無傷である者をズマは棍棒で激しく殴打した。
まるで手加減のない打撃で顎を砕かれ、額を割られた男たち。
ズマの怒りは全く治まらなかった。
「この俺を追い詰めたつもりか……! ふざけやがって!」
憤怒のまま土下座する屈強な戦士を掴み上げ、壁に投げつける。
首の骨が折れる音は、木の幹がへし折れたものに似ていた。
血と体液が飛び散り、冷たい汗を流す数十人の手下たち。
もはや十傑将など失笑の称号であった。
レンブラート、ニケ、ピソル、ギニョール、加えて会計のマゴーチ。
いずれも、首を裂かれ顔面を削られ、あるいは体を粉々にされた悲惨な骸に成り果てた。
五体満足とは程遠い、痩せ犬の死にざま。
こうも続けば誰だって考える。明日は我が身と……。
酒と女と博打。あらゆる享楽、暴虐を楽しんだ傭兵たちの、ある意味で当然といえる末路。
だが、荒くれた男たちはその運命を受け入れるはずがなかった。
だから、なおのこと派手に着飾り、さらに蕩尽して、どこまでも奪いつくすのである。
その略奪と消費の回転が妨害されていた。
誰によってと、生き残った十傑将は考える。
しかし、答えは見つからない。
なにしろ怨みなど買い過ぎていた。
ズマが臓腑に刺さるような絶叫をした。
手下どもを集めろ。反撃だと。
サルゴーダが恐れつつ聞く。
犯人は確定していない。
「ズマ様。どいつを襲うのですか……」
「俺の傘下に入っていない奴らに決まっているだろうが!」
火の噴き出るような視線に睨まれて反対できる者などいなかった。
黙々と武装し、準備に入る。
王都にはズマの誘いをのらりくらりと躱して独立を保っている傭兵団や仁義団と呼ばれる武装組織がいくつもあった。
だが、彼らはディド・ズマの脅威を前にして緩やかな連帯を組んでいる。
ズマは行き先を伝えない。ただ憤怒と共に歩む。
恐怖とやり場のない怒りを漲らせる荒くれた男たち、約五百人を率いて移動する。
流血の気配を漂わせた武装集団を見た市民たちは慌てて逃げ出した。
ディド・ズマは目の眩むような怒りのなか考える。
血筋門閥によらず実力だけでここまで来た己は負けてしまえば傭兵一匹になってしまう。
噂が広まる前に、何としても反撃しなければならなかった。
証拠や理屈など糞くらえだった。
メンツを潰されたまま都の大路を歩くことなど出来ない。
主であるイエルリング王子、謁見予定のイズファヤート大王のこともある。
やがて、王都の市街地にある豪邸に到着する。
周囲を石壁に守られ、ほとんど砦のような石造り三階建ての館。
古くから王都に根を張っている仁義団の本拠地だった。
傭兵は戦場を縄張りにしているのに対して仁義団は王都の様々な利権に食い込んでいる。ただし、それらは王道国から公認されているわけではない。
これまで「心臓と栄光」と仁義団は互いに縄張りを荒らさない関係であった。
仁義団はズマと関わりを避ける方針らしく、これまでいかなる協力も拒まれている。
ズマにしてみれば随分と前から邪魔な奴らだった。
豪邸を囲む壁。入り口は一か所。巨大な鉄の門扉は固く閉ざされていた。
内側から来訪の意図を問う声がある。
壁の上部に弩を構えた男たちがいた。
すでに異常を感じた仁義団は慌てていた。
ズマは前口上もしないまま攻撃の命令を下した。
梯子が掛けられて戦士たちが壁を乗り越えていく。
気の狂ったような叫びと金属がぶつかる戦闘音。
弩から放たれた弓矢が唸りをあげて飛び交う。
ズマが鍛え上げた「心臓と栄光」の屈強な戦士らが手当たり次第に襲い掛かる。
火魔法が炎を撒き散らし、火の粉が空を覆う。
やがて鉄の扉が内側から開く。内部に突入した手下たちが血塗れの姿を現した。
ズマは、ほとんど先頭に立って戦う。
得物は槍のように長い柄に豪壮な刃を取り付けた長巻だった。
「ぐおぉぉおおぉ!」
腹に響くズマの雄叫び。
振るわれる刃物。人間の胴が輪切りになる。赤紫色の臓物が流れ出た。
結果的には奇襲なので、敵の多くは防具を身に着けていなかった。
ズマが繰り出す嵐のような斬撃で手足が玩具のごとく放り出される。
いたるところ罵声が上がった。
壁を攻略して、いよいよ館に突入を始めた。
窓という窓は頑丈な鉄格子と樫の板で守られているが、魔法で爆発を起こし破壊した。
心臓と栄光の男たちが群がり、進んでいく。
壁の外ではズマの攻撃に気が付いた仁義団の仲間が駆けつけて反撃をしてきた。
だが、ここで退いては後でズマに惨殺される手下たちは、さらに狂暴になって戦う。投石や弓矢も飛び交い、まったく戦場と変わらない光景が王都に現れた。
十傑将のロシャ、ベルシオ、ヤッピはズマに続いて奮戦する。
少しでも手を抜いていると見られたら何をされるか分からない。
サルゴーダが仁義団の首領の立て籠もる部屋を見つけたと注進してくる。
捕らえた男を拷問で吐かせたと自慢げにするその手は血脂で真っ赤になっていた。
館の一階を制圧し、会見室と思われる部屋に辿り着く。
鉄の衝角がついた丸太を男たちが抱え上げて、鉄の扉にぶつける。
ドスンドスンという重たい衝撃音。破られる扉。
即座に内部から魔法の反撃がある。
炎が荒れ狂い、人形のように人体が飛び散る。
ズマは体が隠れるほど大きく分厚い盾を構えて、炎が飛び散るなか突撃した。
魔法使いが炎弾を放ってきたが頑丈な盾に防がれてズマには傷一つつけられない。
片手で振るった長巻の一撃で魔法使いの頭蓋骨が斬り割れた。
体当たりを仕掛けてきた敵を盾でぶん殴ると体がひしゃげる。
ディド・ズマは体から、むかつくような殺気を発しながら咆える。
「殺してやる! 殺してやるぞ!」
後に続く十傑将が仁義団の男たちに飛び掛かり、狂った男たちが取っ組み合う。
怪力のロシャが棍棒を振るうと肉が潰れる音が響いた。ベルシオとヤッピが剣を手に血や汗や体液に塗れて戦う。
獣の争いよりも残忍な血みどろの乱戦となったが、やがて決着がつく。
ズマの手下たちが鋼鉄のような腕で敵を押さえつけていく。仁義団の幹部や首領が顔を腫らせてぼろぼろになった姿で床に引きずり倒された。
それからサルゴーダが部屋にあった金銀や工芸品を集めていく。
「ズマ……! てめぇどういうつもりだ!」
叫ぶのはタランという名の仁義団の首領。五十歳ほどの屈強な男であるタランは歯を折られ口から血を流し、這いつくばりながらもズマを睨んでいた。
無言のままズマの長巻がタランの耳を削ぎ落した。耳朶が床に転がる。
「この俺を殺れると思いやがって! 広場で襲ってきたのもギニョールを殺したのもお前らだろうが!」
「ああっ!? てめぇらに手を出したことは一度もねぇ。だったら証拠でもあるのかっ!」
「広場で殺した男がここに出入りしていただろう。そいつの装備をもとに調べたぞ」
「知るか! ここには方々の奴らが出入りする。我々の付き合いをお前に仕切られるいわれはねぇ。たったそれだけのことで襲ってきやがったのか」
「それで充分だ。この雌豚から生まれてきた糞めが。いいか! たたでは殺さんぞ。お前の皮を剥ぎ取って旗や靴にしてやる。肝臓は息子や娘に食わせてやるぞ。さぞかし精が付くだろうよ。脅しではないことぐらい分かっているだろうな……」
腹の底から響く地獄の唸りのようなズマの宣告。
必ず現実になる。
タランは絶望した。
話の分かる相手ではない。
狂人を相手にしているのと同じだ。
いかなる説明も受け付けはしない。
しかし、黙っているわけにもいかなかった。
「なぁ。ズマよ。敵を作りすぎじゃねえか。わしらのような傘下にならない者たちを皆殺しにするつもりか? できやしねぇぞ、そんなこと。わしらにも色々と繋がりはある。それこそ商人から貴族まで……。そいつら全員敵に回すぞ」
「くだらねぇ心配は自分自身にしていろ。どんな言い訳も聞かない。これから、お前は切り刻まれて肉になる。お前の場合は食い物になるだけだ」
「イエルリング王子の飼い犬になって自信をつけたもんだな。肥溜めで泳いでいるのがお似合いの蛙野郎が……! いいか。忘れるなよ。次はお前が殺される番だ」
嘲りにズマは反応しなかった。血走った視線は中空を彷徨っている。
勝利したにも関わらず、僅かも気持ちは和らがない。
殺意は底なし沼のように深かった。
いくら敵を追い詰めたところで終着地は見えない。
怪しい奴などいくらでも湧き出てくる。逆に信頼できる者など手下にもいない。いるとすれば父ズラフと母ネージャのみであった。
始めから仁義団が犯人であるかなど、どうでもいいことだった。
真相が明らかにならないことなど分かり切っていた。
ズマの心中に煮え滾る怒りの対象はすでに他へと移っていた。
今度は連鎖的にエイダリューエ家で受けた屈辱までもが蘇る。
ギムリッドという次期当主となる貴族の男。
生まれながらにして何もかもを所有している人間。
ズマが最も憎み、妬むべき男の象徴のようであった。
奴からは、これ以上ないというほど嘲られた。
それだけで殺すに値するというのに、ハーディアの側にいるというのが爆発的な憎しみへと変わっていく。
もしかすると今もハーディアに甘い言葉を囁き、誘惑しているかもしれない。
そう思いついてしまえば、もはや想像と事実に区別はなくなる。
殺してやる。
必ず殺してやる。
激しい戦闘が終わって、あるいは射精したのち脳裏に決まって現れるのはハーディアであった。
思い出してしまえばズマの心に鋭い痛みが沸き上がる。
どれだけ豪華な品物を送っても受け取られたことは一度として無かった。
何度となく接触しても、あしらわれてお終いだ。
実に冷たく儀礼的な対応。そうでなければ見下した視線。
先日のように酒を振る舞うなど初めての例外であった。
欲しくて欲しくてたまらない女。
だが、絶対に手の届かない女。
しかし、大王は金を積みさえすればハーディアをくれてやると言った。
途方もない金。
こうして危険を顧みずに駆けずり回って集めている。
思うさま奪い、女などいくらでも犯せるはずの己が人生は、同時に肉の塊にすぎない女一人に狂わされていた。
だが、後悔などするわけにはいかない。
かつて経験したことのない心の激痛と悔しさ。
どうしても認めることができない愛という感情。
思いつけばズマは自分自身に唾棄したくなる。
もし己に愛などというものがあるのなら、遥か地平線の先まで奪いつくし、あらゆる流血と収奪品を残らずハーディアに捧げて見せよう。
積み上げた財宝の上でハーディアを犯せば、きっと何かが見つかるに違いない。
「俺は全てを手に入れる!」
ズマの咆哮。タランの腹を引き裂き、中から胆嚢を引きずり出す。
干して薬にするつもりだった。
タランが断末魔を上げていた。
血走った眼をしたタランを踏みつける。身の毛のよだつ唸り声を迸らせながら、仁義団の幹部たちを皆殺しにした。
全身、血だらけになったズマは魔獣よりもおぞましい。
ロシャやサルゴーダ、並み居る極悪な男たちですら戦慄して、やはりズマならば世界の半分を奪えると信じずにはいられなかった。
その後、タランを筆頭に、幹部たちの首を槍に突き刺して示威行動をすると仁義団の援軍は退却していった。
館は有らん限り破壊して、奪えるものは何もかも運び出す。
壁や塀は打ち壊し、井戸や廊下には死体や臓物をばら撒いた。
もう二度とこの場所を使いたいと考えないまでに汚しきるためだ。
その作業をズマが眺めているとヒエラルクが姿を現す。
「また派手にやったのう。ズマ殿」
「これぐらい戦場と比べれば何のことも無し」
「王家に迷惑の掛からないよう注意せよ。それだけは私も黙認できぬゆえな」
「分かっている」
「して、これで目的は達したのかな」
「まだ途中だ。俺の邪魔をする奴らは皆殺しにしてやる」
「さてさて。しかし、これだけ騒ぎを起こしたのなら少しは警邏隊にも手を回さなくてはならないぞ」
ズマはサルゴーダに命じて略奪した金貨や宝飾品をヒエラルクに渡した。
ヒエラルクの瞳は燃え上がるように輝き、酷薄な笑顔を浮かべた。
ズマはヒエラルクと幾晩も語り合い、その野望の高さを知っている。
天才的な剣の腕で、どこまでも上を目指すという。
やがて王の最側近となり、王道国に留まらず世界で最高の剣士と謳われる……その望みは叶いつつあった。
だが、ヒエラルクの欲望はさらに巨大だ。王道国での立場を揺るぎないものにしたのちは数千、数万の門弟を従える歴史上最高の流派を打ち立てるという。
その名は数百年、あるいは千年に及んで残るだろう……。
ヒエラルクは血走った瞳で、必ず現実にしてみせると語るのだった。
「ヒエラルク殿。余計な動きをこれで押さえてくれ」
「仁義団などという組織。イズファヤート大王様にとっては虫の巣穴も同然。何か聞かれたら巣穴をズマ殿が始末したと報告しておこう」
心臓と栄光の男たちは奪った首を掲げつつ都を歩く。
邪魔する者は誰もいなかった。
アベルは熱気を滾らせた体を持て余して、広い庭をあてどもなく歩く。
模擬戦はあのあと、さらに続けられた。
結局、十数人と戦ったが、誰も彼も叩き伏せた。
最後に教練頭がすっかりアベルを知り尽くしたような顔で勝負を挑んできたが、夢幻流を工夫をした技で攻めると、変幻自在な動きに全く対応できはしなかった。
教練頭と戦う前は、ずっと一刀を扱って攻刀流を中心とした技しか見せなかった。それを突然、二刀流に戦い方を変えた。
それだけで、呆気なく勝負はついてしまった。
いかに観察とか分析には弱さがあるかを理解させられる。
どれほど分析して対策を整えていても、それはいわば受動的の極みであって、相手が突然とやり方を大きく変えてきたら、いくら想定していても追いつけないのである。
アベルは強敵たちを思い出してみる。
ディド・ズマとヒエラルク。次にはずっと以前に遭遇したイエルリング王子とダレイオズという戦士。
どう考えたところで、自分一人では殺すことが出来そうにもない。
凡庸な相手に勝ったところで、少しも成長を実感できなかった。
泥沼に嵌ったような気にすらなる。
あるいはガイアケロンやハーディアに稽古を頼んでみようかと思いつく。
気が高ぶったまま庭を歩いているうちに日が暮れていく。
結局、その日は与えられた個室に戻らず、ガイアケロンの馬廻りたちのもとに行く。
同行した戦士たち全員の部屋などあるはずもなく、大部分の者たちは倉庫のような建物に纏まって寝泊まりしていた。
交代制で王族兄妹の警護にあたっているが、非番の者は久しぶりの休暇を王都で過ごしたりしているようである。
彼らは麦酒や葡萄酒を樽で買い込んでいた。どちらも質はよくなく、特に麦酒は漉し方が悪いのか発酵が進みすぎていてドロドロとした粥のような状態に近づきつつある。
任務がなくて特にやることのない戦士たちは他に飲むものがないため、ひたすらそんな状態の麦酒を口にしていた。アベルも同じように胃へ流し込んだ。
こうした麦酒は味はともかく滋養だけは豊富にあるらしく、栄養失調から回復できる妙薬だと言う者もいた……。
羊の血の腸詰などを齧りながらくだらない話に興じる。
ガイアケロン配下には草原氏族の者もいて、彼らは全くの異国、このような世界最大級の都に来られたことを素直に喜んでいた。
無邪気な彼らはガイアケロン王子が戦功により、さらなる領地を与えられるだろうと信じて疑わなかった。
アベルは複雑な権力闘争の結果次第では何が起こるか分からないと察していたが、それを戦士たちには説明しなかった。話したところで理解されないだろう。
夜もだいぶ更けた頃にヴァンダルが姿を現す。それから憔悴した様子でアベルに聞いてくる。
「アベル。女を見なかったか」
「女の奴隷なんか館にいくらでもいるだろう……」
「そうじゃねぇよ! ものすげぇ女だ。見たことのないほどの美女で、なんかちょっと妖しくて……ああ、もう。とにかく飛び切りの上玉だ。髪は紺色で、服は普通の長衣だったんだけれども」
「……お前はスターシャが好きだったんじゃないの」
「そ、それはそれだっ! あの女には借りができた。油断していたところを突かれて、ちょっと転んだ。あんなことがあるなんて……俺の人生の汚点だ」
「じゃあ見つけたらぶん殴るのか」
「断じてそんなことしない! 口説くんだ。今度こそ俺のことを分からせてやる」
「……やめとけって。そりゃ何かに化かされたんだぞ。もう二度とその女と会うことは無いだろうよ」
憑りつかれたようになっているヴァンダルはこれ以上話をしても無駄だと思ったのか、再び夜の庭を当てもなく彷徨い出した。
呆れるほどの愚か者である。
アベルは酔いが醒めそうになってしまい、そのまま寝てしまった……。
翌朝、早起きする気にもならず、横になりながらぼんやりしているとカチェが姿を現した。
アベルは思わず目を見張る。
いつもと違ってカチェは珍しく化粧をしていた。
唇に薄く紅を引いて、髪には銀の飾り。
服もどこから手に入れたのか純白の長衣を纏っている。
周囲にいた戦士たちもカチェのあまりの美しさに我を失い、口を半開きにして白痴のような表情をして動かない。
長らく女戦士としての装いしか見せて来なかったせいか、あるいは数多くの生死を賭けた戦いが生来の素養を練磨したのか、まったく新たに彼女の真実を発見したような心地である。
カチェってこんなにも豊かに成長していたのだと、アベルは驚き入ってしまった。
それにしてもどういう心境の変化だろうか。
「びっくりした……。カチェ様。どうしたの」
「ふふっ。たまにはね。化粧道具は借りましたよ。本当にあり得ないような最高級品だったのね」
「ああ、あれか。良ければあげますよ。もう使わないだろうし」
「ありがとう。けれど普通、ああした女の道具は嫁入りの時に母親から譲られたりするものなのよ。だから、いらないわ……。ところで朝の散歩につきあってくださるかしら」
「はい……」
カチェはアベルを伴い、大理石の縁石で仕切られた水場までやって来る。
見たことのない緑色の小鳥が楽し気に囀っている。王道国は小鳥も皇帝国とは違うようだ。
朝日で水面は鏡のように光っていて、僅かに揺らぐそこには二人の姿が映っていた。
ちょっとそこら辺には居ないほど、お似合いの男女に見えて嬉しくなる。
これは、ほんの数刻だけの楽しみだった。しかし、何だか本当に心が満ち足りてくる。じわじわと身が震えるほどに。
アベルは、やはり依然としてイースに執心しているのは分かる。
しかし、それ以上に、何らかの強烈な衝動で動いていた。
それが謎だった。
金でも立身出世でもなく……。
強いて言うなら途方もない夢想のような気がする。
いずれにしてもガイアケロンとハーディアへの加担は異常なほどであるが、止めることは不可能であった。
カチェは勘だけでなく理性で考えてみても大きな危険が迫っていると感じていた。
死は恐ろしいが、アベルがいなくなってしまうことの方がもっと辛い。
となれば、自分のやることは一つに決まっていた。
「アベル。わたくしは……幸せです」
そう呟き静かに笑うカチェの頬は上気して瞳は潤い、いくら見ても飽きないほど美しい顔だった。
アベルは、これまで幼馴染として接してきたカチェに激しい魅力を感じずにはいられなかった。
これまで何度かは、思わず女として見てしまいそうになったことがある。
しかし、自制心と何よりイースの幻影が作用して、そうしたことを仕掛ける気にならなかった。
カチェの暖かい情念が心を攪拌するが……それでもガイアケロンの憎悪と自分の欲望は混ざり合って引き離すことはできなかった。
「……カチェ様。もうじきイズファヤート王に謁見となったら、もし僕の登城が許されたなら、シャーレとワルトを連れて王都に隠れていてください」
「……危険なことがあるのよね?」
「大丈夫ですよ。必ず戻ってきます」
カチェは奇妙ほど澄んだ群青色の瞳の奥に、アベルの魂を見た気がする。
もう少し話しをしようと思ったところ、オーツェルが急いだ様子で走ってくる。そうしてアベルの元に来るなり言うのだった。
大王謁見の予定が正式に決まり、アベルの引見も許されたと……。




