鏡の君は
「アベル……。ねぇ、もう危険だから止めて」
「いや、諦めるわけにはいかない」
「だめよ」
カチェがアベルの腕を縋るように掴んで制止した。
しかし、アベルは強引に体を進ませようとする。
アベルの眼前には混沌が広がっていた。
老若男女、無数の人々……。
絶え間ない騒音。
常に誰かが叫び、泣き、笑う。大波のように音が打ち寄せる王都の午後。
襤褸を纏った労務者が歩いている。
上半身裸で腰巻だけをした少年たちが、汗と埃に塗れて重たそうな荷物を運んでいた。
酔っ払いが歌いながら歩く。
娼婦が歓声を上げ、派手な身形の中年が笑う。
年寄りの乞食が道端で小銭をねだる。
皮膚病で酷く毛の禿げた犬が大路をうろつき、蹴られそうになると悲鳴を上げた。
占い師の老婆が路傍で置物のように客を待つ。
薄汚れた具足を身に纏った武人は暗い視線をどこかに向けている。野心のみを持っていた。
そうした群衆の先に、異様な男たちがいる。
それぞれが鎧で身を守り、槍や鉾などの武器を手にしていた。
ディド・ズマの傭兵団「栄光と心臓」の構成員らだった。
アベルはズマの手下たちを、執拗に追っていた。
だが、状況は悪い。
アベルたちが襲撃を仕掛けてから、奴らは警戒を強めた。
百人ばかりが体を引き裂かれ、内臓を地面にぶちまけ、あるいは頭を割られて殺された。
当然といえば、あまりにも当然だった。
だが、だからと言って活動を止めはしない。
むしろ、金を求めてさらに激しく蠢いていた。
ズマの手下たちは襲撃への対策を整えていた。
まず中核戦力が少なくとも百人以上。完全武装で金や高価な品物を守る。
それから周囲に広く厚い警戒部隊を配置するようになった。
埃除けの布などで顔が隠れている者が近づくと、問答無用でぶん殴り、詰問をする。
場合によってはそのまま連れ去っていた。
これでは顔を隠していても近づくことができない。
襲って価値があるのは十傑将や金品である。
周りの下級構成員をいくら殺したところで成果にもならない。
大路の向こう側、アベルの視力はディド・ズマの側に控えていた魔術師を見つけ出していた。
正体ははっきりしないが、いずれにしてもズマの身辺を堅固する最も有力な魔術師に違いない。
となれば十傑将のひとり、ギニョールのはずだった。
粗野丸出しの傭兵たちにあって、珍しく知的で紳士を思わせる男。
顔も優男と言ってよく、怒ることもないという。
だが、その正体は女を残虐な方法で殺すことを生き甲斐にした外道であるという……。
たしかに、あの薄い青色の瞳は人間を嬲って痛めつけるのを欲した視線をしていた。
アベルにとって特に狙うに値する十傑将。
これまであの男は逗留しているエゼルフィルの館から出てこなかったが、ここ数日というもの連続で姿を現している。
おそらくピソルとニケという十傑将が殺されたことにより、ズマから何かを命じられたのだろう。
詳しく調べたいのだが、襲撃のときにバザックという協力者を失っていた。
王都に伝手の多かった彼の力なくして諜報は難しい。
結果としてアベル自身が尾行するという、あまり上等ではないことをしていた。
良くない手だという自覚はあるが、だからといって静かにしていることなどできなかった。
とうとうディド・ズマと出会ってしまった。
因縁と運命の敵。あと一歩で斬りつけられるという瞬間、ヒエラルクに邪魔をされて果たせなかった。
あれ以来、炎に炙られるような衝動が体を突き動かしている。
―ズマと戦って、それで破滅したっていいじゃないか。
命を大切にしたところで、いつ死ぬか分からないのだから……。
再度、カチェが必死の声色で引き留める。
「アベル。どう考えても無理よ……。顔を隠したまま側に寄れないのだから。アベルが付け回していると奴らが察知したらガイアケロン王子にも迷惑となるのよ。いったん退きましょう」
カチェは、ぎらついた殺気や緊張感を湛えたアベルに声を掛ける。
ここのところ、僅かでもアベルの側から離れるわけにはいかなかった。
それほどアベルからは危険を顧みない気配が溢れていた。
放っておいたら、本当に何を仕出かすか分からない。
まるで運命に導れるようにズマと出会ってから……以前にも増してアベルに得体のしれない殺気のようなものが漂っていた。
箍が外れたとはこのことだろうか。
常に行動で現状を変えてきたカチェも、悩むのである。
どうしたらいいのか分からない。
アベルと危険を乗り越えて平穏を手にしたいという願い。
それが出来ないのなら……せめて一緒に戦って、この身をアベルに捧げようと思い詰めたりもしてしまう。
自分自身の中で対立する心。
ついイースを持ち出してアベルの暴走気味な気迫を鈍らせようとしてしまった。
姑息な方法だったかと後になって恥ずかしくなったりもした。
こんなときにイースはどこにいってしまったのだろう。
彼女がいてくれれば、もっと状況は良かっただろうに。
気も狂わんばかりに苛立たしい。
落ち着かない理由は他にもある。
カチェは背後を振り返る。
少し離れた路傍にスターシャとオーツェルに守られたハーディアがいた。
世に稀な美貌は絹布で隠している。
ハーディアはズマが去った後、蒼褪めた顔色のまま気分が優れないと言い、寝込んでしまった。
過酷な戦場でも凛とした態度を崩したことのないハーディアにしては、まったく異例のことだった。
ギムリッドなど狼狽に近い様子で、エイダリューエ家お抱えの薬師に気付け薬を作らせたものだが、ハーディアは口にしなかった。
そうなるとギムリッドは誰も話し掛けられないほど不機嫌になり、黙り込むのみ。
対して兄ガイアケロンは寝ていれば治ると、落ち着いていたのが対照的であった。
数日ほど何も食べず横になっていたハーディアであったが、今日の早朝は起きるなりアベルの活動に付いていくと言い出したのだった。
もちろんギムリッドを始めとして大多数の人間には秘密のうちに……ということだ。
側近の反対も振り切って、これは気分転換だというが明らかにアベルを制止するためのことだとカチェは気が付いた。
ガイアケロンは止めないどころか、むしろ気晴らしになると賛成したので実現してしまった。
カチェは思い出す。
アベルがズマに斬りつけようとしたと聞かされたとき、ハーディアは目を見開きも顔色を変えた。
本気でアベルを失いたくないと感じていたようだ。
そして、とうとう今日は混乱の渦巻く王都にまでついてきた。
ギムリッドは、まだハーディアが部屋で寝ていると思っているだろう。
そちらのほうも心配だとカチェは気になった。
激しい怒鳴り声が聞こえた。
路上で酔った男たちが喧嘩を始めた。
理由は賭博の勝ち負けに関することらしいが、たちまち殴り合いになる。
傭兵たちが騒ぎに気づいて、こちらへ注目してくる。
こうなると尾行どころではない。しかたなくアベルは踵を返した。
あてどもなく歩く。
アベルの脳裏からディド・ズマの顔は消えなかった。
あれほどの悪相があるのかと、思い出すだけで怖気が湧く。
貪欲、傲慢、残忍さしか感じられない醜悪な容貌。
まさしく世界を乱す核心人物の一人だ。
殺すべき敵。
しかし、容易なことではない。
数万人の傭兵たちを束ね、有能な戦士や魔術師に護られ、ズマ自身もかなりの使い手なのを感じさせた。
一人で立ち向かっても、常識的に考えれば望みは叶わない。
逆に殺されるだけだ。
行くすべを失い路傍に立ち竦んでいるとハーディアが近づいてきた。
庶民の女性が着るような、裾の長い象牙色の貫頭衣を纏っている。
輝くような金髪もベールで隠されているので誰にもハーディア王女であることは分からない。
「アベル。珍しく落ち着きがないようですが」
「すぐそこに十傑将が……おそらくギニョールという男」
「襲撃できる状況ではないのが分からない貴方ではないでしょう。そんなに乱れた心でどうするのですか。強靭な者は危難に際して穏やかなものです」
「……」
「私たちは常に耐えて待ちました。戦いは相手を知り、罠を仕掛け、機が来るまで待つものです」
いつもなら黙って従うところだが、今日は言葉が出てしまった。
「そんな悠長にしていられる場合とは思えませんが。ズマの金集めは確実に成果を上げている。それに謁見も近い。終わってしまえばズマはまた最前線で暴虐と略奪の限りを繰り返すでしょう。数千人の戦士に守られたズマを殺すことは不可能。今なら、たとえズマ本人は無理でも有力な十傑将を倒せる好機のはず」
それだけではない。
アベルはガイアケロンとハーディアの狙いを知っている。
二人は王に謁見となった時……千載一遇の機会として叛乱を仕掛けるつもりではないのか。
そんなときディド・ズマやその関係者など邪魔なだけだ。
王を守ろうと手向かってくるに決まっている。
ならばこそ、できれば事前に消しておくに限る。
アベルはそう全てを話してしまいそうになり、我慢した。
兄妹にとって父王殺害の願いは秘中の秘。おそらく最後まで誰にも明かすつもりはない……。
ガイアケロンの胸中で渦巻く、父親への殺意と憎悪。
怨念が花開くように成就したとき、自分も何かを見つけることができるのではないか。
彷徨うばかりの己の魂に救いの一筋でも……。
己の欲望とガイアケロンの憎しみは混然一体となり分離不可能だった。
「アベル。貴方には群れを離れた孤独な獣のようなところがありますね。何か途方もない、妄想に近い夢を実現しようとしているのかしら……。それはそれで興味深くありますが、まずはご自分の目的を思い出しなさい。気分を変えて食事でもしましょう。私は気晴らしがしたいのです」
ハーディアの制止は断定的だった。
アベルは諦めて従わざるを得ない。
今日の足掻きはこれまでだ。
アベルは仲間たちと歩き、傭兵たちから離れていく。
百万人の群衆が蠢く王都は、僅かな街角でも凄まじい光景が繰り広げられている。
贅を凝らした極彩色の輿に乗る商人のすぐ下では、足が萎えた乞食の老婆が野菜の屑を食んでいる。
欲深い人々、悲惨な出来事……清らかなものはどこにあるのか。
神殿はあるが、そこにあるとは思えない。
考えても結論の出ない想念がアベルの中に沸き起こり、止まらない。
―そうだ。あるのだとしたらイースにこそ……。
いつしか、そう信じていた。
イースこそが自分を救ってくれる聖女のような気がしていた。
たった今でも確信か妄念か判別できない気持ちで感じている。
もう二度と会えないのかもしれない。
会ったところで、不完全で中途半端な自分を晒すだけだが……。
いったい何時まで、こうやって自分はここにいられるだろうか。
ふいに、些細な理不尽によって突然と命を失ってもおかしくなかった。
運命がどう転ぶが全く分からない。
市場の横を移動する。
道の両側には露店が並んでいた。穀物や果物を売る店、見慣れない木の実や豆などが目に付く。香辛料の刺激的な香りが漂う。
何十種類もの匂いが混ざった複雑な香気は圧倒的な迫力があり、ワルトなどは苦手なのか顰め面をしていた。
やがて、スターシャがとある飲食店に案内してくれた。
見たところ、なかなか高級店に属するところのようだ。
入り口には大輪の花が飾られてあり、木の棒を持った門番がいる。
石造りの建物。中は広く、普通とは違って二階に個室がある構造だった。
周囲を気にしなくていいので、うってつけだった。
席に着き、ハーディアが顔を隠していた絹布を取る。
傾国の美女と言ってもいいような美貌が露になる。
給仕が運んできた酒壺に銅の杯。
カチェが気を利かせて葡萄酒を注いでくれた。
アベルは黙って飲み干す。それからスターシャに話しかける。
「バザックを失ったのが大きい。彼の人脈と行動力には助けられた」
「あいつも本望だろうよ。仇と戦って死んだんだ」
「あの人、スターシャを娘だと思っていたのではないか。スターシャを助けるために捨て身で攻撃して……」
「さぁな。そんなこと誰にも分からないさ。あたいは考えても分からないことは考えないことにしている。あいつはあれで一番いいと思ったのだろう……。また、あの傭兵たちの店にいってみるか。協力者を見つけられるかもしれない」
「やめておけよ。もう頼りになる伝手はないんだろう? こっちのことがバレたら……大変なことになる」
それまで黙っていたオーツェルが賛同した。
「窮すれば鈍するというやつだ。知らない者を協力者にすると裏切りを恐れることになる。完全な悪手だ。我々だけで行動するべきだが……顔を隠して近づくのも難しいとなれば、あと思いつくのは本格的な変装ぐらいか」
変装と言われても、皆そろって特に経験があるでもなく途方に暮れてしまった。
旅の最中、ガイアケロンらは影武者を立てて、みずからは旅団員を装ったが、あれとて顔は布で隠していた。
アベルは付け髭でもした自分の姿を想像してみるが、見抜かれてしまいそうだ。
あるいは髪も染めてみたら……?
ディド・ズマへの襲撃は絶対に秘密裏に行わなければならない。
協力者を作るにしても、その者にも正体を隠して接触するぐらいのことはしたかった。
オーツェルは陰気な顔つきをさらに曇らせて口にする。
「王都の郊外にリキメル王子とシラーズ王子が来着したそうだ。彼らとも接触して、今後の方針を決めないとならない。リキメル王子は戦績が芳しくない。廃嫡もあり得る。今頃、絶望的な気持ちでいるだろうが、それだけに余計なことを企まないか注意しないとならない。溺れた者の悪あがきに巻き込まれてしまう。
シラーズ王子も同じだ。今後はガイアケロン様に協力すると約束はしたが、そんなものは当てにならない。下手をすれば出し抜こうと陰謀を巡らしてくるだろう。彼とは早急に会談して釘を刺しておかねばならぬ。裏切らせてはならない。シラーズ王子は名誉と権力への憧れがあるはずだ。ならばガイアケロン様とハーディア様がいかに優れているか身を持って理解させれば、しばらくは傘下にあるでしょう」
王道国の王族たちは激しい競争関係にある。
なにしろ王位継承権は設定されていないのだ。
つまり戦いに勝ちさえすれば、王族というだけで次代の王になれる可能性がある。
激しい欲望に塗れた者たちが、その大きな機会に群がっていた。
信頼に基づいた協力関係などガイアケロンとハーディアの間にあるぐらいだった。
アベルは王道国の王族たちに出会ってきたが、やはり思い出されるのはイエルリング王子だった。
たった一度出会っただけだが忘れられない。
異彩を放っていた。
何か全ての物事をごく冷淡に、精妙な計算ずくでしか見ていない視線を持っていたではないか。
彼には底知れない不気味さがあった。
そこを行くとリキメルなど臆病な性根が露わになるのが見て分かるだけ想像の範疇であった。
だが、リキメルにしてもハイワンド領に様々な工作を行い、人心を乱すために数多くの民間人を死に追いやっている。アベルにしてみればリキメルは敵にも等しく、ここで廃嫡となっても喜ぶべきことであった。
シラーズは名誉欲が強い若者に思えた。
その動機を押さえておけば、たしかにオーツェルの言うように協力者であるだろう。
つまり、少しでも劣ったところを見せてしまえば、たちまち心を離すだけの男にすぎなかった。
油断ならない。
こうした不断の緊張関係にあって、ハーディアの気は休まるところがない。
アベルはそのことを考えると同情というか、哀れな感じがしてしまう。
やがて料理が運ばれてきた。
大皿に油で揚げられたばかりの海老や魚が大盛りになっている。
食欲をそそる香ばしい匂いがしていた。
「今日のところ、もう悪だくみの話題は控えてください。私は嫌なことを一時忘れてゆっくりしたいのです」
ハーディアの切実な希望である。
アベルは先日、ゼフィノアというエイダリューエ家の親族から声を掛けられたときに馬の小便を飲む話しをしたら彼女は顔を真っ赤にさせたと語れば、ハーディアは呆れたように笑ってくれた。
カチェは微妙な表情をしていたけれども……。
オーツェルは信じられないという風に言う。
「私の姪にも馬の小便を飲ませるつもりだったのか」
「いや、別にそこまではしないけれど」
「ゼフィノアにしてみればそういうようにしか受け取れないだろうよ」
アベルはどうしても切れない緊張感を酒でむりやり解してみる。
葡萄酒の杯を空けた。
今は先の見通せない中で、もがいている状況だった。
このままイズファヤート王に謁見しても良いのだろうか……。
考えてみたところで正解など出はしない。
食事の合間、怪しい者がいないか店内をそれとなく歩いてみるが、店が店なだけに身なりの良い、裕福そうな人物しかいない。
彼らは楽しそうに会話しているが、戦争について論じている者も多くいた。
ガイアケロンとハーディアの活躍を熱っぽく語っている者もいて、二人の人気の高さを窺い知ることができた。
その後、食事が終わり、だがハーディアはもう少し遊びたいという。
エイダリューエ家の大豪邸に戻ったところで気が休まりはしないのだ。
引きも切らない面会希望者、傅く奴隷、忠誠を誓った戦士たち。
いずれにも王女として接するほかなく、それは心の休まる付き合いとは違う。
今日という日は、久しぶりの自由な状態だった。
血腥い闘技場や、大人たちが目の色を変えて興じる賭博などは論外である。
そこで一同は、王都では名の通った劇場へ足を運んだ。
ちょうど始まる演目は奇術師の不思議な見世物……ということだった。
石造りの劇場は天幕が張られていて日光が遮られ薄暗く、蝋燭が灯されている。
壇上の美髭を生やした初老の男は、光の奇術師を自称していた。
その名の通り、魔光に独自の改良を加えたらしい魔術を披露してみせる。
光色が鮮やかな緑から赤へと変化してゆき、いくつもの球状の光体が揺らめく様は実に美しい。
魔光はその必要上、色を変えたところで利点など少ないから、これはただ単なる見世物としての工夫である。だが、奇術師が研鑽の末に辿り着いた技は、ある種の芸術として見事に成立していた。
アベルたちは思わず溜息がでるほど見入ってしまう……。
ハーディアもよほど面白かったのか、見世物が終わると熱心に拍手をしている。
その後は猿を使った軽寸劇などがあり、人の食べ物を猿があの手この手で盗もうとする他愛もないものであったが十分に楽しい。
次に出てきたのは踊り子の集団。十人ぐらい。
それぞれ華やかな長い衣を纏い、金属の飾りをふんだんに身に着けている。
十歳位から二十歳ぐらいの娘たちと思ってアベルは見物していた。
陽気な太鼓や弦楽器が奏でられ、くるくると回りながら踊る。
中には世間でもちょっと見かけないぐらいの美しい女性がいる。
眼つき鋭く、鼻梁は女性としては珍しいほどしっかりしていた。それに背が高い。
やがて僅かに違和感を持つ。共に踊っている者が、何となく男性的に見えた。
いや、どうみても下手くそな化粧をした男……。
隣のオーツェルが皮肉げに笑った。
「アベル。あの踊り子たちに惚れてもいいが、やつらヒジュラだぜ」
「ヒジュラ?」
「女装だよ。あいつらみんな男さ」
「……」
「ひひひっ。こいつが笑劇だって忘れたのかよ? ただの踊りなんか見せたって芸が無いだろ。飛び切り上手く化けた者の中にわざと分かるように下手くそな化粧をした者を混ぜてあるのだ」
アベルは開いた口が塞がらない。
意地悪そうな顔をしたスターシャが肩を小突いてくる。
「男はこれだから。ちょっと姿が美しいと簡単に騙される。ああ、嫌だ嫌だ。やらしいついでに連れ込み宿でも誘えよ」
ハーディアも実に楽しそうな笑顔。カチェは頬杖をついて、指先をトントンと動かし不機嫌そうにしていた。オーツェルが続けて説明してくれた。
「ヒジュラは単に金のために踊っている場合もあるが、中にはあれが本当に好きでやっている者もいるのさ。金持ちなのに女に化けるのが趣味の奴とかな。こういう笑劇に出て稼いだり、あるいは男とも女ともつかない特別な力を持った存在として、聖者のように扱われて祭事に呼ばれたりしている」
やがて踊りが終わり観客たちが口笛を吹いたり、投げ銭を渡したりしている。
アベルは不意を突かれて、すっかり気分が変わってしまった。
そんな様子を見ていたカチェは一つ思い至り、内心で驚く。
ハーディアは気晴らしがしたいなどと説明していたが、その実はアベルを宥めるためにやったのではないか。
そうだとしたら、やはりよほどアベルを心配しているのだろう。
それは感謝すべきことであるのに、妙な嫉妬心が湧きそうになる。
一連の劇を見物して、興行はお終いとなった。
アベルたちは客席を立ち、場を離れる。
ひとしきり笑って、何となく気分も軽い。
劇場には舞台だけではなく、いくつも小さな部屋があって、そこでは少人数を相手にした手品などを催しているようだった。
ハーディアは記念に土産物が欲しいというのでスターシャとカチェが売店へ向かう。
アベルは辺りを興味の赴くまま流し歩いていると、本当に細い路地のような薄暗い空間の奥に誰かがいる。
手招きをしていた。
「おいで……おいでなさい……」
確かにその人物はそう語り掛けてきた。
暗闇よりも、なお黒いと感じるローブを纏っている……。
顔は目深に被った外套に遮られて見えないが、美しい金髪が零れていた。
アベルは吸い寄せられるように中に入ると、背後に幕が下りて外と遮断される。
「お前は……」
「私は占い師。貴方の運命を占ってあげる……。さてさて、これは世に稀なる奇妙な運命を持った男。流転に流転を続け、あらゆる者を皆殺しにして、ついには夢を現となすであろう」
「アスか」
占い師などと名乗ったが、外套を外すと紛れもなく魔女アスであった。
いつもの通り妖しげな色気を発散させている。
あまりにも調和が取れた完璧な容貌をしているが、アベルへは絶えず淫蕩な微笑を浮かべてくる。
幻惑するように、ころころと印象が変わる女。
「お困りのようねぇ」
「……まぁな」
「また助けに来たわよ。貴方のために」
「なんか怖いな。お前の力を借りていたら、その内に頼りきりになっちまうだろう」
「ふふっ……。ご安心なさって。これはご奉仕ですのよ。どんなことでもしてあげる。未来の覇王様」
「……」
アベルは蠱惑的な笑みを与えてくれるアスに、上手く受け答えができない。
決して誰にも知られたくない父親殺しの秘密。
目の前の女に暴かれていた。
そう。初めて会った時、記憶を読まれた後からずっと同じことを言っている。
覇王にふさわしいとか……。
穢れの無い青空みたいな瞳をしているが、調子に乗って利用などしていたら隙を突かれるような気がしないでもない。
もっとも今のところ命を狙われるような理由も無いわけだから、少しは信頼してもいいとは思うのだが……。
「なぁ、アス。いま僕らがディド・ズマを狙っているのは知っているだろう。だが、簡単な敵ではない。どうすればいい?」
「ズマ……。私にとってはどうでもいい男ねぇ。気に入らないなら殺せばいいじゃない」
「それが出来ないから苦労している」
「少人数で襲って殺せないのなら、人を集めればいいのよ。千人どころか十万人でも従わせる力が貴方にはある」
「……僕の配下は今のところワルトだけだ。まるで助言になっていないぞ」
「それなら……変装。変装ねぇ。いい手だわ」
「……え?」
「古の時代から美青年が見眼麗しい女に化けて敵を倒すのは常道なのよねぇ。アベル、そんな伝説を聞いたことないかしら」
「……そう言われてみれば古い伝承にそんな逸話があったような」
「私もかつて幾度となく人に勧めてきたのだけれど。悪い手じゃないことは保証するわ」
「あれだろ。さっき踊っていたヒジュラってやつだ。芸でもやってみせて油断させ、酒をたらふく飲ませたら不意打ちだ。けれど女装なんか誰がやるんだよ」
「アベルに決まっているでしょう」
「…………」
―なに言ってるんだ、この女……。
「大丈夫よ。アベルの柔らかな頬、形のいい唇、冷たい瞳。どこにも醜くなるところなどないことよ。飛びっきりの美女になれるから」
「冗談?」
「お道具をあげるから、館に帰ったら化粧の上手い女性にやってもらいなさい。ハーディアや側近の女あたりが頼りになるわよ。私がやってあげてもいいのだけれど、それだとちょっと時間が掛かるから。騙されたと思ってやってみなさいな。効果絶大は請け負います」
「……近づくぐらいは出来るようになるってわけか?」
アスは精密な象嵌の施された美しい化粧箱を取り出して、それを布できっちりと包んだ。アベルに差し出してくる。
「いや、待てよ。背とか声とか無理だろ」
「中に声を一時的に変える飲み薬が入っています。背は気にしなくてもいいわ。長身美人さん」
アベルは困惑しつつも荷物を受け取ってしまう。
「アベル。化粧箱の中には私が作った他愛もない魔道具も入っています。貴方にとっては無価値に等しいものですが人によっては金貨を積むことでしょう。お好きに使いなさい。さぁ、仲間が探しているみたいよ。しばしお別れね」
言われるままアベルは幕を潜って表に出る。
一同が探していたらしくアベルを見つけて近寄ってきた。
カチェが怪訝な顔をして注意してきた。
「もう……。どこに行っていたの」
「いや、ちょっと……占い師が」
「占い? そこの奥にいるの」
「そうなんだけれど」
カチェが幕を除けて中を見るが、そこには誰もいない……。
薄暗い路地のような空間があるだけであった。
ただ、金木犀に似た、癖になるような残り香が漂っていた。
どこかで嗅いだ匂いだと思った。
~~~~~
エイダリューエ家に帰り、ハーディアは何事もなかったように振る舞った。
幸い、ギムリッドは王女がまたしても邸宅を抜け出したことに気が付かなかった。
クリュテなどの配下たちがハーディア様はお休みになられていると頑として入室を許さなかったからだ。
ガイアケロンも上手く立ち回ってくれたらしい。
すっかり表情を明るくさせた妹を見つけて、無言で頷いただけだった。
お忍びの休日は成功といったところだったが……。
アベルは気が進まないが一応、変装の手伝いを頼んでみるしかない。
諦めきれない。
何が何でも偵察ぐらいしなければならない。もしかしたら成果があるかも。
こんなこと一度きりにしたいが……。
こっそりハーディアにだけ聞いてみる。
「あの、ちょっといいですか」
「はい。なんですかアベル」
「実は……変装を試してみたいのです。材料はあるみたいなのですが」
「その荷物。何かと思っていました」
「お恥ずかしい話なのですが、ヒジュラを真似てみようかと。やり方を教えてもらえれば、あとは自分でやりますから」
ハーディアは表向き滅多に崩すことのない優雅な表情を微妙に動かし、切ないような、許しを求めるような、そういう顔をした。
「アベル……。私は申し訳ないことをしているのかもしれませんね。戦ってもらうだけならまだしも、そのような無体な手段まで考えつかせ実行させようとは……こんな気持ちになったのは生まれて始めてです」
「僕だって好きで提案しているわけじゃないですよ! せめて奴らの様子ぐらい確かめておかないと。近づくことぐらいは出来ると思ったんです。やっぱり止めようかな」
ハーディアは首を少し振ったが、それから気を取り直したらしくアベルを居室に招いた。
少し考えて、それから侍女にカチェとクリュテを呼ぶように申し付けた。
先に来たのは、若草色の髪をした治療魔術師クリュテだった。
美人というわけではないが深緑の瞳に落ち着いた理知的な輝きがある。
アベルには時折、気さくに話しかけてくることもある女性だった。
それからカチェも来た。
「いいですか。化粧や衣装の着付けは男性には信じられないほど繊細で手間が掛かるのです。私が一人でやってあげられることではありません。人手が必要です」
「恥ずかしい……」
「貴方が言い出したことでしょう」
―アスめ。あいつ、やっぱり弄んでいるのか……。
ところが入室してきたカチェは説明を聞いて呆れたような視線を送ってくるのみ。わたくしは手伝いませんときっぱり断られてしまった。
対して治療魔術師のクリュテは大人しい雰囲気を一転させ、面白そうだと喜んで賛成してくれた。
彼女は知的な顔を好奇心に輝かせながら化粧箱を開ける。
「まぁ! ハーディア様、見てください。この道具、どれもこれも凄い一級品です。螺鈿細工や金箔仕上げ。中身の口紅などはすっかり新しくなっている」
「本当に。こんな物はよほどの古い名家で代々受け継がれるような道具ですよ」
「アベル君。まあ、どうせやるのなら理想の女性になりましょう。どういう風になりたいの」
「知らないよ、そんなの。これは任務のための変装だ。相手にバレなければ何でもいいさ」
「アベル君は結構、高貴な顔立ちをしているから厚化粧はいらないわよ。自然な感じで、かつ魅力的な女性に見えるようにしましょう。きっと道行く人をすべて振り返えさせる凄い美人になるわ。じゃあ、まずは下地化粧。これをやらないと素肌との違いが露になって、いかにも化粧しているという感じになってしまうから。その前に剃刀でざっと顔と首筋を綺麗にしましょう……」
アベルは椅子に座らされて、ただじっとしているしかなかった。
ちょっと情けないが、これも目的のためだ。
もともと従者時代から最低最下の仕事ばかりやってきた。
今更、辛いことなんかない……はずなんだ。
「アベル君。まだ髭がほとんど生えてないから剃刀あてただけで十分美しいわよ。じゃあ、次は白粉。これメチャクチャな最高級品ね。肌理が細かく見えるように、ほんの少しだけつけましょう。塗りすぎに注意して、それから最後に滑らかな肌色に見える粉を振って」
「クリュテ。眉も上手く整えてあげて」
「はい。ハーディア様」
「女性的に見えるよう、眉は僅かに丸めてと。それから印象を変えるため瞼に、ちょっとだけ別の色を乗せて。眼のふちにも少しだけ線を描きましょうか。面相筆で……こうしてと。睫毛はこのままでも長いから手は加えなくていいかしら。唇には紅を。あんまり赤くない方がいいわね」
「凄いわ。信じられないほど綺麗になっていく」
ハーディアの言葉は本心からだった。
真剣な顔つきで驚嘆していた。
こんなことで驚かれてもなと、アベルは複雑な心境になる。
「最後に髪を染めて、それからカツラを付けて長髪に見えるようにしましょう」
「服は私が平民に化ける際に身に着けるものを貸してあげます。腕や足は隠して、腰は革帯で思いきり締め上げて姿を変えれば、なおのこと素晴らしいわ」
「あら。胸の詰め物もついていますね。なんとも親切なこと。どういう仕組みになっているのか分からないけれど……この詰め物は本物の乳房みたいな質感しているわ! なんてことなの」
髪はお湯で練ったペーストを塗って乾かすと、くすんだ金髪が藍色に変わってしまった。
さらにカツラを髪に差し込んで金具で固定する。
アベルが上半身裸になると鍛えられ、均整の取れた肉体が晒される。
クリュテとハーディアによって腰を皮帯と紐で強引に絞められた。
「ぐえぇぇぇ! 苦しいっ……」
「アベル君。我慢して。これでも大して締めてないわよ。贅肉がないからこれぐらいで大丈夫でしょう。女はもっと締めている場合もあるのよ」
「お洒落って大変すぎる」
「ふふっ。女の苦しみを知るといいわ。いつも男は脱がすばかりですからね。それもあっという間に。アベル君もそうでしょう?」
「そんなことやってない」
「あら、もっと締めようかしら」
まるで本物の肉のような偽の乳房を付け、いよいよハーディアの用意してきた服を纏って完成。
平民の若い娘が着るような象牙色をした長衣。
全てが終わり、カチェは息を飲んだ。
眩暈がしそうになる。
単なる美人という印象ではなかった。
女性らしい柔らかさと野生の獰猛さが混ざった奇妙な、しかし、恐ろしく美しい人物だった。
好いた男が自分よりも美しくなるというのは言葉にできない衝撃だった。
こんなことがあるのか……。
こんなことがあってもいいのか……。
アベルは刻々と姿を変えていく自らを鏡に映して、別人になるとはこういうことかと不思議に思う。
自分でも驚くほど化けて、鏡の君は誰かと思うほどだった。
特に髪の色が変わったから遠目には全く別人に見える自信がある。
強いて言えば母親アイラに若干似ているが、化粧によってもともとあった青年の雰囲気は完全に消えてしまった。
唯一、変わっていないのは陰鬱な群青色の瞳ぐらいだが、こうした姿になってみると、それはそれでむしろ魅力の一つとも見える。
アベルは姿見を観察しつつ我が身を操って見せる。
背筋を伸ばして回転してみせると、実に凛としつつ艶やか。
おしなべて動作を細やかに纏めると女性的な振る舞いに近づく。
ただ、付け焼刃で女性の仕草を真似たところで限界がおのずとあるものだ。
こうなったら自棄でも、自由奔放に行くことにした。
軽々と飛び跳ねてみれば、それはそれで様になった。
これなら誤魔化せるかも……。
クリュテが拍手して燥いでいる。
「やってしまったわ! ふぅ。わたしは何か禁忌を破ってしまった気分よ」
「アベル。取り合えずどの程度の効果があるか試してみましょう。お兄様のところへ行くのです」
ハーディアが先頭になって部屋を出る。
そのあとをアベルは付いて歩いた。
邸内にいる奴隷たちが首を垂れるが、どことなく自分に注目しているようにアベルは感じた。
やはり変に見えるのかなと思う。
自信などまったくない。
ガイアケロンの部屋の前ではスターシャが警護をしていた。
中に入るとガイアケロンはオーツェルと二人きりで何か話し合いをしている。
二人は歩み寄るアベルに気が付いた。
注目している。間違いない。
じろじろと訝しむような、興味を持ったような、しつこいほどの視線を意識せざるを得ない。
「お兄様……。この者、アベリアという女です。侍女として雇おうと思っております」
「驚いた。これは滅多にいない美人じゃないか」
「あら。そう見えますの」
「ああ。だが……瞳が気になるな。待てよ、誰かに似ているぞ」
「アベリアは戦闘の腕前もかなりのものですの。立ち合ってみますか」
「ふむ……面白そうだが、いや、危険な匂いがするな。止めておくべきだ」
ガイアケロンが席を立ってアベルに近づいてきた。
しかし、決して間合いには入らない。
なにやらかなり警戒しているようだ。
アベルはガイアケロンから、じっと見詰められて冷や汗が出てくる。
これで見破られるようなら、苦労した奇手も笑い話にしかならない。
正面に回ったガイアケロンが手を伸ばしてきた。
アベルの頬に触れ、瞳と瞳が、ぶつかりあう。
カチェは冷く艶やかな姿のアベルとガイアケロンの間に形容しがたい、絡み付くような情交が無言の内にされたのを悟った。
「お前、もしかしてアベルか」
「……なんだ! やっぱり見破らた。莫迦らしい。恥ずかしい思いまでして我慢したのに。騙されたな」
「はっはっはっ! こいつめ、驚いたぞ!」
ガイアケロンが愉快そうに笑って肩を掴んでくる。
それから偽物の乳房を撫でると、触感が本物と変わらないと驚いていた。アベルが女性陣の方を横目で見ると何故か全員、顔を赤くさせている……。
「ふ~ん。肩の線は服で上手く誤魔化したな。顔は普通なら誰も気づくまい。なぁ、オーツェル」
「私はまだ信じられない!」
オーツェルが髪の毛を掻きながら酷く慌てている。
それからジロジロと視線を送ってくるが、やがて首を振った。
「私にはアベルに見えないぞ。いま声を聞いたからそれでやっと半信半疑だ」
「あはは。オーツェルには分からないんだ……」
「なんてことだ……。どうやってこんな上手く化けた」
「ハーディア様とクリュテに手伝ってもらったんだよ。これならズマの手下に近づくことぐらいはできるだろう。せめて偵察ぐらいはな」
「まだ諦めていないのか。ガイ様の為とはいえ、男子の誇りを捨ててヒジュラの真似とは、みあげた根性だな。これは私も頭を垂れねばなるまい」
「どうだろう? やっぱり無理はないかな。自分でやっていて何だけれど」
「スターシャにも試してみろよ。ついてこい」
アベルはオーツェルに手招きをされて一端、部屋の外に出る。
そこではスターシャがしっかりと番を続けていた。
しかし、どうやらアベルのことが気になるようで、怖いぐらいの凄みのある視線を送ってきた。いや、これは間違いなく威嚇の視線だ。猛獣のそれである。
扉が閉まる。
「よぉ、オーツェル。その女なに?」
「……ガイ様の側仕えに抜擢された。名はアベリア」
「はぁ?! 警護ならあたいがいるだろ! なんだってそんな知らない女を呼ぶ」
「さてね。まあ、見ての通り滅多にいない美女だ。男なら誰だって食指が湧くよな。たまにはガイ様にも不満を晴らしていただく必要があろうさ」
―なに言っているんだよ。この野郎。
アベルはオーツェルを睨むが、彼は愉快そうにニタニタと笑っていた。
性格の悪い学者のように、これからどんな悲惨な実験ができるかなと歪んだ好奇心を発揮していた。
「へぇ~。こいつは驚いた! 本気で面白れぇじゃん」
スターシャはアベルの二の腕を物凄い握力で掴んできた。
面白れぇなどと言ってはいるが、顔は嫉妬で般若さながら。怖いどころではない。
最近はまぁまぁ可愛いところもある女だ、などとアベルは思っていただけに自分の浅はかさを思い知る。
ガイアケロンの事になれば暴力で全てを解決しようとする正体が現れた。
「これから、あたいとこいつで稽古しようぜ!」
スターシャは愛用の剣の柄を叩く。
がちゃりと物騒な音を立てた。
アベルは無言のまま首を振って拒絶の意を示した。
「おいおい。お嬢ちゃん、逃げられるつもりかよ。あたいはガイ様の将なんだ。最低限、この赤髪スターシャに実力を認めさせなければ側仕えなんざ、絶対にさせやしねぇぞ。いいか。お前が負けたらご褒美にこの剣の柄を、てめぇの股ぐらに突っ込んでやるよ。ええ? まさか処女だとか寝ぼけた事を抜かすつもりかよ。だったら前の方だけは許してやろうか。あたいは優しいだろ? 代わりに後ろの穴で気絶するまで喘がしてやるからな! さぁ、庭に出ろ。断るなら……このまま押し倒して……ぎったんぎったんにしてやる!」
スターシャは嫉妬と戦闘意欲で燃えがっていた。
あだ名の赤髪を振り乱して、思わず気合負けしてしまう迫力。
このままでは大切なところが……。
「スターシャ! 僕だよ。アベルだ!」
「…………えっ?」
「だ、騙して悪かった。これは試しなんだ。変装が通用するかって」
「はぁ?! お前、えっ? 本当にアベルなのか……」
「本当だよ。ガイアケロン様には見破られたけれどスターシャには通用したな。まさかここまで嵌るとは思わなかったけれど」
スターシャはしばらく、途惑いながらアベルを上から下まで舐めるように眺めてきたが、次に肩を組んで耳元で囁く。
「なぁ、アベル」
「なんだよ」
「これから、あたいの部屋に行こうぜ」
「……どうして」
「はぁ~……。世話の焼ける童貞だぜ。女も知らないうちに女装なんかしたら絶対癖になるぜ。そのままヒジュラになるぞ」
「ならないよっ!」
「いいや。なるね。自分で鏡を見てうっとりしたりして。なんて美しいのかと陶然とした気持ちになっただろう。その美しさだもんな」
「ん……まぁ、確かに別人になったみたいで不思議だったけれど」
「だめだめ。こんなに綺麗になったら道を踏み外すぞ」
「僕もこれっきりにしようと決めているから。こんなこと、そうそう何度もやってたまるか!」
「ああ……、祈ってやろうか。遠い異国でこんな姿に身をやつすとは、つくづくお前も哀れな男だな」
「我ながらそう思う」
~~~~~~~
その日、ヴェスメト魔学門閥に奇妙な女が訪問してきた。
総帥ナジュドと最高幹部らが初見の訪問者を相手にするのは異例であった。
会う理由は二つ。
エイダリューエ家とリシュメネイ家という、二つの名門が連名で紹介状を書いた寄越したことだった。
現在、エイダリューエ家はガイアケロン王子の派閥。
対してリシュメネイ家はイエルリング王子を支持していたはずだった。
異なる勢力の貴族が連名で紹介状を書くなど、普通はありえない。
つまり、アベリアと名乗った正体不明の女は、少なくても派閥を超えて二つの家に跨った影響力を持っていることになる。
さらに、もう一つ。
女は協力してくれるのなら、とある魔道具を渡すという条件を提示してきた。
魔術師アスに由来する魔道具だという。
古い記録に、いと賢きアスという名で記された伝説的な魔法使い。
始皇帝の腹心であったと伝わっている。
天才的な魔道具の作り手でもあった。ゆえに、アスの魔道具というのは魔学門閥にとって秘宝とも言える価値を持つ。
アスは分裂戦争の最中、行方不明となり以後は歴史から消えた。
常識的に考えたのなら寿命を迎えただろうが、一部の者はどこかで未だに生存していると主張していた。
もたらされた魔道具は精巧だが、しかし、それだけの意味しかなかった。
室内を暗くさせ壁に小箱状になった魔道具を向けて作動させると、幻影が浮かび上がり、人の姿が現れた。
それが誰なのかも分からない。少女であった。
容姿は極めて美しい。身に着けた衣装などから、ゆうに千年ほど以前の人物ではないかと推定された。映像はすぐに消えてしまった。ふたたび作動させると同じものが映る。
ただ、それだけの魔道具であったが、魔学門閥にとっては至高の価値があった。
すでに老齢の総帥ナジュドは聞く。
「アベリアと名乗ったな。これをどこで手に入れた」
「余計な質問に答えるつもりはありません。私の目的はディド・ズマ配下の十傑将、ギニョールという男。貴方たちにとって因縁浅くないはず」
かつてギニョールはヴェスメト魔学門閥に属していたという。
しかし、快楽殺人を繰り返し、それが発覚するや逃亡。
本来ならばヴェスメトの恥として彼らこそが始末しておくべき件である。
「私はギニョールに親族を殺されております。目的は復讐。理解できますね」
「……我々はある確度の高い噂を手に入れた。皇帝国の宝物庫が盗賊の侵入を許したという。盗み出されたのはアスに纏わる遺物だそうだ」
「……ギニョールは貴方たちこそが処罰すべきだった。王都にディド・ズマと共に舞い戻り、今も王都を堂々と歩いている。恥ずかしくないのか」
「奴については我々も苦々しく思っている。だが、王族の絡んだ話しだ。王国警邏隊が動かぬのは我らの責ではない」
「警邏隊などと関係のないことを。貴方たち自身はどうして動かないのですか」
「……」
「老人は聡い。沈黙は金なりですか。機会はこの一度きり。惜しいと思うのなら私の要求に応えてください。知りたいのはギニョールの得意とする魔術とその対抗策です。貴方たちがそれを事前に検討していないとは思えません。奴に通用する魔術を教えてください」
「門閥以外の者に魔術を教えることは決してないのだが」
「だから、それを持ってきました。念のために言っておきますが、私が今日ここを訪れているのは何人かの重要人物が承知しています。もし私が帰らなかったら貴方たちは信じられないほどの深刻な損失を被るでしょう」
「やれやれ……。報酬と脅迫か。交渉を理解しておるな。つまり応じなければ、その重要人物とやらから恨みを買うわけだ。しかもギニョールめは野放しのままと」
「私としては門閥の誇りを大事になさってくださいと申し上げます」
「何があっても我々との交渉は、今日限り。お前が言う通り、たった一度きりの取引だ。そして、全てを忘れる」
「ようございます」
「それより、お嬢さんはもちろん魔術の心得はあるのだな。教えたところで使えるとは思えぬのだが。それでも報酬はしかと貰い受けるぞ」
正体不明の、異様な美しさを湛えたアベリアという女は、どことなく暗鬱な視線をしていたが、それがうっすら笑った。
何か不気味な裏のある、猛毒と表裏一体の微笑だった。
~~~~~
王都の大路。
ひっきりなしに騒音が響く。
銅細工の金物師が槌を振るって金属片を器に仕立て上げていく。
怪しげな両替商が小銭を鳴らし、その横では光神教団の狂信者たちが辻説法をを唱えていた。
運搬用の牛馬を御そうと男が罵声を浴びせるが、一向に真っすぐ進まない。
そんな混乱の渦が、さっと引き潮のように治まる。
ディド・ズマの傭兵たちが闊歩していた。
アベルは顔を隠さずに近づいていく。
象牙色の長衣を纏い、刀の一振りも持っていない。つまり丸腰。
これだけで相手は舐めてかかるという計算。
ただでさえも傍若無人な傭兵らがギニョールという強力な魔術師と一緒に居れば、さぞかし人を見下すだろう。
それは何時、襲われるかも分からないという恐怖の裏返しでもあろうが……。
ハーディアからくれぐれも危険なことはするなと言い含められていたが.、従うつもりはなかった。
ギニョールの目的は襲撃犯の捜索であった。奴らは奴らで復讐のために奔走している。そして、的外れなところを探してはいなかった。
バザックの死体を検めて、その特徴を手掛かりに、非傘下の戦士が出入りしている場所を探しているようであった。
恨まれる筋に事欠かないにせよ、同業者の反撃と想像したようだ。
当たらずとも遠からず……。
アベルはひとり堂々と歩み寄る。
ギニョールの周りには三十人ほどの荒くれが集まっていた。
全体では百人を超える集団だが、他の人数は方々に散らばっている。
災難を恐れて、普通の市民たちは逃げ散っていた。
変装は効果を発揮している。
傭兵たちが、じろじろと見てくるが接近自体は咎められない。
与太者が口笛を吹きながらアベルの体に触れようと手を伸ばしてくるが、するりと絶妙に躱した。
やがて、目的の男の顔が見えるほど接近していく。
一見は優しそうな若い男。
髭など少しも生えていない。だが、酷薄な視線を持っていた。
「ギニョール!」
あえて大声で呼ぶ。声変わりの薬のせいで、変に甲高い声だった。
奴らは驚き身構えたが、アベルが手を振ると気が抜けたようになった。
さらに近づく。
勝つためには不意を突かないとならない。
敵を想定外の手段で動揺させ、平常心を失わせる。
そうして出来た隙で先手を取るのだ。
夢幻流の教えにある……始まりは緩やかに、即、激せよの教えが蘇った。
アベルは緊張を隠すため、あえて微笑む。
震えそうになる手を握った。
愛刀が腰に無いだけで、心細い。だが、敵に油断させるための材料だった。
恐怖心が大きくなると体は強張り、いつもの調子など全く出なくなる。
近いが、間合いからは離れた場所からギニョールが返事をした。
アベルの顔を食い入るように見つめてくる。
「お前は誰だ」
「忘れてしまったの。前に会ったことがあるでしょう。貴方、ずいぶん出世したみたい」
「知らんな」
「もっと寄れば分かるわよ」
「……」
「あら。どうしたの。そんな臆病者だったかしら。せっかく楽しめると思って来たのに。アテが外れたかしら」
三人従えてギニョールが近寄ってくる。
アベルが上を見上げると、民家の屋根に登ったワルトが抜き身の刀を投げたところだった。打合せ通り、上手に無骨が投じられた。アベルは飛び上がって刀の柄を掴み取る。溜めの動作をしないで駆け込んだ。
鎧や冑を装備していないから体がいつもより、なお軽い。
自分でも驚くほど伸びやかに動く。
胸の動悸は最高潮だった。
反応よくギニョールの前に立ち塞がった男。その首へ迷いなく抜き打ち。
完璧に刃筋の通った一閃。
水が入った樽に物がぶつかったような音。
首が空を飛んでいた。崩れた体の動脈から血飛沫が噴き上がる。
アベルの髪と頬に降り掛かった。
ギニョールが即座に退いて魔術の詠唱に入る。
警護の男が二人、アベルに突進してきた。
粗雑な動きを読み取り、仕掛けられた斬撃を躱す。刀で相手の剣を跳ね上げるなり太腿を斬りつけた。防具のない部分など、アベルの斬撃を受ければ容易く切断される。
周囲の傭兵が囲もうとしたところギニョールが制止した。
―やはりな。
異常者め。墓穴を掘れ。
ギニョールは自身が編み出した独自の魔術を行使しようとしていた。
漏れ聞こえる詠唱は、ヴェスメト魔学門閥で教えられたものに違いない。
その魔法とは特定の方向に、激しい光と特殊な音を発生させるというものだ。
アベルも「轟爆娑」という少し似たものを習得している。
ただし、「轟爆娑」は方向を限定できないので、あまり自分や味方の近いところでやると巻き込んでしまう使い難さがあった。
その欠点を大幅に改善したのがギニョールの得意技だった。
特別な光と音を浴びてしまえば最後、人は必ず失神状態になるという。
おそらく人を好んで生け捕りにするため、そうした奇怪な技を編み出したに違いない。
捕らわれた女は玩具にされ、信じられないほど無残な死体になっていたという。
ギニョールの体内から強い魔力が発散されている。
魔力の動静を正確に読み取りつつ、アベルも準備に入った。
―来るな……。今だ!
「苦骸乱舞」
ギニョールの魔術が行使される。アベルは目を閉じて、伏せると同時に魔術を発動させる。周囲で破裂音が鳴った。
ヴェスメト魔学門閥でギニョール対抗のための魔術を授けられ、その日のうちに習得してあった。彼らの説明では、この破裂音がギニョールの攻撃を中和するはずだった。
もし効果が無かったとすると、アベルは意識を失い、全ては失われることになる。
ギニョールは不思議なものを見たという顔をしていた。
状況が理解できていなかった。
光は不意打ちを予期してあれば、避けることができるかもしれない。だが絶対に避けられないのが指向性の昏倒音波だった。
絶対の自信がギニョールにはあったが……。
瞬間、アベルは全身を拘束から放たれたバネのように使って跳躍。
空中で棒手裏剣を投擲。
正確にギニョールの喉へ吸い込まれた。命中。
奴は激しく悶えて五歩ほど走ったが転倒。手足をバタつかせている。口から喘ぎと共に血を吐いた。
周りにいる傭兵たち。優に三十人はいる。
粗野な殺気を滾らせて奴らが一斉に攻撃を仕掛けようとしたが、アベルの炎弾が先制した。
爆発音。
続けて連発。破裂と共に大腸や手足が飛び散る。
衝撃と熱波が押し寄せた。ぞっとするほど熱い。
傭兵の中には魔術師も混じっているので、やがて水壁で対抗してくるが、それだけのことだった。
槍を持った男がアベルに突撃してきた。
大口を空けながら叫び声を上げている。
アベルはむしろ前進して、穂先を切っ先に捉える。押さえつけたまま、間合いに飛び込んで体当たり。
もともと冑や鎧で上体が重たい相手はバランスを崩されて転倒する。
騒ぎに気が付いた敵が周りから仲間を呼び寄せようと叫び声を上げていた。
アベルは助けを呼ぶように手を振っているギニョールに気が付いた。
瀕死だが、なお生き延びようと足掻いていた。
傭兵たちがギニョールの体を担ぎ上げて逃げようとする。
「死にぞこないが! くたばれ!」
アベルは律動するような怒りの念を込めて、魔力を集中。
頭上に、灼熱の溶岩を紡錘形にしたような塊が誕生する。
爆閃飛を至近距離に放った。
激しい爆発。アベルのすぐ横を炎の塊が飛び過ぎていく。
ギニョールと傭兵たちが纏めて、グチャグチャの肉塊に変貌した。
アベルとワルトは逃走に転ずる。
路地に飛び込み、商店の横を走った。
前から傭兵風の男が二人ほど接近してきたが、アベルが大上段の斬撃を与えると力負けした相手は顔を大きく切断された。眼下から頬にかけて手首が入るほどの傷が開き、足をふらつかせて崩れ落ちた。
もう一人はワルトがトリッキーな動きで圧倒する。ワルトは跳躍するや壁を蹴って方向転換。思いもしない角度から接近されて、敵は対応できない。
強烈な斧の一撃を腰に受けて、倒れ込んだ。
腰が完全に折れている。致命傷だった。
さらに進むと壁に囲まれた家々が並ぶ区画となる。
ワルトには逃亡用に鉤縄を持たせてあった。これで壁を乗り越えて無関係な民家に飛び込み、道路などを使わないで進む。
全く知らない人の庭を横切り、壁を再び越えることを繰り返していく。
時には家の女性に見つかるなどして悲鳴を上げられたが、無視してしまった。
傭兵たちは重たい武装をしているから、こうした身軽な動きには対応策が無いようだった。
どんどん罵声が遠ざかっていく。
やがてカチェと申し合わせた合流点に辿り着く。そこには馬を用意してある。
カチェはよほど心配していたのか蒼褪めたような顔色をしていた。
「アベル! 血だらけよ……!」
「返り血だけ。さぁ逃げましょう」
人を撥ねないように注意しながら馬を御した。
アベルは頬にベッタリと付いた血を拭う。一緒に化粧も落ちて清々した。
髪もカツラを外して、お湯で何回か洗えば元に戻るだろう。
移動しきったところでカチェが非難するように言うのだった。
「あら。もう化けるのは終わりですか。わたくしよりも美しくなったのですから、すっかり癖になったのではなくて」
「もう二度とはやらないと思います。それに、カチェ様の方がもっと綺麗だよ」
アベルは不思議を感じて首を捻る。
なぜかカチェが顔を真っ赤にさせていた。
次話、かなり未定です……。




