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獣の見た夢  作者: MAKI


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憎悪、怒り、求める男たち。

 





 心臓は暴れたように打ち続け、血液を激流のように奔騰させる。

 緊張を抑えようとしたが、できなかった。

 目の前にいる男。

 悪趣味な黄金仕立ての鎧。腹筋を模して裸体風に造形した胸甲が下品に輝く。

 むろん無垢の金材ではないだろうから鍍金である。


 偽物の黄金を纏った怪物。

 名を尋ねてはいないが、そうに決まっていた。

 想像を超えた悪虐の限りを尽くしている男。

 ディド・ズマが、すぐそこにいる。


 アベルは視線を巡らせる。

 見覚えのある薄汚いつらが幾つもあった。

 顔面は傷だらけ、鼻が切傷で欠けた男。名はヤッピという十傑将。

 それから細面のベルシオ。先日殺したピソルにも劣らない酷薄な視線をしている。蛇のそれを思わせた。


 気になるのは灰色をした魔術師風のローブを着た若い男。

 洒落た額飾りをつけていた。

 ペリドットと思われる緑色の宝石が目立つ銀の装飾。

 単なる直観だが、奴こそ若い女を好んで殺すというギニョールのような気がした。

 物腰の柔らかそうな顔をしているが、最大の警戒がいる。


 ついで剣聖ヒエラルクの弟子たち。

 十人ぐらいいる。

 彼らが剣術を研鑽しているのは護身術としてではなく、殺し合いで出世しようという野心や欲望のためである。

 人を殺すことに毛ほどの躊躇いすら無い者どもだった。

 実際、そういう顔をしている。

 もっとも人の生命を尊重しないのは自分も同じだなと、アベルは他人事のように頭の片隅で思った。


 アベルは距離を縮め、歩きつつ考える。

 ズマとヒエラルクは、どうしてエイダリューエ家に押しかけて来たのか。

 やはり襲撃の真相が露見しているのかもしれない。

 先日、深夜に邸宅へ忍び込んできた奇妙な男ら。

 あんな手合いの者が密かに一部始終を監視していた……。

 

 そうだとしてヒエラルクたちが一芝居を打っているのなら、逆手に取ってやる。

 今ここでディド・ズマに不意打ちを仕掛ける……。


 やれば終わりだ。

 生き残れる可能性は、絶対にない。

 一瞬にして自分の体はバラバラに切り刻まれる。


 しかし、もしかしたら相討ちはもぎ取れるかもしれない。

 あのズマ相手にだ。

 残虐と欲望、卑しいこと比類ないズマを殺せるのなら……それもいいか。

 激しい憎悪の対象であるイズファヤート王には、とうとう会えず仕舞いだが。


 そんな風に考えてしまう。

 どこまでも高まる殺意。

 鈍い頭痛がした。

 幸せなど少しも見えないのに、殺すべき相手ばかり良く見えた。


――どうせ死ぬまで止まれやしねぇんだ。

  

 死んでから、もう一度始まった人生。

 どれほど手に入れても、何をしても、癒せない飢えと渇き。 


 殺さなければ止まらない。

 もう一度……父親を。

 そのためならば、どんなことでもやってみせる。


 アベルはズマの武装を見る。

 腰の左側に剣を佩いていた。幅広、諸刃の剣。

 刀身は無骨と、ほとんど変わらないだろう。

 ズマの背は長身の部類にぎりぎり入る程度だった。

 自分の背丈より頭一つは大きいなとアベルは思う。


 胴回りはかなりある。でっぷりしていた。

 重要なのは体全体の尺だ。

 四肢は野太く、それでいて長い。

 つまり行動範囲は広いはずだった。

 

 俊敏さについては不明。

 例えばガイアケロンなど体格は巨漢と言っていいが、それでいて肉食獣のように極めて素早い。

 あのズマの体格なら間合いは、かなり広い。

 おそらく自分よりも……。

 ということは、ズマの攻撃を防ぎつつ、必殺の斬撃を与えなくてはならない。

 機会はたった一度だ。

 至難の業。


 アベルはズマの視線が自分に注がれているのを自覚する。

 正直、恐ろしかった。

 経験が派手に警告音を鳴らしている。

 まともじゃない。近づいてはダメだ。死ぬぞ……。


 そんな言葉ばかり湧き上がってきた。

 強引に理性を押し潰した。

 無理やり足を動かす。

 指先が震えている。


 もう二度と転生なんかないと、それだけは確信があった。

 死んだら、今度こそ終わり。


 込み上げる恐怖心を前にヨルグの言葉を思い出す。

 恐怖は飼いならすものだ。逃げても逃げ切れるものではない。

 自分の愛馬のように乗りこなせば利用することもできる。

 それができないなら、どんどん大きくなった恐怖心に心は支配されて身動きは取れなくなる。

 そうなったら動物のように遁走するか、さもなければ狩られるだけだ……。


 顔は努めて無表情を装う。実際は強張っていた。

 笑みなども浮かべないようにする。

 この手の劣等感に満ちているだろう男には逆効果である。

 下手すれば自分を嘲笑していると感じて、敵愾心を燃やしてくると予想した。


――間合いにさえ入り込めば、攻撃できる。


 ゆっくりと攻撃可能な距離に接近していく。

 あと三歩……。

 

 こんな奴は殺すべきだ。

 数十万人の人間を惨たらしく苦しめて楽しんでいる男。

 やったことにはツケがあるのを分からせてやる。

 あと二歩……。


 自分の真っ赤な臓物が地面にぶちまけられる様子、くっきりと脳裏に浮かび上がってくる。

 だが、殺されるとしても、やるべき。

 一歩。

 そして、最後の。 


「止まれ!」


 静止したのはヒエラルクだった。

 肩を掴まれていた。

 意外。


 アベルは固唾を飲んだ。

 すぐ横に殺戮を楽しむ天才剣士の顔がある。

 剣聖などと呼ばれてはいても、少しも聖なるところなどありはしない。

 不出来な生徒を指導する教師じみた表情をしていたのが、酷く奇妙だった。


「アベル。ズマ殿に礼せよ。不用意に近づいてはならぬ。ズマ殿は間合いに身内以外が入るのを好まぬ。手討ちになるぞ」

「……ヒエラルク様。私はズマ様のお顔を存じません」

「なんと、しょうがない奴よの。お前が死んでしまったら話がややこしくなるのだ。ほら。そこの立派な黄金仕立ての男こそ、あらゆる戦場にその名の通ったズマ殿だ」


 アベルは向かい直り、背筋を伸ばして頭を素早く倒す。

 戦士階級において礼節は命綱であり、ある種の鎧でもある。

 どれほど礼を尽くしたとしても、戦士同士が次にやることは敵の頭蓋骨を棍棒でカチ割ることに尽きた。

 そういう世界の、最初で最後の保険が礼節だ。


「ズマ様。私はガイアケロン王子様の馬廻りを務めますアベルと申します」

「……」


 ズマは答えなかった。

 粘りついて糸を引くような傲慢な眼つき、虫を見るような気配。

 他人とは殺すべき敵か、搾り取る家畜か……そうでしかないと物語っているようだった。

 アベルのことも同様に、たかが馬廻りの一人と見下していた。


 体の奥から猛烈な殺意が噴き出す。

 その虫けらが怪物を殺すことだって有り得るのだと、心で念じる。

 隣のヒエラルクが説明を続ける。


「アベルよ。先ほども言ったがエイダリューエ家の門番が頑固でな。奴らにハーディア様との間に入ってほしくないのだ。直接、我らの頼みを伝えたいだけのこと。一言、挨拶をしたら速やかに立ち去るからガイアケロン王子とハーディア王女に面会を許すように伝えてほしい」

「ここにいる全員が邸内に入るおつもりでしょうか」


 この質問は重要だった。

 数十人もの武装せし男たちを邸内へ入れろというのは非常識であるし、それは戦闘を見越していると断じていい。


「それよのう。百人入れろと要求するつもりはない。まぁ……ズマ殿とその側近、加えて拙者と従者ら二十人ほどかの」

「分かりました。仰せの通りにします」

「頼むぞ。必ず拙者とズマ殿の願いだと伝えてくれな」

「……一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか。どうして軍目付様がズマ様とご一緒されているのですか」

「我ら共に家柄門閥に寄らず、己の力で這い上がってきた者。似たるところがある故に以前より付き合いがあってな」


――お友達ってわけか……。


「その……、率直にお聞きしますが、ズマ様はハーディア様との面会が目的なのでしょうか」

「ふふっ」


 ヒエラルクが皮肉げに唇を歪めた。

 言葉にしなくとも態度で分かるというものだ。

 おそらくディド・ズマは自分だけ押しかけたところで要求が危ういとみて軍目付の権威を利用したと気が付いた。

 どうやら、何が何でもハーディア王女と会うつもりらしい。

 つまり目的は騙し討ちではない……?


 アベルは頷き、踵を返す。

 全身に汗が流れている。

 邸内で戦いになる可能性は少ないと思ってよいのだろうか。

 分からない。

 何が起こるか、予測できない。

 全てが疑わしかった。


 アベルは走ってカチェの元に戻る。

 カチェは心配げにしていた。

 眦がいつもより鋭く、神経が張り詰めている。


「アベル……! 騒ぎがあったみたいだけれど」

「ディド・ズマが来ている」


 カチェが珍しくも顔色を変え、紫の彩り鮮やかな瞳を大きく開く。

 麗しい姿に豪胆な闘志の魂を持つ彼女は、滅多なことで動揺したりしないのだが。

 さすがに相手が相手だった。


「どうするの」

「とりあえずガイアケロン王子に状況を伝えます」

「ねぇ! もう危ないことはしないで。今も勝手に一人で行ってしまって……!」

「……こればかりはどうにもならないですね」


 カチェは拳を握り、唇を噛んだ。

 どうしてそんなに簡単に危険へ身を投じてしまうのか。

 ガイアケロンとハーディアがそんなに大事なのか。

 

 たしかに秘密同盟は重要だが……もっと他に理由があるのか。

 問い質したかった。しがみついてでも制止したい。

 だが、そんなことをやったところで無駄だということも理解できてしまった。

 

 だから、せめて隣に居たい。

 最後まで共に戦って……、アベルにこの身を捧げる。

 良いとか悪いではない。

 そうすることだけが最も価値ある行動だと信じていた。


 二人は、荒々しい戦場の雰囲気を巻き散らしている傭兵たちの間を抜け、馬を引いて歩く。

 いずれも鉄の冑を被り、鎧を纏っている。

 槍やハルバードを持っている者が多く、弓を携えている兵士までいた。

 数は二百人を超える程度のようだが、選び抜かれた戦士たちであるのがよく分かった。


 移動のさなか、カチェは嫌でも目立つ黄金の鎧の輝きを横目にする。

 その主の顔。

 一瞬見ただけで、背筋に悪寒が走る。

 体が警戒で痺れた。

 間違いなくあれがズマだと直観できる。


 傲慢と強欲を集めて固めたような顔面、血泥の沼を住処にする穢れた化け物……。

 あんなものと戦うのかと考えれば、深い穴へ突き落とされた気分になり、闘志より途方もない不安が先に出てきてしまった。


 門前に着くと、エイダリューエ家の騎士や門番が固く閉ざした門の前で、何者も通さないという姿勢で立っている。

 尋常な気配ではない。

 幸い、エイダリューエ家の門番は顔見知りだったためアベルは事情を聞く。


「このことギムリッド様に報告はしたのですか」

「もちろんだ」

「門前払いもありえますかね?」

「それは当主様やギムリッド様がお決めになることだ。アベル殿、中に入るのなら早くしてくれ」


 アベルは開けてもらった門の中に入る。

 庭では騒ぎを聞きつけた衛士たちが防衛のために慌ただしくしていた。

 馬は適当な衛兵に預けて走りながら考える。

 下手に門前払いなどすれば、ただではすまないかもしれない。

 

 少なくともズマは激怒するだろうし、ヒエラルクはイズファヤート王に変な報告をするかもしれない。

 それから、まだ完全に疑いが晴れないのは昨夜の襲撃について。

 決定的な証拠がなくとも、向こうが怪しんでいるのかもしれない。

 胸のなかで悩みが熱を孕んでいる。


 大理石の豪邸、大貴族の風格を余すことなく表した玄関を通り、王族兄妹のいそうな場所に向かう。

 鮮やかな陶片を嵌め込んだ床を走り、まずは面会室に向かった。

 その扉の前には治療魔術師のクリュテがいた。

 

 有能な使い手で、いつも王族兄妹の傍に控えている。

 二人に異常が起きた場合に備えているから、無駄な魔力消耗を抑えるために兵士の治療などはしない。

 若草色の髪を肩の上で切りそろえて、いつも身軽に行動している。賢そうな顔をした女性だった。

 彼女がいるということは中に兄妹がいるに違いない。

 エイダリューエ家の衛兵が扉の前にいたが、構わずアベルはドアを叩いて名乗る。


「アベルです! ガイアケロン様に至急報告あります!」


 中から扉を開けたのは緊張した顔つきのオーツェルだった。

 眉間に皺が刻まれていた。

 入れと小声で言う。アベルとカチェは入室する。

 

 中には王族兄妹とギムリッドがいる。

 他には誰もいない。

 ハーディアが俯いた顔を上げると、豪奢な金髪が弾かれたように肩から流れた。

 はっきりと憂いと苦痛が見て取れる。

 その表情から、ズマが押し掛けているのを既に知っているのが分かった。

 アベルは走り寄ってガイアケロンに伝える。


「表にディド・ズマとヒエラルクがいました!」

「分かっている。いま、どうするか相談しているところだ。アベル。やつら襲撃と我らのこと気づいていたか。それが一番問題だ。もし、何か感づいて来たのなら、覚悟がいるぞ」

「いや、どうもそうではないみたいです。ヒエラルクと話をしました。とにかくハーディア様と面会させてくれと」

「目当ては、それか」

「明確には分からないのですが、ただ、屋敷には二十人ぐらい入らせてくれとのこと。どうやらハーディア様に会いたいというのだけは本心のように感じました」


 次に口を開いたのはギムリッドだった。

 彼は王道国でも屈指の名門貴族、その嫡流にふさわしい洗練された物腰をしている。

 ありとあらゆる貴族の礼儀をわきまえているはずの人物だが、今や面相には憎々しげな険が露わになっていた。

 彼のいつもなら理知的な濃緑色の瞳に、ありありと怒りが現れている。

 少し怖いぐらいだ。


「どこまでも付け上がりおって……あの汚い傭兵風情めがっ! 痩せ犬に等しい下賤ども! ご安心くだされハーディア姫。姫には絶対に会わせませぬぞ」

「兄者……。気持ちは分かるが、そうもいくまい。ヒエラルクが頼んできている。無視すれば王にどんな讒言をされるか分からないぞ。招いて、体よく去らせよう。アベルの報告で分かった。何か企んでいたり攻撃を仕掛ける意図はない。それなら、たったの二十人で踏み込んでは来ない。もっと警戒してくる」

「だめだ! 姫は苦しんでおられる」


 兄弟で意見が異なってしまった。

 あくまでハーディアを守ろうというギムリッドは意地になっている。

 冷静なオーツェルは相手の要求をある程度は聞いてやって、さっさと帰らせようという考えだ。

 それまで黙っていたハーディアが気怠そうにアベルへ語り掛ける。


「貴方、ズマと会ったのは初めてではなくて」

「そうです。聞きしに勝る怪物でした。あれほど酷い面相をした男がいるとは……言葉になりません。いったいどれほどの悪虐を重ねてきたのだろう」

「ふふっ。その怪物が私の夫になりかねないのです。王女だ姫だと謳われても、汚物のごとき男の餌にされるのが私の立場。滑稽でしょう」


 ハーディアは投げやりなほど自嘲気味に笑った。

 カチェは痛ましい気持ちで王女を見るしかなかった。

 女の悲しい運命だ。

 自分はそれが嫌で、家を断ち切りアベルについてきた。

 しかし、ハーディアの生まれではそれも出来ない。

 軍団を率いる指導者として普段は凛然としているだけに、よけい哀れなほどだった。


「ハーディア様。実はズマを、いっそ殺せないかと狙いましたが、あと一歩というところで邪魔されて……」


 その場にいた者たちが全員、凍り付いたような顔でアベルを見た。

 この場合、ただ口だけの台詞でないことは誰しも理解していた。

 暗殺ではなく、堂々と衆人環視のなかで攻撃を仕掛ける。

 それは襲ったアベルの死を必然としていた。

 ガイアケロンが滅多にないほど強い口調で言う。


「早まるな!」

「兄様の言う通りです。死んではなりません。こんなことで……!」

「あいつを殺せば、たくさんの人間が助かる。滅多にない機会だった」

「そうだとしても、だめだ。まだ死ぬことは、ならん」


 ガイアケロンとアベルの視線が交差し、言い知れない緊張感と信頼のようなものが渦巻く。

 ギムリッドはこの二人は本当に主従なのかと感じるほどだった。

 まるで親友か兄弟のようであった。


 ハーディア姫の表情も普通ではなかった。

 計算された喜怒哀楽ではなく、本音としてアベルを制止している。

 ギムリッドの心中に嫉妬の念が湧いてきた。

 だからこそ称賛しなければならなかった。


「アベルよ。その心意気やよし。このギムリッドはお主の勇気に、この上もなく敬意を持たねばならないな。エイダリューエの門前に押しかけてきて騒動を起こすとは、たとえ軍目付けであろうと行儀が悪いというもの。薄汚い傭兵どもは言うに及ばず。仮にアベルがズマを斬り殺したとしても単なる私闘の域を出ぬ。斬られる方が悪いと世間も笑うことだろう。だいたい奴は、たかが陪臣。ガイアケロン王子に、さほどの迷惑ともなるまい」


 するとハーディアが強い口調で言った。


「焚きつけるのはやめてください。命を捨てるに値しません。分かりました。ズマと会いましょう。また、くだらない自慢話でしょうけれども。少しの間、我慢すればいいのです。今は焦らず、奴の自滅を待つのです」


 これは半ば自分へ言い聞かせるような言葉だった。

 ズマは着々と金を集め、結納金を積み上げている。

 長兄イエルリングはズマを政治的に支援していた。

 じわじわと外堀が埋まりつつあった。

 そして、肝心の父親。

 

 皇帝国を滅ぼせと王族や将兵に命ずるばかりでなく、ズマの出過ぎた要求ですら金欲しさか認めている。

 このままではズマの願望は成就する。

 なれば自分に始まるのは地獄さながらの日々だろう。


 あの下劣で卑しい男が何をしてくるのか……。

 繰り返し犯され、全身を舐められ、やっと捕らえた珍獣さながら見世物のように引きずり回されるのではないか。

 想像するだけでも、身を苛むようにおぞましい。


 矛盾だがアベルがズマを殺してくれればと……抑えても、ついその望みが出てきてしまう。

 あと一歩だったという。やっていればアベルは死んでいた。

 自分の命を捨てでも、ズマを討ち取ろうという意思の強さに感謝以上の気持ちすら湧くのだった。


「アベル。今は耐えましょう。まずは父王様への謁見です。大事の前に些事に惑うことはありません」

「……このギムリッド。姫様がそう仰せになろうとも納得できませんな。私に任せていただきたい。ここはエイダリューエ家の領分ゆえに」

「何をするつもりですか」


 ギムリッドは優雅に頭を垂れると仔細答えず会見室を出て行ってしまった。

 ハーディアは力なく豪華な羅紗張りの椅子に身を預けている。

 疲れ果てている様子だ。

 

 ガイアケロンはアベルを促し、表へ共に出た。

 それから扉の前で番をしていたクリュテに妹の傍にいるよう命じると、ギムリッドの後を歩いていく。

 鮮やかな幾何学模様のモザイク画が嵌め込まれた床を進むと広い正面玄関に着いた。


 ギムリッドは執事や衛兵長に何かを命じている。

 すぐに最高級の職人によって造られた白鋼の鎧と剣が持ってこられた。

 精緻な文様が流れるように刻まれた胸当て、磨き抜かれた銀の鞘。

 ガーネットやオニキスで飾られた柄に薔薇を模した鋼の鍔。

 

 それらを衛兵に手伝わせながら素早く装備していく。

 訪問者たちが武装しているにせよ、迎える側も同じことをすれば闘争心があるのがあからさまとなってしまう。


「ギムリッド殿。ここは穏便に頼みたい。ズマとはいずれ時が来れば雌雄を決する。だが、今はまだ時機ではない」

「王子。申し訳ありませんがその儀、承知いたしかねます。不肖、この私はハーディア姫の守護騎士を自任しておりますからな。名誉と命を賭ける時が来たと感ずるばかり」

「我にはギムリッド殿の支援がこれからもいる」

「私とて別に剣での斬り合いを望んでいるわけではありません。ただし、屈服するつもりもありません。いま門を開けさせております。二十人まで入れてよいと申し渡しております。ここで待つのが良いでしょう。門まで出迎えに行く相手ではありませんので」


 ギムリッドの表情は相手を黙らせるほど貴族的に冷たく、それでいて瞳は戦いの予感からぎらついていた。生まれて以来、最高の貴族として振る舞うことを宿命づけられた男の誇りが燃えている。


 オーツェルは兄を説得できないと知った。

 言葉の力では足りない時もある。

 いざとなれば自分が真っ先に死なねばならない。

 王子と家を守るためなら悔しくともやらねばならなかった。


 見る見るうちにエイダリューエ家の従卒や騎士、郎党の者らが集まってきた。

 その数五十人ほど。皆、槍や剣を装備している。

 豪壮華麗な邸宅であるが、いざというときは砦として機能するようにも造られている。

 まるで決戦の前。アベルは背筋が粟立つ。

 さっきは戦い損ねたが、やはりやるしかないのか……。






 ~~~~~~






 ズマとヒエラルクの元にエイダリューエ家の年老いた執事が現われた。

 なにぶん急なことなので歓迎もできないが二十人までお招きします……。そう丁重に伝えてくる。


 ズマは不機嫌なまま十傑将と特に選んだ精鋭を連れて門内に入る。

 エイダリューエ家はガイアケロン王子を強力に擁護している。

 イエルリング王子の政治力が通用しない貴族だ。その敷地となれば、全く油断できなかった。

 それでも行かなくてはならない。この中にハーディアがいる。衝動は抑えられない。

 だから保険が必要だった。それがヒエラルクだ。

 こういう時のために長年、(よしみ)を通じてきた。かなりの金品を送りもした。

 もしヒエラルクを傷つければ王に叛意ありと見做されて当然。手出ししたくても出来ない。

 憎い貴族どもの弱点を突いてやった……。そう思うが、破格の貫録を示す大理石の邸宅を見ているとそうした気持ちも冷えていった。


 見ようによっては砦にも感じる豪壮な建築は、まるで、このディド・ズマを拒む上流階級の象徴と感じる。

 いったんそう感じてしまえば、もう完全に敵でしかなかった。

 無能な、たかが家柄と血筋ぐらいしか誇るところのない糞貴族。

 王道国の貴族だから襲わないだけで、もし皇帝国にあるのなら奪い尽くしたうえ完全に破壊し、家の女は気が済むまで数百人で輪姦しているぐらいだ。

 嫉妬と攻撃欲が混じり合い、沸騰していく。


 この奥にハーディアが隠されている。

 王女は王都に帰還していながら、このズマに会いに来もしない。

 手紙ですらこれまで一通と寄こしたことがない。

 こちらは事あるごとに贈り物を送っているのに、受け取られることも無い。

 悶えるような悔しさで、身が焼かれていた。


 ズマの脳裏から高貴極まる豊満な肉体をしたハーディアが消えることは無い。

 常に欲望の中心にいる女。

 替えが効かない。

 どんな女を犯しても、結局のところ頭から離れなかった。

 あの女を手に入れるためなら何でも出来る。

 どいつもこいつも踏みつけて殺してやる……。


 馬車が出入りできるほど巨大な玄関の前に男が立っていた。

 三十歳になるかならないかという男は一見して最上等であるのが分かる立派な鎧を装着している。顔立ちは位の高い貴族でしか有り得ない端正さ。

 ガイアケロン王子の姿も見えた。


「お前がズマか」


 心底、軽蔑した目線が男から注がれる。

 貴族だけが持つ、独特の目つき。生まれついての氏素性でまず人を値踏みする。

 ズマがこの世で最も憎悪する視線だった。その目玉を抉り抜きたくなった。

 わざと答えずに沈黙する。

 イエルリング王子の派閥でもない貴族に遠慮するつもりなどなかった。

 黴の生えた血筋ぐらいしか誇るもののない名門など、唾棄して余りある。


 行く手を塞ぐようにしている相手がエイダリューエ家の嫡男であるのは想像がついた。

 ハーディアに会うのを邪魔しているのは明白。

 疑念は確信へ瞬間に転ずる。

 こいつ、俺のハーディアを狙っている!

 怨念と激怒でズマの心が染まった。


「黙っていては分からぬぞ……。それとも人の言葉は解しないか。魔獣よりも下劣な顔をしておるゆえ、むしろ納得であるな」

「戦場ではこのツラの方が役に立つ。お前の上等な顔なんざ、戦となればすぐに泥まみれとなって口の中まで馬糞でいっぱいになるもんだ。なんなら、これから俺がやってみせるか。そうなりゃお前の屁の役にも立たないお喋りが止まる」

「……。招いてもいないのに何をしに来た。本来であれば入れもせぬが軍目付け殿が頼むのであれば是非もなし、特別に許したまで」

「ハーディア王女に会いに来ただけのこと。このズマは婚約者。当然の権利だ」

「ぷっはっはっ……!」


 ギムリッドは下品な笑劇を見せられて耐えられぬという風情で笑った。

 頭を押さえて首を振り、なかなか嘲笑は止まない。

 ズマの顔が赤黒く変色していくのをアベルは見た。

 爆発寸前だ。

 背筋がざわつく。

 このまま斬り合いになったら、戦うしかない。


「はっはっはっ。推参に及んだのは漫談のためであったか。ご苦労、ご苦労。駄賃を取らすからお前だけはさっさと帰れ」


 ギムリッドは懐から金貨を出すとバラまいた。

 陽の光を受けて円形の黄金が白い大理石の床で跳ね飛び、くるくると転がる。

 ズマの軍靴にぶつかって運動を止めた。


「てめぇ何がおかしい……! 俺とハーディア王女との件。イズファヤート王に認められた正式なことだ!」

「では婚約の儀を行ったのか。あればこのギムリッドは必ず招かれていよう。だが寡聞にして聞き及ばぬ」

「……」

「であろう? つまり婚約はしていない。万が一にも金が集まれば……ということだ。お前などすぐにでも皇帝国に敗れて金どころではなくなる。下賤が大真面目に妄想を語ると腹がよじれるぞ。道化師にでも混じって裏路地でやれ」


 眼を充血させたズマが剣の柄に手を掛けた。

 ヒエラルクが腕を取り制止する。

 同じ瞬間にギムリッドの肩を掴んで、対決をガイアケロンが止めた。

 凍ったように場が固まる。

 もし二人の主が戦いを始めれば、ここにいる全員が死闘を演じるのだ。

 均衡と破断が同居していた。

 そこへヒエラルクが恬然とした態度のまま言う。


「突然の訪問ゆえ、いくらかの嫌味は覚悟してござったが手厳しい。さすがは名門、儀礼にうるさい」

「これは軍目付け殿。もちろん貴殿は別です。どうぞ、ゆるりといらしてください。客間にて歓待させていただきます。王道国最高の剣士でもあるヒエラルク様に剣の妙技など聞かせていただければ、この上も無き光栄にて」

「拙者の盟友というべきズマ殿にも最低限の配慮をいただきたい。こちらの頼みは一つ。ガイアケロン王子とハーディア王女にご挨拶をしにきただけ。たったそれだけでござる。用件が済めば去りましょうぞ」

「当家にハーディア姫が滞在していると伝えた覚えはありませぬが」

「確かな筋より聞き及んだことにて。ズマ殿は王道国の功労者。貴族ではないが認めてやってはくれませぬか。だいたいこのズマ殿とて道に落ちた凡骨ではなく、イエルリング王子の立派な家臣である。あまり粗略に扱うのはいかがなものか」

「なるほど。目付け殿より頼まれては、このギムリッドも断れませぬ。ただし、姫がどこでどうされているか私も詳しく知りません。取り合えず居室にご案内しましょう」


 ギムリッドはズマと相対していた時とは全く態度を変えて、典雅な仕草で玄関から中へ入るように促す。

 王から正式に役職を与えられているヒエラルクへは、信じるのが難しいほどの豹変ぶりである。

 ギムリッドはズマを一瞥すると、汚い痩せ犬が館に足を踏み入れるのを辛うじて我慢したという風な視線を送る。

 これほどの侮辱もそうはないだろうとアベルは慄いた。


 訪問者たち二十名が無言のまま正面玄関を潜る。

 素晴らしい彫刻たちが沈黙の歓迎をしているが、眺める者は皆無だった。

 エイダリューエ家の騎士や従者が整列したまま微動だにしない。

 ギムリッドは二階へと一行を連れて行こうとした。

 アベルは疑問で目を見張る。

 ハーディアは一階の会見室にいるはずだ。どうして二階に連れていくのか……。

 ギムリッドはまだ何か考えているらしい。


 中央階段を上り、奥へと誘う。

 ヒエラルクがほんの僅かだが、緊張したような素振りをしたのを見逃さない。

 きっと狭い室内、特に廊下では逃げ場がないのを感じているのだ。

 どんな達人でも地の利を失うと窮地に陥る。まずは有利な地形で戦うのが戦闘の鉄則である。

 ヒエラルクは目立たないように命令していたが前後を弟子に固めさせた。

 いざとなれば肉の盾にするつもりだった。


 ギムリッドは王女の寝室ではなく、その手前の部屋にズマたちを導いた。

 アベルは成り行きを見守るしかなかった。

 扉を潜ったところで当然ながら誰もいない。


「ふむ……。王女はいないようですな。ズマ。諦めてくれ。ハーディア様はどこかへお出かけだ」


 広いことは広いが、では王族を迎え入れるに相応しい超一級の部屋かというと、そうではないのは見る者が見れば分かる造りだった。

 そういう場所にすっかり武装した男たちが十名以上と入り込み、廊下にも溢れている。

 緊張感や闘争心が体臭や息遣いと共に満ち満ちていた。

 ことにディド・ズマの配下たちは、さきほどの屈辱的な対応と主の激怒を目にして、ますます粗野な殺気を漲らせていた。

 ズマが唸り声を上げている。


「ふざけるな……! こんな貧相な部屋が王女に宛がわれているはずがねぇ!」

「お前に当家の何が分かる。ここが王女の部屋だ」

「嘘だ」

「突然やってきて、さらには嘘つき呼ばわりか……。私はこれほどの侮辱を受けたのは初めてだ。では聞くが、どこが王女の寝室だと思うのだ。この部屋は女性用として最上等なのだが」


 ズマは黙ったまま廊下に出て、東側に歩いていく。折れたところの部屋を指し示した。

 青銅に精巧な象嵌が施され、葡萄文様が浮き彫りなった扉。滅多なことではない豪華な装飾だった。

 確かにそこがハーディアの居室であるのをエイダリューエ家の人々は知っている。


「見ろ! この扉の造り。装飾も大きさも一番上等じゃねえか。それに東側だから朝日が当たる。ここだ! ハーディア王女の部屋は、本当はここだ」

「……そうまで言うのならば、入れてやろう」


 ギムリッドは執事に命じて扉を開かせる。

 ズマが我慢できないという風に駆け出して中に入る。四方八方へ首を忙しなく振る。

 精彩な壁画が余すことなく描かれ、薔薇の園を表していた。金箔銀箔で花鳥文様を装飾した室内は先ほどの部屋とは別格なのが素人でも理解できる。

 部屋の中央に不審なものがある。

 重厚な紫檀の長机。その上に銀の大皿が乗っていて、何かが乗せられているが黒い布で覆われていて何か分からない。水気を含んでいるらしく濡れていた。


「ハーディア王女の匂いがする。やっぱりここだ。俺を騙そうとしやがったな!」


 ズマが狂気の目線をギムリッドに送る。

 睨むという形容でも足りない、憎しみそのもの。

 こうした顔で人間を火炙りや、それでも飽き足らない時には手足を切断して殺してきたと嫌でも理解できる。

 胆力がよほど鍛えられていなければ押し負けてしまいそうだが、ギムリッドは相変わらず取り付く隙の無い冷えた相貌をしていた。

 そうして平然と言った。


「その皿を見てほしい」


 執事によって布が取り払われると、思わず周囲から声が出る。

 人の生首。二つ。

 無残な、恨めしい表情をしていた。

 先日、侵入を試みてアベルに斃された男たちだ。

 氷漬けにされて地下蔵に保存されていたものを引っ張り出してきた。

 ズマたちに見せるために。

 ギムリッドは呻き声を上げたズマの部下に鋭い視線を向ける。冷酷な怒りが放射されていた。彼は自分の屋敷へ侵入してきた賊たちを許していないどころか、執念深く他にも犯人がいないか疑い続けていたのだった。


「おい、そこの傭兵。どうした? 知り合いか」

「……し、しらねえ」


 確かヤッピという名の十傑将。

 禿頭の中年で、鼻が刀傷で欠けている。

 大貴族の威厳を発散させているギムリッドに気合負けしているのか、誰が見ても動揺していた。


「知らぬか? だが、やけに驚いたな。首ぐらい見慣れているだろうに。お前は初心なお嬢さんであったか。それにしては顔面が随分と傷だらけだが……。言え。見たことがある顔だったのだろう?」


 今度はギムリッドの怒りが露になる。

 もし、賊がズマらの手下ならば、手討ちにする正当な理由となる。

 ズマを完全に合法的な形で殺せるのである。

 もはや心中で黒幕はズマと確信していた。

 きっとハーディア王女の寝所を狙っていたのだ。そこで居場所を厳密に特定するために賊を送り込んだ……。


 ズマが動いた。

 しげしげと賊の生首を眺めていたが、両手で掴むと腕に力を籠める。筋肉が律動して力瘤が盛り上がった。そのまま腐った果実のごとく首が潰れる。腐りかけた体液が飛び散る。もう一つの首は床に落として踏みつけた。やはり粉々に砕ける。

 制止する隙も無かった。


「俺のハーディア王女に無礼を働くとはな……!」

「……おい。その首は当家が討ち取ったものだ。つまりエイダリューエ家の戦利品をお前は壊したわけだが……どう償う?」

「こんな汚ねぇ首にいくらの価値がある! どうせそこらの乞食だろうが。おおかた物乞いにでも来たんだろうぜ。そんな奴らに王女の側まで近寄られての失態、あげく俺に疑いをかけるってわけだ。さすが貴族様だな! 口だけの無能がっ。てめぇみてぇなウスノロを戦場じゃ数えきれねぇぐらい嬲殺しにしてやった。腕を切り落としてケツの穴に突っ込んだぞ。目玉を抉りだして犬に食わせたこともあったな……!」

「答えになっていないが」


 ズマが耳を劈く大声で咆えた。


「いくらでも金貨を食らわせてやる! いくらだ? 言ってみろ。俺をただの傭兵と思うな! いまじゃイエルリング王子の重臣。十万の手下を従える頭領だ。度胸と腕っぷしでここまでやってきた。ハーディア王女に手を出す奴はどいつもこいつも首を捩じ切ってやるぞ! ついでに王女の身辺すら守り切れない男も同じくしてやるか……」



 アベルは肌を刺すような殺意を感じる。

 やはり殺し合いにしかならないと思った時、バルコニーから悠然とハーディアが姿を現したのを見た。夢かと思ったほど突然だ。

 淡い黄色の長衣を身に纏い、健康的な首筋に大粒の白い真珠の首飾り。

 美しく絢爛な金髪が風に揺れて流れる。

 香水と甘い女の香りが鼻腔を(くすぐ)った。それだけで噴火のような戦意や張り詰めた殺意が薄らぐ。

 ハーディアは穏やかな微笑を浮かべている。するとそこだけ非現実的に切り取った絵画であるように、粗野な闘争を受け付けなくなった。

 呆然とする一同を琥珀色の瞳が眺めた。


「せっかく涼しい風を楽しんでいたのに、なにやら騒がしいことですのね」


 狂気じみた怒りを表していたズマの顔が喜びに変化する。

 欲情で粘りついた視線を向けた。

 やはり、世界で最高の美女だと思った。どんな女でも代わりは効かない。

 このディド・ズマにこそ相応しい女……。


「ハーディア王女。ズマがご挨拶に来ました」

「あら。そう」

「なんでも賊に忍び寄られたとか。こんな不用心な屋敷に滞在するのはおやめになられてはどうですか。俺の手下たちか守っているエゼルフィルの館の方がここよりよっぽど豪華で安全です」

「せっかく申し出ですが遠慮しておきます。賊など珍しくも無い。全て私の配下が討ち取ってくれましょう。それよりズマ。あまり気を荒げないでください。今、飲み物を一杯作ってあげますから、それを飲んだら今日はお帰りなってくださるかしら。このあとも面会や予定が詰まっていますの」


 ハーディアは棚から澄んだ碧玉で作られた杯と酒壺を取り出す。蒸留酒を注ぎ、魔法で空中に小さな氷を作り出して杯の中へ上手に入れた。カランと鈴のような音が鳴る。

 ズマに渡す前に自分で一口、飲んだ。


「毒など入っていませんことよ」


 魅力的に微笑みつつ、ズマに杯を手渡しする。ズマは分厚い唇を歪め、歓喜の顔付きをしていた。それから杯を傾けて、中の液体を不気味なほど大きな口に流し込んだ。

 化け物みたいな顔に恍惚とした表情を浮かべる。


「……美味い。美味いぞ。こんな酒は生まれて始めてだ」

「ズマよ。いちいちこんな騒ぎを起こされては困ります。もっと普通に会見の申し込みをしなさい」

「それではご挨拶すらままならないではないですか。しかも、王女様はこのズマに王都へ来訪したのも教えてはくださらぬ」

「こちらにも事情があります。それにいずれは王宮で会うことになっていたでしょう。挨拶などその時で十分でした」

「それでは、あまりにも冷たいではないですか。このズマはイズファヤート王様にも認められているのです。いずれは王女の夫となる男なのですぞ」

「未来のことなど誰にも分かりません。確かなのは、今、お前はイエルリング兄上の家来ということです。つまり陪臣に過ぎません。権勢を誇るのも結構ですが他家で非礼が重なれば無礼討ちにもなりましょう。しかし、それでは兄上にも迷惑、エイダリューエ家にも負担となります」

「この俺を殺せる者などいやしませんぜ。返り討ちにしてやる。だいたい俺はお慕いする王子王女へ挨拶に来ただけで何も悪さなんざ働いていねぇ。それが生首なんぞ見せられて、ちっとばかり頭に血が上ったわけです」

「……あれだけ怒鳴り散らせば気が済んだでしょう。ああいうことは戦場でやっていてください。さぁ、お酒は飲みましたね。お帰りになって。それと、もう二度とエイダリューエ家を訪れないことです」

「贈り物があります。名工に作らせた黄金の飾り百点」

「いつもと同じです。私は誰からも贈答品を受け取りません。持ち帰りなさい」


 だが、ズマはまだ何か言いたそうにしていて動かなかった。

 ハーディアは背筋を伸ばし、怪物じみたズマに応対して怯えなど一筋も感じさせない態度。

 誰も口出しできなかった。

 下手に横槍を入れたら、再び場が荒れるのは明白だった。

 そうとなれば今度こそ復元不可能となって、血を見ることになる。


「私がお酒を作って差し上げたのはガイアケロン兄上とお前だけです。名誉を授けたつもりですが」

「……いずれはこんな美酒が毎日、飲めるようになるというわけですな。実に愉快。やる気が出てくる」


 ズマが大口を開けて満足げに哄笑した。

杯を机に置き、ズマは踵を返した。手下たちと共に部屋を出ていく。

 どやどやと騒々しい足音が遠くへ去っていった。


 ギムリッドはズマが口を付けた杯を掴むと、無造作に床へ叩きつけた。

 見事な碧玉は青い火花のように光りつつ砕け散った。

 ハーディアは椅子に腰かけて、疲れたように大きく息を吐く。

 それからギムリッドに語り掛ける。


「無茶をしないでください。放っておいたら本当に斬り合いになると思い、止めに入りました」

「奴を殺す好機でした。わざと怒らせて、先に攻撃させる狙いだったのです。仮に私が死ぬことになっても奴を討ち取る建前になったことでしょう」

「命を大切にしてください」

「このギムリッドも、いささか剣術武術の心得はあります。簡単に殺されはしません」


 ハーディアは心中で唱える。

 もし殺すのなら父親からだ。まず、あの狂った王を地獄に送らなければならない。

 ズマやヒエラルクなど操られている走狗に過ぎなかった。

 そう。餌の生肉に涎を垂らした野犬ども……。

 いつかあいつらを皆殺しにして、兄ガイアケロンに善き国を作ってもらわなくてはならない。

 まず犠牲になるのは自分からだ。


 汚れてしまった床や廊下の清掃が始まった。執事に率いられた小間使いたちが猛烈な勢いで拭いて回る。

 アベルは額の脂汗を拭う。

 ズマにしてもヒエラルクにしても、さすが王道国の奥深くまで食い込んだ男たちだった。

 まともではない度胸と狂った闘争心、揺るぎない実力を持っていた。

 結局、ハーディアに会いたいという欲求は叶えたし、不気味な圧迫は立ち去った後も残っている。

 もし斬り合いになっていたら……負けたのはこちらの方かもしれない。

 ズマ自身もかなりの達人であるのが伝わってきた。


 手早く小間使いたちによって清掃作業が終わり、空間に落ち着きを取り戻すため香薬が焚かれた。とろけるような甘い香りが漂い、激しく荒立った心を和らげる。

 アベルはガイアケロンに聞いてみた。


「ヒエラルク……もし、斬り合いになったら勝てますか」

「不意打ちでなら……可能性はある。そうでないのなら我でも分からぬな。いずれにせよ、また戦う時ではなかった。ハーディアが上手く捌いてくれると見越して、あえて見に徹していたのだが崖っぷちだったな」

「今日は命の覚悟をしました」


 ギムリッドは傲然と言い放った。


「あの手合いは弱気になればどこまでも付け上がります。頬を張り倒すつもりで臨まねばなりませんでした。そうでなければ、この館に居座ってハーディア姫にどんな狼藉を働いていたか知れぬ。奴とは必ず決着をつけてやる」

「兄者。怒るのも分かるが焦るなよ。放っておけば自滅することもありうるさ。奴はこれから金集めでますます我武者羅に動く」

「お前にしては根拠のない期待を述べるな。あいつは、ズマは、何が何でも金を搔き集めるぞ。そういう男だ」


 ギムリッドは椅子に腰かけるハーディアの前で跪き、言上するのだった。


「姫。心痛、お察しします。このギムリッドが必ずやズマを排除してみせます。やがて平安な時を得るために私は命を捧げましょうぞ」

「命などと……あまり嬉しくありません」

「私の心は語らずとも伝わっていると存じますが……もし生き残れることがあれば、私を姫の夫にしてくだされ」

「その願いは憶えていられないほど大勢から聞かされました。今は答えようがありません」

「夫といっても美への奉仕者であると明言します。ハーディア姫の足下に、どうか私を侍らせ給え」


 ハーディアは哀しげに琥珀の瞳を俯かせた。

 ギムリッドは失望した表情を一瞬だけ表したが、礼儀正しく端然とした態度で部屋を出て行った。

 後始末は山積みだった。


 ハーディアは思う。

 常に恋よりも先に求婚や愛の告白があると。

 情を高め合う時間が存在していなかった。

 よって、すんなりと飲み込むことができない。

 ズマや政争など全て忘れて、一人の女として男を愛してみたかった。

 そうとなればギムリッドは申し分のない人物であるはずなのだが、しかし、色よい返事ができなかった。

 いったいどうしてなのか己でも良く理解できない……。

 脳裏に様々なものが渦巻いて、複雑な波濤のように打ち寄せる。

 ふとアベルの姿を見ればカチェと会話をしている。

 カチェの麗しい顔が必死な気配を見せて、やや蒼褪めてもいた。

 恋と愛に生きる少女であると直感できる……。

 その健気で自由な心の在りようを見てハーディアの心に棘が刺さった。もしかすると生まれて始めて嫉妬しているのかもしれない。


「ねぇ、アベル。貴方は死ぬのが怖くないの……」

「そりゃ怖いよ」


 カチェは卑怯な手法だと知っていたが、もはや我慢できなかった。

 この質問を使えばアベルの心に躊躇いが生まれるはずだった。


「……イースにもう一度会いたくないの?」


 イースを利用するような言葉は嫌だったので、これまで絶対に聞かなかった。

 しかし、今こそ言わずにはいられない。

 アベルとは黙約があると思っていた。共に最後まで生き抜くと。

 しかし、今日はかつてなく危うかったのが肌で感じられる。

 それだけに最後の手をぶつけてみたのだった。

 アベルの顔に、あからさまな動揺がある。


「……会いたいけれど、腐った人間になったら再会はできない。行けるところまで行った末にイースがいると……そう思っているんだ」


 なんとも純粋だが夢ほども覚束ない答えだった。

 アベルの視線は現実を捉えているようであっても、時として在りもしない空想を探している風な、熱を孕んだ夢想感を持っていた。

 しかし、アベルは至って本気である。

 カチェは先ほどまで居並んでいたディド・ズマやヒエラルク、その取り巻きなどを思い出す。いずれも邪悪な魔獣より恐るべき敵たちだった。とてつもなく狡猾で陰険で、それでいて激しい力を漲らせていた。

 彼らを残らず殺して、無事に皇帝国へ帰還する……。

 何だか弱気になってしまいそうなほど、叶いそうも無いことだった。

 カチェの瞳に熱い涙が込み上げてきそうになる。


 禍々しい生臭さをカチェは嗅ぎ取る。

 自分が何とかしなければならない。

 もっと強くなり、最後まで戦ってアベルを支えるのだ。


 嵐のような訪問が終わりを告げて、鉛のごとく重たい夜がやってきた。





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